債権法に於ける信義誠実の原則

鳩山秀夫

目次

法律生活の静的安全及び動的安全の調節を論ず

不動産物権の得喪変更に関する公信主義及び公示主義を論ず

債権者の遅滞

債権者遅滞について

再び債権者遅滞と弁済の提供について

財産法改正問題概論

債権法における信義誠実の原則

法律問題としての公序良俗

無権代理人の責任を論ず

所有権より生ずる物上請求権

代理占有

釣銭について

現実売買と担保責任

工業会社の営業行為に基く損害賠償請求権と不作為の請求権

法律生活の静的安全及び動的安全の調節を論ず

序

法的安全

　法的安全の意義

　法的安全の価値

社会生活の静動二態―静的安全及び動的安全

　静的安全と動的安全との調節

　静的安全と動的安全の衝突

　調節問題の本質

　調節の標準

　調節の制度

　　１

１　取引の安全（Verkehrssicherheit）は疑いも無く近世私法の最も顕著なるしかして最も根本的なる特色の一なり（１）。第１８世紀以来私法の根本的原則として認められたる契約自由又は意思自由の原則は既にこれが為めに多少の制限を受け将来益々その制限の場合と分量とを増加せんとするの傾向にあり（２）。嘗ては殆んど万古不易の法理なるかの如く神聖視せられたる私所有権の制度も亦漸くこれが為めに制限せらるる場合と程度とを増加せんとす（３）。その他私法諸種の制度について取引の安全なる観念があるいはその制限を定むるはやや内面的に私法を観察する者の看過しが難き現象にしてここに例証するを須いざる也。

２　取引の安全は犠牲なくしてこれを実現し難し，動産取引の安全を保護せんと欲せば動産物権の範囲は自ら制限を破らざるを得ざるが如し。此においてか動産取引に関する夫の即時取得又は善意取得（民第１９２条，独民第９３２条等）の原則を難じて暴君の虐政に比し，名を公益に借りて担に私権を剥奪するものと為す極端なる二三の学者を見るに至れり（４）。

３　此の如き情勢の下において取引の安全なる制度を演繹的にかつ帰納的に研究し，一面においてはその法理上当に保護せらるべき所以を明にすると共に，他の一面においては此目的の為めに現行法制上認められたる各種の制度を比較研究しその共通なる原則を明にし，立法政策の向うべき所に論及するは近世私法を組織的に研究する者のもとより忽諸に附すべからざる所に属す。しかして所謂取引の安全なる観念を更に根本的に研究すれば，動態に於ける社会生活の安全と言えるより汎き観念の一部に外ならず，又夫の取引の安全を保護するに因りて損害を受くべき法律関係は物の所有と言うが如き静態に於ける法律生活に外ならざるを見るべし。即ち知る，偶ま取引の安全に付いて学者の注意を喚起したる諸種の問題はその根拠する所更に深く，法の対象たる社会生活に，静動の二態あり，従って社会生活の安全に又静動の二態あり，両者の衝突が全調節を要するの点にその根原を発することを。これ余が「静的安全，動的安全調節論」と題して這個の問題を研究せんとする所なり。唯その各論的部分に至りてはこれを１編の論文に尽し難きが故に今はこれを随所に引照するに止め，その詳細は他日改めてこれを論ぜんと欲す。

　本編はもし章節を分たばこれを３章となすを得べし。第１章は法的安定論にして２及び３これに当る。第２章は社会生活の静動二態と題するを得べく４これに当る。第３章は静的安全動的安全調節論にして５以下即ち是なり。

（１）　R.Sohm, in Systematische Rechtswissenschaft. S.13.

　（２）　意思自由の原則が近世において制限を受くるに至りたるは争い難き事実なり，しかしてその原因を尋ぬるにおよそ二あり，一は公の秩序善良の風俗の為なり，労働契約等の制限はこれに出づ，二は取引の安全の為なり，意思表示解釈の方法が漸く客観的に移らんとする（独民第１５７条参照），意思表示の瑕疵について表示主義及び信任主義の漸く勢力を得んとする，代理について対外関係における事実が往々にして対内関係における意思に先んじて本人の責任を定むるに至りたる（民，第１０９条，１１０条），無因行為なる観念の漸く勢力を占めんとするの傾向にあるは皆この例なり。

　（３）　私人所有権の絶対と言える原則もまた二個の理由によりて制限を受くるに至れり，一は公益これなり，行政法上警察法上種々の制限はこれに属す，二は取引の安全これなり，その例は次にこれを述ぶ。

　（４）　Menger,Das bürgerliche Recht u. Die besitzlosen Volksklassen は暴君の公用徴収は一時的にして又特定の目的物に限られたれども，善意取得の原則に因る Enteignung は継続的にしてかつチェスター主義に影響せられたるものにして法律観念の確実性に対してユダ，イスカリオットの謀反を行うものと難ぜり。

　　２

１　取引の安全と謂い，所有の安全と謂うは共に法的安全の一種なり。しかして学者は法的安全を以て法律の目的なりと説くを常とすと雖も，よくその意義と価値とを明らかにせる者殆んどこれあるを知らず。すなわち静的安全，動的安全を論ずるに先だちて法的安全を論ぜざるべからざる所以なり。今まず本節において法的安全の意義を論じ次節においてその価値を論ぜんとす。

　法的安全（Rehtssicherheit, sécurité juridique, juristic security）とは何ぞ。法律生活（Rechtsleben）の安全これなり。しかして法律生活と言うは法律によりて認知保護せられたる社会生活に外ならざるが故に，語を換ふれば法律によりて保護せられたる社会生活の安全なりと定義するを得べし。あるいは Rechtssicherheit を解して Recht の sicher なることと為し，しかして Recht には法律と権利との二意義あり， Sicherheit には又客観的確実と当事者より見たる確実即ち主観的確実との二意義を附し得べきが故に Rechtssicherheit には法律殊に成文法の意義の確実，個人の権利の客観的確実及びその主観的確実の三個の意義ありと論ずる者なきにあらずと雖も（１）余はこれを採らず。蓋し法律と言い権利と言うは法律学上の概念（Begriff）にして社会生活上の事実にあらず，吾人のあるいは取引の安全を謂いあるいは私所有権の安全を謂うは法律学上における観念の確実なりや否やを論ずるに非ずして法律の対象たる現実なる社会生活についてその一定の状態及び性質を論ずるに外ならざるが故なり。

２　法的安全は社会生活の安全を指称すること上述の如くなるを以てその意義を明瞭ならしめんが為めにはまず社会生活の何物たるかを明らかにして次いでその安全ということの意義を論ずべき順序なり，しかれども人間の生活及び社会生活と謂うことを詳細に論究するは法律学の適当なる範囲に属せざるのみならず，少なくとも私法の研究についてはこの語の通常の意義以外に何等加うるの要を見ざるが故にこれにはこれを省略するの適当なるを信ず（２）。

３　安全と言える語も亦これをその普通の意義に解して多く妨げなし。主観的に言えば不安と云うことの反対にして当事者において結果の予想し得ること是なり。客観的に言えば現在の状態の不変更に付て保障せられたる状態是なり。しかして現在の状態を変更せんとするものは外来の障害なるが故に又これを外来の障害に対して保障を受くるの状態なりと謂うを得べし。例えば所有権の安全と言うときは所有なる生活関係の持続に付て保障の存する状態を言うものにして換言すればこの生活関係を攻撃する外来の障害に対し保障を受くる状態を言うが如し。

４　法的安全は法律による安全なり。しかして近世の文明圏はこの安全を期するが為めに三種の法律制度を用ふるを常とす。その最も根本的なるものは所謂憲法上の保障是なり。例えば日本憲法第２７条（旧憲法）において所有権の制限は法律を要することを規定するは命令と称する外来の障害に対して所有と謂える社会生活を防御したるものにして法的安全に関する憲法上の制度に属す（３）。第二はその最も重要なるものにして民法商法その他の実体法による社会生活の保護是なり。蓋しこれ等の法律が社会生活を規律して法律関係と為し，権利義務相対立するの関係となすは当該の社会生活に付て他の社会的勢力に因る障害を防御せんとするものにしてこれを法的安全の一に数えざるべからざるなり。例を所有の関係に採らんか，これを認めて私権となしその侵害（外来の障害）に対して返還の請求権，妨害除去の請求権及び損害賠償の請求権を認むるは即ち所有と言え社会生活に関する実体法上の安全を規定する制度に外ならざるなり。第三は法の適用上に於ける法的安全にして訴訟法上の保障是なり。夫の裁判官は法律に従いてのみ裁判すべしと言える訴訟法上の原則は実体法に認められたる権利が裁判上亦裁判の唯一の根拠を為すべきことを保障するものにしてこれを法律適用上に於ける法的安全と称ふるを得べし。夫の自由法説の問題において議論の焦点を為せる法的安全はこの意義に於ける法的安全を指称するに外ならざるが故に自由法説に関する論戦の旺盛なる今日においてはこれ第３の意義において法的安全なる文字を使用するの学者多し（４）（５）。余は本論において私法に於ける法的安全を論ずる者なるが故に以下第二の意義においてのみこの語を使用せんとす。

（１）　Bendix, Das Problem der Rechtssicherheit S.4 は此の如き説明をなす。

（２）　我が国には近時哲学的及び宗教的傾向ありこれに従えば生命とは何ぞ生活とは何ぞと言える問題も亦法律学において正当に論ぜらるべき問題なるべし。然れども余は科学分化の上においてこれを正当なる法学研究の方法なりと信ずること能わず，然らずんば遂に原子説電子説の研究も亦法律学に属するに至らん。

（３）　アメリカの人権宣言は社会生活の安全を保障するの趣旨を我が憲法に比してやや明瞭に規定せり，曰く，Each individual of the society has a right to be protected by it, in the enjoyment of his life, liberty, and property according to standing laws.

（４）　上に述べたる　Bendix を始めとしてこの意義に於ける法的安全の意義を研究せる学者は鮮やかならず Wurzel, Das juristische Denken, S.9ff ., Rumpf, Der Strafrichter; Düringer, Richter und Rechtsprechung; Brutt, Die Kunst der Rechtsanwendung; Ed. Lambert, Fonction dynamique du la juisorudence et I’interprétation sociale de droit dans Revue generale de droit 1904 等。

（５）　裁判官と法律との関係において所謂自由説の最も有力なる反対理由はこれを法律の技術（テクニック）より論ぜずして法律の社会的目的より論ずれば所謂自由説の結果が法的安全に反するの結果を生ずと言うの点に存す。換言すれば各個の生活関係に対する法律の保護が妥当なること即ち便宜公平なることと一般の生活関係が法律的に安全なりと言うことと両者何れがこれを法律の目的と謂える見地より観察して重要なる価値を有するものと認むべきか，これをこの有名なる問題の主要なる論点となす。今これを詳論するの自由を有せず理論としては本体において法律生活の安全を主とするの説を是認するも今は唯ラーバンドの言説を引用するに止めん，Laband,Rechtspflege und volkstümliches Rechtsbewusstsein. Deutsche Juristenzeitung 1905 Nr. 1. S. 15. Wenn man von der Rechtspflege verlangt,dass sie jedem neu hervortretenden Bedürfnis des Augenblicks……Abhilfe verschaffe, so verkennt man das Wesen des Rechts und die Aufgabe der Rechtspflege.Das Recht bedarf der Festigkeit, mit welcher ein gewisser Grad von Sprödigkeit und Unbiegsamkeit verbunden ist, das Recht muss eine Widerstandskraft haben ; was zu nachgiebig ist, kann keine Stütze sein. 

　　３

１　社会生活の安全は疑いもなく法律の目的の一なり。学者は多くこれを以て言を待たざる自明の理なりとす（１）。我が人はこれを心理学的に及び社会学的に考えかつ法律の歴史に研究してその争うべからざる事実なることを断ぜんとす。

　心理学的と言うは人間の欲望に根拠するの言われなり。霊魂の不滅，死後における生命の安全と言える思想が多数の人民を宗教に導きたる心理上の原因たると同じく現世における生命及び生活の安全は幾多の人類を謳って努力に就かしむる心理上の原因たり（２）。個人及び社会の生活の安全を欲するは人類の最も根本的なる欲望に属するものと言いて可なり。社会学的に法律を観察すれば法は社会の維持及び発達の要件に外ならず（３）。しかして社会の現状を維持しその発達を期せんが為には社会生活の安全はその最小限度の要件なりと言うべし。更に之を法律の沿革について見るに社会生活の安全を以て法律の目的なりと自覚したるは法律発展の初期においてこれを見る。学者は印度において既にこの目的の自覚せられたるを説き（４）またアメリカのロスコー・パウンド氏は法律の目的より論じてその沿革を五期に分かち，その第二期たる厳正法（Strict law）時代においては法律生活の安全を以て明らかに法律の目的なりと自覚せるの趣旨を論ぜり（５）。

２　法的安全即ち法律生活の安全が法律の目的の一に属するは上来叙説したるが如く疑いを容れずといえども，その単に法律の目的の一たるに止まりてその全部にあらざることもまた争うべからざる所なり。しかして法律の他の目的に対して所謂法的安全なるものは如何なる関係を有するやまたその軽重の差異如何を詳論するは本論の適当なる範囲外に堕ちるものなるべしといえども本論の主題たる静的安全及び動的安全の軽重を論ずるについて，またその他一般の法律問題を批評的に観察するについて正義及び利益の二根本思想は常にその基礎をなすべきものなるを信ずるが故に今少しくこれを論ぜんとす。まず私法の他の目的と認めらるるものを挙げん。

　社会生活の安全または確実と言う観念にある意味において対称をなすものは取引または社会生活の軽快敏活と言う概念これなり。これまた法の目的の一なることを失わず。所謂軽快敏活とは要するに時間の経済に帰するものにして巧遅ならんよりは寧ろ拙速ならんことを期するに外ならず。その商法において諸種の催告期間，通知期間の類が民法に比して著しく短縮せられたるは即ちこの例にして，敏活といえる要求が安全といえる要求と往々にして相矛盾することあるを例証するものと言うべし。しかして民法において安全を主とし，商法において敏活に傾くを得るは民商二法を分離する法則の重要なる利益の一ならずんばあらず。

　社会生活の安全はまたある意味において社会生活の進歩なる観念と対称をなす。新法を旧法時代に成立せる事実に適用せんとするに当たりて問題の中心をなすは安全と進歩との調節なり。しかして新法不遡既往の原則はこの点においてまた社会生活の安全を主眼とすべきことを示すものなりといえども，これを以て絶対の原則となすを得ざる所以は，所謂進歩もまた独立して法の目的を構成するが為ならずんばあらず。

　生活殊に社会生活の内容的充実は人文発達と言える人類の目的より観察して重要なる意義を有すること論なし。しかして法律の目的は人類の目的に胚胎するものなるが故にこれを以てまた法律の目的の一に数うべきは寧ろ理論上当然の帰結なり。しかれどもその重要の度はこれを過重視せざることを要す。けだし法律殊に私法のこの点において寄与する所は宗教風俗道徳等に比して決して多大なりと言うこと能わざればなり。古来契約の自由，個人の意思の尊重，当事者の保護の公平等民法上の主義なりとして主張せられたるものあり。また近世の法律において公の秩序，善良の風俗と言える観念の諸種の制度えお支配する原則として採用せらるるに至り，また種々の弾力性を有する法規によりて法律の進歩と社会の進化との歩調を保たしめんとするを見るは皆これを社会生活の内容を充実せしめて人文の発達に資せんとするの目的に出ずるものと観察せざるべからずといえども，積極的に社会生活を指導するは主として法の目的とする所にあらず，そのもし社会生活の安全と背馳することあらんか，これを捨ててかれを採るは法と宗教道徳との分化したる今日においては法の目的を誤認するものと言わざるべからず（６）（７）。

３　更に根本的に法律の目的を考索すれば吾人はその二大源泉に帰着するを見る。正義（Gerechtigkeit, justice）及び便宜（Zweckmässigkeit,expediency,utility）即ちこれなり。先に例挙したる諸種の目的はこれにその源を発せるものにして所謂第二次の目的に外ならず。例挙したる個々の目的はいずれも第１次の目的たるこの二者何れか一に総合し得られざるはあらざるなり。

　正義なる観念が法律及び法律学の根底を為せるやその由来する所古し。各国における法と言える文字，及び古代法律家の下したる法律の定義等ひとつとしてこれを証せざるはなし。これを心理学的に考えれば個人の行為が冷ややかなる利害打算に基づかずして，感情に誘導せらるること多きがごとく，団体の行為もまた利益の衡量に根拠せずして感情に支配せらるること少なからざるは民族心理学（フェルケルプシヒヨロギー）の上において疑いを容れざる所なり（８）。またこれを社会学的に論ずればコーラーの言うがごとく一社会の法はその社会の分化全般の影響の下に成立せるものにして畢竟その一部の現象に外ならざるが故にこれを文化の全般と分離して解決することを得ず，しかして一社会の文化は物質的及び経済的なるに止まらずまた宗教的及び倫理的たるが故に法律もまた利害打算的理性の指導のみによりて成立せるものと解すべからざるなり（９）。

　正義説に対して利益説及び便宜説を唱道しほとんど一世を風靡したる者は言うまでもなく法学界の巨人イエリングその人なり。その Shaftsbuly, Mill 等英国功利派の影響を受けたるは明らかなりといえども，近世法学に１新紀元を画したるの功はけだし埋没すべからざる所に属す。曰く，「目的は総ての法律の創造なり」と（１０）。しかして法律の目的は秩序と公平とにあり，所謂正義は公平に外ならず，実質的に言えば功労と報酬，及び罪責と刑罰との公平にして，形式的に言えば法規の適用の公平即ちこれなり。しかしてこのごとき公平はそれ自身価値あるものにあらずただ社会の福利の条件たるが故に関係的価値を有するに過ぎずとなす（１１）。

　近世の学者は正義と利益との両者を挙げて法律の目的と解する者多し（１２）。余もまたこれに従わんとす。しかれども余の考える所によれば正義と便宜の両者の軽重を比較するに当たりては二種の観察点を明瞭に区別するを要す。一は歴史的観察にして法律成立の縁由または動機を研究するものこれなり。他の一は批評的観察にして既に成立せる法律または新たに制定せんとする法律の目的を研究するものこれなり。しかしかして余はこの両個の観察点の異なるによりてその観察の結果にも差異を生ずるものと信ず。けだし過去において法律の成立したる縁由を沿革的に観察すれば必ずしも常に利益衡量の理性的行為に基づかざること多く，したがって法律は社会の利益を目的として制定せられたるものなりと言うは必ずしも沿革に適するものにあらず。学者が法律の成立については無意識的事件（Das Unbewusste）が重要なる地位を占むるものなりと論ずるはこの意義においては正当なり。しかれどもこの事実のみを挙げて利益説を打破し得たりと考ふるは余の所謂歴史的観察と批評的観察とを混同するものと言わざるべからず。けだし法律は音楽，美術，宗教等と異なりそれ自身価値を有する文化の産物にあらず，音楽，美術，宗教等については理性に没交渉なる美的感情，美的観念または宗教的感情に根拠して成立したるその文化の産物はまた理性に交渉なくしてこれを批評し，単に観賞者の美的感情，美的観念，宗教的感情を満足せしむるや否やを以て批評の標準となすを得べしといえども法律にありてはその趣を一にせず，縦令理性に交渉なく法律的感情または法律的観念に指導せられて成立したる産物も少なくも理においては理性に根拠してこれを批評するを正当とするものと言わざるべからず。けだし法律は畢竟社会の為に存するその一制度に過ぎざればなり（１３）。

　しかれども余は批評的見地に立ちて法律の目的を論ずるに当たり，現今における学問発達の実際において，正義と言える感情を全く度外に措かんとするものにあらず。もし数千万年の後において生理学，心理学及び社会学完成の域に達し，人間及び人類の能力とその社会的発達の必須の径路とが明確に認識せらるるに及びてはあるいは単にその研究の結果に基づき理性の命ずる所に従いてのみ，法を立て，法を評するを得べしといえども，これ等の学問特に社会学の幼稚なる今日においては実際においては社会のやや遠き将来について物質的及び精神的の利害を打算するは不可能事に属すること頗る多く，為に正義の感情の指導に待たざるべからざる所なお尠少にあらざるなり（１４）。この事実の結果として法の批評に際してもまた当該社会の一般的法律感情法律観念に適合せりや否やを以て標準とせざるべからざることありといえどもその感情によるはやむを得ざるに出でたる窮余の一策たり，法律成立の歴史に根拠してみだりにその範囲を拡張すべきにあらざるなり（１５）。

　要これ，法律の目的は心理学，社会学，歴史学等種々の補助科学の教える所に根拠して社会の維持及び発達について最も適当なる条件を定むるにあり（Zweckmässigkeit）ただその未だ判明ならざる範囲内においては暫く法律感情，法律観念に従わんのみ（１６）。

　以上述べ来りたる所に根拠し本論に立ち戻りて法的安全を論ずれば結論は頗る簡単なり。何となれば社会生活の安全は社会の維持及びその秩序的発達を期するにおいて欠くべからざる要件の一に属すること疑いを容れざるが故に，その保護が社会の利益を増進するにおいて必須の要件たるは争議の余地なければなり。あるいはこのごとき論証の方法によりて法的安全の重要なる法律の目的なることを説明するは迂路を迂回するものなるやの知るべからず。第二次の目的として疑問の存せざる社会生活の安全については更に論証を俟たずして俟たずしてこれを真実なりと認定し，しかして研究の歩を進むること寧ろ捷路なりしやを知らずといえども，少なくとも第一の目的との連絡を明らかにするは理論上正当の研究方法なるを信ずるが故に第一次の目的についても多少の論説を試みたるなり。

　（１）　例えば Bendix 前掲及び牧野英一氏，「社会的規範としての法律と歴史的事実としての法律」宮崎博士記念論文集６８頁はこのごとく説く。また Markby,Elements of Law p.33 は曰く，「Security（安全）は法律の主要なる目的なり――殆んど唯一の目的と言ひて可なり」とまた Berolzheimer,System der Rechts- und Wirtschaftsphilosophie Bd.111.S.89 はOrdnungsfunktion を以て法を風俗慣習（Sitte）より区別する特徴（differentia specifica）なりと云い，Bekker,Grundbegriffe des Reshts, S.13 は Aufgabe des Rechts は Ordnung zu schaffen auf einem gewissen Gebiete なりと言う皆趣旨を同じうするの論なり。この他安全と言う文字を用いざるもその趣旨において社会生活の安全を以て法律の目的なりとなし，またはこれを前提せる学者はその数多しなお René Demogue,Les notions fondamentales du droit privé p.63 参照。

　（２）　心理学者は Selbsterhaltungstrieb（自己保存の本能）を以て本能の一に数ふ。例えばヴントは本能を分かちて Selbsterhaltungstrieb（自己保存の本能）と Gattungstrieb（種族的本能）として前者を更に分かちて Nahrungstrieb（栄養本能）及びSchutztrieb（保護本能）となすがごとし。Wundt,Grundzüge der Psychologie.自己の生命を維持し外敵に対して生活を保護するは人間の本能の一に属すること明らかなり。

（３）　例えば穂積陳重博士は法を以て社会力の一種にして人類の存在，存続及び発展の三要素を充たすが為に個体力の連合集中によりて成立するものと説明せらる。そもそも法の社会学的研究は一切の法律現象を社会現象として観察しその社会において成立したる経過及び成立の一般的要素その将来発展すべき趨勢を研究するは勿論なおその他の社会現象特に社会全般に及ぼす効果を研究すべきものと考える Ehrlich,Grundlegung der Soziologie des Rechts,1913.特にS.381 ff.参照。しかして過去において私法上主要なる法律現象たる人格，所有，占有及び契約の保護は皆個人の社会生活の安全を維持したるの結果を生じ，かつ将来においてもこのごとき結果を生ずべきものと想像して誤りなし。しからば社会生活の安全を以て少なくとも法の目的の一なりと断ずるは社会学上正当なりと信ず。

　（４）　Zimmer,Altindisches Leben,1879.S.418.

　（５）　Roscoe Pound はその論文 The end of the law as developed in legal rules doctrines（Harvard Law Review 1914 vol.xxv11.３号７号掲載）において法律の沿革を五期に分かち第一期を Archaic law（古体法）の時代としその特色は単に各個の場合について平和（ピース）を保持するにありとなし第二期を Strict law（厳正法）の時代となしその特色は羅馬の市民法（ユスチピーレ）のごとく形式主義にして規則及び方式の確実及び画一と言うことによりて確実又は安全（Security）といえる目的を達せんと努めたるの点にありとし進んで第三期即ちEquity（衡平法）及び自然法の時代に入りては争訟の倫理的解決（ethical solution of controversies）を以て目的となし，善意と言うことに重大なる価値を附するに至り，転じて第四期即ち彼の所謂 maturity of law（法律成熟）の時代においては前期の反動の結果として再び security なる観念の著しく重要視せられてやや先の厳正法の時代に類似するかごときも，しかもなお前期の影響を存して equity の要求には応ぜんことを努め，従って特にその後期においては弾力性を有する法律によりて両者を調節せんとしたるを以てその特色とするものと説明し，しかして第五期即ち第１９世紀後半，後現今に至る迄の時代はこれを The socialization of law（法律の社会化）と名づけ，この時代の特色は法の形式においては前期と多く異なること無きもその内容において前期の個人主義的思想に傾けるに反し社会本位に移れるの点にありとし，従ってまた社会の利益を本位とするの結果利益主義に傾き social interests なる語は以て近代法の根本的傾向を説明し得べしと論ぜり。極めて有益にしてかつ趣味ある研究なり。この所には単に security なる観念が法律発達史上重要なる地位を占むる所以を明らかにせんが為に彼の説を略叙したるに過ぎず。

　（６）　法律適用の結果の正しきことと法律生活の安固なることとの対称の問題即ち自由法問題に関する法的安全の問題はまたこの所に言う社会生活の充実対安全の問題の一部と見るを得べし。前者について先に引用したるラーバンドの所説はこの点についてまた参照するに足る前掲２，注５参照。

　（７）　この点について法律の目的は変遷せり，例を事務管理に採りて説明せんにモーゼスの定めたるユダヤの法律によれば隣人の迷える牡牛または綿羊を発見したる者はこれをその所有者に返還すべく，もしその所有者の近傍に在らざる場合にはこれを彼の為に飼養し，返還を請求せらるるまで保管すべきものとす（Denteronomy, chap. 22,V.1）。これ利他を以て法律上の義務として命令するものにして近世法には全くその例なし。近世私法の事務管理を規定するは個人の利他的行為を為したる場合にこれによりて損害を受くることなからしむるに止まり報酬を与うることも極めて例外たり。いわんや法律上の義務としてこれを命ずるは全くその例を見ざるなり。これ利他的行為は個人の任意に為したる場合においてのみ始めて美徳たりその奨励は主としてこれを宗教道徳に委すべく義務として命ずるはその本質に反するものと認めらるるが故なり。故にこれを目するに法律の退歩を以てすべからざるは勿論，また軽々しく古代法を難じて法律の目的を自覚せずと断ずるは早計に失す。けだし当時においては法律，道徳，宗教未だ分化せず，しかして偶々その分化せざることが却って善く当時の社会状態に適応したるものにあらざるや保し難ければなり Josef Kohler,Die Menshenhilfe.in Jh.Jahrb.Bd.25.S.1 ff.参照。

　（８）　Berolzheimer,System der Rechts- und Wirtschaftshilsophie,Bd.111.S.112.なお同書９５頁に Gerechtigkeit に関する参考書を掲ぐ。

　（９）　Kohler,Recht,Glaube u.Sitte, in Grünhuts Zeitschrift.Bd.19.S.561 及び同氏 Rechtsgeschichte u. Weltentwickelung,Zeitschrift für vegl.Rechtswissenschaft V.S.238 ff.

（１０）　これ次に掲ぐるイエリングの著のモットーなり。

（１１）　Rudolf von Jhering の諸著特にZweck im Rechte,I.S.443 ff.S.453 ff.S.460 ff.

（１２）　前に掲げたるKohler,Berolzheimer の外.Wundt,Logik,111 3.Aufl.S.587 ff.;Oppenheim,Gerechtigkeit u. Gesetz;Ehrlich,Soziologie des Rechts,S.161.117 usw.

（１３）　Wundt は Gerechtigkeit 及び Zweckmässigkeit を以て法の原因（Ursache）とする誤りにしてただその効果（Wirkung）に過ぎずとなす，その法律の成立ということ以外の立場より正義と便宜とを観ずるは本文に述ぶる所に似たり。なお同氏は便宜を分かちて個人の便宜と全体（ゲザムトハイト）の便宜との二種とし，正義を分かちてこの二種とすその個人的正義と言うは各個人の有する権利の同等（グライヒハイト）にしてその全部的正義と言うは全部に対する権利と義務との配分の均衡を得たるを言うものなり（Wundt,Logik 前掲）。

（１４）　偉人については標準を異にして可なり，その感情によりて行為しまた批判し得べき範囲は頗る広し。これ偉人はその優尚なる感情によりて将来を洞察すること明鏡に懸けて見るがごとく恰も時代に先んじて経験せる者のごとくなればなり Ehrlich,Soziolgie des Rechts,S.167.

（１５）　この点において余は Berolzheimer に反対す，彼曰く，「世界は功利主義者の誤りて考ふるが如く一大商店にあらず」（“Die Welt ist nicht ein grosses Geschäfthaus,wie der Utilitarismus vermeint”.）前掲第３巻１１２頁，また曰く，単に正義の要求に基きたるのみにあらず（Rechtsgesetze）して外部的目的に基ける法律（Zweckgesetze）は実際上法律全体の一小部分に過ぎずと，これに対して余は二点において異見を抱く，一は本文に言えるごとく法律成立の沿革論を以て直ちにその批判の標準を定めんとするの点これなり二は便宜と言い利益というを解して単に物質的及び経済的利益と解するの点これなり。

　　　また Fritz von Calker はその種々の著書において正義即ち彼の所謂 Idee der Vervollkommung Aller（万人を完全ならしめんとする思想）を以て法律最上の目的とすべきことを説く，Gesetzgebungspolitik und Rechtsvergleichung, In der Festschrift für Laband, 同氏 Vervollkommnungsidee und Entwicklungsgedanke im Strafrecht,in der Zeitschrift, Bd.XXX�U S.149 ff., Handbuch der Politik, S.�T2 また吾人と立場を異にする者なり。

（１６）　Stammeler, Richtiges Recht S.76 ff.S.199 ff.及び同氏 Wirtschaft u. Recht 2.Aufl.Anm.237.及び同氏 Theorie der Rechtswissenschaft S.475 ff.に言う所を考えるに氏もまたSittliche Lehre の批評には完全ということを標準とするも法律の範囲内においては社会的理想（das soziale Ideal）を以て標準とすべきものとなす。しかれどもその社会的理想というは Zweckmässigkeit と解するにあらず Die Übereinstimmung mit der Richtung des Gemeinschaftsgedankens と解するもののごとし。

　　４

１　社会生活に，静態と動態との二別あること総ての現象に静態と動態との二別あるに同じ。静的社会生活とは即ち静止の状態における社会生活にしてまた変化の反対なり。例えば所有を継続するがごとし。動的社会生活とは運動の状態における社会生活にして例えば所有権を取得せんとする行為のごとし。社会生活を規律することを目的とする法律はこの両個の状態にたいして如何なる態度を執るべきか，これ実に公法私法に通ずる重要なる問題にして（１），特に私法において重大なる意義を有するものなり。今法的安全ということについてこの問題の一部を研究せんとす。

２　法律の対象たる社会生活に静動の二態あるが故に法的安全にもまた静動の二種あるべきは極めて明白なる事実にして区別の形式こそ異なれ実質においては古くより学者の意識に上りたること言う迄もなし。学者が常に社会生活の秩序を定むるを以て法律の目的なりと論ずるは静態における社会生活の安全と言うと全然同一義にあらずといえども（２）その趣意とする所は多くこれと異ならざるなり。また所謂取引の安全は動態における社会生活と言うに比して特殊の意義を有すること勿論なりといえども（３）学者がこれを以て法律の目的なりと論ずるはその趣旨においては動的生活の安全を法律の目的として論ずるに近し。ただ秩序と言い取引の安全と言うは対称を為さざるのみならずまた総ての社会現象を網羅すべき根本的の区別あらず，静と言い動と言いて初めて絶好の対称を為すべくまた一切の社会現象をこの一者に区別し得て余蘊なし。

　コーラーは近著（４）において人間の行動を分かちて勤労と享楽との２となし，しかして勤労を定義して力の緊張たる自覚せる活動にして個人はこれによりて自己に反対する文明の障害に抗して目的に到達せんことを目的とするものなりと云い，これに反して享楽の状態においては人間は自己に愉快にしてまた自己の本質に適応せる印象及び効果を享受せんと努むるものなりと言えり。働きては休み，また楽しみ，休みてはまた働くは多数の場合において人生の径路なるべしといえども，勤労と言い享楽と言うときは色彩濃厚なるに失して為に一切の社会現象を余蘊なく網羅することを得ざるの弊あり。

３　法的安全について静的安全と動的安全とを区別せる者に佛人ルネ・ドゥモーグあり（５）。sécurité（安全）を分かちてsécurité statique（静的安全）とsécurité dynamique（動的安全）となす。余の言う所に相似たり。唯彼は動的安全を解して心理上活動を誘引すべき安全（セキュリテ）なりとす。この意義における動的安全と動的社会生活の安全と言える意義における動的安全とは或るときは結果において一致すべし。けだし余の動的安全成立すればその結果として自ら人を活動に誘引するが故なり。しかれども人を活動に誘引するの効果を有すべき安全なるものは余の所謂動的安全に限ることなし。ドゥモーグ自ら言えるがごとく主観的安全もまたこれに属するものと言わざるべからず。何となれば個人の活動に誘引せらるるや否やは畢竟その心理上の問題にしてしたがってこの点のみよりいうときは必ずしも客観的に安全の存在することを要せず，単に主観的に当事者が安全の厳存するものと誤信するのみに止まる場合においてもまた同一の効果を有すべきが故なり。余がこの説を採用せざるの理由二あり。

　（１）　動的安全を主観的に解するときは静的安全もまた主観的に解するに非ざれば対称を為し難し。しかるにドゥモーグは静的安全はこれを客観的のみに解するなり。

　（２）　動的安全と言える語を如何なる意義に用いるかは言語論に過ぎざるがごときも，余はその背後に潜める法律目的論についてドゥモーグと意見を異にするが故に主としてこの理由に基づきて彼の説に服する能わざるなり。謂う所の法律目的論とは何ぞ。抑も法律は人の活動に対して如何なる態度を採るべきかの問題即ちこれなり。或いは活動の成果はこれを問わざるか。按ずるに法律の目的の具体的解決はこれをその適用せらるべき当該の社会について各別に論ぜざるべからずといえども，試しに一般的にこれを論ずれば，活動の成果を挙ぐることを期するを以て社会の維持発達と言える目的に適合するものと為すべくかつこれを我が国について論ずるも内容の伴わず，実力の添わざる泡沫的活動は社会の福利を増進する所以にあらざるべし。

４　以上述べたるがごとき意義における動的社会生活と極めて相類似し明瞭に区別することを要するものは社会の変動これなり。両者共に運動の状態なるの点において観念上やや区別し難しといえどもその何者が運動するやの点についてこれを観察すれば，その間明瞭なる差異の存するを見るべし。後者は社会そのものの運動なり，前者は社会における人の運動状態に外ならず。その所謂人には個人と団体人との二種ありといえどもその所謂団体人もまた社会を構成する人として活動するに過ぎず，もとより社会そのものにあらざるなり。ベッカーがその近著において社会の原動力を分かちて秩序力及び運動力となし秩序力を以て主なりとなし運動力を以て従なりと論ぜるは余の所謂静的社会生活と動的社会生活とに対応するものに非ず。その社会の運動と称するは社会内部における動態にある個人の社会生活を言うに非ずして革命と言うがごとく，社会そのものの変動を言うものと信ず（６）。余の所謂動的社会生活は何れの場合，何れの時期にありても，換言すれば社会そのものは静止の状態にありと認め得る場合においてもなお当然社会生活の一部を構成すべく，したがって当然ベッカーの所謂秩序の対象たるべきものに属す，秩序力の範囲外に存するものに非ざるなり（７）。

（１）　公法においても例えば行政法において警察法上人の行為を規律するについて問題となるべし。

　（２）　秩序l’ordre, Ordnung と言う観念は静的安全というがごとく無色なるものにあらず社会生活の内容についての価値判断をも包含するを常とす。

　（３）　所謂動的社会生活には取引に属せざるものあるは後に述ぶる所によりて明らかなり。

（４） Josef Kohler, Recht und Persönlichkeit in der Kultur der Gegenwart,1914,S.64.

（５）René Dumogue,Les notion fondamentales du droit privé, 1911,p.63 et suiv.,p.81.

（６）Bekker, Grundbegriffe des Rechts は曰く Ordnung と Bewegung 即ち vis ac potestas ordinandi（秩序力たる力）とvis ac potestas movendi（運動力たる力）とは吾人の認識し得べき Weltenlauf（世界の運行）の二大源なりと（１３頁）また曰く「Zwang zur Bewegung と Zwang zur Ordnung とは Treibende Urkräfte なり」と（１６頁）彼はまた両者の関係を説明して曰く「秩序力がchaos（混沌状態）を整理するが為には運動力を要す即ちまず前者は指導者にして後者はその従順なる部下なり，しかれども一旦求められたる形式の成立し，漸く確立し遂に硬化して為に発展の途を阻止するに及べばこれにおいてか運動力は偉大なる勢力を以て活動し，古き形式は破壊せられて上記の径路は再びその最初に戻りて反復せらるるなり，吾人はこれを称して Leben（生活）と謂う，その植物生活及び動物生活と言うも畢竟この意義における生活の一種に過ぎざるなりと（１３頁１４頁）。

（７）　平たく言えば社会には常に，休める人と働ける人とあり，眠れる人と歩める人とありその休息の状態のみが秩序の対象たるにはあらず勤労の状態もまた当然秩序せらるべきものに属するなり。

　　５

１　静的法律生活の安全（以下略して静的安全と言わん）と動的法律生活の安全（以下動的安全と言わん）とはある条件の下において相互の交渉を生じ，その交渉を生ぜるある場合においては相互に衝突し，その衝突に際して法律は能うべくんばこれを調節するを要す。これ静的安全，動的安全調節論の前提問題なり。これを本節において論ぜんと欲す。しかして所謂調節論の本論としては調節の諸種の場合を考ふべく，その成法上の制度を論ずべく，もし成法上一貫の法理あらばこれを明らかにすべく，しかして沿革史上法律進化の理を究め立法政策上学問的根拠を供せざるべからず，これ余が次節以下において簡単に論ぜんと欲する所なり。

２　物質界において静止状態と運動状態との相互に交渉を生ずる場合を考ふるに二種の別あるがごとし。一は静止状態に在る物体と運動状態に在る物体とが同一物なるかまたは物質的に凍結せられたる場合これなり。この場合においては一物または物の一部の運動は直ちに他物または物の他の部分に影響を与ふべし。外の一は物質的に連結せられざる二物について両物間に交渉を生ずる場合にして，即ち運動せる物体が静止せる物体と一定の場所的または空間的関係を生ずるによりて生ず。これにまた二種の場合あり，一は動体が静体の占拠せると全く同一の空間内に進入せる場合にしてここに両物は衝突すべし。他の一は動体が静体の占拠せる空間と密接せる空間を通過せる場合にして第三物たる空気の媒介によりて両物は相互に影響すべし。静的安全と動的安全との相互に交渉を生ずる場合も要するに一種の静止状態と運動状態との交渉関係に外ならざるが故に上述の物質界の場合とその外形的条件において頗る類似せるもの無きにあらず。まず物質的に凍結せられたるが為に同一物の両部または両物について相互に交渉を生ずる場合に該当すべきは動的生活と静的生活とがその主体を同一にするが為に相互に交渉を生ずる場合これなり。例えば未成年者についてその活動の範囲を拡張し，その行為の法律上の効力を認めんと欲すれば（動的安全）身成年者の財産（静的安全）は為に影響を被らざるを得ざるがごとし。また物質的に連結せらるる両物について交渉を生ずる上述の場合に比すべき動的生活及び静的生活の対象たる物が偶々同一物たるが為に交渉を生ずる場合のごとし。例えば乙の丙より買得したる物が偶々甲の所有物なりし場合のごとし。乙の開始したる運動が偶々甲の占拠せる空間を通過したるものと見るを得べし。もしそれ乙が自動車，飛行機等によりて危険なる運動を為しまたは或る一定の土地の上にセメント製造等の工場を設置して隣接者または隣接地に危険を加ふる場合においてはこれを動体が静体に近接して運動する場合に比するを得んか。要するに静的安全と動的安全とはその対象たる両箇の法律生活が人，物体及び場所について共通点を有する場合において相互に交渉関係を生ずるものと言うを得べし。

３　静的安全と動的安全との相互に交渉関係を生ずる総ての場合においてその衝突を見るにあらず。静的法律生活と動的法律生活との両者を，もし衝突を見ることなくして保護し得べくんばこれ当に法の努むべき所なるや論なし。その場合実際において多からずといえども，或る種類の要式行為はこれを実現し得るに庶幾し。例えば株式会社の設立に際しては一方に株主たるべき人の財産について静的安全の問題あり。他の一方において営業的活動の第一歩たる会社設立行為につき動的安全の問題あり。この間にそしてその定款作成と言える要式行為は一面において株式たるべき人の責任の範囲を限定すると同時に，他の一面においては所謂物的信用によりて会社の基礎を確実ならしむるが故に両箇の問題を殆んど遺憾なく解決し得たるものと言うを得べし。手形等所謂証券的債権についてまた同一に論ずることを得べし（１）。

４　静的安全と動的安全と相互に交渉し，しかして相衝突すと言うはその一方を保護するが為に他方に損害を被らしむる場合これなり。その場合極めて多くこの処に列挙し得べきにあらず。二三の例を挙ぐれば不動産取引において登記簿に公信力を与ふれば以て動的安全を遺憾なく保護し得べしといえども，登記に誤謬の存する場合において実質上の権利者の損害を被るべきは明瞭なり，即ち静的安全の保護は完きを得ざるなり。また動産取引において所持者より善意に譲受けたる者の取得を有効ならしめんか，以て動的安全を保護し得べしといえども，所有者の有する所謂追及権はこれが為に制限を受け，静的安全の保護は完全なることを得ざるなり。あるいはまた意思表示において表示の意義を客観的に解釈するの原則を採らば動的安全は保護せらるべしといえども，表意者はその意思に基かずして法律上の拘束を受くることあり，即ちまた静的安全の保護に完からず。これ等の例はなお用意に倍加するを得べく，所謂静的安全，動的安全調節の必要性はこれに発するなり。以上を以て調節論の前提となす。

　（１）　松本烝治氏論文「商法と行為の自由」梅博士追悼記念論文集参照。

　　６

１　静的安全，動的安全調節の問題は法理上如何なる性質を有するや，これ調節を論ずるについてまず考索すべき至要の点なり。余の見る所を以てすれば所謂調節とは損害の配分に外ならず，所謂調節問題は法律の性質上損害配分問題の一部に属すべきものなり。

２　或る事実によりて発生したる損害を法律上何人に負担せしむべきか，略言すれば損害負担また配分の問題は私法を縦断するの一大問題なり。羅馬法以来あるいは「過失無くして責任なし」と言える原則ありあるいは「所有者は事件に因る損害を負担す」と言える原則あり，またあるいは「利益の存する所には損害も亦帰すべし」と言う原則となす。皆ある標準によって這箇の損害分配問題を解決せんと努むるものなり。

　損害分配の標準を論ずるについて基礎を為すべきものは言う迄もなく法律の目的に対する吾人の態度これなり。正義を主とする者は言わん，所謂配分は公平なるべしと。便宜を主とする者は曰わん，社会の利益を以てこれを決すべしと。余が大体において後者に左袒する者なるは嘗て述べたる所なり。

３　損害配分の根本的標準は社会の利益なるべしといえどもその根本標準の下においてまた二個の標準の区別すべきものあり。第一は即ち直接には個人的事由を標準とするものにして例えば個人の無能力，故意，過失，詐欺，錯誤，強迫等を理由として損害の負担者を定むるものこれなり。第二は即ち直接にもまた社会の利益を標準とするものにして個人的事由においては軽重を定め黒白を弁する能わざるが故に直ちに根本的原則に遡りて解決を求むるものなり。この場合は古来多く閑却せられたる所にして近世に至りて漸くその場合とその重要の度とを増加すべき趨勢にあり。そのパウンドが近世法の特色を説明して social interest の一点にありと論ぜるはこの点についてもまた中れりと云うべし（１）。例えば所謂過失なき不法行為において過失なき行為者に損害を負担せしむるは単に原因の理を以てしてはこれを説明し得べきにあらず（２）。社会的利益の基礎に遡ることによりて始めてこれを解決し得べきものと信ず。しかして所謂静的安全動的安全の調節問題もまたこの理を以て説明すべきもの少なからざるは後に述ぶる所のごとし。

４　損害配分問題を解決するに当たりてはまた明らかに二個の場合を区別するを要す。その一は損害の原因たる事実に関与せる当事者二人の間において損害の負担者を定むべき場合にして例えば甲が乙の所有物を毀損したる場合あるいは無能力を理由として意思表示を取消したる場合のごときこれなり。この場合においては法律関係は二面的にして損害配分の問題は一個なり。その二は損害の原因たる事実に関係する者三人あり。その三人の間において損害の分配を決定すべき場合にして，言を換ふれば直接に損害の原因たる事実に関与せる所謂当事者二人の外になお所謂第三者あり，この第三者対当事者の関係においてもまた損害の負担者を定むることを要する場合これなり。例えば乙が甲の所有に属する動産を権限なくして丙に譲渡したる場合のごとし。この場合における法律関係は三面的にして損害分配の問題は三個なり。例えば前例においてはまず甲，乙間において不法行為または債務不履行による損害賠償の問題あり，乙，丙間においても追奪担保の問題あり，しかして最後に甲，丙間においてまた何人が損害を負担すべきかの問題即ち甲はその意思に反して所有権を失うべきか，丙はその所期に反して所有権を取得すること無くして止むべきかの問題あり。この最後の問題はこの場合に特殊なる問題にして三面的場合を先の所謂二面的場合と区別することを要するは即ちこれが為なり。

　静的安全，動的安全の調節を要する場合もまた上に述べたる損害分配一般の場合に同じくこれを二面的関係の場合と三面的関係の場合とに截然区別することを得。二面的関係とは前述のごとく静的安全と動的安全とが仲介者無くして相対立せる場合にして無能力を理由とする意思表示取消の場合において無能力者の静的安全と相手方の動的安全との対立し，両者の調節を要するがごときは即ちこれなり。所謂三面的関係とは第三者の行為の仲介によりて静的安全と動的安全との対立する場合にして先に述べたる動産取引の場合において取得者の動的安全と所有者の静的安全との対立するがごときは即ちこれなり。

　以上を以て調節問題の性質とその種類とを明らかにし得たりと信ず。以下節を改めて調節の沿革及び立法政策に論及せんとす。

（１）　Roscoe Pound, The end of law etc. in Harvard Law Review,1914 Nr.3 前掲３（注４）参照。

（２）　Veranlassungsprinzip は独逸において近時漸くその勢力を得来りつつある主義にして過失なくして損害賠償の義務を生ずる諸種の場合を説明するにこの理を以てせんとす。例えば独逸民法第２１２条に規定せる錯誤等を理由として意思表示を取消したる者はこれによりて相手方の受けたる積極的損害を賠償することを要すといえる原則を説明するについてイエリングは普通法時代においてその所謂 culpa in contrahendo の理論によりて過失の意義を拡張し，契約締結に際し確実なる方法を執らざることもまた一の過失なりと論じたるに反し，近来の学者は殆んど例外無くこの過失論を棄てて原因主義に趨れるがごときはその例なり。Jhering in Jh.Jahrb. ４巻１頁以下，独逸帝国裁判所の一判例―RG.Bd.28 Nr.3.S.16 ff.―はこの発達を余して巧なり。また独逸民法第１草案に対する Otto Gierke の評価は原因主義の有力なる論として参照するに足る。この他独逸民法１７９条，２３１条，８２９条，８３３条，８３５条等を説明するが為にも原因主義による者少なからずHerbert Meyer, Das Publizitätsprinzip S.85 ff.;Hachenburg, Vorträge S. 286; Staudinger-Riezler,Komm.Zu § 122 BGB.;Lenel,D.Jur. Ztg.1909 S.623 ff.;Enneccerus, Lehrb. Bd.I.S.535 ff. 及びその処に引用せられたる著書。

　　７

１　静的安全と動的安全とを調節するに当たって何れを主とし何れを従と為すべきかは軽々しくこれを抽象的に断ずることを許さず。けだし解決の根本的標準は嘗て述べたるがごとくこの両個の個人的便宜（１）の衝突に際して何れを主としてその保護を調節することが果たして社会全部の便宜（２）に適するやの点に在り。しかしてその何れが果たして社会全部の便宜に適するや否やの問題はこれを抽象的に独断することを許さず，具体的場合について静的安全及び動的安全の対象たる両個の社会生活を比較し，その取引上の重要の度を較量して初めてこれを決定するを要するが故なり。例えば我が民法上不動産取引においては登記に所謂公信力を認めざるの結果，不動産取引の動的安全は不動産物権の静的安全に比して保護せらるること頗る薄弱なるに拘わらず，動産取引においてはその有名なる善意取得の規定（民法第１９２条）によりて動的安全は動産物権の静的安全に優りて保護を受くるなり（３）。これ民法が動産取引を規定するに当たり俄然豹変してその主義を改め，静的安全を主とする旧主義を棄てて動的安全を主とする新主義に遷移したるものと見做すべきか，予は寧ろ両個の場合における静的安全の対象たる不動産物権及び動産物権の社会上及び経済上の意義について顕著なる差異あり，またその動的安全の対象たる不動産取引及び動産取引の社会上及び経済上の意義について恰も前者と反対にしてまた看過すべからざる差異の存するあり，その他諸種の理由ありて法律の規定にこのごとき差異を見たるものにして必ずしも主義の撞着にはあらず態度の豹変にはあらざるものと考ふるものなり。故にまた社会の事情の変遷するあらば必ずしも一の主義を株守すべき理由あらざるなり（４）。

　上に述べたるがごとく静的安全動的安全を如何に調節すべきかについての問題に対する断案は各個の具体的場合についてこれを決定せざるべからず。しかれどもすべて法律の目的に関する問題がある範囲において一般論を容るすと同じく，静的安全及び動的安全の調節問題についてもまた極めて漠然たる意義において一般論を試みるを得べし。これ余が本節において沿革及び立法政策の二点よりこの問題を概論せんとする所以なり。

２　まず法律の沿革に一瞥を与ふれば古昔の法律においては著しく静的安全に重きを置きたるに反して近世の法律においては漸を以て動的安全に重きを置くの傾向を存するものと断ずるを得べし。この法律進化の原則を実例について論証するは特殊の研究に俟たざるべからずといえども今一二の顕著なる例を挙ぐれば羅馬法において所有権，地役権等の保護が各種の契約の保護に少なくとも数歩を先んじたる，またその nemo dat quod non habet（何人もその有せざるものを与えず）と謂える原則の論理正しく行われたるがごときはこれを証する顕著なる例に属す。そのサー，ヘンリー，メインによりて首唱せられたる From status to contract (身分より契約へ)と謂える法律進化の原則も（５）また余がここに述べんとするFrom status to dynamic（静より動へ）と謂える原則とその趣旨においては甚だしく異なることなし。けだし身分によりて法律関係の成立及び内容の決定せらるるというは静態における法律関係の保護せらるる所以にして，その契約によりて決定せらるると謂うは動態における法律生活の保護せらるる所以に外ならざればなり。しかれども両者の間に重要なる差異の存するはまたこれを看過すべからず。「身分より契約へ」と謂える原則に比して「静より動へ」と謂える原則はその範囲広く，所謂動的法律生活は必ずしも契約に原因するものにあらず。その個人の自由意思に原因するや否やは寧ろ第二の問題にして法律生活そのものが動態にありや否やが問題なり。故に例えば事務管理に基く法律生活を保護して所謂人類共助（Menschenhilfe）を奨励するは動的生活の保護と言うを得べしといえども，契約には何等の関係なく（６）またこれを契約による法律関係のみについて論ずるも例えば労働者雇主間の契約について当事者の意思に公益上の制限を設くるは契約主義に対する制限となるもこの処に謂う動的生活保護の原則とは敢て抵触せざるがごとし（７）。

　以上述べたる「静より動へ」と謂える法律進化の原則は経済学上また是認せらるる所なるべし。けだしまず Haben（所有）の保護せらるるにあらざれば Arbeiten（勤労）の保護が意義を有せざるは経済学上疑い無く，しかして所謂静的安全の主要なるものは財産の保護即ち Haben の保護にして所謂動的安全の主要なるものは Arbeiten の保護に外ならず。しかして近世諸国において蔚然たる商工業の発達に伴い法律制度の上においてもまた取引の安全を保護すべき諸種の制度の採用せらるるに至りたるは吾人の呶々を俟たずして自ら明らかなるべき所なればないり。

３　更に立法政策の問題としてこの問題を考えればその詳細に亘りては上に一言したるがごとく静的安全と動的安全との内容を比照して各個の社会について特別に研究を要することもとよりなりといえども，大体論としては大凡次のごとく答ふるを得べし。曰く社会の維持，社会の平和無事を図るを以て最もその社会の利益に適するものとする場合においては所謂静的安全を主とすべく，これに反して社会の発達を計り，個人及び団体の活動を奨励するを以て最もその社会の利益に適するものとする場合においては比較的に所謂動的安全に重きを置くべきなりと。簡単に言えば Haben（所有）を保護して無事を希ふか，或はArbeiten（勤労）を保護して変化を期するかの問題なりとも言うを得べし。しかして欧羅巴の先進国においては北米合衆国の刺激を受けて勤労（アルバイテン）と言うことに緊要なる価値を附する近代の趨勢なるが故にしたがってまた法律の方面においても動的安全に重大なる価値を認めその静的安全と衝突する場合においてもまず極力その調節に努むること勿論なりといえど（８）その遂に両立すべからざる場合においては静的安全をして多少の犠牲を払わしむること少なからざるなり（９）。我が民法は欧州先進国の例に倣いて動的安全に関する彼の規定を或はそのままに或は多少の変更を加え，或は諸国の規定を折衷して輸入せり。これ等の各種についてその当否を研究し，立法の向かうべき所に論及するはこれを他日に譲るべしといえども今その大体の方針を述ぶれば余は静的安全の基礎を危うくせざる範囲内において動的安全の保護を図るは我が日本の現代において最も適当なる政策なりと信ずる者なり。徒に退嬰主義を採り，無事偸安を事するは，後れて世に出でしかも他の後塵を仰ぐにのみ安んぜざる国民の目的とすべきにあらざるなり。

４　動的法律生活を保護するの緊要なることこのごとしといえどもしかもこれに制限あることはまた忘却すべからざる所に属す。余輩法律の目的に考えかつ動的安全を保護する諸種の制度を比照して所謂制限の重要なるもの二を得たり。即ち次のごとし。

　（１）　動的安全の保護のために静的安全の基礎を危殆ならしむべからず。けだし動的安全を保護する必要ありと言うも，静的安全が一定の程度まで保護せらるるにあらざればその目的を達すること能わず，けだし今日の勤労者は明日の所有者たらんことを期するものなればなり。経済学上より言うときは所有（ハーベン）の安全がその基礎を危うせらるるに及びては勤労（アルバイテン）の保護は意義をなさざるものと言うを得べし。もとより現在の社会における財産の分配については極端なる社会主義を奉ずる者にあらずといえども，なおその不公平にして不適当なるもの多々あるを認めざるべからずといえども，法律の目的は現代社会を其根底より動揺せしめてその革命的変動を実現せんとするにはあらず，常に現実社会を基礎としてまずその維持を図り，この基礎の上において着実なる一歩を進めんとするにあることを疑うべからず（１０）。これが故に財産の分配についても現存の分配状態即ちその静的状態を保護するを以て法の第一の任務とせざるべからざるなり。

　このごとく動的安全の保護によりて静的安全の基礎を動揺せしむべからざるが故に，動的安全の為に静的安全を犠牲とする場合においては原因無くして（過失と混同すべからず）損害を受けざるを以て原則と為さざるべからず。今その最も重要なる例を挙ぐればその動産の善意取得これなり。今ここにこの争議紛々たる規定の立法理由を論評するの意無しといえどもこれを解するに当たりて動産所有権の静的安全をその根底より動揺せしめざることに留意するは我が民法が盗品遺失品を除外したるの趣旨に適すべく，またこの処に述ぶる動的安全保護の基礎観念に適合するものと信ず。例えば動産は所有者の意思に基づきてその所持を離れたることを要するものと解するがごときはその一例なり。

　独逸民法には動的安全を保護せんが為に因果関係無くして静的安全を犠牲とする二三の場合あり。例えば我が民法第１９２条に対応する独逸民法第９３２条の所謂善意取得に関する規定については我が民法と同じく盗品遺失品につきて例外規定を設くといえども，この例外規定に対して更に例外を設け，金銭及び無記名証券については９３２条の本則によるべきものとなす。詳言すれば譲渡人の所持が所有者本人の意思に基づきたること，即ち所有者の意思に基づきて所有と所持との分離したるを要することが（因果関係の存すること）原則なりといえども，金銭及び無記名証券についてはこの条件の存することを要せざるなり。また不動産物権の登記についても所謂絶対的公信主義を採れるが故に登記の誤謬が物権者の意思に関係なき場合においても物権者はその権利を喪失することあるべきなり。我が民法にはこの例なし。余はもとより敢えて独逸民法のこれ等の規定を非難するものにあらず，ただそれが原則の例外にしてまた静的安全を犠牲とすること著大なるが故に特に重大なる取引の需要の存せざるべからざる所以を明らかにするを要すと言うのみ。しかしてその所謂取引の需要についてはこれを次に述べんとす。

　（２）　静的安全を犠牲として動的安全を保護するについては常に取引の需要の存することを要す。これその第二の要件なり。公信主義，無因契約主義，善意取得の原則等によりて動的安全を保護するについては常にこれが為に損害を受くべき静的法律関係の主体あり，これを忍びてなお動的法律生活を保護するについては取引の需要存せざるべからず。これ嘗て述べたる根本原則，即ち調節は社会全部の利益に適すべきといえる原則より理論上生ずる結果なりと言うを得べし。

　所謂取引の需要の存するや否やを論ずるに当たりては嘗て述べたる調節の二個の場合を区別するを便とす。二面的場合と三面的場合とこれなり。所謂二面的場合については特に論ずべきことはなし。例えば事務管理において「自己の事務は自己自ら処理し他人の干渉を受けず」と言う原則に基づきて本人の静的安全を保護すべきか，或は「人類相共に助くべし」と言う原則に基づきて事務管理を奨励せんが為に管理人の動的安全を保護すべきかは，何れが最も当該社会の利益に適するやを以て標準として決するの外なく，管理人の心理状態のごときは与りて関する所にあらざるがごとし。これに反してその三面的関係の場合においては第三者の介入するが故に所謂取引の需要の有無を決定するについてなお少しく分析してこれを研究せざるべからず。以下これを分説せんとす。

　所謂三面的関係の場合において動的安全を保護する第一の要件は動的法律関係が善意の法律関係たることこれなり。悪意の動的関係については特に保護せらるべき取引上の需要存すること能わず。例えば動産の所持者よりその所有権を譲受けたる者がその所持者の所有にあらずまた所有権処分の権限を有せざることを知れるときはその譲渡行為の効力を認めて所有権者をして所有権を喪失せしむべき取引上の需要は存在することなし。取引上の需要より言わば表面上所有権を有する者よりこれを所有者なりと信じて所有権の譲渡を受けたる者が保護せらるるを以て必要にしてかつ充分なりと言わざるべからず。

　三面的関係の場合において動的安全を保護する第二の要件は上述の善意が客観的事実に根拠を有することこれなり。法律は或は単に過失に基かざる善意と言うに止めてその過失ありや否やはこれを各場合の事実問題の認定に一任することあり，或は直接に善意の根拠たるべき客観的事実を定むることあり。過失を以て標準とする主義に対しては主観的標準を加ふること多きに失し，個人主義に偏して近世私法の趨勢に背馳するものなりとの一般的非難を加え得べしといえども，その観念の漠然として伸縮性を有するは一面において長所を有せざるにあらず。このごとく大体論としては両主義長短相半すといえども動的安全保護の目的より言うときは善意の根拠たる客観的事実を法律に規定するを以て策の得たるものと信ず。何となれば動的法律生活の安全を図るというは一般の取引関係において確実なりと信ぜらるべき法律関係が意外の障害の為に動揺せられざることを期するものにして，したがってその保護せらるべきものは主観的に当事者に過失の責無き行為というを以て足れりとせず，更に進んで，一般に取引関係において確実と認めらるべき理由を有するものたることを要すればなり。例えば動産の占有，不動産の登記，債権証書，代理権の証書，商業登記，法人登記等の客観的事実を根拠として法律行為の相手方に処分の権限ありと信じたる法律行為は，漫然相手方の主張のみによりて相手方に処分の権限ありと信じたる法律行為とはこれを区別し，特に重大なる保護を与ふることを適当と信ずるなり（１１）。

５　静的安全及び動的安全の調節という点より攻究することを要する民法上の制度はその数少なからず。今その重要なるものを挙ぐれば次のごとし。

（１）　不動産物権の得喪変更に関する不動産登記制　　登記制は所謂公示制度の一なり，法律関係を公衆に公開して取引の確実を期するものなるを以て，もしその目的を遂行せんと欲せば所謂公信主義を採らざるべからず。独逸民法はこれに拠り，我が民法はこれに従わず。その当否如何は不動産物権の静的安全と不動産取引の動的安全を何れを重しとすべきかによりてのみ解決せらるべき問題なり。

（２）　動産物権の得喪について所謂善意取得の制度あり，占有を以て動産物権公示の形式となし，この形式に根拠したる善意の取引を保護したるものなりや否や，攻究を要する制度の二なり。

（３）　債権譲渡について譲渡の通知，承諾または譲渡証書に公信力を附すべきや否やの問題あり。

（４）　債務弁済について債権の準占有者に対する弁済と受取証書の持参人に対する弁済とは動的安全を保護したるものなり。債権そのものの静的安全との関係において一二の研究を要する問題あり。

（５）　所謂無因契約なる制度は我が民法の採用する所なりや否や，法律の目的より論ずれば余は静的安全及び動的安全の調節と言える点よりこれを研究すべきものと信ず。物権契約の無因，債権譲渡契約の無因共に然り，授権行為の無因また然り。

（６）　所謂表見代理の制度は本人の静的安全と第三者の動的安全とを調節することを目的とするものに外ならず。

（７）　意思表示の解釈方法は表意者の主観（静的安全）を主とすべきか，或は客観的に取引上の意義によるべきか（動的安全）。また書面の効力如何の問題あり。

（８）　事務管理の制度においては本人の静的安全と管理人の動的安全と何れを主とすべきか。

（９）　無能力者保護の制度については取引の安全の保護のために多少の制限を増加すべきにあらざるか。

　以上を以て静的安全及び動的安全の調節なる観念が単に机上の空論に止まることなく，以て民法諸種の制度の目的を説明し，これが一貫の法理を攻究するに資するを知るを得べく，また法律進化の一原則として立法政策の帰嚮を指示するに足るの所以を明らかにし得たりと信ず。すなわちこれを各論的部分より分離して発表し諸先生，諸先輩及び同学の叱正を仰がんとする所以なり。

　（１）　ヴントの所謂“Individuelle Zweckmässigkeit”または“Zweckmässigkeit der Einzelnen”; Wundt, Logik Bd.�V.S.857 ff.591.

　（２）　ヴントの所謂“Kollektive Zweckmässigkeit”または“Zweckmässigkeit der Gesamtheit”

　（３）　我が民法が不動産物権の得喪変更について所謂公信主義を採らざる立法上の理由が不動産物権については静的安全を主とするの趣旨に外ならず，また動産物権について所謂善意取得の規定を設けたる理由が恰もこれと正反対に動産取引については動的安全を主としたる趣意に外ならざるの点は余は極めて重大なる意義を有する事実なりと信ず。しかれども共に精密なる論証を要する断定にして本論文の各論として他日稿を改めて論ぜんとする主要の点なり，本文に掲げたる外詳細なる論証は今述ぶることを略す。

　（４）　台湾民事令において不動産物権の得喪変更につき公信主義を採用すべきや否やの問題あり，我が内地においてもこの点は早晩問題となるべし。今これを論ずるを得ず，本文に述べたる諸点及び国民が登記制度に慣れたりや否やの点を較量して慎重に決すべき問題なるを言うに止めん。

（５）　Sir Henry Maine, Ancient Law with notes by Sir Frederic Pollock,p.172-174,p.183.ポロックはメインのこの原則を評して身分は契約に地歩を譲ることはあるべきも，身分そのものが滅却して契約に帰することはなしと言えり。これは当然のことにて「静より動へ」という原則についてももとよりしかり，殊に静的安全が基礎をなすは後に述ぶるがごとし。

　（６）　Josef Kohler,Die Menschenhilfe im Privatrecht, in Jh.Jahrb.Bd.25 S.42 ff.

　（７）　そのパウンド氏はメインの上述の原則を捉えて The famous nineteenth-century generalization と揶揄し，しかして近世の英法における契約自由の公益上の制限はこの原則の反証をなすものなりと言えり，Roscoe Pound,The Philosophy of Law in America, in Archiv für Rechts- und Wirtschaftsphilosophie,April 1914 S.389.この論文は高柳，高橋両氏によりて翻訳せられたり，法学協会雑誌３３巻３号以下特に４号。

　（８）　静的関係と動的関係とを調節することが社会の適当なる発達を遂ぐるために緊要なりということは新しき発見にはあらず，Auguste Comte も l’ordre と mouvementとを concilier することが le grand problèmeなりと言えり，Demogue前掲７２頁引照。

　（９）　取引の安全のために所有権の保護の減ぜらるることについては本論文第１章を参照せよ。なお Sohm, in Systematische Rechtswissenschaft 前掲においても独逸民法の特質としてこの事を論ず。

　（１０）　牧野英一氏，「刑事学の新思潮と新刑法」所載「善良の風俗と目的刑」において「現代に依て現代の上に」といえるモットーを掲げたるは趣旨を同じうするものと信ず。

　（１１）　この問題について有益なる研究をなしたる者は Wellspacher, Vetrauen auf äussere Tatbestände なり。

　附記　この論文の思想を展開したるものに「不動産物権の得喪変更に関する公信主義及び公示主義を論ず」（本書３７頁），「事務管理の起原及び本質」（民法研究第４巻４９頁）及び「事務管理の要件及び効果」（民法研究第４巻１１７頁）あり。その他「無権代理人の責任」（本書３３１頁）「第１１０条の適用範囲」（民法研究第１巻３４５頁）等も同趣旨に基けるものなり。

（穂積先生還暦祝賀論文集（大正４年）（民法研究第１巻所載））

　

不動産物権の得喪変更に関する公信主義及び公示主義を論ず。

序

第１節　中心たる問題

第２節　我が公示主義の理由（公信主義に拠らざるの理由）

第３節　我が公示主義の内容

　第１項　公示主義の理由

　第２項　第三者の意義

第４節　公信主義に赴くべきか

　第１項　独逸における公信主義の要領

　第２項　公信主義を採るべきか

　　序

　題して「不動産物権の得喪変更に関する公信主義及び公示主義を論ず」と言うも，この問題の全般に亘りて比較的及び沿革的にこれを詳論せんとするの趣旨にあらず。主として静的安全及び動的安全の調節と謂える観察点より我が現行民法を詳論せんとするなり。

　我が大審院が民法第１７７条に意謂う所の「第三者」を解して「当事者もしくはその包括承継人に非ずして不動産に関する登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する者」と做すこと人の知る所にして，学者或はこれを賛し或はこれを駁す。余輩今これを論ぜんとするは，もとより敢て他を攻撃して快する者に非ず。静的安全及び動的安全を系統的に研究せんと欲するが為のみ。筆端時に弁難に亘ることあるも本意に非ざるは言うを俟たず。読者幸いにこれを諒せよ。

　不動産物権の得喪変更と不動産登記との関係について重要なる問題の研究を要するもの二あり。登記を以て得喪変更の成立要件となすべきや，将た対抗要件たるに止むべきやの問題その一なり。登記に公信力を賦与すべきや否やの問題その二なり。聞くが如くんば両者共に台湾民事令について或は我が立法府の問題ならんとすと。余輩が本編において論ずる所は主としてこの第二の問題に関す。両者併せてこれを一編の論文に収めんとするは形式において便宜ならざるを信ずればなり。

　本論を分かちて４節とし，冒頭において「中心たる問題」を論ず。まず問題の中心を明らかにし，枝葉を論ずるに当たりて根本を忘れざるは正当なる叙述の方法なりと信ずるが故なり。しかれどもその論ずる所は余が「静的安全及び動的安全調節論」の大綱を不動産取引について応用したるのみ。その法理的方面の比較的詳細なる説明は穂積博士記念論集に収められたる所に譲る（参照，「法律生活の静的安全及び動的安全の調節を論ず」〔本書１頁以下〕）。

第１節　中心たる問題

１　動産取引，不動産取引，有価証券取引等その物体の何物たるを問わずおよそ取引と称し得べき法律関係については常に必ず両個の利益の相対立するを見る。動産取引について言わば動産所有権者の利益と動産取得者の利益とこれなり。有価証券取引について言わば証券上の義務者の利益と証券取得者の利益とこれなり。不動産取引についてまた同じ。

　取引について対立する如上両個の利益は譲受人に権利または権限の欠缺ある場合において相衝突す。原権利者の権利を保護せんと欲すれば取得者の利益を保護するを得ず，取得者の利益を保護せんと欲すれば累を原権利者に及ぼさざるを得ず。社会の利益を増進し，社会の秩序を維持することを目的とする法律はこの間に処して如何なる標準に根拠して調節を図るべきか。

　問題は利益の衡量なり。両個の個人的利益を如何に調節することが最も善く当該社会の利益に適応するか，即ちこれなり。しかしてその両個の個人的利益に特殊なる事情，したがってまたこの調節問題に特殊なる事情はその労働契約問題におけるがごとく経済的強者対弱者の人的関係にはあらずして，一方の利益は静的にして他の一方の利益は動的なるの点にあり。一方の法律生活は静的法律生活にして現存せる状態の維持を目的とするに反し，他の一方の法律生活は動的法律生活にして現存せる状態の変化を目的とするの点にあり。知るべし，問題の中心は静的法律生活の保護と動的法律生活の保護とを如何に調節すべきかの点に存するを。けだし法の目的たる社会生活には静，動の二態あり。両者共に社会生活を構成するの要素として一定の程度において保護せられざるべからず。しかも両者の保護は相排擠し，相扞格すること少なからざるが故にここに両者調節の問題を生ずるなり。不動産登記に公信力を賦与すべきや否やの問題また実にその一端に外ならず。動産取引についてその即時取得の原則を採るべきや否やの問題また同一範疇に属す。

２　法律生活の静的安全と動的安全とを調節するの標準については単に法律の目的より概括的にこれを演繹すべからず。調節に関する各種の制度等諸種の社会的事実よりこれを帰納するを要す。今不動産取引について公信主義と公示主義とを研究するはまた所謂帰納の一部に外ならずといえども，その各個の帰納に当たりてはまた演繹的研究法によりて得たる結果及び他の制度の比較研究によりて得たる結果を参照するを以て便宜なりと信ずるが故に，これ等の方法により，所謂調節の標準について得たる原則の二三をここに列挙せんと欲す。しかしてこれ等の原則が不動産取引についてまた適用せらるべきや否やを検するはこれ即ち本編の趣旨なり。

（一）　静，動何れを主とすべきかは各個の社会について決すべきといえども，静を主とするは社会の平安，維持を主とするものにして，動を主とするは社会の変化，活動，発展を主とするに外ならず。

（二）　沿革的に言えば大体において静より動へ進み行くの傾向あり。

　（三）　動的安全の保護を前提とす。一定の程度において静的関係の保護せらるるに非ざれば動的関係の保護は意味を為さず。

　（四）　動的生活の保護は善意の行為を保護するを以てその趣旨とす。悪意の行為の保護は理において動的安全の要求する所に非ず。

　（５）　善意の行為は過失に基かざるものなるとき，即ちその善意が客観的基礎を有する場合においてのみ保護せらるるを常とす。

第２節　我が公示主義の理由（公信主義に拠らざるの理由）

１　不動産物権の得喪変更に関する我が国法の主義は次の二点を以てその要旨となす。

　甲，不動産物権の得喪変更は登記法の定むる所に従いその登記を為すに非ざればこれを以て第三者に対抗することを得ず―登記は対抗要件なり（民，１７７条）。

　乙，不動産登記に誤謬の存する場合において，第三者が過失なくして登記に信頼し不動産について法律行為を為すも，その第三者の為にその不動産登記簿の内容を真正なるものと見做すことなし―登記は公信力を有せず（１）。

　このごとき内容を有する我が民法の主義をば或はこれを独逸民法の絶対的公信主義に対比して相対的公信主義と称する者ありといえども（２），余は単にこれを公示主義と呼ぶの正当なるを信ず（３）。けだし我が国法上登記は如何なる条件の下においても積極的に公信力を有するものに非ずして，単に消極的に登記無き事項は第三者において対抗せらるることなしと言うの効力を有するに止まるが故なり。しかしてこの主義が仏法主義を踏襲したるものにして，登記を以て不動産物権得喪変更の成立要件となし，かつ登記に公信力を賦与する独逸法の主義とは著しく理論と実際上の結果とにおいて差異を有することは民法教科書の普く説く所にしてここに論ずるを要せざるなり。

２　我が民法は何が故に上述のごとき公示主義を採用したるか，何が故に不動産物権に関する公示方法に公信力を与ふること無くして止みたるか。今その理由を熟考忖度するに，不動産取引については不動産物権の性質上静的安全を保護するを以て社会の利益に適応するものと考えたりと言うの外，他に合理的理由を発見することを得ざるなり。すなわちこの理由について詳述するに先ち，他の理由と認められ得べきものについて一応の弁駁を試みんとす。

　（一）　或は過失論を基礎として曰わん，過失無くして損害を負担すること無く，過失無くして権利者の意思に反してその権利を喪失せしむべからず，故に公示の形式たる登記に誤謬の存する場合において，その誤謬が原権利者の過失に基かざるにおいてはこれによりて原権利者の権利を奪うべからず，これ我が民法が登記に公信力を与えざる所以なりと。言う所一応の真理を包蔵するがごとしといえども，過失無くんば責任なしと謂うの原則を以て終始せんとするは羅馬法の個人主義に囚われたる不通の論なり。けだし私法における損害配分の標準には個人的なるあり，社会的なるあり（４）。所謂過失無くんば責任無しと言うの原則は個人的標準の一部たるに過ぎず（５），この標準を以て損害配分の総ての場合を律せんとするはなお日本音楽鑑賞の標準を以て直ちに西洋音楽等総ての音楽を律せんとするもののごとし，その誤れるや言うを俟たざるなり。その意思表示に関する意思主義表示主義の争い，過失無き不法行為に関する危険主義の問題において，如何なる標準によりて損害を当事者に負担せしむべきかの問題が過失論を以て解決すべからざるがごとく，不動産取引について，原権利者と第三者と何れの一方をして損害を負担せしむべきかの問題もまた過失論を以ては解決すべからざる所に属す。何となればもし当事者の過失のみを以て根拠とせんか，両者の間に何等の差異径庭を設くべき理由あらざればなり。何が故に論者は特に原権利者，表意者または不法行為者の無過失のみを論じて，第三者，相手方または被害者のまた均しく無過失なるの事実を挙げざるか。法律は登記を以て不動産に関する法律関係公表の方式なり，手段なりと明言す。第三者はすなわちその法律の言う所に信頼して登記せられたる所を以て真実なりと認むるに何等の過失あらんや。もし両当事者に過失無くしてしかも損害をその一方に帰するは過失，無過失の理に基くものに非ざるや瞭然たりと言うべし（６）（７）。

　（二）　公平論に基礎を置く者，或は曰わん，損害の分配，当事者の保護は公平の原則に従いてこれを定むるを要す，今法律は権利者に命ずるにその権利保存の手段を以てし権利者これに従いて登記の手続を了したるにおいては，縦令爾後他人の詐偽その他の手段によりて登記の改竄，変更せらるることありまたは登記官吏の怠慢，不注意によりて登記に脱漏，錯誤ありといえどもこれ権利者の与り知らざる所なるが故に，登記せられたる所を以て真実となしこれによりて或は権利者をしてその意に基かずして権利を喪失せしむるに至るはこれ明らかに公平の原則に背馳するものなりと。然れどもこの論に対してもまた前述の過失論に対すると同一の非難を加ふるを得べし。何となれば論者は権利者がその権利保存の為に法定の手段を講じたるの事実のみを挙げて論拠とするも，これ単に楯の一面のみを見たるの論に過ぎず。第三者がその権利について取引を為さんとするに当り，その所謂動的法律関係を安全ならしめんが為に，また法定の手段を講じて所謂公表の形式を審査したるの点を考慮の裡に置かざるべからず。故に当事者の労力に対して正当なる報酬を与ふべしと言う公平論を以てしてはこの問題を解決することを得ざるなり（８）。

　（三）　これにおいてか原状維持論を唱ふる者，或はこれあらん。曰く，原権利者，第三者共に過失なく共に保護すべき理由無きにおいては，両者をして共にその旧態に居らしむるの外なく，即ち権利者をして権利を喪失せしむることなく無権利者をして権利を取得せしむることなしと。按ずるにこの種の論は論理を尚ぶその Begriffsjurisprudenz（理論的法学と言わんか）の帰依者に択ばるる所なるべし。けだし一旦成立したる権利は特にこれを消滅せしむるの理由なくば存続せしめざる可からずと言い，或は無権利者より権利を取得することあるべからずと謂うは所謂理論に適するものなるべければなり。しかれどもこの論はまた誤れる根底の上に立てるものなり。もし厳正なる意義における原状回復の為し得べくんばこれまた一理たるを失わざるべし。しかれども原権利者をして権利を保持せしめ第三者の損害を顧慮せざるは厳正なる意義における原状回復と言うべからず。何となれば原状は即ち未だ第三者の関与せざりし状態にしてこれを再現せしむることは事実上不可能なればなり。或はこれと異なりて現状維持論を称ふる者無きを保せず。しかれどもこれまた不通の論なり。けだし現状はこれを維持すべからず，原権利者及び取得者双方の関与せる現状はこれを維持すべからざるが故に一刀これを両断し，或は原権利者をして権利を維持せしめて第三者の係累を断ち，或はまた第三者をして原権利者の係累を断ちて完全に権利を取得せしめんと論ずるなり。両頭を有する現状をそのままに持続するは事実上不可能事に属す。

　（四）　絶対権の本質論より公示主義を弁護せんと試むる者また少なからざるべし。曰く，公示主義の保護せんとする原権利は不動産物権，特許権，商標権，意匠権の類にして学者の所謂絶対権に属し，その本質上第三者に対抗し得ざることありといえども，いやしくも一旦その対抗要件を具備したる後においては完全に第三者に対抗し得ざる可からず，故に後日公示方法に変更を生じ，為めに第三者について正当なる利害関係の保護するに足るべきものを発生することありといえども，これが為めに絶対権の効力を薄弱ならしめその対抗力を剥奪するがごときは絶対権の本質に反するものなりと。しかれども余輩は議論の根底においてこの種の論に賛同する能わざる者なり。けだし所謂本質論なるものは成法（Positives Recht）を措いて自然法に存在する定典たるべからざるが故に唯法律の各種の規定より帰納して得たる各種の法律制度の基本的性質を謂うに外ならざるなり。故に本質論まず定まりてしかして後各種の規定の意義決定せらるるにあらずして，各種の規定の意義明瞭となりて後始めて所謂本質論なるもの決定せらるべきなり。これを絶対権について応用すれば，絶対権の本質はこのごとくなりとまず先天的に決定し，故にその効力はこのごとくならざるべからずと断ずるは議論の順序を誤りたるものなり。不動産所有権について如何なる範囲においてその第三者に対する効力を認むべきかの問題は先天的に考えたる絶対権なるものの本質によりて決定せらるるに非ずして，立法者が各個の社会の状態に応じ，その各種の利益を衡量して決定すべく，その決定の結果に従いて各箇の法律における不動産所有権の本質が決定せらるるなり。しかしてこれを社会学の教ふる所に従いて考究すれば，所謂私有財産制度なるものは人類社会の沿革上常に認められたる絶対の真理に非ず。１８世紀及び１９世紀初葉において全盛を極めたる個人主義の結果今日なお旺盛なる勢力を持続せるに過ぎずして，古代において種族共産制度，家族共産制度等の存在したるは勿論（９），近世において種々私有財産に制限を設けんとする傾向の存するはまた看過すべからざる現象に属す（１０）。故に絶対権の本質を論拠として公示主義を説明せんとするは議論の根底を誤りたる陳套の論と言わざるべからず。もし仮に百歩を譲りて自然法と言い正法と言う観念の存在を認むるとするも，なお財産の私有は絶対的なるべからず，過失なき第三者に損害を及ぼさざる範囲内においてのみこれを認むるを正当と言うべきに非ざるか。

３　余輩の信ずる所によれば不動産物権の得喪変更については（イ）不動産物権の社会上及び経済上有する特別なる意義により，（ロ）不動産取引なるものが動産取引に比して社会学上及び経済学上多く重要ならずという事情に基き，かつ（ハ）登記制度が我が国においては特に人為的制度にして世人未だこれに慣れずと言える事情によりて我が民法制定当時においては公示主義を採り，動的安全よりも寧ろ静的安全を保護することが社会の利益に適応するものと認定せられたること，これ即ち我が民法公示主義唯一の合理的理由なり。今少しくこれを説かん（１１）。

　（一）　不動産なるものは動産とその社会上及び経済上の意義を異にし，したがってその法律上の待遇もまた異ならざるべからずと言う観念が我が立法者の頭脳を支配したること民法各種の制度についてその跡歴然たり（民１２条，１６２条，５７９条，８８６条〔削除〕）。動産について即時取得の規定を設けたるに拘わらず，不動産についてこれに類する規定を置かざりしことについては，不動産の静的安全が動産の静的安全に比して特に社会上及び経済上重大なる意義を有するものと考えられたることもまたその理由の一ならずんばあらず。

　（二）　不動産取引を助長することに反対する一派の論者あり。曰く，不動産所有権なるものは動産所有権とその社会上並びに経済上の意義を異にし，不動産と個人の堅実なる生活とは密接なる関係を有するものなり，即ち土地が個人の社会的並びに経済的生存の基礎を為すことは到底動産の比にあらざるを以て，軽々しくその取引を助長するは所謂土着の美風を滅ぼし軽浮なる風潮を馴致するものにして社会の維持及びその健全なる発達に害ありと。ギールケが嘗て独逸民法草案を批評するに当りて不動産取引を過当に容易ならしむるものなるを難じ，これ土地の分割及び過債の因を為すものにして立法者が私法の社会的使命を理解せざる一例なりと極論したるはその例なり（１２）。按ずるに沿革上取引なる制度がまず動産について発達したるは疑いなき所にして，現今においても動産取引が不動産取引に比して遥かに頻繁にしてまた敏活を要するは言うを俟たず。したがって取引に際して法定の公示方法に拠るの外更に煩雑なる審査を了して始めて取引の安固を期し得べしと為すがごときはこれを不動産取引に用いて多く不可なること無く，或は多少の利あるべしといえども，これを動産取引に応用して大害あるべきは炳として日を見るがごとし。これまた我が民法が動産取引と不動産取引とについてその採る所の主義を異にし，不動産については特にその取引を円滑ならしむるが為めに特殊の制度を設くること無かりし理由の一ならずんばあらず。これを第一に述べたる所と対比すれば彼は即ち静的安全の内容たる法律関係が重要なるの事実なり，これは動的安全の内容たる法律関係がさのみ重大にあらざるの事実なり。両者相俟って法律が動的安全の為めに静的安全を犠牲とすること無かりし事実を説明するを得べし。

　（三）　世人未だ登記の制に慣れざるの事実もまた我が民法が公信主義を採らざりし理由の一に数ふるを得べし。けだし法律関係公表の形式に公信力を与えて取引の安固（動的安全）を図るの制度は，その公表の形式と公表せらるる事実的法律関係とが多く齟齬すること無きにおいて始めて著しく実質的法律関係の安固（静的安全）を害することなきを得ん。もしそれ不動産登記の制度のごとく公表の形式が自然的公表の方法に非ずして人為的手段なる場合においてこのごとき齟齬の出現すること極めて多く，殊に世人の未だこの制度に熟練せざるに際しては往々にして多く登記に留意せず，誤謬もこれを放置するがごときはけだし免るべからざるの数なり。この情勢の下において敢て公表の形式に公信力を与ふるは余りに静的安全を犠牲とするに過ぎたるものと論ずるを得べし（１３）。

　以上述べたる所を更に他の方面より説明すれば公信主義なるものは経済上の重商主義に関連して近世特に発達したるものなり（１４）。しかして動産及び有価証券については重商主義によるを可とするも，不動産については以上述べたる三個の理由によりて重商主義によること能わざるべし。このごとく説くことによりて始めて我が民法が公信主義を採らざりし経済上の理由を理解するを得べけん。

４　以上を以て余輩は我が民法が公信主義を採らざりし理由を闡明し得たりと信ず。即ち余輩の見る所を以てすれば民法は不動産については静的安全を以て動的安全より重しとなしたるが為めに公信主義を採ること無かりしなり。しかれどもこれのみを以ては未だ公示主義の理由を尽くしたるものに非ず。以上述べたる所は言わば公示主義の消極的理由に過ぎず。その積極的理由については民法代１７７条の解釈と至大の関係を有するが故に同条の所謂「第三者」の意義に関する研究と牽連して節を新たにして論ぜんと欲す。

（１）　登記が公信力を有せざることについては直接の明文上の根拠なし。しかれども解釈上疑いなし。その理由―（一）沿革上我が国法は不動産物権の得喪変更については大体において仏法を基礎としたるものなれば，もしこの点について特に独法主義に拠るの趣旨ならば明文を置くべし。然れどもこれは有力なる理由にはあらず。

　　（二）実体上の権利関係とその公示手段たる外形の形式とが齟齬せる場合に形式に効力を認むるは法理上例外なり。故に明文なくして推測すべからず。

　　（三）静的安全を賭して動的安全を保護するは私法全部の組織(システム)上例外に属す。故に明文なくして推測すべからず。

　　（四）我が登記法の手続は公信主義を採るに適せず。もし独逸法のごとく公信主義を採らんとすれば登記手続についてもまた同法のごとく実質的適法主義（Materielles Legalitätsprinzip）により，登記官吏をして登記申請の実質上の理由，特に登記原因の有無を審査せしめ，実体的権利関係と公示の形式とを出来得る限り一致せしむることに努めざるべからず。しからずんば実体的権利の保護即ち所謂静的安全の要件を具備したる場合においては，登記官吏は登記を為さざるを得ざるものとす（不動産登記法４９条）。このごとき手続法あるに拘わらず，公信主義を採るは害多くして利少し。ただ反対の理由として考ふべきは動産取引に関する民法第１９２条との権衡なり。動産については占有を以て公示の方法なし，しかしてその公示方法は民法第１９２条の所謂善意取得に関する規定の結果一定の条件の下において公信力を有す。即ち民法は動産については相対的公信主義を採りたるなり。しかるに登記と占有とを比較すれば登記は遥かにより有力なる公示方法にして，世人のこれに信頼することもまた遥かに深厚ならざるべからず。しからば何が故に薄弱なる公示方法は公信力を有して有力なる公示方法はこれを有せざるか，これ当然起るべき疑問なり。この疑問に対する解答は次に本文に述ぶる所によりて明なるべし。余は我が民法の主義を是認するものにあらずといえども，第１９２条を不動産の場合に類推せんとするは上に述べたる諸種の理由によりて誤謬なりと進ず（同説中島玉吉氏民法釈義巻之二上６２頁，横田秀雄氏物権法第１１版１０１頁等）。

（２）　例えば中島玉吉氏前掲６２頁，横田秀雄氏前掲１０２頁

（３）　公信主義の中につき更に絶対的公信主義と相対的公信主義とを区別するの必要あり。即ち独逸法において不動産登記の有する公信力と我が民法のおいて動産占有の有する公信力とはこれを区別するを要す。しからば公信力を与えざる主義は単に公示主義と呼ぶを便とすべし。独逸における Publizitätsprinzip と言う語は広狭二義に使用せられ，一般には公信主義を意味すれど，また時には公信力を与えざるものをも包含して言うことあり。両者を明らかに区別しては公示主義を Grundsatz der Offenkundigkeitと言い，公信主義を Grundsatz des öffentlichen Glaubens と言う（Crome,System des B.R.�V.S.84,109）。

（４）　損害配分の標準については卑稿「静的安全及び動的安全の調節を論ず」〔本書２４頁以下参照〕。

（５）　個人的標準にもなお種々あり。例えば無能力者の相手方は無能力者保護の為めに損害を負担することあるがごとし。卑稿前掲。

（６）　独逸民法は錯誤によりて意思表示の取消されたる場合に錯誤者は消極的契約利益を賠償すべきものとす（独民１２２条）。我が民法は錯誤者にこの義務を認めず，即ち我が民法上錯誤によりて意思表示の無効となるときには錯誤者即ち表意者は錯誤と言う事実に基く損害の全部を相手方に負担せしむるを得るなり。されどこれもまた過失を理由とするものにはあらず。何となれば錯誤に陥るは過失にあらずと言わば，相手方が表意者の意思表示を真実なりと信じたるもまた過失にあらずと言うを得べければなり。本文に言う場合もその理を異にすることなし。過失無き不法行為の場合も同様なり。

（７）　「過失なくば責任なし」という原則の狭隘に失するを補わんが為めに「原因を与えたる者は責任を負う」と云う原則を以てせんとするは独逸固有法に根拠して独逸学者の近時大に唱道する所なり。これを原因主義（Verursachungstheorie od. Veranlassungsprinzip）と言う（Otto Gierke,Der Entwurf eines bürgerlichen Gesetzbuches und das deutsche Recht,1889.S.259 ff.;Mataja,Das Recht des Schadensersatzes vom Standpunkt der Nationalökonomie; M. Rümelin,Die Gründe der Schadenszurechnung;Herbert Meyer,Das Publizitätsprinzip,S.85 ff.;Lenel,D.J.Z.1909.S.623;Staudinger-Riezler,Komm.zu §122 BGB.etc.）。今この主義を批評するの所に非ず。ただ余の考ふる所を一言すれば，原因主義の功績はもとより顕著なりといえども，これのみにてはなお不充分なりと信ず。論者の所謂原因あるにあらずしてなお責任あること無しとせず。また原因関係存するもこれが責任を負担せしむる唯一の理由にはあらざることあり。現に本問の場合においても独逸法上不動産物権者が損害を受くるの理は原因主義にては説き難かるべし。

（８）　公平論を以て公示主義の理由を説明したる学説は未だこれを聞かざれど立法者の頭脳を支配したることは疑いなしと信ず。法律の目的は公平の維持にあり，損害の分配は公平の原則に従うべしと謂う一派の法理学者の説によれば公示主義の理由もまた公平論にこれを需むるの外なかるべし。

（９）　往古の共産制度については法制史家の争わざる所にして，殊に不動産について個人所有権なる観念が著しく動産に後れて発達したること疑いなし。三潴信三氏「所有権乃至地役権」３頁及びその処に引用せられたる著書の外 K. Bücher,Die Entstehung der Volkswirtschaft,S.18,23,62.etc.

（１０）　Léon Duguit,Transformations générales du Droit Privé depuis le Code Napoléon,p.147.

（１１）　しかれどもこれ我が民法が公示主義を採りたる理由の一面のみなることを注意すべし。即ち何が故に公信主義まで歩を進めざりしやの理由を明らかにするのみ。何が故に公示主義だけは採用したるかの理由については後に述ぶ。

（１２）　Otto Gierke,Die soziale Aufgabe des Privatrechts,S.23.

（１３）　Wellspacher,Vertrauen auf äussere Tatbeständeはこの点に関して有益なる研究を含む。

（１４）　Rudolf Sohm, Charakter und Inhalt des BGB. In systematischer Rechtswissenschaft, �U.Aufl.S.78 ff.; Sokolowski,Die Philosophie in Privatrecht,I.S.197;A.Menger,Das Bürgel.Recht u.d.besitzlosen Volksklassen.

第３節　我が公示主義の内容

　不動産物権の得喪変更に関する我が公示主義の内容について余輩はここに２個の問題を研究せんと欲す。（１）所謂「第三者」の意義如何，（２）「対抗するを得ず」と言うの意義如何の問題これなり。しかしてその前提として公示主義の理由を説かざるを得ず。

　公示主義の内容として研究すべき問題はもとより以上の二個に限られたるにあらず。その適用を受くべき不動産物権如何及び不動産物権得喪変更の原因如何の問題もまた当然これに研究せらるべきものに属す。ただ静的安全及び動的安全の調節と言える基礎観念によりてこれを説明するを得ざるが故に今はこれに論及せざるのみ。読者幸いにこれを諒せよ。

第１項　公示主義の理由

１　我が民法第１７７条の立法理由を論ずる者皆取引の安全を口にするを常とす。我が大審院が「第三者」を解して「当事者又はその包括承継人に非ずして不動産に関する登記の缺陥を主張するに付て正当の利益を有する者」と做すはこの立法理由に基づきて第三者の範囲に制限を加えんとするに外ならず（１）。乾博士が第三者を解して「当事者及び其包括承継人を除き登記の缺陥を主張することに因りて同一不動産に関する自己の権利の存在の事実又は其権利が特定の制限を受けざる事実を法律に依り少くとも実体的に認めらるべき地位にある者」と為さんとするもまたその思想の根拠は民法第１７７条が取引の安全を保護することのみを目的とするものなりと言う観念に存せざるべからず（２）。しかして以上二説と異なり「第三者」について何等縮小的解釈を試みざる学者もまた第１７７条が取引の安全を確保することのみを以て目的とするを疑わざるがごとし（３）。

２　登記を以て対抗要件となすの結果として取引の安全の保護せらるるは余もまたこれを疑わずといえども，このごとき結果を生ずと言うとこれを唯一の目的とすと言うとはその間顕著なる差異の存するあり。論者の民法第１７７条を解して取引安全の保護を唯一の目的となすものと做し，これによりてその適用範囲を縮小すべしと論するは，或はその最も顕著なる結果に幻惑せられて他の顧みるの余裕なきにあらざるか。虚心に物権の性質を考え，虚心に不動産登記制度の理想を究め，しかして虚心に法文を熟読すれば同条の理由はただに取引の安全を保護するに止まらずして，第三者に対抗し得べき所謂絶対権の性質上汎く第三者を保護するの点に存するを見るべし。今その理由を詳論せざるべからず。

　（一）　仏蘭西民法は往々にして通説の論拠として援用せらるる所なりといえども（４），やや詳しくその沿革を研究すれば論拠として極めて薄弱なるのみならず，却ってこれを反対論の論拠として用ふるを得るに似たり。やや冗漫に流るるのおそれありといえども次にその沿革を略叙せんとす。

　現行仏蘭西法における不動産物権の得喪変更に関する規定は我が民法と著しく異なることなく，登記または謄記（transcription）を以て第三者に対する対抗要件となし，ただその第三者を制限して不動産上に権利を有しこれを法律に従いて保存したる者と言うの点において我が民法と異れるに止まれり。しかれどもこのごと規定はcode civil そのものに包含せられたるに非ずして，半世紀の後漸く１８５５年に至り「抵当権の謄記に関する法律」によりて補足せられたるに過ぎざるなり。抑も不動産物権の得喪変更の公示方法については旧法時代（ancien droit）における仏蘭西法の制度は極めて不備なりき。羅馬法における mancipatio 及びin jure cession は近世の登記制度のごとくならずといえどもなお事実上の公示制度として多少公示の効果を有したりといえども、この時代における仏蘭西法においては不動産物権の得喪変更はtradition を以て殆んど唯一の公示方法となし、しかもそのtradition には占有改定のごとく事実上の状態を変更せざるもの有りしが故に、公示方法としては殆んど何の用をも為さざりしなり。ただ仏蘭西北方の一部においてはその嘗てニーダーランドに属したるの沿革により所謂授与制度（perinvestituram allodiale）の行われこれによりて多少公示の実を挙げ得たりしといえども、一般には不動産取引の信用を保持すべき殆んどの何等の制度もこれ無かりしなり。この忍ぶべからざる状態は財産過債の窮状を暴露するを厭いたる貴族の希望によりて久しく継続したりしが，大革命の功を奏すると共にその第７年霜月１１日（１７９８年１１月１日）の法律によりここに始めて一変せらるるに至れり。しかれどもこの法律たる公示制度の基礎の上に不動産抵当の制度を規定することを以て目的とせるものなるが故にその規定する所これを不動産物権得喪変更の全部より見れば跛行的たるを免れざりき。即ちその２６条に曰く「抵当となし得べき財産及び権利の移転行為は抵当保存局の帳簿に謄記するを要す。之を完了するまでは移転を以て売主と契約しかつ本法の規定を遵守したる第三者に対抗するを得ず」と。学者或はこの改革を以て大革命が齎らしたる改良の著明なるものとなす。しかるに１８０４年の民法（Code Civil）は遺憾にも再び旧態に退歩し，贈与の場合を除きては謄記を以て対抗要件となす旨を規定することなし。但し民法草案中には謄記を以て対抗要件とすることを予想したる数個の規定ありてこれ等の規定はそのままに法律に保存せられたるを以て，民法制定後幾もなくして民法上謄記は対抗要件なりや否やの論争を見たりといえども，編纂の印象なお学者の頭脳に新たなるの当時なりしを以て消極説多数を占めたりき。したがって不動産所有権の移転は秘密に行われ著しく土地の信用を害せり。しかるにここに意外なる方面の運動によりて事実上やや謄記の実行せらるる場合を増加せしめたるものあり。他なし，国庫の収入を増加せんとする行政庁の努力これなり。元来謄記には１００分の１半の税を課したるが民法施行の結果謄記を為す者著しく減少し，したがって謄記税による国庫の収入を減少せしめたるを以て，政府は謄記を奨励せんが為めに種々の方策を講じたりしが遂に１８０７年の民事訴訟法によりややその目的を達するを得たり。即ち同法８３４条，５条のおいて不動産先取特権及び抵当権の登記（inscription）は不動産所有権の移転行為の謄記せられかつ爾後１５日を経過するに非ざればこれを差止めらるることなしと規定したるなり。これによりて不動産所有権移転の謄記は対抗要件として必要にはあらざれども先主によりて設定せらるる抵当権の登記を差止むる手段として有効なるに至り，やや謄記を実行する者を増加し得たり。しかれどもこのごとき改正は理論において極めて不条理なるのみならず実際においてもなお謄記を為さざる場合多数なりしを以て不動産の信用は依然として微々たり，改正を希望するの声喧しく漸く当事者を動かすに至れり。１８４０年ヂュパン（Dupin）氏が大審院において述べたりと伝えらるる数言は以て当時の事情を彷彿せしむるに足るべし。曰く「不動産抵当によりて金銭を貸す者は其支払を受くるや否やに付て決して安心するを得ず，不動産を買う者は其所有者たり得るや否やに付て又決して確かなるを得ず」と。これにおいて政府は遂に１８４１年不動産抵当に関する調査委員会を設け幾多の曲折を経て１８５５年上に述べたる現行法を設け，かつ民事訴訟法の上記の規定を廃止するに至れるなり（５）。

　以上のごとき沿革の下に成立したる仏国法の規定を援用して我が国法の解釈に資せんとすることが極めて危険なるは殆んど言わずして明らかなるべし。仏国法の規定が頗る不備にして範とするに足らざることその理由の一なり（６）。仏国法の成立が常に跛行的にして抵当制を以てその中心となしたるに反し，我が国法にはこの欠点なきことその二なり。仏国法と我が国法と不動産登記の制を異にすることその三なり（７）。このごとくにしてしかもなお範を仏国法に取る者あらば余はその可なる所以を知らざるなり。

　（二）　公示方法を具備せられたるを以て第三者に対する対抗要件と為すは敢て絶対権の絶対的性質に反して取引の安全を保護したるものに非ず。絶対権の絶対的効力に伴う当然の制限なり。

　抑も法律が第三者に対抗し得べき有力なる権利を個人に賦与するに当たりてはこれによりて第三者に損害を及ぼすことなきを以て条件となさざるべからず。これ法律は特に特定の個人的利益を保護することを以て目的となすべからずして社会全部の利益を目的となすべきものなるが故にその法律の賦与する個人的権利について存する当然の制限なり。故に我が国法においても性質上第三者に不測の損害を及ぼすのおそれなきその身体権，生命権，名誉権等を除きては公示を以て絶対権を支配するの原則となせり。特許権（特許法３４条，４５条，６１条），意匠権（意匠法８条，１５条４項，１８条），商標権（商標法７条，１７条，２４条），実用新案権（実用新案法６条，１３条３項，１７条）等において登録を以てこれ等の所謂無体財産権成立の要件となし，かつ登録の変更を以てその譲渡を第三者に対抗するの要件となせるは皆この原則に従えるものなり。動産物権の得喪変更について占有の移転を以てその対抗要件となし，また不動産物権の得喪変更について登記を以てその対抗要件となせるはまたこの原則適用の当然の結果と解すべく，取引の安全の為めに設けたるこれ等の権利に対する特殊の制限なりとは解すべからざるなり（８）。

　或は曰わん，民法第１７７条において対抗するを得ずとしたるものは権利得喪の事実にして権利そのものにはあらず，故に登記なくんば対抗するを得ずとなしたる理由も権利そのものの特質によるにあらずして権利得喪の事実そのものの特質によるなりと。ドクトル神戸寅次郎氏はこの論の前半を主張せらるるが故に（９）或はこの後半のごとき結論を採らるることあるべし。

　按ずるにこの論は我が民法において債権譲渡について物権得喪におけると同一の字句を用い，所謂公示方法を具備するに非ざれば以て第三者に対抗するを得ずとなしたるが故に有力なる反対論の一に属すべし。しかれども余はこれに従わず。その理由二あり。

　（a）　債権等絶対権以外の権利についてもその権利の主体に変更ある場合においてその変更をして所謂対世的効力を有せしめんとせば一定の公示方法を必要とするは論なし。しかれどもその公示方法を必要とするは移転せられたる権利が対世的効力を有するが故にあらざるが故に，ただ単に権利が移転せられたりと言うことによりて不測の損害を受くることあるべき第三者の利益を保護するのみを以て必要にして充分なりとす。換言すれば従来その権利について法律関係を有したる者及び爾後その権利について法律関係を成立せしむることあるべき者の利益を保護するを以て足れり。これに反して絶対権についてはその理を一にせず。何人にも対抗し得べき権利なるが故に従来その権利について法律関係を有せず，また爾後法律関係を設定せざる者といえどもその権利について利害関係を有するを得べく，従って公示方法の欠陥によりて不測の損害を受くることあるべきなり。これを要するに総ての権利移転の場合について公示方法は取引の安全の為めに必要なれど絶対権については公示方法はその性質上常に必要なり。偶々その移転の場合にもまた公示方法を要するはその性質上常に必要なるの結果にして特に取引の安全の為めのみにあらざるなり。

　（b） 以上は理論上絶対権と相対権とについて両者の性質上その公示方法の意義に差異あるべきことを述べたるものなるが，この理論は成文法上また民法の認むるものと言うべし。けだし我が民法は債権については単にその譲渡の場合においてのみ公示方法を命ずるに止まり，その相続その原始的取得の場合においてもまた均しく公示方法を命ずるものと解せざるべからざるが故なり（１０）。

　（三）　不動産登記制度の理想は不動産に関する一切の法律関係を登記簿によりて明瞭ならしむるにあり。我が国法は公信主義を採らざるが故にこの理想を距ること未だ遠しといえども，我が国法の文字及び我が登記制度の許す範囲内においてこの理想に最も近き解釈を採るは法の適用に関与する者の任務なりと言わざるべからず。しかるに徒に法の認めざる制限を設けて自縄自縛し，強いてこの理想に遠ざからんと欲するがごときは余輩その可なる所以を解せざるなり。按ずるに不動産登記制度の理想二あり。一は即ち積極的標準たるの作用にして登記簿に記載せられたる所は善意の第三者の為めに真正と看做さるることこれなり。これ即ちその公信主義の要請する所にして，静的安全を危殆ならしむるのおそれあるが故に我が国法はこれを採用せざりしなり。他の一は即ち消極的標準たるの作用にして登記無くんば第三者に対しては効力を及ぼさずとすることこれなり。この後の作用を認むるにまた二種の法律上の制度あり。一は登記無くんば不動産物権の移転なしとする制度にして，登記を以て不動産物権移転の成立要件となす独逸法の主義これなり。他の一は登記無しといえども不動産物権は当事者間のみにおいては移転するものとする主義にして，これ正に我が民法の採用せる所に外ならず。ただこのごとく解することによりてのみ我が民法の内容を多少不動産登記制度の理想に接近せしむるを得べきなり（１１）。

　（四）　我が国法の字句が取引の安全を保護するの趣旨のみに解すべからざるは疑いを容れず。学者或はこの字句のみを根拠として所謂第三者の広義に解するの外なきを論ず（１２）。余はこの字句の施用せられたるは一定の主義に基けるものなりと解し，理論上この主義を是認するの結果所謂第三者の広義に解せざるべからざることを主張す。その間に論理の差異あるを見るべし。

　一派の学者は或は我が民法の使用せる字句に根拠して制限解釈説を採らんとす。嘗て述べたる大審院の連合判決のごときこれなり。その判決理由に曰く「其条文には特に第三者の意義を制限する文詞なしと雖も其自ら多少の制限あるべきことは之を字句の外に求むること豈難しと言ふべけんや何となれば対抗とは彼此利害相反する時において始めて発生する事項なるを以て不動産に関する物権の得喪及び変更に付て利害関係あらざる者は本条第三者に該当せざること尤著名なりと謂はざるを得ず又本条制定の理由に視て其規定したる保障を享受するに適せざる利害関係を有する者は亦之を除外すべきは蓋疑を容るべきに非ず」

と。これけだし対抗と言える字句を以て論拠の一となせるものに外ならず。しかれどもその文理解釈として極めて薄弱なるは何人も争わざる所なるべし（１３）。このごとき論拠はただ事実上の理由の力によりてのみ多少の力を加ふるものなり。しかるにその事実上の理由は所謂本条制定の理由にして，これについては既にこれを反駁しまた以下これを反駁せんとする所なるを以てここに再説せず。

　（五）　静的安全及び動的安全の調節と言える基礎観念よりこれを論ずればまた第三者を制限すべき理由を見ず。既に縷説したるがごとく公信主義は静的安全を犠牲として一定の動的安全を保護するものなるが故にその範囲は取引の安全の要求する所に制限せられざるべからずといえども，公示主義なるものはこれと異り静的安全に何等実質的の損害を加ふることこれなきものなるが故に取引の安全によりてその適用を制限すべきものにあらざるなり（１４）。

　（六）　無制限説の実際上の結果如何。按ずるに制限説の最も有力なる論拠は無制限説の実際上の結果が不当なりと言うの点に存すべし。その結果は論者の言うがごとく果して不当なりや否や，これ次項において論ぜんとする所なり。

（１）　明治４１年１２月１５日大審院民事連合部判決はこの問題に関する最も根本的なる判決なり。爾後大審院はこの説を固持しその判例数多あり。最近の分のみを示せば，大正３年１０月９日大審院民事第２部判決，同年１２月１日同院第１民事部判決。しかれども学者にしてこれに賛する者は寧ろ少し。反対，富井政章氏民法原論第２巻物権６１頁以下，横田秀雄氏物権法第１８版７４頁以下，梅謙次郎氏民法要義１７７条，同氏法学志林３７号，６４号，川名兼四郎氏物権法要論１６頁，松岡義正氏民法論物権４３頁，神戸寅次郎氏「物権重複論」法学協会雑誌２８巻３号８５頁以下等。同説，中島玉吉氏民法釈義物権１７７条。（補注）

（補注）　末弘氏，物権法上巻１６５頁以下は主義として大審院の判例を是認すると同時に「登記の欠缺を主張するに付き正当の利益」を有するや否やにつき詳細なる研究を示す。

（２）　乾政彦氏「不動産物権の時効取得と登記」法学協会雑誌３０巻６号７号もまた大審院の判例には反対なり。しかして本文に示すがごとき標準を以て「第三者」なる語を縮小的に解釈せんとする説に対する主たる非難は何が故にこのごとき標準によることを得るかの理由を説明せざるの点に存す。或はこのごとき統一的標準によるときは結果が良好なりと言うことのみを理由とするにはあらざるか。しかれども条文の文理の命ずる所に異なりて，縮小的解釈を為さんが為めには単に結果の良好なりと言うのみにては不充分なり。或は条文の目的と言い或は立法の精神と云うがごとき理論のこれが根拠を為すものなかるべからず。しかして乾博士の縮小説の理論上の論拠を推察すればまた本文に言う所に存するの外なかるべし。

（３）　富井氏横田氏前掲。

（４）　横田氏，前掲に引照す。

（５）　Planiol, Traité de droit civil, 6 éd.t.I.nos.2603-2611;Aubry et Rau,Cours de droit civil français,t.�U.§207;Zachariä-Crome,Handbuch des französischen Civilrechts,Bd.I.§191.梅謙次郎氏「不動産登記の制を論ず」法学協会雑誌２６巻５号，６号等。

（６）　仏蘭西の不動産登記制については非難多し。抵当制度のみについても未成年者及び妻の為めに後見人及びその全不動産の上に法定抵当（Hypothèques légales）を認め，しかしてこれを登記せずして第三者に対抗し得るものとなせるは仏国学者自身もまた大に難ずる所なり。Castiau,La publicité et la spécialité des hypothèques dans leurs rapports avec la protection des incapables.1908.このごとく特定の個人の保護（小なる静的安全）の為めに不動産取引の安全（大なる動的安全）を犠牲とする仏蘭西民法は以て範とするに足らず。またその精神において我が民法を去ること遠し。

（７）　不動産登記簿の編制方法において仏蘭西法は我が国法と大に異れり。仏国法は所謂人的編制主義（Prinzip des Personalfoliums）にして権利取得者の氏名によりて登記簿を編制するも，我が国法は所謂物的編制主義（Prinzip des Realfoliums）を採り一筆の土地に一用紙を具え土地によりて登記を編制す。これを単に手続上の差異とのみ見るべからず。「不動産登記簿に依りて不動産の法律関係を公示す」と謂える思想が我が国法においては仏国法におけるよりも遥かに論理的に貫徹せられたるものと言わざるべからず。

（８）　Karl Crome, System des Deutschen Bürg.Rs.Bd.�V.S.83 ff.は物権法の全部を支配する大原則として論述して曰く「万人に対して効力を有する物権は又之を万人の為めに知れ得べきものとなすの必要あり（Es besteht das Bedürfnis,die gegen allen wirkenden dingichen Rechte auch für alle erkennbar zu machen），第三者が物権を尊重すべしとせば其権利の存在を知ることの可能Möglichkeitは又彼等に与えられざるべからず，もし或る場合に権利の可知Erkennbarkeitが存在せざるならば，其権利の絶対的効力はここに断絶を見ざるべからざるなり，この原則を称して物権公示の原則（Das Prinzip der Offenkundigkeit(Publizität)der dinglichen Rechte）と言ふ，此原則は可知Erkennbarkeitを以て物権存在の条件となすにあらず，唯其第三者に対する完全なる効力の前提たりと言ふに止まる云々」と。これ民法教科書において公示の大原則を論述したる嚆矢なり。立法例においてこの原則を貫徹したるものはスイスの新民法とす。この法がこの点において独逸民法に一歩を進めたるはEugen Huberを起草者とせることを考ふれば怪しむに足らず。けだしHuberのDie Bedeutung der Gewere im deutschen Sachenrecht,1894 がHeuslerと異りたる方面においてGewereの特質を明にし公示主義の先駆をなせるは斉しく人の知る所なればなり。なおOtto Gierke,Die soziale Aufgabe des Privatrechts,1889,S.13;Herbert Meyer,Das publizitätsprinzip,1909,S.2 ff.参照。

（９）　ドクトル神戸寅次郎氏「物権重複論」法学協会雑誌２８巻４２７頁以下。

（１０）　民法第１７７条が相続並びに原始的取得の場合にも適用ありと解すべきや否やは議論あれども，少くとも民法の文字がこの場合をも包含すべきは論なし。但し動産物権に関する第１７８条は譲渡の場合のみに限れり。これ占有が公示方法たるの結果なりと説明するを得べし。

（１１）　独逸民法草案理由書は仏蘭西法案のTranscriptions- und Inscriptionssystem を批評し，かつ登記無くんばすべて第三者に対して効力なしとするはこの主義の到達し得べき最高限度なりと言えり（Motive,�V.S.17）。我が国法は仏法系の主義の基本原則たる意思主義即ち物権の移転は当事者の意思表示のみによりてその効力を生ずと言うの主義を採用したれども，その改良し得べき範囲内において改良を施さんとしたるはまた顕著なり。登記手続について仏法の人的主義及び謄記主義に依らざりしこと，及び民法第１７７条において第三者に制限を加えざりしこと，登記を要する物権変動の種類に制限を加えざりしこと等皆その明なる例証なり。

（１２）　富井政章氏民法原論物権６１頁，横田秀雄氏物権法７７頁。

（１３）　本章第３項参照。

（１４）　岡村氏は我が民法第１７７条を以て公信主義に基ける規定なりと誤解せるがごとく，これによりて所謂登記の缺陥を主張するにつき正当の利益を有する第三者の範囲を定めんとす。その出発点において誤れるは多言を要せず（同氏論文法学志林前掲）。

第２項　第三者の意義

　第三者の意義を解して「当事者及び其包括承継人以外の者と為す」所謂無制限説に対して文理解釈に偏して実際の結果を顧みざる陳套の解釈方法なりと難ずるは，所謂制限論者の斉しく用ふる武器ならずんばあらず。余は前項においてその必ずしも文理解釈に偏するものにあらざる所以を詳論せり。本項においてはその実際の結果の非難すべからざる所以を詳述せんと欲す。

１　論者曰く，無制限説は死亡相続の場合に不都合なる結果を生ずと。果して如何。

　相続による不動産物権の得喪変更については民法第１７７条の適用なしと言う説を採らばこの非難の成立し得べからざること勿論なり。しかれども少くとも隠居相続について登記を要するものと解するは今日において学者の疑わざる所なり。ここのおいてか或る学者は死亡相続の場合には第１７７条に謂う所の第三者なるもの存在することなしと為し，この故に対抗要件として登記を要することなしと結論す。その理由に曰く，生存者間において譲渡あり相続ありたる場合においては譲渡人はなお生存するが故に更に第二の譲渡を為すの危険あり第三者はこれと取引を為すことあり得べしといえども，死亡相続についてはこの危険無きが故に登記の有無はわずかも第三者の利害に影響を及ぼすことなしと（１）。これ論者の積極的理由なり。論者また曰く，もし死亡相続について登記を必要とするものとせば甚だ不都合なる結果を生ずべし，即ち相続の登記以前における不動産の所有権は第三者に対する関係においては未だ相続人に移転せざることとなりしかもその他に権利者たるものなきが故に，その不動産は無主の不動産となりまず国庫に帰属するものと為さざるべからざる結果となるべしと（２）。これ論者の消極的理由なり。

　しかれども余は以上何れの点においても論者の説に従う能わず。その理由次のごとし。

　（一）　第一の点，即ち死亡相続の場合に本条所謂第三者なしと言うの点については論拠甚だ簡単なるが故に反駁もまた簡単に足れり。曰く，この場合にもまた第１７７条に所謂第三者なるもの存在し，しかして不動産登記の趣旨より考えてこの第三者を保護せざるべき何等の理由なしと。例えば不動産の賃借権者，地上権者，永小作権者，隣地の所有権者等は明にこれを第三者に加えて保護を与えざるべからず。これ等の第三者に対して所謂相続人が地代，小作料等を請求したる場合に地上権者等はその相続人の登記簿上における不動産所有権者にあらざることを理由としてこれを拒絶することを得ざるか，もしこれを拒絶するときは遅滞の責に任ずべきか，これ等の第三者は自己の責任において自己の費用を以てその相手方の果して不動産所有者なりや否や相続人なりや否やを審査せざるべかたざるか。余の信ずる所によればこれ等の第三者はその債務を真正なる権利者に対して弁済せざるときは二重弁済を為さざるべからざるの危険あるが故に真正なる権利者に対して弁済すべき正当なる利益を有する者なり。民法第１７７条はまたこのごとき第三者の利益をも保護するを得るものと解すること寧ろ大に好都合なる結果をもたらすものあらざるか（３）。

　（二）　論者の所謂消極的理由，即ち死亡相続に第１７７条を適用せば無主の不動産生じ，国庫に帰属すべしと言うの点については余はこれを第１７７条及び第２３９条の誤解なりと考ふ。第１７７条は登記無くば所有権の移転無しと言うにあらず，またその所有権の移転は第三者に対する関係において無効なりと言うにあらず，後にも述ぶるがごとく完全に絶対的効力を実現し得ざる特殊の所有権（他の物権についても同じ，仮に所有権のみについて論ず）を成立せしむるに過ぎざるなり。論者が第三者に対する関係においては所有権無きもののごとく論ずるは誤れり。次に第２３９条において民法が無主動産の先占を認め無主不動産の国庫帰属を規定せるはその物体たる物について他に法律上の保護に値すべき主体存在せざる場合において始めて適用せらるべきものにして，いやしくもその所有者だにあらば縦令その所有権が相対的所有権なりとするもその客体を目するに無主を以てすべきに非ず。これ先占と言い無主不動産の国庫帰属と言える法律制度の趣旨に鑑みて疑うべからざる所に属す。しかして本問の場合において相続人はその相続と同時に実体上不動産所有権を取得するものにして，ただ所謂対抗要件の関係上第三者においてその所有権の自己に対する行使を否認する抗弁権を有するのみ。しかしてこの抗弁権行使の結果もし不動産そのものが無主とならばまた論者の主張するがごとく国庫帰属の問題を生ずべしといえども，抗弁権行使の効果はただ所有権の効力を相対的に阻止するに過ぎず，決して不動産そのものを無主とするの結果を惹起せざるなり。故に余はこの理由によりて相殺未登記中の不動産は無主不動産にあらず，したがってまた無主不動産として国庫に帰属することなきものと信ず。

　上来述べたる所は更にこれを反面より考察することによりて一層明瞭ならしむることを得べし。相続登記未了中も相続人が第三者に対しては所有者たるの責に任ぜざるべからざることこれなり。例えば次のごとし。

　（a）　相隣者関係において相続人は未登記中といえども隣地の所有権の行使に基く自己の所有権の制限を認容せざるべからず。例えば通行，自然の排水等のごとし。

（b）　土地の工作物の所有に基く第７１７条の責任は登記未了の故を以てこれを免るることを得ず。

（c）　地上権者，永小作権者，地役権者等は登記未了に拘わらず相続人を以て所有権者として取扱うに何等の支障あることなし。

　以上例示せる場合において，これ等の隣地の所有者，地役権者，地上権者等が第三者に非ずというの説明及び不動産が無主なりと言うの説明は共に事実に反す。相続人所有者なりといえどもただ所有権をこれ等の第三者に対して行使するについて形式上の障碍あり，為めに第三者はその障碍の除去せらるるまで行使を阻止し得るものと解するの外あらざるなり。

２　論者曰く，無制限説は相続人の嚝缺せる相続財産が国庫に帰属する場合（民，１０５９条〔現行９５９条〕）において不都合なる結果を生ずと。果して如何。

　相続人の嚝缺せる相続財産が国庫に帰属したる場合においてその中の不動産は登記以前にありては第三者との関係においては国庫に属せず，また相続財産の法人格は一定の期間の経過と同時に消滅すべきが故に結局何人にも属せざる不動産の存在を認めざるべからざるの不都合を生ず，したがって国庫はこの相続財産に属する不動産の占有者に対して物上請求権に基き返還の請求を為すこと能わざる結果を生ずと（４）。これ論者の難ずる所なり。しかれども余はこの結果が不都合なる所以を解すること能わざる者なり。国庫はその不動産を取得したる後においてその取得の登記を為すことによりて不動産物権を何人に対しても主張するを得べく，即ち不動産占有者に対してもまた物上請求権に基きて返還請求を為すことを得ざるべからず。その登記未了の間においてはこの請求を為すことを得ざるは論者の言うがごとしといえども，これ敢て相続人嚝缺の場合に限りたる現象にあらず，登記未了中の不動産物権に共通なる現象なり。またこれを以て特にこの場合に限りて不都合なる結果を生ずるものと解すべき何等の理由をも発見し得ざるなり。もし論者の趣旨にしてこれに存せず，登記完了後においても占有者に対して返還請求を為し得ずと言うの点にあらば余はこれを誤解なりと信ず。けだし物上請求権の性質より見るも単にその請求当時においてのみ物権本来の内容と現在の事実との一致せざるを要するに止まるものなればその事実の発生したる当時，即ち本問について言えば占有の成立したる当時において物権的請求権の成立し権利の内容と事実との齟齬したることを必要とせざればなり。また登記を対抗要件とせる第１７７条より考ふるも既に述べたるがごとく未登記中は不動産所有権の無主となるにあらず，したがって登記完了後においては登記以前に不動産所有権の存在したることもまた主張し得ざるべからず。この関係は地代，小作料等がこの期間についてもまた支払われざるべからざるの点を見るも明なるべし。以上何れの点より見るも登記以後においては登記以前に占有を始めたる不動産占有者に対しても返還請求を為し得ざるべからず。

　論者の言う所と少しく異り，相続財産の法人格継続中においてはその法人に属する不動産物権を第三者に対して行使するの方法無しと論ずる者あらば，余もまたその不都合の結果なることを認めん。しかれども余はその方法無しとは解せざる者なり。けだし所謂相続財産の管理人は相続法人の法定代理人としてその財産について保存行為を為すことを許されたるが故に（民，１０５３条〔現行９５３条〕，２７条）その保存行為の一として不動産を相続法人の名義に登記せしむるを得べく（５），その登記を了したる後において第三者に対して不動産物権を行使し得べきなり。

３　論者曰く，未登記の新築家屋の所有者はその権利を以て第三者に体高し得ざるに至る，これまた無制限説の不都合なる結果なりと。果して如何。

　例えば甲が乙の所有地の賃借人としてその地上に家屋を新築し未だその登記を了せざるに先だち乙がその家屋を自己の所有名義に登記しこれを丙に譲渡し丙直ちにその登記を了したりとせば甲はその所有権を以て丙に対抗するを得ざるの結果となる，これ忍ぶべからざる不都合の結果なりと。これ論者の主張する所となり（６）。しかれども余はこの結果を以て忍ぶべからざる不都合なりと言うの理を解する能わず。寧ろ反対にもしこのごとき第三者に対して家屋の所有者たる甲が登記の手続をも完了することなくして直ちに家屋の返還を請求することを得ばこれ即ち不都合なる結果なりと言わんと欲す。何となればこれを第三者の方面より見れば登記に信頼して不動産所有権を取得したる者にしてその宜しく保護せざるべからざるは登記に信頼して土地の所有権を取得したる者と何等の選ぶべきものなければなり。その信頼したる登記が実体的法律関係の根拠を欠如せるが故に公信主義を採らざる我が国法の下においては終局は真正の所有者に返還を請求せらるるの外なしといえども，少くともその返還に際しては所謂真正なる所有者の何人なるかを登記簿によりて明にすることを得ざるべからず，また少くとも第三者に対抗するを得べき要件を具備したる所有権者に対してのみ返還義務を有するものと言わざるべからず。思うに論者がこの現象を以て忍ぶべからざる結果なりと断ずるは真正の所有者たる甲において丙より家屋の返還を請求すべき如何なる手段をも有せざるものと考えたるが故なるべし。もししかりとせばこれ誤解なり。我が国法は公信主義を採らず，登記に公信力を認めざるが故に丙は家屋の所有権を取得する者にあらず，乙もまたもとより保存登記によりて所有権を取得すべきの理なし，故に甲はその家屋の所有権の乙に属せざりし事実したがって丙に属せざる事実を判決によりて確定しこれによりて抹消登記をなし，次いで不動産登記法第１０６条によりて新に建物所有権の登記をなし，これにおいて始めて丙より家屋の返還を求むることを得べきものと信ず（７）。

４　無制限説に従えば債権者は当然第三者に包含せらる（８）。その既に差押を為したると未だこれを為さざるとを問わず。余は寧ろこの結果を以て理論に適しかつ便宜上また不都合を見ざる所なりと信ぜんとす。その正当の利益を云々する論者は第三者について区別をなし，一般の債権者は第三者に包含せられず差押を為したる第三者のみこれに包含せらるるものと解するなり（９）。余は常に論者が実体法上如何なる論拠によりてこのごとき区別をなすかを解するに苦しめる者なり。けだし我が民事訴訟法上差押がその物体の上に質権を設定することなくまた何等実体法上の法律関係を成立せしむることなきは学者の争わざる所なり。果してしからば実体法上の法律関係においては差押の前後によりて区別を設くることなきを以て正当とするものと言わざるべからず。

　しかれども不動産譲受人等は絶対にその権利を以て債権者に得ざるに非ず。登記の手続を了したる後においてはその不動産物権を以て一般の債権者は勿論，差押を為したる債権者にも対抗し得るなり。その債権者が不動産譲渡後登記前に登記簿に信頼して譲渡人をなお権利者なりと信じこれより債権を取得しまたは差押を為したるも何等妨あることなし。この結論の正しきことは債権者が単に債権を取得しまたは差押を為したるのみならずして更に進んで物権を取得しまたは強制執行により不動産物権を取得したる場合においてもその物権取得を登記するに先ちて第一の譲受人が登記を為すときは第一譲受人が第二譲受人に優先することによりて明瞭なるべし。

５　無制限説に対する最大の非難は不法行為者をも第三者に包含せしむるの外なしと言うの点にあり。これ多数の疑問伏在せる極めて重大なる問題なるが故にまず他の無制限論者の弁護とこれに対する反駁とを掲げ，最後に余の見解を述べんとす。

　第三者が不法行為を為したる場合とは例えば甲が乙にその所有の既登記の土地を譲渡し乙未だその移転登記を為さざるに先だち丙がその土地を故意または過失によりて毀損したる場合，或は甲が既登記の建物を乙に譲渡しその登記前に丙がこれを故意または過失にて滅失または毀損したる場合，或は甲の未登記の建物を丙が毀滅したる場合，或は甲その所有せる未登記の建物を乙に移転しその登記前に丙これを毀滅したる場合のごときこれなり。これ等の場合において不動産物権者は登記なきが故に不法行為者に対して損害賠償請求権を有せざるか。石坂博士はその論文「債権は第三者に依りて侵害せらるるを得るや」においてこの問題を説明して，第三者に対しては譲渡人なお所有者なるが故に譲渡人は不法行為者に対して損害賠償請求権を有し，しかして譲渡人がこの請求権を有するは譲受人の所有権に基くものなれば，譲受人は不当利得の訴権に基き請求権の移転または賠償額の償還を請求し得べきものとなせり（１０）。富井博士及び横田博士はこの点において何等の説明を加ふることなきも全然不法行為の成立を認めざるの趣旨にあらざるは明なるが故に恐らくは同一の解釈を採るものなるべし。

　乾博士は石坂博士の如上の説を難じて次の四点を挙げたり。（一）譲受人乙が譲渡人甲に対し甲の有する損害賠償請求権の移転を請求する権利を有すると乙自身その請求権を有するとは結果において差異あり，後者に非ざれば保護を全うせず，（二）死亡による相続の場合にはここに所謂甲なるものは既に死亡せるが故に存在せず，故にまず甲に対する不法行為成立し乙これが移転の請求権を有するものと解し難し，（三）相続人嚝缺により国庫が不動産の所有権を取得したる場合また同じ，（四）新築家屋の登記以前においてその家屋を毀損滅失したる不法行為に対してもまたここに所謂甲という前権利者は発見することを得ずと（１１）。余は大体においてこの駁論の正鵠を得たるものなることを信ず。加の基本の問題として譲渡人に対する不法行為の成立を認むることを得るや否やがまた疑問なるべし，けだし我が民法は登記無くば第三者に対して効力なしとするに非ずして単に対抗するを得ずと言うに止まるが故に，第三者に対する関係においては譲受人は権利者に非ず譲渡人が権利者なりと明瞭に断定することを得ざるが故なり。この基本問題は対抗の意義に関する見解によりて決定せらるる所なるが故に暫くこれを措くとするも，石坂氏の救済方法にては死亡相続及び未登記不動産について救済の実を挙げ得ざること明瞭なりと言うべし。

　余の見解を述ぶるに先だちてなお一の論ずべきものあり。論者は不法行為者たる第三者に対して登記を要することを以て当然に不当なる結果なりとなし，これを以て殆んど自明の理なりとなすがごとしといえども，これ或は不法行為と犯罪とを同視し不法行為者を以て当然法律上憎むべき者なりと断ずる旧時の思想に囚わるるものにあらざるか。刑事責任及び民事責任の分化したる今日においては民法上の不法行為はもとより犯罪の鎮圧を目的とするものに非ずして単に客観的に存在する（被害者の主観的損害を加えざるの意義にあらず，加害者以外に存するの意義なり）損害の填補を目的とするに過ぎず，されば故意と過失とについて責任の範囲を区別せざるなり。その過失による不法行為者のごときは常に憎むべき者には非ずして却って往々憐れむべき者なることを注意せざるべからず。されば不法行為者もまたその債務を履行するについては正当に保護せらるべき利益を有すと論ずるも何等不法行為の本体に反する所あらざるなり。

　余は不動産物権者が登記なくして不法行為者に対し損害賠償請求権を行使し得るものとせば却って不都合なる結果を生ずることあるべきものと信ず。その第一の場合は不動産登記簿により権利者を明にするを得ざるが故に請求者の果して不動産物権者なりや否やを明にするを得ざる場合これなり。もし不動産物権者ならざる請求者に対して債務を弁済すれば債務者は二重に弁済を為さざるべからず。その第二の場合は請求者が不動産物権者にはあれど登記を了せざる物権者なるが為めにこれに対する弁済が後に至りて無効となる場合これなり。この結果は不動産の二重譲渡ありたる場合に生ず，即ち第一の譲受人が不法行為者に対して賠償金の支払を請求したる場合に論者の説に従えば不法行為者は登記未了に拘わらず支払の義務を有す，しかるに爾後第二の譲渡ありかつ第二の譲受人が第一譲受人に先だちて登記を了したりとせば第二譲受人は譲渡人より直接に権利を承継したることとなるの結果第一譲受人は始めより権利を取得せざることとなり，したがって第一譲受人に対して為したる第三者の弁済もまた無効となるものと解せざるべからず。

　余の信ずる所に依れば不法行為は登記の有無に拘わらず実質上の権利者に対して成立す。しかれども登記無くんば権利者は不法行為による損害賠償請求権を以て不法行為者に対抗することを得ず，即ち不法行為者は登記完了まで請求を拒絶する抗弁権を有するを原則とす。今少しくこれを詳論せん。

　登記の有無に拘わらず不法行為の成立するものと解せざるべからざるはけだし何人も疑わざる所なるべし。解釈はまた理論上の根拠を有す。けだし不法行為の要件として他人の権利を侵害したることを要し，かつ侵害せられたる権利の他人に属することを加害者の知りまたは知るべかりしこと（故意または過失）を要すといえども，その権利の他人に属すというは単に加害者以外の人に属することを要するに止まり，また他人に属することを知ると言うもまた単に加害者以外の人に属することを知りまたは知り得べかりしことを要するのみにしてその甲に属するや乙に属するやは全然何等の関係をも有せざるなり。故に登記簿上甲の権利として登記せらるるや乙の権利として登記せらるるや将た全然未登記なるやは不法行為の成立には何等関係なしと解せざるべからざるなり。未登記の場合は或は多少の疑点を挿むべきがごとしといえども，不動産は無主となりたる瞬間において何等の手続をも要せずして国庫に帰属するものにしてしたがって事実上所有者無き状態を生じ得ざるが故にまた同一に解せざるべからざるなり。

　不法行為の成立すべきこと既に疑なしとせばその不法行為は何人に対して成立するや。登記簿上の権利者に対して成立するや将た実質上の権利者に対して成立するや。余は実質上の権利者に対して成立するものと解す。けだし前段所論のごとく未登記不動産については全然登記無きに拘わらず不法行為の成立を認むべきものとせば，既登記不動産についてもまた登記に関係無くして不法行為の成立を認めざるべからざるが故なり。

　以上のごとく不法行為の成立そのものについては登記は対抗要件にあらずと解すべしといえども，これ偶々不法行為の性質より生ずる結果にして，既に不法行為の成立しこれによりて生じたる債務を弁済するについては不法行為より生じたる債務の債務者といえどもまた普通の債務者と同じく第三者として民法第１７７条の保護を受くべきものとせざるべからず。けだし不法行為より生じたる債務の債務者といえどもその債務を真正なる権利者に支払うことについては正当なる利益を有すること普通の債務者と異なる所なきのみならず，我が民法債権編全般の構成より論ずるも債権債務はその発生原因の如何に拘わらず同一の効力を有するを以て原則となせるが故なり（１２）。即ち不法行為上の損害賠償請求権を行使するについては不動産物権者は登記の手続を了したることを必要とすべく，もしこれをろ了せざるにおいては債務者は請求を拒絶する抗弁権を有するなり（１３）。

　しかれども不法行為の場合には不法行為の性質上前段の所論にまた一の制限を加ふるの必要を見る。これ不法行為によりて登記を不能ならしめたる場合これなり。土地については不法行為によりて土地を全滅せしむること殆んど絶無なるべきが故に不法行為の結果登記を為す能わざる場合を生ずること極めて稀なるべしといえども，建物については焼失の場合等において不動産は全滅すべくしかして不動産登記法第１０６条の保存登記には建物の存在を必要とすること勿論なるが故にこのごとき場合には登記不能なりと言わざるべからず。しからば権利者は遂に不法行為上の損害賠償請求権を不法行為者に対抗することを得ざるか。曰くしからず，不動産登記法第４条に曰く「詐欺又は強迫に因りて登記の申請を妨げたる第三者は登記の欠缺を主張することを得ず」と。本問の場合はこの条文に直接に該当するものにあらずといえども不法行為のよりて登記を不能ならしめたるものなり，このごとき第三者をして登記の欠缺を主張するを得ざらしむるは我が第１７７条及び不動産登記法の趣旨に合すること疑なきが故に，余は不動産登記法第４条の拡張的解釈によりて第１７７条を制限しこの場合には例外として登記なくして損害賠償請求権を対抗し得べきものと解す。＊

　無制限説に対する直接の非難は以上に尽きたり。しかして余はその各個の非難に対して無制限説を弁護し，この説の理論上正当にして文理解釈上妥当なるのみならず実際の結果においてもまたその制限説に優ること万々なるを論証し得たりと信ず。ただここに附説としてなお一の論ずべきものあり，次に簡単にこれを論じて本項を終わらんと欲す。

　＊更に他の点よりこれを考ふれば第三者が自己の故意または過失によりて対抗要件の成立（登記または引渡）を不能ならしめたるに拘わらず偶々その不能となりたることを理由として不動産物権の移転を否認するは信義の原則に反し否認権の濫用たること明なるが故にこれを許さず，従って譲受人はこのごとき原則によりて対抗要件具らざるもなおその賠償請求権を対抗し得べきものとす。これによりて動産物権譲渡の場合についても不動産物権移転の場合と同一に論ずる事を得べし。

６　悪意の第三者に対して民法第１７７条を適用するは刑法との関係において不当なりとする説あり。近時岡村玄治氏は主として制限説に対し第１７７条に謂う所の第三者を解して「登記の欠陥を主張するに付て正当なる利益を有する者」と解するに拘わらず悪意の第三者もまた正当なる利益を有するものとするの点を攻撃せり（１４）。その論旨は無制限説に対してもまた同一なるべきもの二三あるが故にここに簡単にこれに対する弁明を試みんとす。

　論者曰く，物権の設定及び移転は当事者の意思表示のみによりてその効力を生ずるが故に，例えば甲がその不動産所有権を乙に譲渡したるときはその譲渡の瞬間において甲は最早所有権者に非ず，故に甲の所有者にあらざることを知れる丙と甲とがその所有権を現に甲に存在するものとして甲より丙に移転するの合意をなすことは事物の性質上有り得べからざることに属し，その譲渡の契約は民法第９４条に所謂相手方と通じて為したる虚偽の意思表示に外ならざるを以て当然無効たるべしと。しかれども甲が所有権を有せざることは一の客観的事実にして丙がこれについて認識を有するのみにては果して如何なる意思を以て譲渡行為を為したりやこれを決定することを得べきの理なし，これをもって常に虚偽表示なるべしと言うは誤なり。例えば丙は甲乙間に第一の譲渡ありたることを知れるもこれと同時に未だ登記なきことを知れるが故に自ら甲より所有権を譲受くるを得るものと信じて第二の譲渡行為を為すことあるべきなり。ただもし第二の譲渡行為は無効たるべしと誤信し真意にあらずして単に形式上譲渡行為を為したるときは虚偽表示たるべしといえども，このごときは寧ろ稀有なる例外と言わざるべからず。

　論者曰く，動産または不動産を譲渡して未だその引渡または登記を為さざるに先だち更にこれを第三者に譲渡する行為は刑法上横領罪を構成すべきものなり，故に第三者が悪意にてこれに加担するは横領罪の共犯を以て論ずべく，このごとき第三者を以てなお登記の欠缺を主張するにつき正当なる利益を有すと解するは誤なりと。この非難は所謂制限説の内容に関するものにして無制限説には直接関係なしといえども論者の趣旨はこのごとき第三者を民法上保護するを以て一般に不当なるものとするに在るべく，この点において無制限説に対してもまた反対するものと解すべし。しかれども無制限説に対する非難としては有力なりと言うこと能わず。けだし刑法上罰すべき行為にしてしかも民法上有効なるものはこの場合に限りたる現象にあらず（１５）。民刑二法その目的を異にするが故に相互に矛盾することなくしてその効果を異にするを得べし。本問の場合においては悪意の第三者の行為が民法上また不法行為を構成するときは不法行為上の損害賠償請求権を生ずべくその結果として所有権の再移転を為さしむることを得べしといえども，一旦は所有権移転の事実を認めざるべからず，もししからずとせば既に登記を了したる第三者の権利もその善意なりしかによりて左右せらるることとなり，その第三者が更に所有権を移転したる場合等において取引の安全を撹乱すること少なからざるに至るべし。

（１）　横田秀雄氏物権法６３頁以下。乾政彦氏は畢竟横田氏と同趣旨なれど，その按出せる統一的標準により，登記の欠缺を主張するによりて自己の権利の存在または無制限を認めらるべき地位にある者即ち第三者なるものなきが故に死亡相続の場合には第１７７条の適用なしとす，乾政彦氏前掲論文２９頁。また中島玉吉氏（民法釈義１７７条）は結論においては死亡相続について登記を必要とする説を採るもその理由は第三者保護のためには非ずして権利者の権利保護の為めなりとす，その第１７７条に所謂第三者なるものの存在せずとするに至りては前二者に同じ。

（２）　乾氏前掲９頁の引用による。乾氏自身は国庫もまた登記を為さずしてその取得を以て第三者に対抗するを得ざるが故に，何人にも属せざる従ってまた国庫にも属せざる無主の不動産を認めざるべからざるに至るべしとなす，前掲１０，１１頁。

（３）　論者の頭脳には仏独において死亡相続の場合に登記を要せずということが先入主となれるに非ざるか。しかれども仏の登記法の範とするに足らざるは既にこれを詳述せるがごとし。独逸法の相続に関する規定はその Erbschein に関する規定もあり，独法にては登記を成立要件となせる関係もあり，また以て範となすことを得ず。殊に上述の第三者が保護を要することについては却って独逸民法を引いて援けとなすを得べし。即ち独逸法において公信主義によりて保護を受くべき第三者の第二種を規定したる第８９３条はこれ等の第三者をも包含するものと解せざるべからざるなり。即ち同条には「不動産登記簿に登記せられたる権利に付て其権利に基き其権利者に対して給付を為したる第三者」は前条と同じく登記の公信力によりて保護を受くべきものとなせり。この条文の解釈については独逸法上争いなきにあらず。例えば賃借人が登記簿上の所有者に賃借料を支払たるときについては議論岐る，即ち一部の論者はこれが所有権者即ち物権者たる資格において支払を受けたるに非ずして債権者たる資格においてするものなりと論ずるなり（Endemann,B.R.§62 S.378;Planck,Komm.zu§893;Biermann,Komm.§892�V.Aufl.等，反対 Biermann,２版，Kober,zu§893; Goldmann-Lilienthal,§44等）。しかれども登記を経たる物権者に対し債務者たる資格において第三者が給付を為したるときはこのごとき第三者が登記の公信力によりて保護せらるべきはこれを疑う者なし。本文に掲げたる永小作権者，地上権者の場合は即ちこれなり。また以てこれ等の第三者が登記簿によりて保護を受くべきものなるを見るべし。

（４）　乾氏前掲１９頁。

（５）　我が不動産登記法にはこの点に関する明文を欠くが故に解釈上疑問なり。しかれども我が民法の相続人嚝缺に関する規定は頗る不備なるが故に類推解釈によりてこれを補充せざるべからず。しかしてもし登記を為すの手続なしということとせば相続法人の存続し得べき約１年半余の期間内不動産の所有者はこれを不動産登記簿によりて明瞭ならしむることを得ざる結果となり頗る不都合なる結果を生ずるものといわざるべからず。しかもなお論者の言うがごとく登記簿に記載せられざる人（相続法人及びその管理人）をして第三者に対してもその不動産物権を行使し得しむべきものとせば他物権者，不動産占有者等は登記簿によることなくしてこれ等の管理人等が果して管理人なりや，相続人は果して嚝缺せりや等の事実を探索せざるべからざるの結果とならん。余はこれを以て我が国法の登記主義に著しく背反したる解釈なりと信ず。すなわち不動産登記法２７条，４１条を準用し，裁判所による相続財産管理人選任の書面を添付して不動産を相続法人の名義に書き替ふることを得しむべきものと解するなり。

（６）　乾氏前掲２３頁。

（７）　建物登記に関する我が登記法の規定は頗る不備なり。建物台帳なるものなくして事実上果して建物の存在するや否や，またもし存在するとするも果して登記申請書に記載する所と一致するや否やを審査すべき方法なきはその不備の一なり（岡松参太郎氏不動産登記法２２頁乃至２５頁）。登記建物の保存登記に要する手続簡に失してその申請者の果して建物の所有者なりや否やを審査し能わざることその二なり。したがって建物に関する登記に関し紛議を生ずること頻々たるは怪しむに足らざるなり。この事情の下において所有者にあらざる者が自己の名義に保存登記をなしたる場合に対しては真の所有者を保護するの手段を構ぜざるべからず。その一は抗告なり。その二は登記抹消と新なる保存登記の申請とこれなり。抗告は新なる事実及び新なる証拠方法を要せざる場合に限る（不動産登記法１５２条〔削除〕）も抹消についてはこのごとき制限なし。しかして抹消登記によりて損害を受くべき者即ち登記義務者がその抹消登記に同意せざる場合においては判決によりて所有権の彼に属せざる事実を確認せしめざるべからず。或は曰わん，このごとく丙の所有権の登記抹消を申請するもまた乙の所有権の対抗に外ならず乙の所有権にして第三者丙に対抗し得ざるものとせば登記抹消もまたこれを求むることを得ざるなりと。非なり，登記抹消は乙が所有者にあらざる事実，したがって乙丙間の所有権譲渡が無効なる事実，即ち登記原因の無効なる事実を理由とするものにして直接に所有権の甲に属することを理由とするものにあらざるなり。例えば一番抵当権の抹消登記は債務者に対する無担保の債権者もまた登記権利者としてこれを請求するを得るがごとし（同説梅謙次郎氏法学大家論集上巻６６０頁）。この場合にこの債権者の債権が抵当権者に対抗し得べき権利なりとは何人も論ぜざるべし。

（８）　同説，富井氏等無制限説を採る者及び乾氏前掲２５頁，反対，大審院判決，明治４１年１２月１５日及び明治４３年１月２０日。

（９）　前掲判例，反対，岡村玄治氏「民法第１７７条に所謂第三者の意義を論じ，債権の不可侵性排他性に及ぶ」法学志林１７巻６号。因に言う，岡村氏の論文は大正４年６月２０日に発表せられたるものなれば本論前段においては全く参照せず。議論の出発点は余輩と大に異り，第三者を「登記欠缺を主張するに付て正当なる利益を有する者」と解するを当然の事理となして，何人がこの正当なる利益を有するか論ぜるものなり。その大なる誤解は第１７７条を以て動産に関する第１９２条に対比し，二重譲渡の場合における第二譲受人の権利取得を原始的取得としたるの点にあり。もとよりこの場合の法律関係は頗る複雑にして理論的に解釈すること困難なれど，少くとも原始的取得説の誤れるは明なり。譲渡人が始より権利者に非ざりし場合を考ふれば明瞭ならん。岡村氏は第１７７条を以て公信主義に基けるものと解したるものにしてその誤解なるは公示主義と公信主義とを比較して研究すれば明白なり。されど巧に判例を利用したる点において参考に供するに足る。またもし正当なる利益云々の制限説を前提とせば悪意の第三者を除外すべしと言うは至当の見解なりと言うべし。

（１０）　石坂音四郎氏，民法研究１６２頁。

（１１）　乾政彦氏前掲論文１９頁以下。

（１２）　この事は民法が債権編において第１章にまず総則を置き第２章以下に債権発生の各種の原因を規定したるの点及び不法行為上の債務について第５０９条の特則を規定したるの点によりて明なり。

（１３）　このごとく第１７７条の適用について権利成立に関する対抗要件と請求権行使に関する対抗要件とを区別するは学者の未だ称えたることなき新なる解釈なりといえども，不法行為の場合に限りて余はこのごとく解するにあらず，地上権，永小作権等の物権及び賃借権を有する第三者についても同様に解するは嘗て述べたるがごとし。これ等の第三者に対して地代または小作料を請求する権利そのものは譲渡登記，相続登記の有無に拘わらず引続き成立するものなり。未登記中の地代または小作料は支払うことを要せずと言うがごときは背理の甚しきものなり。しかれどもこれ等の請求権を行使するについては登記を了したることを要するなり（本項１（一）参照）。

（１４）　岡村玄治氏前掲論文。

（１５）　一例を挙ぐれば債務取立の為めに信託的に甲より債権を受けたる乙が情を知れる第三者丙と共にその債権を丙に譲渡したる場合のごとし。刑法上背任罪及びその共犯となるも，民法上債権譲渡そのものは有効なり。

第４節　公信主義に赴くべきか

第１項　独逸における公信主義の要領

　我国において公信主義を採用すべきや否やの問題を論ずる前提としてここに独逸法における公信主義の要領を述べんとす。

１　不動産登記簿の公信に関する独逸民法の条文は左の２条なり（１）。

　第８９２条　　土地登記簿の内容は土地上の権利又は土地上の権利を目的とする権利を法律行為に因りて取得せるものの為めに真正なるものと看做す。但し其真正なることに対する異議が登記せられ又は其真正ならざることが取得者に知れたるときは此限に在らず。土地登記簿に登記せられたる権利に付て権利者が一定の者の為めに其処分権を制限せらるるときは其制限は土地登記簿によりて明なるか又は取得者に知れたるときに限り取得者に対して其効力を有す（２項略）。

　第８９３条　　土地登記簿に登記せられたる権利の権利者に対し此権利に基きて或る給付の為されたるとき又は此権利に付きて権利者と他人との間に第８９２条の規定に属せざる処分行為の為されたるときは第８９２条の規定を準用す。

２　公信力を生ずるが為めには左の要件の備われることを必要とす。

（一）　土地の権利関係に関する登記簿の記載が真正ならざることを要す。即ち所有権または登記能力ある制限物権または土地上の権利を目的とする権利または登記能力ある処分の制限に関する記載が真正ならざることを要す。これに反して土地の事実上の権利について真正ならざる記載あるも公信力を生ずることなし。

（二）　登記せられたる権利について処分行為の為されたることを要す。その処分行為の主要なるものは法律がこれを挙げたり。即ちその第一種は物権の設定，移転を目的とする行為これなり。例えば抵当権の登記が不当に抹消せられたる場合に土地所有権を善意にて譲受たる者あるときはその譲受人は完全なる所有権を取得するがごとし。この点において注意を要するはこれ等の物権取得者が登記簿の公信力によりて保護を受くるが為めには原則としてはまた自らその登記を了したることを必要とすることこれなり。これ独逸法においてはこの登記を了したる後に非ざれば物権を取得することなきが故に法文には明文なきも疑を容れざるなり（２）。その第二種は登記上の権利者に対し登記せられたる権利に基きて為されたる給付行為これなり。例えば抵当権の譲渡なきに拘わらず譲渡の登記ありたる場合においてその譲受人に対して為されたる利息の支払及び元本債務の弁済は共に有効なるがごとし。この他以上二種に属せざる処分行為についてまた同じ。

　公信力によりて保護を受くるものは処分行為に限る。したがって第一に債権行為は保護を受くることなし。第二に法律行為にあらざる処分もまた保護を受くることなし，したがって権利の移転または取得が法律の規定に基きまたは強制執行に基く場合においては公信主義の適用なし。余は嘗て公信主義が取引の安全の保護のみを目的とする制度なりと言えり。独逸民法が公信主義の適用を処分行為に限りたるはこの点において正当なりというべし。

（三）　取得者の善意なることを要す。上に述べたる第二種の処分行為については給付行為を為したる者の善意なることを要す。余は嘗て公信主義が理論上善意の取引を保護することのみを目的とせざるべからずと言えり。独逸法のこの制度はこの点において理論上正当なりと言うべし。この点より見るも我が民法第１７７条を或は公信主義によりて解せんとするはその誤れること言を俟たず。

（四）　善意は土地登記簿の登記に基けることを要せず。善意が土地登記簿の登記に基けることを要するや否やについては独逸民法は明文の規定を置くことなし。スイス民法は明瞭にこれを必要とする旨を規定せり。今独逸民法について詳論するを避く可しと言えども独逸の学者はこれを必要とせざるものと解るを常とす（３）。公信主義の精神より言うときは積極説を採るべきに似たりといえども，独逸民法が単に当該の登記に対して異議の登記せられたる場合のみを挙げてこれを悪意の場合と同一に取扱いその他の場合については取得者の無過失たることを必要とせず，また動産に関する善意取得の場合と異り重過失を以て悪意と同一視すること無きが故に（独民９３２条２項）消極説を採るの外なかるべし。これ或は学者の難ずる所にして公信主義の精神に反するものなるは疑を容れず（４）。

（五）　公信力の要件は以上に尽きたり。殊に登記の真正ならざる理由の如何は全くこれを問うことなし。故に原因主義によりて不動産登記の公信主義を説明し得べきものと解するマイヤー氏の見解は誤れるものと言うべし（５）。例えば甲が錯誤によりて乙にその土地を譲渡し乙土地所有者として登記せられ後に甲がその所有権譲渡行為を錯誤の理由によりて取消したりとせば登記の不真正は甲の行為に原因するものと言うを得べし。しかれども公信主義はこのごとき場合のみに適用あるに非ず。例えば乙が偽造の証書等によりて自ら登記簿上の権利者甲なりと偽りその土地を丙に譲渡し，丙が更にこれを善意なる丁に譲渡せるときは丁は所有権を取得すべし。この場合において丙が所有者として登記せらるるに至りたることについては甲は原因を与えたるものと言うを得ざること明なり。

３　公信力の内容は登記せられたる所を以て真正なるものと看做すことこれなり。故に処分行為は有効となり従って第三者は完全に権利を取得すべく，また実質上の権利者はこれによりて権利を喪失しまたは権利の制限を受くべし。その法律上の構成に関する議論即ち原始取得なりや承継取得なりやの論は本論に関係なければ特にこれを避く。

（１）　スイス民法もまた公信主義に属す。

　　第９７３条　善意にて土地登記簿の登記の信頼し之に基きて所有権又は其他の物権を取得せる者は其取得を保護せらる。

　　第９７４条　物権の登記が正当ならざる場合において其瑕疵を知り又は知るべかりし第三者は登記を援用することを得ず。正当ならざる登記とは法律上の原因なく又は有効ならざる法律行為に基きて為されたる登記を言ふ。此の如き登記に依りて物権の侵害を受けたる者は直接に悪意の第三者に対して登記の瑕疵を援用することを得。

（２）　証券附抵当権（Briefhypothek）については特則あり，１１５４条，１１４０条。

（３）　Wolff,Lehrb.d.B.R.,Sachenrecht.1913 S.126;Biermann,Komm.zu§892 BGB.3 Aufl.S.121;Staudinger-Kober,Komm.zu§892 BGB.S.193;Goldmann-Lilienthal §44 Anm.41.これに反して独逸大審院の判決は積極的に土地登記簿に信頼したることを必要とせり RGE.61,202.同説Freymuth,DJZ.17(1912)1277.

（４）　登記簿を閲覧することなくして法律行為を為したる第三者もまた保護を受くるの結果となる。これ独逸民法が善意の証明を要せざることを規定せんと欲して為めに公信主義の趣旨を没却したるものなり。Wellspacher,Vertrauen auf äussere Tatbestände もまたこれを難ず。

（５）　Herb.Meyer,Publizitätsprinzip,S.49 ff.Dazu Wolff,a.a.O.S.127.

第２項　公信主義を採るべきか

１　一派の学者は公信主義を以て理論上当然に公示主義に優りたる主義となし，我が国においてこれを採用し得ざるは偏に事実上の障碍あるが為めなりと考ふるがごとし。台湾民事令において公信主義を採らんとする論者は或はこのごとき思想に支配せらるるものに非ざるか。しかれども余はこの種の論者のごとく公信主義を謳歌すること能わざるなり。けだし公信主義なるものは進歩したる主義に相違なしといえども，所謂進歩したる主義は進歩したる社会に適用して始めて利益あり，これを進歩せざる社会に適用せば却って弊害の恐るべきもの無きに非ざればなり。余の考ふる所によれば絶対的なる公信主義は不動産物権の静的安全に少からざる損害を加ふるものにして不動産物権者をして不慮の損害を被らしむるものなるが故に，理論上何れの社会にも適応すべき理想的なる制度には非ずして単に不動産に関する取引が経済上極めて重要なる意義を有しかる人民皆登記の制度に慣れて登記が事実上公信の基礎を為せる社会においてのみこれを採用して利益ある制度なりとす。この点より考ふるときは取引の比較的繁盛ならざる台湾において日本内地と異り特に公信主義を採らんとするは或は倒行逆施と言うべきには非ざるか。もし画一主義を採らざるにおいては余は寧ろまず都市について公信主義を採るの説に左袒せんと欲す。

２　余は相対的公信主義を以て理論上正当にしてまた我が国においても実際上実行に適するものなりと信じ，これを我が民法において採用すべきことを主張せんと欲す。今少しくこれを説かざるべからず。

　凡そ登記の真正ならざる場合においてこれを動的方面即ち不動産取得者等の方面より観察すればその如何なる原因によりて真正ならざるかの理由は全く関係なき問題なりといえども，これを静的方面即ち不動産所有者等の方面より観察すれば如何なる理由によりて登記の真正ならざるかの事情は極めて重大なる関係を有す。今この理由を大別すれば二となすを得べし。その一は実質上の権利者の行為に関係なくして真正ならざる登記の生じたる場合これなり。例えば他人が権利者なりと偽りて保存登記を為し，または他人が偽造の証書を提出して登記の変更を為したる場合のごとし。この場合においては登記の誤謬について実質上の権利者に過失なきは勿論，権利者の行為と登記の誤謬との間には実に原因結果の関係もまた存在せざるなり。その二は実質上の権利者と登記の誤謬との間に原因結果の関係の存する場合にして例えば登記原因たる法律行為が無能力または強迫の瑕疵の為めに取消され，または重大なる錯誤の為めに無効たり，或は代理権踰越の為めに無権代理行為として効力なき場合のごとし（１）。余の考ふる所によれば以上二種の内第一種の場合において登記に公信力を与ふるときは不動産所有者は全く自己の関与せざる事件の為めに不慮の損害を受くるの結果となり静的安全を害すること極めて甚しきが故に不動産取引の実際的需要が極めて強くこれを要求するに非ざれば寧ろ弊害多くして利益少しといえども，その第二種の場合についてのみこれを採用するは静的安全を害すること比較的甚しからざるが故に一般の社会にこれを応用して多く支障なかるべしと信ず。これ余が相対的公信主義と命名せんと欲する制度にして，動産取引に関する我が民法第１９２条が盗品遺失物を例外とし，独逸民法第９３２条が，その他所謂abhanden gekommene Sachen を例外とせる趣旨を敷衍し，その無過失責任論における原因主義（VerursachungstheorieまたはVeranlassungsprinzip）の一部を採用して考案したるものなり。しかしてこの主義に従うときは後に述ぶるがごとく実質的審査主義を採用する必要なきが故に公信主義を採用するについて学者に恐るる実行上の障碍もまた殆んどこれを憂ふるの要なきなり。

３　仏蘭西において既に久しく不動産登記制度改良の企図せらるるは普く人の知る所なり。しかしてその欠点多き現行制度を改めて不動産物権公示の実を挙げんが為めには人的帳簿主義（Prinzip des Personalfoliums）を改めて物的帳簿主義（Prinzip des Realfoliums）を採るの要あり，またその前提としては土地台帳改正の大事業あり。これ等の事業は数億の巨資を必要とするを以て仏蘭西における登記法改正の事業は実はこの事実上の障碍の為めに進行を妨害せらるるの状態にあり（２）。我が国においては既に物的帳簿主義を採用し一筆の土地に一用紙を用ふるが故に仏蘭西におけると全然同一なる事実上の障碍なきことは明瞭なりといえども，なお公信主義を採らんが為めには巨額の国費を必要とすべく，これ実に公信主義を採用するについて最大なる難関なりと考ふる者多し。今その詳細を論ずることを得ずといえども，余の考ふる所によれば謂う所の事実上の障碍もまた必ずしも打破し難きものに非ざるがごとし。按ずるに我が国において公信主義を採用するについて事実上の障碍たるべき事実二あるがごとし。その一は登記強制主義を採用するの困難にして，その二は実質的審査主義を採用するの困難これなり。今この二者について果して公信主義の実行を妨ぐるものなりや否やを考究せんと欲す（３）。

４　独逸民法は絶対的公信主義と登記強制主義とを併せて採用せり。もし我が国法上公信主義を採用するに当りて当然また登記強制主義を採用せざるべからずとせばその我が国情に適するや否やの問題及び建物についてこれを実行し得ざるの点は暫く措いてこれを問わずとするも少くとも国費の著しき膨張を見るは疑なかるべし。しかれども余は必ずしも独逸の主義に則ることを要せず，登記強制主義を採用せざるもなお公信主義を採ることを得べきものと信ず。もとより不動産物権公示主義の理想とする所は一切の不動産に関する一切の法律関係を登記によりて明瞭ならしむるに在り，未登記不動産の存在を許容するはこの理想を実現するものに非ずといえども，未登記不動産は暫くこれを後日に譲りまず既登記不動産のみについてその登記に公信力を与ふるも敢て支障なきものと考ふ。けだし今日においてなお幾何の未登記不動産の存するやは頗る不明にして余の微力なる何等統計のこれを証すべきものを発見し得ずといえども（４），一旦取引の目的となりたる不動産，換言すれば譲渡，抵当等の目的となりたる不動産については常に登記を了したりといふは信用すべき当局者の意見にして，また不動産登記法と土地台帳との関係上推測するに難からざる所なり（５）。故に今日なお未登記として存する不動産は取引に関係なき不動産にして，かつこれ等の不動産が将来において取引の目的となるに当りてはまた直ちに登記せらるるものと言ふを得べし。

　公信主義は不動産取引の安全を保護することを以てその唯一の目的とするものなり。故に一般の不動産についてこれを認むることなく単に取引の目的なるべき不動産についてこれをこれを認むるも敢て理において誤れることなく，また実際上何等弊害の生ずべきことを考ふること能わず。これ余が我が国における上述の事情の下においては登記強制主義を離れて公信主義を採用すべしと主張する所以なり（６）。

５　独逸民法は実質的審査主義を採り登記官吏をして登記の申請が形式上の要件を備ふるのみならず実質上また正当なるや否やを審査せしむるが故に登記と実質上の法律関係との齟齬すること頻繁ならず，為めに公信主義を採用するも実質上の権利者が損害を受くること稀なりとは独逸民法草案理由書の説く所にして（７），学者はまた常に公信主義と実質的審査主義と相離るべからざるものなることを論ず。もし我が国において公信主義を採るに当りまたこの実質的審査主義を併せて採用せざるべからずとせば実行上極めて困難なること疑なし。しかれども余はこれを以て所謂絶対的公信主義に伴う実行上の困難にしてもし相対的公信主義を以て満足するにおいては必ずしも実質的審査主義を採るの要なきを主張せんとす。その最も明瞭なるは登記原因が無能力または強迫の瑕疵を帯ぶる場合これなり。この場合においては縦令独逸法のごとく実質的審査主義を採り登記官吏が無能力または強迫の瑕疵を発見するも，これ等の瑕疵は唯意思表示を取消し得べきものとなすに止まるを以てその取消あるまでは法律行為を有効なりとして取扱はざるを得ざるが故にこれ等の瑕疵を理由として登記を拒絶すべきものに非ざるは明なるべし。即ちこれ等の場合においては形式的審査主義を採るも実質的審査主義を採るも結果において差異を生ぜざるものと言わざるべからず。また錯誤の場合については我民法上独逸民法と異り取消主義を採らずして無効主義を採るが故に理論として同一に論ずることを得ずといえども，恐らくは実質的審査主義を採るもその実際上の結果においては多く形式的審査主義を採ると差異なかるべし。少くともその独逸において実質的審査主義を採りたると全然差異を生ぜざるは明なり。抑も実質的審査主義の実効ありまた必要あるは氏名詐称，偽造証書の提出等の場合のごとく真正なる権利者の行為に基かずして登記の為されまたは登記の改竄せらるる場合なり。既に真正なる権利者の登記申請を為したる場合においては実質的審査主義と形式的審査主義とは殆ど全くその結果において異なることなし。しかして余は先に述べたるがごとく理論上相対的公信主義を可としこの場合のみについて公信主義を採用せんとす。これ公信主義と併せて実質的審査主義を採用することの必ずしも必要に非ずと論ずる所以なり。

６　以上論ずる所に基き余は左の意味の条文を民法中に規定すべきことを主張せんとす。曰く

Ａ条　法律関係に関する不動産登記簿の記載は善意にて登記簿上の権利者より不動産上の権利又は不動産上の権利を目的とする権利の設定移転を受けかつ之を登記したる第三者の為めに之を真正なるものと看做す，但し其善意が登記に基かざるときは此限に非ず。

前項の規定は不動産登記の誤謬が真正なる権利者の行為に基くことなかりし場合には之を適用せず。

Ｂ条　前条の規定は登記簿上の権利者に対し登記せられたる権利に基きて給付を為したる第三者の為め之を準用す。

この提案よりて公信主義の保護を享くべき第三者は絶対的公信主義に比してもとよりそのその範囲狭小なり。しかれども余は公示主義より公信主義，即ち静的安全より動的安全に進み行くの推移は理論上漸進主義を可とし，かつ我が国において絶対的公信主義を採用するは実際上不能なるを以て現今においてはこの相対的公信主義を以て満足せんと欲するなり。

（１）　我が法律はこの種の原因による登記の誤謬の中或るものについては第三者の利益を保護せり。即ち詐欺による取消，虚偽表示による無効は善意の第三者に対抗し得ず，また契約の解除によりては第三者の利益を害することを得ざるが故に登記に信頼して不動産物権を取得したる者のごときはもとよりこれ等の原因による登記の誤謬の為めに損害を被ることなし。しかれども上に述べたる無能力，強迫，錯誤及び無権代理によりて登記の誤謬を生じたる場合には我が現行民法上第三者は損害を被らざるを得ず。

（２）　Planiol,Traité t.I.6 éd.no.2635及びその処に引用せらるる諸著。

（３）　本文に掲ぐる二点の外，登記簿の記載と土地の実際とが事実上の点において符合せざることもまた事実上の障害の一に考ふる者あるがごとし。もとよりこれを符合せしむることは我が国の現在においては殆んど不能と言ふべし。しかれども所謂登記簿の公信力はただ権利関係に関する記載のみに関するものにして事実関係に関する記載を包含するものに非ざれば事実上の誤謬あるも公信主義を採るに妨なしと云うを得べし。

（４）　現今我が国において幾何の土地がなお未登記なりやを知ることはこの種の論議を為すに有益なる資料なれども統計の徴すべきものなきを遺憾とす。やや信用すべき説によれば約３分の１は未登記にして比較的資産を有する者の所有地に未登記なるもの多しといふ。参考とするに足るも学術論の論拠とするには余りに不確実なり。

（５）　抵当権の登記を為すにはまず所有権の保存登記を為すを要するは明なり。しかして抵当権者にして登記を為さざる者は殆んど無かるべし。また所有権譲渡の場合にも譲受人は単独に保存登記を為すことを得ず，まず譲渡人の保存登記を為し次に移転登記を為すことを要す，これ不動産登記法第１０５条により保存登記の申請者は原則として土地台帳謄本により自己または被相続人が土地台帳に所有者として登録せられたることを証することを要し，しかして土地台帳は登記所の通知を待ちて初めてこれを変更することと為しいるが故なり。この最後の点については土地台帳施行細則を定むる大蔵省令に種々の変遷あり。一時は登記所より通知あるにあらざれば土地所有権の移転または質入を登録せずといふ規定を単に既登記の土地についてのみ適用したる時代ありたれど現行法たる明治３７年３月大蔵省令第６号はこの規定を未登記の土地にも適用せり。三宅徳業氏不動産登記法正解４９６頁参照。

（６） トルレンス主義において画一主義を採らず所謂Immatriculationを了りたる土地についてのみ地券を発し公信主義を採るは人の知る所なり。参考とするに足るべし。

（７） Motive �V,.S.17.

（法学協会雑誌３３巻（大正４年）７・９・１２号（民法研究第２巻所載））

債権者の遅滞

序

第１章　小沿革

第2章債権者遅滞の本質

第1節　総論

第２節　債権者の受領義務

第3節　遅延及び遅滞

第4節　過失及び遅滞

第3章　債権者遅滞の要件

第1節　履行の提供

第1項　履行の提供は要件なりや

第2項　履行の提供の本質

第3項　履行提供の一般的要件

第4項　履行提供の種類

　第1目　区別の標準

　第2目　言語上の提供

第2節　債権者の不受理

第1項　受領拒絶

第2項　受領不能

第4章　債権者遅滞の効果

第1節　債権関係の消滅に対する効果

第2節　債権者の責任に対する効果

第3節　増加費用に対する責任

第4節　双務契約において反対給付請求権に及ぼす効果

第5節　余論

第５章　債権者遅滞の終了

　　序

１　民法第４１３条に曰く「債権者が債務の履行を受くることを拒みまたは之を受くることあたはざるときはその債権者は履行の提供ありたる時より遅滞の責に任ず」と。これ債権者の遅滞について我民法の有する唯一の規定なり。ここによりて我民法上債権者遅滞なる一の法律事実を認むること明瞭なり。その成立要件もまた略之を窺知するに難からず。しかれどもこの法律事実が果して如何なる法律効果を生ずるか、所謂債権者遅滞によりて債権者は如何なる責任を負担するかについては明答を欠く。これを債務者遅滞と比較するに債務者の遅滞についても第４１２条は単に「遅滞の責任に任す」と規定するに止まり、その責任の内容または効果について直接の規定を置くことなしといえども、これを第４１５条と比照するときは債務者の遅滞が所謂「債務の本旨に従いたる履行を為ささるとき」の一に属するは疑いなく、またこれを第４１６条等に対比するときは民法言う所の「債務不履行」の一に属するは明瞭なるが故に、債務者遅滞の効果に関しては、縦令個々の効果に至りては幾多の論議すべき点ありとするも、根本的原則については法典にその直後の根拠を求むるを得べし。しかるに債権者遅滞については全くその趣を異にし、これの如き規定の間接にその効果を定むるものもまたこれを法典に発見し難し。学者あるいは第４９２条等を引用してその効果を論定せんとするも、これ等の条文の規定する所が債権者遅滞より生ずる効果の全斑にわたらざるは論なく、またこれを以て所謂遅滞の責任についてその根本的原則をき規定したるものとも解するを得ず。民法が此の如きは跛行的規定を設けたるはあるいは問題の解決を学説と判例とに一任したるものと解し得られざるに非ずといえども法典の明に認むる法律制度についてその法律効果の法典に明示せらるることなきはこれを法典の不備と言うに憚らず。これを改正するの立法者の任務たるべきこと吾人の信じて疑わざる所に属す。

２　法典に直後の根拠を有する法律現象、法律制度については吾人は妄りに成法の規定を離れて、所謂自由なる解釈を為すを欲せず。しかれども債権者遅滞におけるが如く法典の規定する所頗る不完全なる場合においては直接に条文のみに根拠するは事実上不可能なり。この如き現象に対する研究方法については各人その見る所を異にするを免れずといえども、余は次に述ぶる諸点を比照して社会の事情に適応する解決を求むるを以て正当なる解釈法なりと信じ、この方法によりて債権者遅滞の性質、要件、効果等の諸問題を研究せんと欲す。

（イ）法典の他の条文との比較。

（ロ）基礎たる諸種の概念、この場合においては特に債権、債務の概念との関係。

以上２個の標準を採用するは民法が統一したる一体（einheitliches Ganzes）を為すという根本観念に基づく。

（ハ）母法、この場合においては特にドイツ普通法及びドイツ民法に於ける沿革及び学説との比較。

（ニ）結果が便宜、公平に適し、所謂社会的妥当性を有すること、この場合においては殊に債権者、債務者間に於ける保護の公平を得ること。けだし社会の利益に適応するは法の最終の目的なるのみならず、我法典もまたこの原則を採用せるものと認むべければなり。

　　参照　「債権法に於ける信義誠実の原則」[本書２５１頁以下]

第1章　小沿革

１　債権者遅滞（mora creditoris,mora accipiendi,　Gläubigerverzug,　Annahmeverzug,demeure du créancier ）の制度はその淵源をローマ法に発す。債務者の遅滞（mora debitoris, mora solvendi）に並びて債権者遅滞の制度を認めたることはユスチニアン法典に明なる所にして、この制度の存在そのものについては疑いなし。然れども法典は債権者遅滞の定義を掲げざるのみならず、その要件及び効果についてローマ法源の述ぶる所明瞭ならざるを以て(1)従ってまた債権者遅滞の性質そのものについてもローマ法解釈家及びドイツ普通法学者の間に多くの論争を見たり。

一派の学者は弁済を受領せざることについて債権者に過失の存することを以て債権者遅滞の要件なりとし、従って債権者遅滞は債務者遅滞と同一の性質を有する法律事実となりとなせり。すなわち履行の遅滞を生じたることが債務者の過失に基づけるときは債務者遅滞にして、債権者の過失に基づけるときは債権者遅滞となりとす。この説は古きやや普通法学者の多く称へたる所なり(2)。

他の一派の学者は過失を以て債権者遅滞の要件と為さず、単に債権者が受領を為さずと謂う客観的事実の存するを以て足り、その事実の成立について主観的要件を必要とせざるもぼとす。したがって債権者遅滞と債務者遅滞とは単に外形上相類似せるに止まり、その性質、即ち、何が故に此事実が法律上の効果を生ずるかの理由に至りては両者の間に顕著なる差異の存するものとす。また説もまたその代表者に乏しからず。殊にコーラーがその諸種の論文において債権者遅滞は債務者遅滞と異りて、義務違反にはあらず、権利の不行使に過ぎざることを力説したりしより従うもの寧ろ多数なり(３)。　

第三の見解は主としてモムゼンによりて唱えられたる所にして、あるいはこれを折衷説と称するを得べく、債権者遅滞には敢て債権者の過失を必要とせざるも、履行の遅延が債権者の意思に原因を有することを要し、従って外部の事情によりて受領を妨げられたる場合には遅滞を生ぜざるものとす。この説は主唱者自羅馬法法源に直接の論拠を有せざることを明言するを以てこれに従う者稀なり(４)

２　近世諸国の法律は羅馬法の影響を受けて債権者遅滞と謂える制度を認むるを常とす。但し仏蘭西民法には全くこれに関する規定なく、仏法系の民法またこれを欠く。

(１)　仏蘭西民法(1257条以下)及び仏蘭西法系の民法(伊民1259条以下、西民1176条以下、葡民759条以下等)は、履行の提供(offre de paiement)及び供託(consignation)を規定するも債権者遅滞を独立の制度として認むることなし。しかして仏蘭西学者のこれを論ずる者また甚だ稀なり。サレイユは債権者遅滞なる制度は仏法の認むる所にはあらずと雖債権者の受領拒絶が不法行為を構成する場合には不法行為上の損害賠償請求権を成立せしむべしと謂う。またクローメは仏蘭西学者の債権者遅滞を論ずること蕪雑なるを難じ、債権債務の概念及び仏蘭西民法に於ける諸種の規定に根拠して仏蘭西民法の解釈上また債権者遅滞なる概念を認め得べきものとす。しかれども通説はこれを認めず(５)。

(２)　墺太利民法は債権者遅滞を規定せず。されどその規定は頗る不完全なり。即ち、その第千四百十九条に ,,Hat der Gläubiger gezögert, die Zahlung anzunehmen, so fallen die widrigen Folgen auf ihn” と規定するに過ぎず。したがってその学者は独逸における普通法の学説に根拠してこれを解釈するを常とす(６)。

(３)独逸民法系の諸法即ちプロイセン国法(preuss.L.R.I,11§§98,102,103,939,940)ザクセン民法(sächs.G.B.§§746-749)バイエルン民法草案(bayer.Entwurf Art.128)等は債権者遅滞を規定し、しかしてその成立当時における普通法学説に従い、過失を以てその要件と為す。

　(４)スイス債務法は旧債務法(１８８１年)と新債務法(１９９１年)とによりて異れり。旧法においては債権者遅滞を規定せざるにあらざりしも(１０６条之至１０９条)供託の要件としてこれを規定するに止まりしを以て実質上におては債権者遅滞なる独立の制度を認めざるに異らず(Saleilles 前掲)。しかるに新債務法は大にこれを改正しその第９１条乃至９６条に債権者遅滞そのものについて２３の根本的規定を設けたり。大体におては独逸民法の影響を受けたること明なれど、債権者遅滞の意義を定めたる第９１条には「適当ニ提供セラレタル給付又ハ債権者ガ為スベキ準備行為ヲ不当ニ(ungerechtfertigterweise,sans motif légitime)拒絶シタルトキ」と謂うが故にその「不当ニ」といふ条件を加ふることによりて過失論の為めに多少の論拠を与ふるに似たり。しかれども解釈家の多数及び裁判例はこの条件を単に客観的意義に解し過失を必要とせざるものとす(７)。なお同法について注意すべきは物の給付以外の給付を目的とする債務について債権者の遅滞に在る場合には、債務者は債務者の遅滞に関する規定に従ひて契約の解除を為し得るものと為したることこれなり(９５条)。

　(５)独逸民法は債権法総則第一章「債権関係の内容」を二節に分ちその第二節を「債権者の遅滞」と題して第２９３条乃至第３０４条に詳細なる規定を置けり。今その内容を詳述すべきに非ずといえども(後章参照)大要を述ぶれば、債務者の遅滞を第一節「給付義務」の中に規定し、節を異にして債権者遅滞を規定したるにより、両者を以てその性質を異にいせる別個の法律事実なりと認めたること、法典の編成上既に明なり。加これその規定の内容によりても債権者遅滞の成立に過失その他如何なる主観的要件をも必要とせざること及び原則として債権者の取引義務(Annahmepflicht)を認めざることまことに明瞭なり。その要件及び効果の詳細については後に述べん。

(１)　,,Die Ausdrücke der Quellen gewähren ein unzweifelhaftes Resultat nicht.“Windscheid,Pand.�U.§345.S.446.

(２)　Madai,Lehre von der Mora (1837) §§36.42.Wolff,Zur Lehre von der Mora (1841)§§ 31-36 etc. Windscheid,a.a.O.,Schey,Begriff u.Wesen der More Creditioris im österr.u.im gem.R.(1884)§§12.13.17 etc.Dernburg,Pand.�U.§43.Koch,Die Mora Creditoris,diss.(1895) §9.この説を普通法上の通説と称すべきはやや疑問なり。例えばコーラーは次の述ぶる論文のおいて自己の説を以て通説の反せるものとす、されどローゼンベルクは普通法におてもこの説を以てgeltendes Recht として認むることを得ざるものとす。

(３)　Fritz Erläuterungen,�U.S.359.Sintenis,Civilrecht,�U.S.218.Kohler,Jherings Jahrb.Bd.XVII.(1879)S.265 fg.derselbe,Moderne Rechtsfragen bei islamitischen Juristen (1885) S.12.derselbe,Zwölf Studien zum bürgerl. Gesetzbuch (1900) S.109 ff. Hirsch,Zur Revision der Lehre vom Gläubigerverzug (1895) S.215 fg.Rosenberg,Jherings Jahrb.Bd.43 (1901)S.144 fg.Kornfeld,Voraussetzungen des Gläubigerverzuges (1903) diss.S.37 fg.

(４)　Mommsen,Lehre von der Mora, ,,Beiträge zum Obligationenrecht.”�V.Abth.(1885)§17.Heimbach in Weiske’s Rechtslexikon,Bd.12 (1857) S.915.

（５）　Saleilles,Théorie générale de l’obligation 1914 p.32 No.38.Crome,Grundlehren des französischen obligationenrechts 1894.§ 17 S.183-211. Laurent,Principes de droit civil francais,t.XVI.1878.p.248 etc.Huc,Commentaire théorique et pratique du code civil t.VIII.1895.No.93 p.127.Colin et Capitant,Cours,t.II.(1915)p.81-83.されど債権者遅滞という観念を認めざる佛法の学者も供託を伴わざる履行の提供に全く何等の効力をもみとめざるにはあらず。Baudry-Lacantinrie et Barde,Traité des obligations,t.II.No.1629 p.646.etc.

(６)　Schey,Begriff u.Wesen der Mora Creditoris a.a.O.Krasnopolski,österreichisches Privatrecht,Bd.III.(1910)§ 23 S.123.Hasenöhrl,Das öster.Obligationenrecht 2,S.347 fg.etc.

(７)　Oser,Komm.znm Schweiz.Z.G.B.Bd.V.(1912)Vorbemerkungen zu Art.91-96 und auch zu Art.91.S.306.及び同処引用の諸著。

第２章　債権者遅滞の本質

　　第１節　総論

１　債権関係は一定の給付を内容とし一定の目的の為めに存立する限時的法律関係なり。あるいは一個の給付を内容とすることあり、あるいは数個の給付を内容とすることあり、あるいはまたある期間内連続せる給付を内容とすることありといえども、それ何れの場合におても永久的関係を成立せしむるものにはあらずして、やがて解消せらるべき限時的関係を成立せしむることを以てその本体と為す。これを債権者の方面より言はばその目的を達する為めの権利なり。これを債権者の方面より言はば夫の目的を達せしむるまでの拘束なり。所謂弁済または履行は即ちこの解消を内容とする行為にして、これによりて債権者はその拘束を免る。故にその当成立すべき時期において履行の成立するは債権者の利害のみに関するに非ずしてまた実に切に債務者の利害に関す(１)。もし履行期において債務者が履行を為さざるときは債権者はその所期の目的を達することを得ず、あるいは尠くともその目的の全部を達することを得ず。ここにおいてか法律は債務者遅滞なる制度を認め、これに種々なる効果を附し、以て債権者の利益を保護す。もし履行期において履行の成立せざることの原因が債権者に存する場合においては如何。債務関係の解消について債務者の有する利益は法律上如何なる保護を享くべき乎。

２　履行は債権者の協力なくして成立し得ることありまたその協力なくしては成立し得ざることあり。もし弁済を以て常に必ず契約なりとする学説に従えば履行(弁済と同一意義に用ふ、以下同じ)が債権者の協力なくして成立し得る場合あることを否認せざるを得ずといえども、この説の誤まれるは今日において多くこれを疑ふもの無からん(２)。例へば不作為の債務は常に債権者の協力なくしてこれを履行するを得べし。労務を為す債務の如きも債権者の協力なくしてこれを履行し得る場合尠からず。その他債務者が単独行為(例へば債務の免除)を為すべき債務またこれに属す。これに反して大多数の債務に在りては債権者または弁済受領者の協力を俟ちて初めて履行を成立せしむることを得。その協力はあるいは法律的なることあり(例へば物権の移転、または債権の譲渡を受くること)あるいは事実的に止まることあり(例へば修復すべき物品を交付すること、役者に登場を許容すること)といえども、何れの場合においても、債権者が、協力を為さざるときは履行は成立することを得ず。所謂債務者保護の問題はこの後の場合においてのみ生ずる也。

３　債務者保護の方法は沿革上種々の変遷を見たり。古代法においてまず行われたるものは抛棄(derelictio)の制度なりき。古代羅馬法において買主が売買の目的物を引き取らざる場合に債務者はこれを街頭に放置するを得たり。また酒樽中の葡萄酒のみを売りたる場合に、債権者がこれを引き取らざるときは酒を地上に注ぐを得たり(３)。その他独逸固有法、佛蘭西旧法、古代印度法等においてこれに類似せる制度の存在したりしことは法制史家の傅ふる所なり(４)。近世においてこのの如き原始的なる制度は最早社会の一般観念に適せずまた国家経済の要求に応ぜず。したがってあるいは極めて僅少なる範囲においてこれを認め(独逸民法３０３条は土地についてのみこれを認む)またあるいは全くこれを認めず。我民法は後者に属す。

　債務者保護の為に認められたる第二の方法は供託なり。債務者は一定の要件の下に給付の目的物を供託所に供託し、これによりて債務を免るることを得るものとす。これ既に羅馬法においてもその後期においては認められる所にして、近世の法律は等しくこれを認む(前掲諸法)。唯その要件、方法及び効果の詳細に至りては各国法の規定する所必ずしもその軌を一にせず。殊にその発達の初期においては公の供託所なるものなく、私人たる第三者に寄託するに止まりしが、後漸く寺院に供託するの習慣を生じ、更に転じて公の供託所を見るに至れり。我民法またもとより供託を認め、これを以て弁済代用(Erfüllungssurrogat)の制度と為す。

　債務者保護の第三の方法は自助売却(Selbsthifeverkauf)なり。債務者は一定の要件の下に一定の方法によりて給付の目的物を売却するを得。あるいはこれを以て供託より独立したる制度と為し、あるいは供託付属の制度と為す。前者によるときは債務者は売得金を給付することを要するも、これを供託することを要せず。後者によるときは売却は供託の準備行為、即ちその手段に過ぎざるものにして、債務者は売得金を供託することを要せず。前者においては債務者は不便なる債務の目的物を変更して、便利なる目的物と為すの権利を有するなり。後者においては供託に不便なる目的物を変更してこれに適したる目的物と為し得るに過ぎず。羅馬法は前者に従いてこれを解するを正当とすべく独逸民法の解釈については議論あり。我民法は後者に従いてこれを解するを正当とす(５)。故に我民法においては自助売却を以て独立なる保護方法と為すを得ず。　

４　履行期に履行の成立せざることによりて債権者の被るべき不利益は以上三種の方法によりては未だ完全にこれを避くることを得ず。債務の目的たる給付が物の給付にあらざる場合において抛棄、供託、自助売買の方法は何れもこれを利用するに由なし。また債権者の行為ありて始めて給付の目的物またはその範囲の確定すべき場合において債権者は特定せざるものを抛棄し、供託し、売却することを得ざるべし。加これ、この如き方法を利用することが法律上不能ならざる場合においても、目的物の性質上これを実行することの事実上困難なることなきに非ず。その他あるいは債権者が法律に慣れざるが為めに供託、自助売買等の方法の利用せられざることあり。あるいはまた債権者に対する好意に基きて、直ちに、これ等のあるいは債権者に損害を生ずべき方法を用いざることあるべし。これ等の場合において直ちに債権関係を消滅せしむるはもとより不当なりといえども、債務者の危険と負担とにおいて債権関係の存続するものと為すはまた事理に反し、かつ債権の性質に反す。もし債権者が弁済を受せば、債権はその目的を達し、債務者はその拘束を免れ得たるなり。しかるに債権者がこれを為さざりしが為に、債務者をして依然危険と費用とを負担せしむるは事理に反す。また債務は履行期まで債務者を拘束するをその本体とす。債権者の行為その他債権者に存する自由によりて履行期に履行の成立せざる場合にその遅滞によりて生じたる費用及び危険を、債務者をして負担せしむるは債権、債務の性質に反す。これ供託等の制度を離れて債権者遅滞なる独立なる法律事実を認むべき実際上及び理論上の根拠なり。我民法はその第４１３条に明に独立なる法律事実として債権者遅滞を認む。我民法上これを以て独立なる法律事実と為すべきは疑を容れざる也。

５　上来余は債権者遅滞が理論上及び我民法の成文上、独立の制度にして独立なる法律事実なることを論述せり。しかるにこれを以て独立なる制度なりとみとめずあるいは債権行為の義務なるものを前提として債権者遅滞は債務者遅滞と異らざるものとし、あるいはまた債権者が遅滞の責に任ずるはその過失の責に任ずるに過ぎざるものと論ずる学者独仏にその数乏しからず。我国においてもこの説に従うものと認むべき有力なる学者あり。加これ、これ等の学説は債権者遅滞の効果について自らまた重要なる影響あるが故に次節以下においてこれを詳論し、債権者遅滞の本質を明にせんと欲す。

(１)　債務者が担保権を設定したる場合には債務者が履行の成立について利害を感ずること最も切実なりしかれどもその他の場合においても容器、倉庫、船舶等を他の目的に使用するが為めにまず履行を為すを要すべし、この種の例はこれを枚学するに遑あらず。

　(２)　弁済の性質に関する説明はその処に在らざるを以てこれを省く、石坂氏、日本民法１３７２頁、拙著、日本債権法総論増訂版３８７頁、Oertmann,Komm.zu § 362 BGB.

　(３)　fr.13.de peric.(D.18,6),fr.14.eod.,fr.15 pr.eod.

(４)　Kohler 前掲諸論文。derelitio　の性質については争なきに非ざるもこれを略く。

(５)　石坂氏、民法研究第三巻２２６頁、日本民法１５１９頁、Oertmann,Komm.zu§383 BGB.und dort Ziterte.

第２節　債権者の受領義務

１　債権者は受領義務を有するや否や。もし受領義務を負うものとせばその性質如何。余はこの点について消極説を持し、債権者はその債権者たるによりて法律上当然受領義務を負うものにあらずと信ずるも順序としてまず積極説の内容とその論拠とを研究せざるべからず。

　我民法の解釈上明に受領義務を認むる者は故梅博士なり。博士は債務不履行に関する民法第４１５条以下の規定は債権者遅滞の場合にもまた当然その適用を見るものとなし、その理由として債権者は履行を受くる義務を負い、その義務は１の債務に外ならず論ず。しかれども何を理由としてこの如き受領義務を認むるものなりや、その論拠については詳述せられざるが故に、これを知るに苦しむ。恐らくは次に述ぶる仏蘭西の学説に従い、債務者は履行を為すについて諸種の利益を有するものなるが故に、また当然履行を為す権利を有するものと解せられたるに非ざるか。これに反して我国に於ける多数の学説及び判例は債権者の受領義務を認めず（１）。

２　仏蘭西における多数説は寧ろ債権者の受領義務を認むるものの如し。しかれども仏蘭西学者のこの事を論ずるや極めて粗笨、あるいは漫然履行を受くるは債権者の義務なりと断ずるに過ぎず。

　明に債権者の受領義務を認むる学説はドゥモロムブこれを唱う。曰く「履行を為すことは債務者の義務たるに止まらずして実にその権利なり」と。しかして債権者が現実の履行の提供及び供託の費用を負担するは（仏民１２６０条）債権者がこの受領義務に違反するが為めにしてこの法律の規定以外においても、もし受領拒絶の為めに債務者に損害を与えたるときは第１３８２条（不法行為に関する規定なり）に所謂「過失によりて人に損害を加えたる」ものにして債権者はその損害を賠償せざるべからずとなす。その受領義務を認むる論拠については明瞭なる論述なきを遺憾とすといえども、債務者が履行を為すについて諸種の利益を有することを挙示するについてこれを見れば法律の規定に覓むるには非ずして、債権債務の性質上債務者は履行を為すについて諸種の利益を有するが故に、当然また法律上履行を為す権利を有し、したがって債権者は履行を受くる義務を負うものとなすものの如し（２）。この他仏蘭西学者にして債権者の受領義務を認むるもの尠からずといえども、その論拠を明にせるものを知らず（３）。

　仏蘭西の判例は債権者の受領義務を認む。すなわち１８８１年７月１３日の大審院判決は債権者が不当に履行の提供を拒絶したる場合において１１４６条及び１１５３条に違反したるものとして損害賠償の義務を認む（４）。しかしてこれ等の規定は債務不履行に関するものなるが故に判例は受領義務を以て債務となし、不当なる受領拒絶を以て債務不履行となすものの如し。しかしてオーブリー、エ、ロー及びボードリー、ラカンチネリー、エ、バルドはこの判例を引用して債権者が悪意、または債務者を苦しむる目的を以て受領を拒絶したる場合には、供託費用を負担するの外なお損害賠償の義務を生ずるものなりと説くを以て、また債務たる性質を有する受領義務を認むるものの如し（５）。

３　現行独逸民法の解釈として一般に債権者の受領義務を認むるもの殆ど全く無し。独逸民法は特に売買及び請負について取引義務（Abnahmepflicht）を認めたるが故に一般には受領義務を認めざること成文法上殆ど言を俟たず。ただしこの所謂取引義務の内容については議論なきにあらず、また売買請負以外に在りても、もし当事者がその意思表示よりて特に受領義務を定めたるときは、この義務認むるも敢て債権の性質に反することなしと解するを通説とす（６）。

　これに反して独逸普通法においては一般に債権者の受領義務を認むべきや否やについて頗る議論あり。やや古き普通法学者の間に在りては積極説寧ろ　

通説なりが如し。

　議論の発点を為したるものは羅馬法典における１．９．Ｄ．ｄｅ　ａｃｔ．ｅｍｔｉ　１９．１．の解釈なり。一派の学者はこれに基づいて絶対に債権者の受領義務を認め、債権者の受領遅滞はこの受領義務の違背によるものなれば債権者の過失を要件とするものとなす（７）。他の一派の学者は絶対に受領義務を認むるに非ざるも、ある種の債権についてはこれを認むべきものとす。すなわち履行の受領について債務者が特別なる利益を有する場合に限りこの義務を認む。例えば物の給付を内容とする債務にありては債務者はこの如き利益を有し、債権者がこれを受領せざる場合には受領請求の訴えを起こし得べきものとす（８）。第三の学説はすなわち純然たる消極説にして債権者は債権を行使する権利を有するに止まりこれを行使する義務を負うことなきものとす（９）。

　当事者が特に契約によりて受領義務を定めたる場合を除き一般には債権者は唯債権の行使に付きて権利を有するに止まり、これを行使するの義務を負うものにあらずとすること、これを新しき普通法学者間における多数説と認めて可なり。しかれども直接なる受領義務と異れる一種の義務を認むる学者また無きにあらず。例えばヒルシユは債務者は履行期において履行受領を請求する権利を有するにはあらざるも、履行期において履行を為すにつき、種々の利益を有するものなれば、債権者の受領を待たずして免責行為為す権利を有し、債権者はこれを認容する義務を負い、この権利義務の関係あるが故にすなわち債権者遅滞に伴う種々の効果を生ずるものとす（１０）。またシアイは同じく直接の受領義務を否認する「債権者は何人をも害すべからず」（neminem laede）という一般的義務を負うの結果、履行を受領せざることによりて債務者に損害を加うるはこの義務に違反することとなり、したがって債権者は過失の責を負い、この債権者の過失によりて債務者をして過失の責任を免れしむることこれすなわち債権者遅滞の本髄なりとす（１１）。

４　債権者の受領義務を認むる学説を通覧するにその論拠の首肯すべきものあるを見ず。羅馬法法源において履行遅滞及び受領遅滞に通じて　frustratio　といえる同一の文字をしようしたりということの論拠として採るに足らざるは言を俟たず。同一の文字の使用せられたるが故にその性質もまた同一なりと断ずるは非ずなり。また債権者が正当なる理由なくして（sine justa causa）受領を拒絶したる場合に受領遅滞を成立せしむといえる法源の一節を根拠として、直ちに過失なくば受領遅滞を生ぜずかつ受領義務無くしては過失成立せずと論結するは論理の精確を欠く。所謂　sine justa causa　は客観的意義に解し得べくこれを主観的意義において過失の意義に解することを要せざるなり（１２）。受領義務を認むる学説の論拠としてやや採るに足るべきは履行について債務者が利益を有することを理由とするものこれなり。すでに述べたるが如く債権関係は限時的性質を有するものにして、履行期において履行の成立し、債権関係の解消すべきことについては債権者、債務者共に正当なる利益を有するものなるを以て、法律が履行の成立について債権者の有する利益を保護すると共に債務者の有する利益をも保護するは債権債務の本質上当にしかるべき所と云うべし。しかれども詳にこれを視ればこの説も論理の精確を得たるものにあらず。けだし法律がある人の利益を保護するは常に必ずその人に権利を与うるの形式によるものにあらず、また必ずしもその人がその利益について権利を有するが故にあらず、故に債務者が履行を為すことについて正当なる利益を有し法律これを保護するとするも、未だ直ちに履行を為すの権利を与うるものと言うべからず、また履行の受領せられざる場合について債務者が法律上の保護を受くることあるも、これを以て直ちに債務者が履行を為すの権利を有するが為めなりと為すことを得ず、その権利たり、たらざるは法律がこれを権利として認めたりや否やによりて決せざるべからざるなり。

　法律は債務者に履行を為す権利を与えたりや否や。余は我民法の解釈上この権利を認むべき何等の根拠無きを信ずといえども、上述の如く、沿革上及び解釈上有力なる積極説無きにあらざるを以てやや詳しく消極説の積極的論拠を論ぜんとす。

（１）　権利はその性質上常然これを行使する義務を伴うものに非ず、これを行使するや否やは原則として権利者の自由なり。唯権利の行使せらるることが公益上特に必要なる場合においてのみ法律は例外として権利行使の義務を認む、例えば親権（民８７９条[現行８２０条]）の如し。故にある権利を行使することが権利者の義務なりと言わんが為めには特にこれを義務と認むる法律の規定を要す。しかるに債権についてはこの如き義務を認むべき法典上の根拠なし。

　社会的作用よりこれを観察すれば財産権もまた社会的利益と交渉を有すること寔にデュギー一派の学者の高唱するが如し(１３)。都市の中央に位する土地を久しく荒廃に委するは独り土地所有者のみの利害に関するにあらず、近隣の土地所有者その他一般に都市の繁栄と緊切なる関係を有す。巨万の財貨を貯蔵せる者がこれを資金として利用し、有益なる著作を為せる者がその著作権を行使することまたもとより社会的利益と没交渉なるにあらず。しかれども国家及び法律はこれ等の権利者に対して積極的にこの権利を行使することを強要するにあらず。珍実を倉庫に蔵して徒にこれを朽廃に委するも、あるいは巨万の貨幣を地中に埋没して資産の流通を阻害するも、もとより権利者の自由にして、敢て法律上の義務に違反することなし。近世の法律は権利の社会的作用に着眼すること漸く多きを加うるに至りしといえども、これに対する国家の監督はなお全く消極的なり、権利の行使が社会的利益に害あるに当たり個々の法令によりてその行使を制限するに止まれり、我国近時の判例が所謂権利の濫用を違法なりとするは悦ぶべき現象なりといえども、このことと権利の行使を義務とすることはもとより別個の問題に属す。我が法令及び判例は積極的に権利の行使を奨励するを以て原則とするに至らず、況やその行使を強要するおや。権利を行使するや否やが権利者の自由なりといえる原則は財産権については殆んど全く例外なく適用せらるるなり（１４）。

　債権者は主として財産権たる性質を有す（１５）。故に法律に何等の規定なくば債権を行使するや否やは債権者の自由ならざるべからず。しかして我民法にはこの点について特殊の規定なし。故に我民法上債権の行使すなわち履行の受領を以て債権者の義務なりと解する非なり。

（２）　免除に関する我民法の規定のよれば、債権者が受領遅滞を有せざること明瞭なり。免除は我民法上単独行為なり、諸外国の法律におけるが如く債権者債務者間の契約を必要とするにあらず、債務者に対する債権者の一方的意思表示によりてこれを為すことを得（民５１９条）。もし債権行使の義務なるものありとせば単独行為による免除はこれを認むることを得ず。

（３）　あるいは民法第４１３条を根拠として債権者の受領義務を認むる学者あるが如し。しかれどももし受領義務なるもの存するものとせば第４１３条は全く無用の規定たるに至らん。もし受領が債権者の義務ならざれば受領を為さざることは義務違反は債務不履行となり、損害賠償義務を成立せしむべきが故に、特に債権者遅滞なる制度を認むることなくして、債務者の保護は間然する所なし。偶々受領義務なるもの存在せず、しかして履行の成立について債権者の有する利益は法律上これを保護することを要するが故に、第４１３条の必要あり、債権者遅滞なる制度の存在することを要するなり。民法が特に第４１３条を設けたるは、債権の性質上受領義務なるものなしと為したるが為なり。

（４）　もし法律が特別規定を設けて受領義務を認むることあらば、解釈上これを認めざるを得ざるは論なし。しかしてまたある種の債権についてこの義務を認むるは敢て債権の本質に反せずまた当事者の意思及び社会観念に反せん。今解釈上一般的に受領義務を認むる学説が社会観念に反し、極めて不当なる結果を生ずることを二三の例のついて示さんとす。１年間その子女の為に家庭教師を雇入れたる者はその報酬を支払うの外、なおこれのして子女を教育せしむる義務を負うべきか。家庭教師、役者、工場監督等は報酬を受くるの外なお一定の期間、信用ある家庭、劇場、工場等において使用せらるることについて緊切なるを有することあるべし。しかれどもこの利益は権利として保護せられるべきか。例えば家庭教師の不誠実、不道徳その他不適任なることを発見したるとき雇主は報酬の全額を支払うもなおこれを解雇するを得ず必ず子女を教育せしめざるべからざるか。また欧州に旅行する為め乗船切符を購入したる者は乗船の権利を有するのみならずまた乗船の義務を負うべきか。その汽船または船長の不適当なることを発見したるとき、乗船切符を放棄して他の汽船に乗ることを得ざるか。あるいはまた巨大なる庭石を購入したる者が後にその石の価格の運搬費に及ばざることを発見したるときは代価を支払うも、なお受領義務を免るることを得ざるか。凡そこれ等の場合において我民法は債権者がその一方的意思表示を以て債権の放棄すなわち債務の免除を為し得べきものと為せり。縦令債務者が偶々免除の為めに損害を被ることあるも債権者においてこれを賠償することを要せず。しかるにもしなお受領義務ありとし債権者の受領を為さざるは債務不履行として、あるいは不法行為として損害賠償義務を生ずるものとせば、その民法の趣旨に背馳し社会観念に反すること多く言わずして明ならん。

５　直接の受領義務を認めざるも、ややこれに類似せる一種の免責義務を認むる学説の存すること上に述べたるが如し（本節注１１及び１２参照）。しかれどもこの説は我民法上未だこれを唱うる者あるを聞かず、独逸においても著しく有力なるものに非ざるが故に、今はその詳細なるこの評を為さず、簡単に不当なる所以を明にするに止めん。

（１）　「何人をも害すねからず」と言える一般的義務を認むるは（上掲シアイの説）立法上の準則としてはあるいは一顧の価値あるべし。しかれども解釈上の原則としては法典に根拠を欠きまた法典の精神に反す。民法は他人を害する行為を以て直ちに義務違反と為すにあらざること不法行為、債務不履行等に関する規定を比照せば自ら明ならん。殊に権利者が権利を行使するに当たり、またはその行為を為さざるに当たりては当然この如き原則の支配を受くるものにあらず（１６）。

（２）　債権者は債務の履行を受領せざる場合において債務者の単独に為さんとする弁済代用行為（Erf○llungssurrogate例えば供託）を認容する義務を負担するものとなすは（上掲ヒルシユの説）また誤れり。その理由次の如し。

（イ）　債権者遅滞の効果として債務者が供託を為す権利を取得するは明なり。しかれどもこれを以て債権者遅滞の本体を為すものと解するは誤れり。債務者が債務の性質上単独に免責行為を為す権利を有するが故に債権者遅滞を生ずるには非ずして、債権者遅滞成立の効果として供託を為す権利を成立せしむるなり。論者の説は原因と結果とを混同す。

（ロ）　免責行為を為す権利を以て債務の内容とし、免責行為を認容する義務を以て債権の内容と為すは誤れり。債務者の供託を為す権利は債務当然の内容に非ずして、履行提供及び履行不受領といえる新なる法律事実ありて始めて生ずる新なる法律効果なり。

（ハ）　供託を為すの権利は債権関係において生ずる権利なるを以て当然債権なりとし、したがってこれに対立する債務なかるべからずとなし、したがって債権者は債務者の供託行為を認容する義務を有するものとなしてこれを債権者の免責義務（Befreiungspflicht,Liberationspflicht）と称するは法典に根拠なき義務を創定するのみならずまた権利の観念に明ならざるの誹を免るることを得ず。債権関係において成立する法律効果は総て債権債務ならざるべからずとするは誤れり。債権関係において一定の場合に契約解除権を生じ、あるいは解約申入権を生ずるも、これ等の権利は所謂形成権にして債権にあらざること明なり。供託を為すの権利もまた債務者一方の行為によりて債権消滅といえる一定の法律上の効果を惹起こし得る権利にしてこの点において解除権、解約申入権に似たり。唯その法律効果を発生せしむるが為めには供託といえる一定の行為を必要とし、単純なる一方的意思表示を為すを以て足らざるが故にこれを以てこれ等の権利の如く純然たる形成権と為すことを得ざるのみ。もし形成権の範囲を一方的意思表示によりて法律効果を成立せしむる権利に限定するときは供託を為すの権利は債権者代位権（民４２３条）等と同じく、これを能権または第二次権と称するを得べく形成権に類似せる権利にして広義の形成権に属するものと言うを得べし（１８）。故にこれに対立する債権者の義務を認むることを得ず。

６　債権者が受領義務を有せざること上来論述したるが如し。故に債権者が履行を受領せざるは義務違反にあらず、債権者遅滞は義務違反を本体とする法律事実にあらず。この点において債権者遅滞は債務者遅滞と本質を異にすること明なり。債務者は履行を為すの債務を有し、債務者の遅滞は義務違反を本体とする法律事実なり。故に債権者遅滞と債務者遅滞を並立せしめ、同一の性質を有する法律事実なりとする学説は皆誤れり（１８）。

７　債権者は当然受領義務を負うことなしといえども、当事者が特約によりて受領義務を定むることは債権の性質に反することなし（１９）。例えば庭園の樹木、または土地の上に存する建物を売却すると同時に飼い主をしてこれを引き取る義務を負わしむるが如し。この場合において買主の給付を受くることはその権利の内容を為すと同時にその内容の債務を為すを以て、もし債権者がその給付を受けざるときは、債権者遅滞を生ずるのみならず、債務者遅滞の要件をも備うるときは（特に給付を受けざるについて過失あるとき）債務者遅滞をも生ずるものとす。しかれども債権が同時に債務たるにはあらずまた債権行為の義務ありと認むべきにあらず、同一の給付が債権の内容たると同時に債務の内容たるなり。故に債務者遅滞を生ずるは債権不行為の為めにあらずして、債務を履行せざるが為めなり。もとより債権者遅滞が義務違反となり、または債権者遅滞より債務者遅滞と同一の効果を生ずるにあらず。

（１）　石坂博士、日本民法６０５頁、川名博士、債権法要論２３５頁、横田博士、債権法総論２４４貢、磯谷氏、債権法論３３５貢、中島氏、民法釈義巻之三、３６１貢、乾博士、債権者の取引義務、法制大学創立三十年記念論集。大正４年５月２９日、大判民録、２１集８５８頁、評論四巻民法４７７頁、その他下級裁判所の判決、大正６年１１月１４日、東地判、判例第三巻、民１２７頁大正８年５月２０日、大阪区判、法新１５５７号２２頁等もまたこの説を採る。反対、梅博士、民法要義第三巻４１５条５７頁以下。この他にもなお反対説を採る学者あるが如きも著書において公にせられたるにあらざるを以てこれを掲げず。この問題は損害賠償及び解除権の問題と直接の関係あり。後に述ぶ。

（２）　Demolombe, Cours de Code Napoléon,1881 t.4..No.219;t.5.No.63 et suiv.債務者が執達史に託して債権者に或る金銭債務の履行提供を為したるに債権者これを受領せざるにより執達史はその金銭を持帰りたるに帰途盗賊に遭いて奪取せられたりとせば債務者はその債務を免るるかという問題につき、Ｄ氏はこの損害は債権者の受領拒否によりて、生じたるものにして、すなわちその過失によりて他人に加えたるものなれば債権者においてこれを賠償することを要し、したがって債務者は、この賠償請求権を行使することによりて債務を免るることを得べきものと論ず。これと同一の問題は Larombiére もまたこれを掲げ、しかして同氏はＤ氏と反対にその損害は直接に債権者の過失に基づくものにあらざるを以て債権者においてこれを賠償する義務を負わざるものとす。（Larombiére,Théorie et pratique des obligations,�W.Art.1257.11）。なお仏民１２６０条の解釈に関し現実の提供及び供託の費用を債権者、債務者の孰れが負担するかにつき多少議論あるも通説及び判例は自己の過失によりて供託を必要となしたる者がこれを負担するものとす。Sirey,Code civil annotéart.1260.

（３）　Beudant,Cours de droit civil Francais.Les contrats et les obligations,1906 No.795 p.487.Laurent,Principes.t.XXIV.No.311Collin et Capitant 前掲８３ページには曰く「独法の如く債権者遅滞を認むるを正当とす、一度期間到れば弁済を為し得る債務者は地位を転じて債権者となる、免責について債権者となるなり、債権者は弁済を受領することによりて免責を為さしむる義務を有し債権者の地位を継続せしむる権利を有せず（中略）されど仏蘭西法においては債務者が債権者に対して損害賠償を請求するとき勝訴の機会を有するや否やは頗る疑わし」と。

（４）　Cass.Req.13 juillet 1881,Sirey 1883,1272:”Le créancier qui a refusé à tort les offers du débiteur,est à bon droit cindamné à des dommages-intérêts envers celui-ci,lorsque par ses agissements arbitraries et son obstination à refuser les offers, le créancier a entraîné le débiteur dans des peines et frais, et lui a ainsi causé unpréjudice.”（C.civ.,1146 et 1153;C.pruc.,130）;Sirey,Code civil annoté Art.1260.

（５）　Aubry et Rau,t.4§323.p.330.38,Le créancier qui aurait,par dol,ou dans un but vexatoire, refuseé de recevoir les offers,pourrait même être condamné à des dommages-intérêts en sus des fris.また　Baudry-Lacantinérie et Barde Des obligations t.2.No.1634 p.650(1)は　injuste refus　の場合には損害賠償義務を生ずるものとす。

（６）　Oertmann,Vorbem.zu §§ 293 ff.S.141 ; Staudinger-Kuhlenbeck,Vorbem.zu §§ 283 ff.S.204 ; Planck-Siber,Vorbem.zu §§ 293 ff;Enneccerus,Lehrb.9/11 Aufl.§ 280 S.163 12.

（７）　Madai,Die Lehre von der mora,1837 S.450; Treischke,Kaufkontrakt § 77,Goldschmidt,Z.f.H.R.Bd.30,S.58 fg.この他明瞭に受領義務を論ぜざる学者もその存在を前提する者多し。Schey 曰く ,,Stillschweigend geht die ganze ältere Lehre von der mora accipiendi von diesem Recht auf Annahme aus.”Schey,Begriff und Wesen der mora creditoris,1884 S.93.2).

（８）　Wolff,zur Lehre von der mora,1841,S11.S.489.Sintenis,Prakt.Civilrecht,Bb.II.§116.Dernburg,Pandekten Bb.II§97.この説に従える独逸帝国裁判所の判決あり RG.V,S.394 �]�W,S,247.

（９）　Mommsen,S.134;Kohler,Jherings Jhb.Bb.17.S.261.derselbe,Zwölf Studien S.111 ff.;Rosenberg,Jherings Jahrb.1901.144,145.

（１０）　Hirsch,Zur Revision der Lehre vom Gläubigerverzuge,1895,S.169-184 insb.181.

（１１）　Schey,a.aO.S.101,vgl.auch Demelius,Zeitschr.f.priv.u.öffentl.Recht Bd.13.S.460;Koch,Die mora creditoris diss.1895 S.36 ff. シアイは債権者遅滞の本体を債務者のExculpirung にありとししかして Exculpirung は原則として他人に過失あるによりて生ずるものなればこの場合にもまた債権者の過失を要するものとなす、しかして過失については義務なくしては過失なしという原則を採るが故に neminem laede の一般的義務を採用したるなり。これ等の説に対する批評は後に述ぶ。

（１２）　fr.37 mandati (17,1.):,,nisi forte aut per protomissorem steterit,quo minus sua die solveret,aut per creditorem,quo mins acciperet;etenim neutri eorum frustratio sua prodesse debet.”この説については一面において Madai a.a.O.S.228;Dernbrrg,II.S.120 参照、他面において Kohler,Zwölf Studien.S.111.を見よ。また sine justa causa については fg.72 pr.de solute 及びこれに関する Dernburg a.a.O.;Kohler a.a.O.参照。

（１３）　Léon Duguit の諸著。この思想の簡明なる説明については同氏の Les transformations génélales du droit privé depuis le code Napoléon,1912 を見よ。なお同氏の思想については織田萬氏「社会連帯論」（京法、２巻１０号）、岡村司氏「権利否定論」（京法、４巻１２号）、牧野英一氏「法律現象の単位としての権利」（国家学社、２８巻８号）等参照。

（１４）　工業所有権については権利者が一定の期間その権利を行使せざる場合にはその権利を喪失旨の規定あり。すなわち[旧]特許法第４７条には「正当ノ理由ナクシテ特許権発生後三年以上其ノ発明ヲ帝国内ニオイテ適当ニ実施セズ又ハ三年以上其ノ実施ヲ中止シタル場合ニオイテハ特許局長ハ利害関係人ノ請求ニヨリ又ハ職権ヲ以テ其ノ特許ヲ取消スコトヲ得」と規定しまた[旧]鉱業法第４０条には「鉱業権者正当ノ理由ナクシテ登録ノ日ヨリ一箇年内ニ授業に着手セズ若クハ一箇年以上休業シタルトキ又ハ施業案内ニ依ラズシテ採掘ヲ為シタルトキハ農商務大臣ハ鉱業権ヲ取消コトヲ得」と規定せり。これ等の規定は通常実施義務を定めたるものと解せらるるを常とす。しかれども公法上においてもこれを以て義務と解すべきや否やについては疑いなきにあらず、これ等の所謂特権はその性能上唯これを実施せんと欲する者にのみこれを付与すべきものなるが故に、権利不行使を以てその取消の原因となしたるものにして、敢て 積極的に実施義務を認めたるものに非ずと解すること、尠なくとも特許権については正当なるべし。もとより権利の行使を以て私法の義務となしたるに非ず。その違反に不法行為の成立を認むべからざるは明なり。

（１５）　我民法上債権は総て財産権にはあらず（３９９条参照）。しかれども金銭的価値を有せざる債権について特に債権行使の義務を認むべからざるは明なり。

（１６）　Hirsch,a.a.O.S.176 以下にScheyの説に対する反駁を載せたり、なお Schey の説の批評については Demelius,Zeitschr.f.priv.u.öffentl.Recht Bd.13.S.460参照。

（１７）　Zitelmann,Intern.Privatr.I.S.43以下の所謂能権 Kannrecht,Recht des rechtlichen Könnes は形成権 Gestaltungsrecht より範囲広くこれ等の権利をも包含す、Tuhr,Allgem.Teil S.159 の第二次権 Sekundäres Recht またしかり。余は一方行為によりて法律効果を発生しむる権利を以て広義の形成権とし、中につき一方的意思表示によるものを狭義の形成権と称せんとす。

（１８）　古き学説は Parrallelismus der mora debitoris und mora creditoris を主張す、例えば Madai,a.a.O.S.228 は曰く、,,Beide Arten der mora tragen denselben Charakter schuldvoller Verzögerung,und so warden beide,als ihrem Wesen nach einander völlig gleich,von den römischen Juristen behandelt.”この説に従う学者の名は Schey,a.a.O.S.14 Anm.3.に掲げたり。

（１９）　同説乾政彦氏、債権者の取引義務、法政大学創立三十周年記念論文集１４頁（４１６頁）計２４及び同処引用の諸著の外Oertmann, S.141;　Enneccerus,S.164;Rosenberg,a.a.O.S.245 ff.等。なお中島氏、民法釈義巻之三、３６１頁以下参照。

第３節　遅延及び遅滞

１　遅滞といえる概念は遅滞を要素とするや否や。独逸の学者は債務者遅滞及び債権者遅滞を通じて遅延を要素とするものと論ずるを常とす（１）。すなわち履行期において履行の成立せざる場合に爾後履行を為すことを許さざる債務にありては、履行の遅延を生ずること不能なるを以てまた遅滞を生ずることを得ざるものとす。

　遅延を以て遅滞の要素とするや否やの問題は不作為債務及び定期行為より生ずる債務について生ず。不作為の債務を負担せるものが既に違反行為を為せるときは爾後履行を為すこと不能なるを以て遅延即ち遅滞を生ずるの余地なしと論ぜらる。しかれどもこの問題は債務者遅滞のみに限られ、債権者遅滞にありてはこれを生ずるの余地なきを以て今はこれを論ぜず。不作為債務は前述の如く債権者の協力を俟たずしてその履行をなし得るものなるが故にこの理由によりこの債務については債権者遅滞を生ずるの余地なし。

２　債権者遅滞に遅延を要素とするや否やの問題は専ら定期行為について生ず。ここにおいて定期行為の性質を略述せざるべからず。

　定期行為（Fixgesch○ft）とは履行期が特に重要なる効力を有する法律行為を言う。分ちてニ種とす。その一は履行期が給付の要素を為し、履行期以外における給付は給付とならざるものこれなり。これを厳格なる定期行為または絶対的定期行為と言う。例えば特定の宴会の為めに料理を注文するが如し。そのニは履行期が給付の要素を為さざるも当事者が特に履行期を厳守すべき旨を定めたるものこれなり。これを相対的定期行為と言う。例えば旅行の為に夏服を注文し、特に必ず三日以内に給付すべき旨を約したる場合の如し（２）。

　絶対的定期行為にありては履行期以降において履行を為すこと不能なり。故に学者は履行期において履行の成立せざるときは直ちに履行不能を生じ履行遅延即ち遅滞を生ずるの余地なしとす。

　相対的定期行為について遅滞を生ずることを得るや否やについては、遅延を以て遅滞の要素とする学者の間においても議論岐れたり。あるいはこの場合においてもまた絶対的定期行為の場合に同じく履行不能を生じ、履行遅延を生ずるの余地なしとす（３）。あるいはこれに反しこの場合においては絶対的定期行為の場合と異れり、債権者は原則として直ちに契約の解除を為す権利を有するに止まるが故に（独民３６１条）債権者はまた解除を為さずして履行を請求することを得べく従って履行不能を生ずることなしとす（４）。

　定期行為に関する我民法第５４２条の規定が絶対的定期行為に関する規定なりやあるいは相対的定期行為に関する規定なりやは解釈上一の疑問に属す。石坂博士はこれを以て絶対的定期行為のみに関する規定なりとし、相対的定期行為についてはその適用なきものとす。しかれども絶対的定期行為にありては遅滞の結果履行不能を生ずるを以て（遅滞を生ぜずと謂うにあらず）第５４３条によりて直ちに解除権を成立せしむるを以て唯この種の定期行為のみの為めには特に第５４２条を設けて直ちに解除権の成立すべきことを定むる何等の必要なきのみならず、相対的定期行為を為せる当事者の意思より言うも、特に履行期に重要なる意義を付与したるものにして、即ち履行遅滞あらば契約を為したる目的を達することを得ざるものとして直ちに解除権を成立せしむるものと解するを正当とすべし。故に余は第５４２条を以て絶対的定期行為の外第５４１条に属する特別の場合、即ち債務者の履行遅滞存し未だ履行不能を生ぜざるも当事者が特に履行期を厳守すべき旨を定めたる場合をも規定したるものと解す（５）。

　民法第５４２条が定期行為の何れの場合を規定したるかを問わず、相対的定期行為にありては履行期の経過によりて当然履行不能を生ずることなく、債権者はなお履行を請求し得ること我民法の解釈上疑を容れず。故に定期行為について遅滞を生ずることを得るや否やの問題は唯絶対的定期行為のみについて生ず。絶対的定期行為にありては履行期以降においては履行は成立することを得ず。したがって履行期において履行成立するかあるいは全部履行成立せざるかのニ途あるのみ。履行の遅延を生ずるの余地なし。なお遅滞を生ずることを得るや否や。

３　遅延を以て遅滞の要素となす学説、即ち絶対的定期行為について遅滞の成立を否定する学説は如何なる理由によるものなりや。学者多くは当然の事理として詳しくこれを説かずといえども、要するに次の２個の理由に帰するものの如し。

（１）　遅滞（Verzug）という文字は、遅延即ち「延びる」という意義を有す。爾後履行を為すことの不能なる場合即ち回復可能（Nachholbarkeit）の存せざる場合においては履行の延引きということあるべからず（６）。

（２）　履行の不能と遅滞とは相反斥する観念なり。絶対的定期行為において履行を為さずして履行期を経過するときは履行不能を生ず。故に遅滞を生ずるの余地なし（７）。

４　余は遅滞には遅延または延引きの観念を必要とせず、したがって絶対的定期行為についてもまた債権者遅滞を生じ得るものと信ず（８）。その理由次の如し。

（１）　遅滞なる文字は一見遅延の意義を有するが如しといえども、遅滞といえる法律上の概念は単に文字の意義によりてこれを定むることを得ず、遅滞に関する法律の規定の内容によりてこれを定むることを要す。しかるに遅滞の意義を定めたる民法の規定は履行期以降においてなお履行を為すことの可能なることを要するや否やについてわずかも言及する所なし。債務者の遅滞については単に「履行ヲ為サズ」ということを規定するに止まり、また債権者の遅滞については「履行ヲ受クルコトヲ拒ミ又ハ之ヲ受クルコト能ハズ」と言うに過ぎず。更に遅滞の効果についてこれを見るに地帯の効果の一部は履行期以降における履行の可能なることを前提とするもその全部がこれを前提とするにあらず。即ち債務者遅滞の効果の中、履行を請求しかつ履行遅滞による損害賠償を請求する債権者の権利は履行期以降における履行の可能なることを前提とするも、履行に代わるべき損害賠償を請求する債権者の権利（９）及び遅滞以降において当事者の責に帰すべからざる事由による履行不能の場合における債務者の責任についてはなお履行の可能なることを前提とすることなし。また債権者遅滞の効果の中債務者が供託を為し得ること不履行によりて生ずべき一切の責任を免るることの如く、履行の可能を前提とするもの尠からずといえども、遅滞以降における不可抗力による履行の不能の如く履行可能を前提とせざるものまた無きにあらず。この如く遅滞の意義及びその効果に関する法律の規定は履行期以降における履行の可能を前提とすること無きを以て、単に文字のみを根拠として遅延を以て遅滞の要件とするは理論上及び法典上の根拠を欠くものと言わざるべからず。

（２）　履行不能と遅滞とを以て相対立したる観念となし、その一の存する場合においては理論上他の存在を許さずというは一部の真理を含む。しかれども従来学者が漫然両者を以て相排斥する観念としたるは精確を欠く。履行の能不能は債権の性質上履行期を中心としこの時を標準として決定することを要するが故に、遅滞の成立を排斥すべき履行不能の存するや否やの問題もまた、履行期を標準としてこれを決定せざるべからず。換言すれば履行期以前または履行期において履行不能の存するときは債務者は既に履行を為すや否やの事由を有せざるが故にその過失による不履行なるものもまた理論上存在することを得ず、また不能なる給付の履行提供なるものは理論上存在することを得ざるが故に債権者の方面において遅滞の成立すること能わざるは明なり。しかれども荀も履行期において履行の可能なるにおいては債務者はなお履行を為し、履行の提供を為すことを得るを以て債務者の方面においては過失によりて履行を為さずといえる事実の成立することを得べくまた債権者の方面においては提供せられたる給付の不受領といえる事実の成立することを妨げざるなり。

（３）　殊に債権者遅滞について我民法は債権者が履行を受くること能わざる場合即ち受領不能なる場合にもなお遅滞を生ずるものとす。しかしてその受領不能については一時的に受領不能なりやあるいは永久的に受領不能なりやを区別せず。故に債権者が受領を為すことの永久に不能なる場合、例えば器物を修繕すべき債務を有する者が履行期においてこれを修繕せんとしたるに債権者誤りてこれを破壊したる場合の如きにおいては爾後履行の成立することは不能なりと言わざるべからず。ここによりてこれを観れば履行期以降において履行の可能なることは我民法上受領遅滞の要件に属せざるものと解せざるべからず。

５　債権者遅滞に遅延を要するや否やの問題は我民法の解釈上実益多からず。遅延を生ぜざる場合即ち履行期以降における履行の不能なる場合においては縦令履行を受けざることまたは受くること能わざることによりて受領遅滞を生ずるものと解するも、その受領遅滞の結果直ちに履行不能を生ずるを以て普通の場合においては履行不能の効果を生ずるを以てなり。いかれどもその実益また絶無にあらず。

（１）　第５３６条第２項の適用。第５３６条第２項は危険負担に関する規定の一にして債権者の責に帰すべき事由によりて履行を為すこと能わざるに至りたるときは債務者は反対給付を受くる権利を失わざるものとす。所謂「債権者ノ責ニ帰スベキ事由」の意義如何については解釈上疑問尠からずといえども、石坂博士は債権者の遅滞以降において当事者の責に帰すべからざる事由によりて履行不能を生ずるときはその履行不能はまた債権者の責に帰すべき事由による履行不能なりとす（１０）。もしこの説に従うときは絶対的定期行為について受領遅滞の成立するや否や、遅延を以て遅滞の要素となすや否やの問題はこの条文の適用について大なる影響を有するものと言わざるべからず。けだし受領遅滞には過失を要せざること後に述ぶる所の如くなるを以て、受領遅滞以降における当事者の責に帰すべからざる事由による履行不能は必ずしも債権者の過失による履行不能にあらざるが故なり。詳言すれば絶対的定期行為にありては受領遅滞の結果直ちに履行不能を生ずるを以てもしこの場合において受領遅滞を認めかつ第５３６条第２項について論者の説に従うときは債権者に過失なきもなお同条のあることとなるべく、これに反して受領遅滞の成立を認めざるときは唯債権者に過失ある場合においてのみ同条の適用あるべきを以てなり。

しかれども余は不幸にして第５３６条第２項の解釈について論者の説に従うこと能わず。債権者の責に帰すべき事由による遅行不能を以て債権者遅滞の過失による履行不能なりと解し、しかして債権者遅滞には過失の存在を要せざるものと解するを以て債権者遅滞の結果たる履行不能またはその遅滞以降における履行不能は必ずしも債権者の責に帰すべき事由による履行不能にはあらず唯受領遅滞について債権者に過失ある場合においてのみ、遅滞以降における履行不能を以て債権者の責に帰すべき履行不能なりと解す（補註）。今これを詳論するの処に非ずといえども一言その理由を述ぶれば要するに次の２点に帰す。

（イ）　「当事者ノ責ニ帰スベキ事由」といえる字句を故意過失即ち広義における過失の意義に使用するは我民法の用例なり（４１５条等）。論者は債権者が履行については単に権利のみを有し義務を負わざるを以て債権者の過失なる観念を排斥し本条については「債権者ノ責ニ帰スベキ事由」なる字句を第４１５条と異りたる意義に解するものなるべしといえども我民法は義務の存せざる場合においてもまた過失の存在することを認む。第４１８条及び第７２２条はその適例なり。また理論上義務の存在せざる場合における注意の欠欠を過失と称するも敢て不当なるを見ず。

（ロ）　論者は債務者が履行遅滞以降に在りては事変に対して責任を負うと同じく債権者もまた受領遅滞以降においては危険を負担するものとなさざるべからずちなす。しかれどもこの債権衡論は債務者遅滞と債権者遅滞の性質の差異を看過せるものなり。債務者遅滞は過失を以て要素とするに反し（石坂氏、日本民法４８５頁、民法研究２巻４７頁）債権者遅滞は過失を要素とせず。故に債務者遅滞以降における事変による履行不能はその遅滞なくばその不能を生ぜずといえる場合においては、なお債務者の過失による履行不能なりと言わざるべからずといえども、債権者遅滞以降における事変による履行不能については同一に論ずることを得ず、唯債権者遅滞が特に債権者の過失に基づける場合においてのみ同一に論ずることを得るにすぎず。

　民法第５３６条第２項を以上の如く解するときは絶対的定期行為について受領遅滞の成立を認むるや否やの問題は同条の解釈に直接の影響あるものと言うことを得ず。

（２）　独逸民法の如く遅滞後における当事者の責に帰すべからざる履行不能について特別の規定ある法制においては（独民２８７条、３２４条）絶対的定期行為について遅滞の成立を認むるや否やの問題は解釈上直接の影響を有す。我民法上未だこの如き特別規定なしといえども、立法上この問題を攻究する実益なしと言うべからず。

（１）　遅滞が遅延を要素とするや否やは多く債務者の遅滞について論議せらる。遅延を要素とする学説，Paech,Leistungsverzug,der Leistungspflicht,1909,S.109.Staudinger-Kuhlenbeck,Komm.Verb.zu §§ 284 BGB.S.183. 遅延を要素とせざる学説、Rogowski,Die Zuwiderhandlung usw.1907,S.44（未見）、Golde,Archiv f.civil Prax.Bd.99.S.306 fg.Claperéde,Leistungsverzug I.1903,S.23.ff.Planck-Siber,Komm.Erl.2.a zu § 284 BGB.1914,S.259

債権者遅滞についても学者は一般に遅延を以て遅滞の要素とす、Schilling in den ,,Kritischen Jahrbüchern für deutsvhe Rechtswissenschaft”Bd.3.1838,S.224（未見）、Wolff,Zur Lehre von der Mora,S.115.Mommsen,Die Lehre von der Mora,S.183.Brinz,Pandekten,Bd.2.S.312.Schey,a.a.O.S.76.u.107.Enneccerus,Lehrb.§280.遅滞を要素とせざる学説、Kohler,Zwölf Studien,a.a.O.S.119.Rosenberg,Jherings Jahrb.Bd.43.S.143.Planck-Siber,Komm.Erl.3 zu§293 BGB.1914,S.295.

（２）　独逸民法３６１条は相対的定期行為のみを規定するを以て独逸の学者はこれを狭義の定期行為と称し、絶対的定期行為を以て広義の定期行為と言うもの多し。しかれどもまた絶対的定期行為、相対的定期行為の名を用いる者あり（Planck-Siber,Komm.zu§361 BGB.）また真正定期行為、不真正定期行為と呼ぶ者あり（Titze,Unmöglichkeit,S.34）。

（３）　Siber.Zur Theorie vin Schuld und Haftung,Jherings Jahrb.Bd.50.S.183.されど同氏が Planck-Siber,Komm.zu §361.において述ぶる所によれば相対的定期行為にありては遅滞の結果直ちに履行不能を生ずることなしとし、また上述の如く履行期以降に履行を為すこと不能なるもなお遅滞を生ずるに妨なきものとす。

（４）　多数の学者は独逸民法３６１条場合において履行期を経過するも当然履行不能を生ずることなしとす。Lesser,a.a.O.S.112.Planck.Komm.zu§361.Oertmann,Komm.zu§361.Staudinger-Kuhlenbeck,Komm.zu§361.Enneccerus Lehrb.§264 III.S.115.

（５）　石坂氏、日本民法、２２９０頁乃至２２９９頁。参照、拙著、日本債権法各論２１９頁。

（６）　例えばPaech,Leistungsverzug S.10に曰く Dies ergiebt schon die Wortbedeutung.Wer im Verzuge ist,verzieht,d.h.ist säumig mit der Leistung,woraus sich die Konsequenz ergiebt,dass es sich um eine ausstehende und noch nachholbare Leistung handeln muss.Anderenfalls wäre es unangebracht,von einem Leistungsverzuge zu sprechen.

（７）　例えばLesser,a.a.O.S.109.この如き説明をなす。その趣旨に曰く「元来不能の場合においては（理論上）遅滞もまた当然存在するものなりしかるに法律は理論上遅滞に属すべき場合の内特に不能なるものを区別す、もしこの区別を意義あるものとせんか、荀も区別を為し得る場合においてはこれを区別せざるべからずしたがって履行の時と履行の物体との両者について違反ある場合には後者を主とし、履行不能の存するものとなさざるべからず」と。

（８）　我民法の解釈上川名博士及び石坂博士は遅延を以て遅滞の要件に属せざるものとす、川名氏、債権法要論１４７頁、石坂氏、日本民法４６１頁。反対、中島氏、民法釈義、巻之３、３１６頁以下。

（９）　履行遅滞の効果として遅行に代わるべき填補賠償を請求することを得るや否やについては議論あるも今はその処にあらざるを以てこれを論ぜず、余は原則として債権者にこの権利を認むべきものと解す、拙著、日本債権法総論増訂版１３９頁参照。

（１０）　石坂氏、日本民法第８巻２１４２頁以下。

（補註）　この点説を改めたり、拙著、日本債権法各論増訂版１３５頁、拙稿前掲「債権法における信義誠実の原則」

第４節　過失及び遅滞

１　債権者遅滞は過失を要素とする法律事実なりや否や。もし過失を要素とするものとせば債権者遅滞の効果を定むるについて直接の影響あるべく、またこれを債権者の遅滞と比較せば両者はこの点において同一の性質を帯ぶるものとならん。

２　債権者の遅滞に過失を要するや否やの問題を論ずるに先ち、債権者の遅滞を要するや否やの問題について一言せざるべからず。履行遅滞ち過失を要するや否やの問題は羅馬法の解釈上及び独逸普通法上多少の論争を見たる所なり。しかれども通説及び判例は過失を要すること疑なきものとし１２の反対説は多く顧慮せらるることなかりき。独逸民法（２８５条）は明に過失を必要とする旨を規定せり。我民法の解釈については議論岐る。過失を必要とせざるものと解する学者ありまたこれに従える２３の判例ありといえども有力なる学説は履行不能の場合と同じく過失を必要とするものとす。今これを詳論することを得ずといえども、余は後説に従い、履行期に履行を為さざることにつき債権者に過失あることを必要とするものと解す（１）。

３　債権者の遅滞に過失を要するや否やについては独逸の普通法上頗る議論あり、過失説寧ろ多数なりき。

（１）　過失を必要とする学説はその過失を必要とする理由に従いてまた数説に分る。

（イ）　債権者の受領義務を認むる学者は債権者遅滞を以て債権者遅滞と同一の性質を有するものとなすが故に、債権者遅滞について過失を必要とする同一の理由により、債権者遅滞についてもまた過失を必要とするものとす。この説の批評については上に詳述したるを以て再説せず。

（ロ）　ウィンドシャイドの学説は特色を有す。氏は受領を以て債権者の義務と為すに非ずいえども、債権者は受領遅滞の効果として損失を蒙るものにして、法律の一般の原則上特に明文の規定あるにあらざれば、過失なき者に損失を帰することを得ざるが故に債権者遅滞には過失を要するものとす（２）。この説に対する批評は後にこれを述べん。

（ハ）　シャイの学説はややウ氏の学説に似たり。その趣旨に曰く、債権者は直接に受領を為す義務を負うものにあらずといえども債権者遅滞の結果として債権者は責任の軽減を受く、しかして義務者が他人の行為によりて責任の軽減を受くる場合においては一般にその他人の行為が過失に基づきたるものなることを要するも以て債権者遅滞には過失を要すと。しかして同氏がこの過失を認めんが為めに「何人をも害すべからず」という一般的義務を根拠とするは嘗て述べたるが如し（前掲第２章第２節註１１）。

（ニ）　債権者は原則として受領遅滞を負担するものにあらざるも、債権者遅滞は債務者遅滞と同一の性質を有するものなるが故に、後者についてさいけんしゃの過失を必要とするも均しく、前者についても債権者の過失を必要とすと論ずる学者あり（３）。しかれどもその採るべからざるは明なり。

（２）　債権者遅滞を以て債権者遅滞と異りたる性質を有するものとし、債権者の受領義務を認めざる学者は一般に過失を以て債権者遅滞の要素に属せざるものとす（前掲第１章註３）。

（３）　モムゼンはこの点について折衷説を主張し、敢て債権者の過失を必要とせざるも、履行の遅延が債権者の意思にその原因を有することを要するものとす。嘗て述べたる所なり（第１章註４）。

４　独逸民法は債権者遅滞に過失を必要とすることなし。唯履行期の定なくまたは債務者が履行期以前に履行を為し得る場合において債権者が受領を為すにつき一時的故障あるときは債務者が予め相当の期間以前に履行を為すべきことを通知したる場合においてのみ債権者は遅滞にあるものとす（２２９条）。これもとより債権者遅滞に過失を必要としたるにあらず過失を必要とせざる結果、期限の定めなき債務、期限前に債権者の履行を為し得べき債務にありては債権者は常に履行受領の準備を為すことを要することとなり、やや債権者に酷なるを以て特に債権者保護の為めにこの規定を設けたるなり。この点については独逸の学者間争なし。

　仏蘭西民法について債権者遅滞を認むる学者は皆過失を以てその要素とす。けだし明文の規定なき仏蘭西法において学者は債務不履行は不法行為を理由として債権者遅滞を認むるものなるが故に、過失を以てその要素とするは寧ろ当然なりと言うべし（４）。

５　我民法の解釈上債権者遅滞を以て過失を要素とする法律事実を為すことを得ず。未だこの点について詳論したるものを見ずといえども、過失を必要とせざるを以て通説となすものの如し（５）。余がこの説を採る理由次の如し。

（１）　債権者遅滞の意義を定めたる第４１３条は過失を以て要件となすことなし。殊に法律は債権者が履行を受くること能はざる場合にもなお受領遅滞の成立するものとし、しかしてその受領を受くること能はざる理由を問うことなし。故に過失を必要とするものと為すことを得ず。例えば債権者が債権の存在またはその範囲について錯誤（過失に基づかざる）に陥れる為め受領を拒絶したる場合はまたは債権者の不在、または疾患等の為め履行を受くること能はざる場合においてももとより債権者遅滞の成立を認めざるべからず。

（２）　我民法上債権者は受領遅滞を負わず故に債務者遅滞の場合に準じて過失を必要とするものと論ずることを得ず。

　債権者は受領遅滞を負はざるを以て遅滞の効果として一般に損害賠償の義務を負うことなし。故に過失なくば損害を負担せずという原則（Verschuldungsprinzip）によりて過失の存在を前提とするものと論ずることを得ず。

　独逸の学者は一般に義務なくしては理論上過失を認むることを得ず、債権者は受領義務を負はざるが故に理論上当然過失を前提とすること能わざるものと論ず。我民法についてこの理論を採用する学者あるは上に述べたるが如し。余は法律が特に債権者に遅滞について過失の存在を前提とするも敢て法律の一般的理論に反することなしと解す。しかれども義務なき所に過失を認めんが為には特に法律の規定を要す。しかして債権者遅滞についてはこの如き法律の規定存せざるが故にまた当然過失を前提とすること能わざるものとす。

（３）　債権者遅滞の効果として債権者は損失を蒙るを以てその過失をせざるべからずといえる上記ウィンドシャイドの所説は一応の真理を包含するものの如し。しかれども所謂債権者の受くる損失なるものは自己の権利を行使せざることにより当事者の蒙る当然の損失なり。敢て積極的損害賠償の義務にあらざるを以て過失を前提とすることを要せず。殊に所謂損失は債権者または債務者の何れかにおいてこれを負担せざるべからず、しかして債権者に過失なりとするも債務者にもまたもとより過失の存在するにあらず。故に履行の提供を為し債務の履行につきて自己の為すべき行為を完了したる債務者をしてその損失を負担せしめんよりは自己の行為によりて履行の成立を妨げたる債権者をしてこれを負担せしむるを正当とするものと言わざるべからず。

（４）　債務者が責任の軽減を受くるが故に債権者の過失を前提とすといえるシァイの所説もこれを採ることを得ず。倫理上他人の行為による責任軽減の場合には常に必ず他人の過失を必要とするものと為すべからず。近世の法律は過失の存せざる場合においても、事故の行為に基きて他人に損害を生じたる場合においてはなお損害賠償の義務を認むることあり。況や積極的損害賠償の義務を認むるに非ずして単に他人の責任を軽減するについては敢て行為者に過失の存することを必要とせざるも倫理上豪も支障なし。殊に我民法においては債権者遅滞の結果、独逸民法の如く債務者の責任軽減を認むるや否やについて疑問あり。我民法の解釈上これを認めざる学説を採るときはこれを理由として債権者遅滞に過失を前提とするものと論ずることを得ず。

　我民法の解釈上モムゼンの説を採るべからざるは受領不能を以て債権者遅滞と為すことにより多言を要せずして明ならん。

（１）　独逸における学説についてはHeymann in der Festgabe für Enneccerus 等を見よ。我民法の解釈につき石坂博士（日本民法４８５頁、民法研究２巻４７頁）及び横田博士（債権総論２３６頁）は過失を必要とするものとす、同趣旨の判例、東京地方裁判所判決、法律新聞４４０号６３９号。反対、岡松博士、無過失損害賠償責任論[学術選書１８１頁]、中島氏、民法釈義、巻の３、３４１頁以下、明治４０年１１月２日、大判、民録、１０６７頁、同４１年２月１５日、大判、民録、１０１頁、大正２年１１月１５日、大判、民録、９５６頁、９６０頁、大正８年９月１１日、大判、民録、１６０７頁。拙著、日本債権法総論�搨�版１３６頁以下参照。

（２）　Windscheid,Pandekten Bd.II.§ 345 S.446.これに対する批評 Kohler,Jherings Jahrb.XVII.S.410.Hirsch,Zur Revision usw.S.216.

（３）　Dernburg,Pandekten Bd.II.8.Aufl.§ 300.S.636.これに対する批評Hirsch a.a.O.S.217.

（４）　債権者遅滞を認むる仏蘭西の学者については上掲第２章第２節註２、３、第１章註５参照。これに反し　Crome,Grundlehren des französischen Rechts S.188.は過失を要せざるものとす。

（５）　同説、梅氏、民法要義４１３条４８頁、横田氏、債権総論２４４頁、２４９頁、石坂氏、日本民法６２３頁、川名氏、債権法要論２４６頁、中島氏、民法釈義、巻の３、３９６頁。

第３章　債権者遅滞の要件

債権者遅滞の要件は基本質に関する見解の如何によりて異る。吾人は債権者遅滞を以て過失を要素とする法律事実なりと認めず単に債権者の方面に存する理由により履行期において成立せざる事実なりと解するが故にしたがって次に述ぶる４個の事実を以てその要件なりとす。

（１）　債権者の性質上履行を為すが為めに債権者の協力を要すること。

（２）　債務の履行が不能ならざること。

（３）　債務の本旨に従いたる履行の提供あること。

（４）　債権者が履行を受領せずまたはその受領することの不能なること。

　以上４個の要件の中第一の要件については既に第２章において論述したるが故にここに贅せず。また第２の要件については受領不能と比較してこれを論ずるを便とするが故に特にこれを述べず。したがって本章を２節に分ち第１節において履行の提供を論じ第２節において不受領を及び受領不能を論ぜんとす。

第１節　履行の提供

第１項　履行の提供は要件なりや

１　我民法上履行の提供が債権者遅滞の要件に属するは疑を容れざる所に属す。民法第４１３条において「債権者ハ履行ノ提供アリタル時ヨリ遅滞ノ責ニ任ス」と規定するを以て履行の提供なくば遅滞を生ぜざること明なり。故に解釈論としてはこの問題を論議するの実益多からずといえども、沿革上頗る議論の存したる所なるを以てここにこの問題の意義を明にし、かつ立法上の当否を考覈せんとす。我民法の解釈論として磯谷幸次郎氏は履行の提供が常に必ずしも債権者遅滞の要件にあらざるものとす。この説については本篇の後に載せたる２論文を見るべし。

２　羅馬法において履行の提供（oblatio debiti）を以て債権者遅滞の要件となしたりしや否やは解釈上議論の存する所なり。独逸普通法学者の多数は羅馬法上履行提供を以て債権者遅滞の要件となしたるものと解すといえども（１）、債権者遅滞に関する有力なる学者たるコーラー及びシァイは理論上常に履行の提供を以て債権者遅滞の要件とするを非なりとするが故に、羅馬法においてもまた常に必ずしもこれを以て要件となさざりしものと解せり（２）。

今羅馬法の法源を列挙して両説の当否を研究することを得ずといえども通説に従うを以て寧ろ誤なきに近きものと信ず。けだし債権者遅滞に関するユスチニアン法典の法源は必ずしも例外なく債務者の履行準備の外に特に履行を受領すべき旨の催告を必要とすることなしといえども、供託、抛棄等を離れて債権者遅滞のみにつき提供（offerre）を必要とするもの寧ろ多数なるを以て夫の隅々提供を要することを挙示せざるものは寧ろ例外に属し特殊の理由に基けるものと解するを妥当とするが故なり。

３　近世の法律は一般に履行の提供を以て債権者遅滞の要件とす。独逸民法、スイス債務法の如き然り。しかれども独逸民法はこれを以て絶対的要件となすに非ず、債務の履行につき債権者の行為を要する場合において債権者の為すべき行為につき確定期限の定あるときは債権者がその行為を為さずして期限を経過することにより当然債権者遅滞を生ずるものとす。（独民２９６条）。したがってこの場合においては履行の提供を以て債権者遅滞の要件となさざること明なり。またスイス債務法（９１条）においても履行の提供を以て絶対の要件となすにあらず。債務者は適当に提供せられたる給付の受領を拒絶したる場合または債権者の為すべき準備行為を為すことを拒絶したる場合において遅滞に在るものとす（３）。

４　理論上より言うときは履行の提供を以て原則として債権者遅滞の要件となすを正当とす。あるいは債権者遅滞の本質上債務者の方面において履行の準備を為したることのみを必要とし、敢て債権者に対し履行を受くべき旨の意思の通知を必要とせずと論ずる学者なきにあらずといえども、単に履行準備（Erfüllungsbereitschaft）のみを要件とするときは債権者は履行準備の成立したることを知らざることあるべきが故に、ここによりて直ちに債権者遅滞の生ずるものと解するは理論上及び実際上不当なり。けだし理論上より言うときは債権者遅滞の成立するが為には債務者が自己の方面において債権者の協力を待たずして為すべき行為を完了したることを必要とするものと言わざるべからず。しかるに債務の履行に債権者の協力を必要とする場合においては（債権者遅滞はこの場合のみに生ず）債務者は単に自ら履行準備を為すに止まらずその準備を為したることを債権者に対して表示するに非ずんば未だその為すべき行為を完了したるものと言うことを得ざるなり。更に実際上より論ずるも履行準備のみを必要とするときは遅滞成立の時期を確定することを得ざるの不便あり。これ等の理由により原則としては履行の提供を以て遅滞成立の要件と為すを正当とするといえども、我民法上これを以て絶対の要件と為し何等の特則を設けざるについては疑問の挟むべきもの無きにあらず。乞う少しくこれを論ぜん。

（１）　債務の履行を為すが為に債権者の行為を要し、しかしてその債権者の行為を為すべき時期について確定期限の存する場合においては債権者が期限の到来せるに拘らずその行為を為さざるにより当然債権者遅滞を生ずるものと為すを正当とす。例えば海上運送契約において旅客が乗船時期までに船舶に乗込まざるとき（商法６３１条[現行７８０条]参照）または荷送人が船積期間までに船積を為さざるときは（商法６０２条[現行７４１条]参照）船長は直ちに発航を為し運送賃の全額を請求することを得るものなりといえども縦令船長が発航を為さざる場合においても旅客及び荷送人は履行の提供を待たずして当然債権者遅滞に在り船長の方面に債務不履行なきは勿論もし爾後の運送の為めに費用の増加するときはこれを債権者の負担となすを立法上至当なりとす。また例えば保険契約上保険者が保険料を取り立つべき場合には保険料を支払期において保険期役者が特に集金人を派遣すべき旨を催告せざるも、その時期において保険者が集金人を派遣せざるときは保険者は当然債権者遅滞に在るものとするを正当とすべし（４）。指図債権者または無記名債権の弁済に関しては商法に規定あり、債務者はその履行につき期限の定あるときといえどもその期限到来の後所持人がその証券を呈示して履行の請求を為したる時より遅滞の責に任ずるものとす（商２７９条[現行５１７条]）。その履行期以降呈示以前において債権者遅滞を生ずるや否やについては商法に明文なく、我法典の解釈上債権者遅滞を認むることを得ずといえども、立法論としては寧ろ債権者遅滞を認むるを以て妥当なりとせん。けだし金銭債務その他の債務が取立債務なる場合、その他一般に債務の履行につき債権者の行為を必要とする場合においてその取立の時期または債権者のその行為を為すべき時期につき確定期限の存するときは、債務者は特に債権者に対して取立その他の行為を為すべきことを請求することなく当然債権者が取立等の行為を為すべきことを期待するは、なお債務の履行につき確定期限ある場合において債権者が特に催告を為すことなくして当然債務の履行あるものと期待すると何等異る所なきを以てなり。故に後の場合において「期限は人に代りて提供す」（dies interpellat pro homine）の原則を採用するときは（４１２条１項）また前の場合において「期限は人に代りて提供す」（dies offert pro homine）といえる原則を採用すること立法上妥当なりと言うべし。羅馬法において「期限は人に代りて提供す」といえる原則を採用したりしや否やについては疑義の存するものあるが如し（５）。しかれども普通法における学説及判例は一般にこれを認めたり（６）。独逸民法が上述の如くこの原則を採用したるは普通法における通説に従いたるものにして、スイス債務法について学者の解する所またこれに同じ（７）。我民法において履行の提供を以て債権者遅滞の絶対的要件となしこの場合について何等の特則を設けざるは当事者間の保護の権衡を得ざるものと評せざるを得ず。

（２）　履行の提供を以て絶対的要件となすによりて不当なる結果を生ずべき第２の場合は債権者の所在不明または行方不明なるが為めに履行の提供を為すことを得ざる場合これなり。履行の提供は後に述ぶるが如く履行の準備のみを以て足らず必ず履行を受領すべき旨の催告を必要とし、しかして催告は到達によりてその効力を生ずること明なるが故に債権者の所在不明なるが為に催告の到達することを得ざる場合においては債権者遅滞を生ぜざるものと解せざるを得ず。この場合について羅馬法には特殊の法則あり。債務者は履行の準備を為したることを裁判所の記録に記載せしむることによりて債権者遅滞を発生せしむることを得たり（８）。独逸の普通法学者はこの法則に基きて債権者が不在にしてかつ代理人を置かざる場合には裁判所において、提供の意思表示を為すにより債権者遅滞を成立せしむることを得るものとす（９）。独逸民法においてはこの場合について何等の規定を設けずしたがって解釈上多少の論争ありといえども、一般の意思表示につき、公示送達の方法によりて不明なる相手方または所在不明なる相手方に対し意思表示をなすことを得るものと規定するが故に（独民１３２条）学者はまたこの方法によりて履行の提供を為し得べきものと解するを常とす（１０）。我民法においては履行の提供に関して何等の特則を設けざるのみならず意思表示の通則においても所在不明なる相手方に対して意思表示を為すべき何等の方法を規定することなし（１１）。故にこの如き場合においては履行の準備を為すことを得べしといえども受領催告を為すの方法存せざるが故に履行提供を為すの方法無しと言わざるべからず。これを法典の不備と称せざるを得ざるなり（１２）。

（１）Mommsen,a.a.O.,S.230;Brinz,pand.,II.,S.331;Hirsch,a.a.O.,S.201 ff.;Rosenberg,a.a.O.,S.147 ff.

（２）　履行提供を必要とせざることを力説するは Kohler in Jh.Jahrb.,Bd.17,S400 ff.なり、 Schey,a.a.O.,S.108 ff. もまた羅馬法源は必ずしも履行の提供を要件とせざるものと解するも、彼は債権者遅滞の要件として過失を必要とし、しかして債権者に過失ありと言わんが為めには原則として催告ありたることを要するものとす。

（３）　Oser,Kommentar zum Schw.Z.G.B.,Bd.V,Art.91,S.305. もまた一定の場合には履行の提供を必要とせざるものと解す。

（４）　保険料支払債務は我商法上原則として取立債務に非ずまた保険契約上これを取立債務となすの例多からずといえども、実際上の慣習においては集金人を派遣するを常とす。この慣習の効力については保険法上疑問の存する所なり。今は論ずることを得ず。

（５）　Mommsen,a.a.O.,S.173―175 はこれを認む、Hirsch,a.a.O.,S.211 ff. はこれに反す。

（６）　Rosenberg,a.a.O.,S.158 の註 15)及び 16)に学説及び判例を挙げたり。

（７）　Oserのスイス債務法註釈書前掲参照。

（８）　1.6.c.4,32:absente vero creditrice praesidem super hoc interpellare debueras.

（９）　Mommsen,a.a.O.,S.168 fg.;Windscheid,a.a.O.,S.443 zu note 4c;Brinz,a.a.O.,S.311,Note 20;Wolff,a.a.O.,S.436;Dernburg,Preuss.Privatr.,S.170 fg.etc.

（１０）　Windscheid-Kipp,S.443;Rosenberg,a.a.O.,S.159 fg.これに反し Kohler im Archiv f.bürg.R.,Bd.13,S.199はこの場合には提供を要せざるものとし Planck-Siber zu § 294,S.296は提供を要するもその到達することを要せざるものとしHirsch S.253 は履行の提供を為すの方法なきが故に債権者遅滞を生ぜず。単に供託または自助売却を為し得るに過ぎざるものとし、また Munk,Begriff und Voraussetzungen der mora creditoris,1898,S.64 fg. （未見）は現実の提供を要する場合には提供の方法なく、言語上の提供のみについて第１３２条の適用あるものとす。この他明にこの問題を論ぜずといえども履行の提供について意思表示に関する規定の適用または準備ありと解する学者は第一説を採るものと解して可なり故に第一説を以て多数説と認む。

（１１）　所在不明なる相手方に対し一般に意思表示を為すの方法を規定せざるは法典の不備なり、川名氏、日本民法総論１８０頁、拙著、民法全書第２巻３５頁、２０１頁。[この点現行民法９７条の２（昭和１３年追加）参照]

（１２）　この場合において供託を為すの方法あるを理由として法典の不備にあらずと論ずることを得ず。供託は物の給付を目的とする債務のみに関するのみならず供託と債権者遅滞とは相並びて債務者を保護すべき制度なるを以てその一を認むることを得るが故に他の必要なしというべからず。殊にこの場合において供託の要件を備うるや否やは多少疑問の存するところなり、余は第４９４条所謂「受領スルコト能ハサルトキ」に該当するものと解するも（同説、石坂氏供託論、民法研究３巻１９９頁）判例は反対の見解を採るが如し（拙著、日本債権法�搨�版４３９頁参照）。

第２項　履行の提供の本質

１　履行の提供はまた弁済の提供と言う。履行の準備を為したることを通知しその受領を催告する債務者その他弁済者の行為なり。これを分ちて現実の提供及び言語上の提供と為すこと羅馬法以来の通説にしてまた我民法の採用する所に属す。今各種の提供を述ぶるに先ち履行提供の本質及び要件について論述せんとす。

２　履行の提供を以て性質上法律行為なりと認むること独逸における通説なり。しかれどもその法律行為なる所以を明瞭に説明せる者はマニック以外にこれを発見することを得ざるが故に今同氏の説く所によりて法律行為説の大要を紹介せんとす（１）。曰く履行の提供より生ずる債権者遅滞の効果は提供者これを欲したることを必要とせざるものにしてこの点においては提供は効果意思を内容とするものにあらず。しかれども一方に効果意思を要件とせざる法律効果を生ずることは必ずしもその行為の法律行為たるを妨げるものにあらず、他の一面において効果意思を要素とする法律上の効果を生ずるときはその行為を以て法律行為と為さざるべからず。しかるに履行の提供は即ち弁済の提供にして弁済は法律行為なるを以て履行の提供はその現実の提供たると言語上の提供たるを問はず常に弁済の申込にして意思表示なると共に、またそれ自身法律行為となりと言はざるべからず。けだし申込の効果即ち拘束力は常に申込者の意思に従いて発生するものならばなり云々。

　マニックの所論はその前提を是認するときは極めて明快なり。弁済を以て法律行為なりとしかつ申込を以て法律行為なりと解するときは、履行の提供は弁済の申込にしてかつ法律行為なりと為さざるを得ず。しかれども余はこの２個の前提共にこれを是認することを得ざるが故にこの説に従うことを得ず。今弁済の本質に関する論争に関して詳述することを得ずといえども、余は弁済を以て給付の実行行為なりとし債権を消滅せんとする意思即ち弁済意思を以てその要素と為さざるものとす（２）。しかして弁済を以て効果意思を要素と為さざるものと解するときは弁済の提供についてまた効果意思を必要とせざるものと解するは理論上寧ろ当然のことに属す（３）。更に申込に関してもまた余は意思表示説を採り法律行為説に従わず。けだし申込は契約成立を欲する効果意思の表示なるが故に意思表示なること疑なしといえども、申込のみによりて生ずる法律効果は契約の成立にはあらずして所謂申込の拘束力（一定の期間申込の撤回を許さざる法律上の状態）に過ぎず。しかるに申込のこの拘束力は申込者の意思を問わずして被申込者の保護及び取引の安全の為に法律の特にこれを認めたるものに外ならざるが故なり（４）。

３　履行の提供を以てある場合においては法律行為にしてある場合においては法律行為にあらずと解する学説あり。これを折衷説と称うるを得べし。その中につて更に二派の別を認むるを得。

（１）　ブライトは弁済の本質について折衷説を採り、弁済の内容たる給付行為が法律行為なるときは弁済は法律行為なるも、給付行為が事実行為なるときは弁済もまた事実行為なりと解するを以て弁済の提供についてもまた同様の区別をなす。すなわち法律行為たる弁済の提供には行為能力を要し殊に限定能力者については、提供は一方的法律行為なるを以て、法定代理人の同意（事前の同意）を要するも、事実行為たる弁済の提供は意思表示にあらざるを以て行為能力を要せざるものとす（５）。

（２）　クラインは履行の提供に弁済の申込たるものと然らざるものとありとし弁済の申込たるものについては、弁済を以て契約なりと解するを以て当然意思表示なりとす。しかして同氏は申込の拘束力を以て申込者のこれを欲したるによりて生ずるものと解するが故にまたこれを法律行為と認むるものと解せざるを得ず。以上の異義においてクライン氏が弁済の申込すなわち法律行為なりと認むる履行の提供は事実上の提供の全部及び言語上の提供の中所謂取立債務の場合これなり。これに反し言語上の提供の中債務者において未だ給付をなすが為めに必要なる行為を完了したるにあらず唯その予備行為を為したるに止まり、給付を為すが為めには債権者の行為を必要とする場合においては申込の外形を有すといえどもその実、意思の通知（Willensmitteilung）にすぎず法律がこの意思表示の通知に対して第２９３条以下の効果を付興したるに止まるものとす（６）。余が折衷説に従わざる理由は略々第一説に述べたる所によりて明なるべくまた後に卑見を述ぶるに当りて反覆の必要を生ずるを以て今はこれを省く。

４　履行の提供を以て意思表示にあらず意思通知に過ぎざるものと解する学説はエルツバッヘルこれを唱う。同氏は特に言語上の提供に関し、これによりて給付を為すべき債務を生ずるにあらず唯債権者遅滞の効果を生ずるに過ぎざるを以て意思通知に過ぎざるものとす（７）。

５　意思通知説に一歩勧めたるものはジーバーの説なり。同氏は履行の提供を以て法律行為的意思表示にあらざるものとなすのみならず意思表示の規定を準用すべき意思通知にもあらざるものとす。すなわち現実の提供にありては、債権者において受領その他の協力行為を開始すべき程度に至るまで、事実上履行行為を為すことを要するに止まり、また言語上の提供にありては履行を為すが為めに債権者の方面に存する故障を除去せんと試むる行為を要するに止まるものにして、これ等の行為は意思表示におけるが如く債権者に到達せることを必要とせず。したがって債権者の所在不明等の場合においては公示送達の方法によるが如き無用の手続きを必要とせざるものとす（８）。しかれども少くも解釈論としてはこの説に従うことを得ず。法律が債権者遅滞の要件として単に履行準備の成立を必要とすることなく、履行の提供を必要としたるは、履行準備の成立したる事実及び債務者が給付を為さんとする意思を有することを債権者をして了知せしむることを必要としたるものと解せざるを得ず。したがってまた了知に代るべき到達を要する通知行為を必要とするものと解せざるべからざるなり。

６　余は我民法の解釈上履行の提供を以て履行の準備を為したることを通知しかつその受領を催告する一の準法律行為または法的行為（Rechtshandlung im engeren Sinne）と解す。今まずその法律行為にあらざる所以を論じ次にその法的行為なる理由を述べんとす。

（１）　履行の提供は効果意思を要素とせず。故にこれを以て意思表示を要素とするものとなすことを得ず。しかるに法律行為は意思表示を以てその欠くべからざる要素とするが故に履行の提供は法律行為たることを得ず。

　履行の提供が効果意思を要素とするや否やの問題は２個の関係においてこれを研究することを要す。その一は提供そのものより生ずる効果すなわち債権者を遅滞に附するの効果に対する関係これなり。もし債権者遅滞を生ずるが為めには提供者がこれを欲したることを必要とするときは提供は効果意思の表示たらざるを得ず。しかれどもこの点に関しては学者の多く疑を抱くものなし（９）。法律は特にこの如き意思を要する旨を規定せざるのもいならず債権者遅滞を認めたる理由より考うるもこの如き意思を要するものと為すことを得ず。けだし債権者遅滞を認むる立法上の理由は既に述べたる如く債務者がその為すべき行為を為したりという事実に基づくものなればなり。その二は債権消滅という効果に対する関係これなり。債務者その他弁済者は債権消滅を欲する意思を表示することを要するや否や。法律行為説を採る多数の学者はこの意思の表示を要するものとす。しかれども弁済の本質に関し給付の実行行為なりと解する学説に従うときは、唯給付実行の為めに必要なる債権者の協力を興うべしという意思を通知するに止まり敢て債権消滅を欲する意思の表示を必要とせざるものと解せざるべからず。したがって例えば他人の子弟に対して教授を為すべき債務を負担するものがその履行の提供を為さんとするに当りては唯その子弟に対して教授を為すべき旨の意思を通知するを以て足り、敢て債務弁済の意思を表示することを要せず。故にまたこの意思の受領に関しては意思表示の場合におけると同一の程度において受領能力（民９８条）の存することを要せず。また例えば未成年者が労務を為す債務を負担せる場合においては単に労務を為すべき意思を通知するを以て足るが故に敢て法定代理人の同意あることを必要とせず。もとより弁済の内容として例えば物権を移転の申込は契約の申込にして意思表示なること勿論なりといえども、これが為めに履行の提供そのものを以て意思表示と為すべからざるはなお弁済の内容たる給付の法律行為たる場合において弁済そのものを以て法律行為となすべからざるに同じ。

（２）　履行の提供は法律行為なりや否や。法的行為とは法律効果生ずる人の行為にして違法行為に属せずまた法律行為にあらざるものを総称す（１０）。履行の提供は違法行為にあらざること言を俟たずまた法律行為にあらざることは上述の如くなるを以てこれに積極的に法的行為為ることを論証するが為めには唯法律効果を生ずるものなることを論ずるを以て足る。

　あるいは履行の提供を以て弁済行為の一部となしこれを以て独立なる法的行為と認めざる学説あるが如し。即ち石坂博士は事実上の提供に付き「単に債務の内容を実現する行為の一部として観察するを以て足る」ものとす（日本民法６１６頁）。しかれども言語上の提供に関しては履行準備の通知たる観念通知と受領の催告たる意思通知とによりて成立するものとし（前掲）。しかして観念通知及び意思通知はこれを法的行為なりと認むるが故に（１１）この点より見るときはあるいは法的行為説を採るものの如し。余の見る所を以てすれば履行の提供は単に給付行為の一部として給付行為の他の一部（債権者の協力）と結合して債権消滅といえる法律効果を生ずるに止まらず、法典上よりいうときは第４９２条の規定するが如く債権者をして「其提供ノ時ヨリ不履行ニ因リテ生スヘキ一切ノ責任ヲ免レシ」め、また理論上より言うときは債権者を遅滞に附するの効果を生ずること、なお履行の請求によりて債務者を遅滞に附するの効果を生ずると同一なるが故に、恰も履行の請求を以て法的行為なりと認むると均しくまた履行の提供を以て法的行為とするを正当とす。

７　法的行為または準法律行為について学者は観念通知（事実の通知）意思通知及び感情表示を区別するを常とす。履行提供は如何なる意義において法的行為なりや。余は事実の通知と意思通知との二者を包合する一種の法的行為なりと解せんとす。今その理由を述ぶるに当りて、言語上の提供と現実の提供とを区別するを便とす。

（１）　言語上の提供については民法第４９３条の規定により我民法の解釈上疑を容るる余地なし。即ち同条によるときは「弁済ノ準備ヲ為シタルコトヲ通知シテ其受領ヲ催告スル」ことを以て所謂言語上の提供の成立要件となすが故にこの場合における履行の提供は準備の成立したる事実の通知と受領を催告する意思の通知とを以て成立する一の法的行為なりと言わざるべからず。独逸民法第２９５条の規定する所はややこれと趣を異にし単に一定の場合においては「言語上の提供（Wörtliches Angebot）を以て足る」と規定するに止まるを以て所謂言語上の提供の成立するが為めには必ずしも事実の通知を要せず単に意思の通知のみを以て足るものと解するの余地無きにあらず（１２）。

（２）　現実の提供に関しては言語上の提供におけるが如く直接に法文に根拠して論ずることを得ずといえども、履行提供の性質上また同一に解せざるを得ず。民法第４９３条によれば「弁済ノ提供ハ債務ノ本旨ニ従ヒテ現実ニ之ヲ為スコトヲ要ス」るものとす。その「現実ニ之ヲ為ス」の意義に関しては明瞭なる解説を下したるものを見ずといえども、余の解する所によれば、これ即ち言語上の提供に関するものにして、言語上の提供にありては履行を為し得べき状態に在るの事実を債権者に言語上通知することを要するに止まるも、現実の提供にありては履行をなし得べき状態に在るの事実を事実上表示することを要するものとす。換言すれば履行を為し得べき状態に在るの事実を文書その他の方法によりて通知するを以て足れりとせばこれを債権者に開示して債権者において直ちにこれを認識し得べき状態を作成することを要するなり。故に現実の提供と言語上の提供との間には本質上差異あるにあらず共に債務者（弁済者）が弁済を為し得べき状態に在ることを通知して給付の受領を催告する行為に外ならず、唯現実の提供にありては債務者がその弁済を為し得べき状態に在ることを通知するに当り直ちに事実を開示することを要するに反し言語上の提供にありては言語（口頭、文書、使者の何れを問わず）を以てこれを告ぐるを以て足るのみ（１３）。したがってまた言語上の提供を以て観念通知と意思通知とを包合する法的行為なりと解すると同一の理由により事実上の提供もまた同一上の性質を有する法的行為なりと為さざるを得ず。

（１）　法律行為の独逸における通説なることはOertmann,zu § 294;Breit,Geschäftsfähigkeit,S.230　の認める所にして、またMotive I.S. 139 は履行の提供を単独行為の例として掲ぐ。石坂氏の日本民法第２巻６１６頁註４には現実の提供を以て法律行為なりとする学説の代表者としてブライトの上掲著書及び Rosenberg,a.a.O.,S.157 を掲ぐ。しかれどもブライトはこの説の代表者として目することを得ず。同氏は弁済の本質に関して折衷説を採り弁済の内容たる場合においてのみ法律行為なりと解するものなるが故に履行の提供の問題に関してもまた折衷説を採ること後述の如し。またローゼンベルヒをこの説の代表者と認むるはエルトマンの註釈書の述ぶる所にして、恐くは誤なからん。しかれども、同氏は履行の提供を以て eine einseitige empfangsbedürftige Willenserklärung （受領を要する一方的意思表示）なりと言うに止り直ちに Rechtsgeschäft　なりと言うに非ずロ氏が弁済を以て単独行為なりとするによりて見れば（同氏前掲２１２頁）同氏の意は法律行為説なるべしといえどもこれをこの説の代表者と認むるはやや危険なりと信ず。余の見る所によれば Manigk,Willenserklärung und Willensgeschäft 727 fg. を以てこの説の代表者と為すべきものの如し。なお Planck の註釈書（２９５条）は法律行為説を採るもその新版（Planck-Siber）はこれに従わず。

（２）　拙著、日本債権法�搨�版３９１頁以下参照。

（３）　Breit, Geschäftsfähigkkeit,S230.

（４）　拙著、日本債権法各論�搨�版１６頁、３０頁、同説、石坂氏日本民法第５巻１８２５頁以下。

（５）　Breit,Geschäftsfähigkeit,S.230.

（６）　Peter Klein,Zurücknahme von Willensmitteilungen in Archiv für Bürgerl.R.,Bd.33,1909,S.253 fg.　同氏のRechtshandlungen im engeren Sinne,1912 には多くこの事を論ぜず唯なお弁済を以て契約なりと解するを以て依然同説なるを知り得べきのみ。思うに同氏が弁済の提供について二個の場合を区別するは弁済につき契約説を採る同氏の立脚地より見れば頗る巧妙なるものと言うべし。独逸民法に言う弁済の提供には直ちに給付を受領せよという意思を通知するものと給付をなすべきによりまず債権者において債務者の給付を為し得るが為に必要なる行為を為せという意思を通知するに止まるものとあり。契約説を採るときは前者は契約の申込と見るを得べく、後者は申込を為すの予備行為として申込を為すことを得べき状態を作成せよという意思の通知と解せざるべからざるなり。

（７）　Eltzzbacher,Handlungsfähigkeit,1903,S.179;Oertmann,a.a.O.は上述の如く弁済の提供を以て法律行為と認むること通説なりとし、かつ弁済の提供について弁済そのものにおけるよりも、より強き要件を必要とせず説くに止まるも、この点と同氏が弁済の本質につき非法律行為説を採り効果意思を必要とせざることを主張するの点とを比較すれば同氏はまた弁済の提供につき効果意思を必要とせず即ち意思表示説あるいは法律行為説を採らざるものと言わざるべからず。なお Prot.I.S.129 に記されたる提案者は催告、履行の提供の如きは疑もなく法律行為にあらざるものとす。

（８）　Planck-Siber,Komm.zu § 294,S.296 und zu § 295,S.299.

（９）　上述の如く弁済の提供を以て法律行為なりと認むるマニツク及びクラインもまたこの点に関しては効果意思を必要とせざものとす。

（１０）　法的行為はまた法律的行為または準法律行為という。その意義については拙著、民法全書代２巻２４頁以下に掲げたる諸書の外特に　Peter Klein,Rechtshandlungen im engeren Sinne,1912,S.7 ff. 参照。

（１１）　石坂氏、民法研究第１巻３８０頁以下「通知及び通知義務」。中島博士は現実の提供については一方的方津行為または事実行為なりとし（民法釈義、巻の３、３７７頁）口頭提供は法律行為なりとす（３９２頁）。

（１２）　前掲註７参照。石坂氏（日本民法６１７頁）は曰く「法典は言語上の提供は履行準備の通知と協力の催告とを含むものとなすといえども履行の準備を要せず債権者の協力あるときは直に履行を為すことを得べき場合には準備の通知を為すを要せず単に催告のみによりて提供の効力を生ずるものと解すべし」と。この後の場合は例えば債務者が債権者と協力して特に準備を要せざる単純なる労務を為すが如き場合を言うものなるべし。しかれどもこの場合に履行準備の通知なしと解するは我民法の解釈として正当ならざるものと信ず。もとよりこの場合においては履行準備の為めに特殊の行為を為したりということを通知するにはあらずといえどもなお債権者が協力を興ふるときは債権者は履行を為すことを得る状態に在りという事実を通知するものなるが故になお事実の通知を包合するものにして単純なる催告のみにあらずと解せざるべからず。

（１３）　現実の提供と言語上の提供との差異に関する学説については後に述ぶ[本書１５１頁以下]。

第３項　履行提供の一般的要件

１　履行提供の要件については現実の提供および言語上の提供に通ずる要件とその各個に特殊なる要件とを区別することを得。これに述ぶる所はその前者に限る。

　履行の提供の一般的要件の第一はその提供せらるる給付が債務の本旨に従えることこれなり。今債務の本旨に従うというの意義について詳述しべきにあらずといえどもその履行の提供について問題となるべき範囲内においては多少の説明を加うるの必要を見る。

２　給付の内容が債務の本旨に従うことを要するは言を俟たず。しかして給付の性質の異れる場合においてはもとより債務の本旨に従うものと言うことを得ず。したがって例えば債務者の単純なる作為を目的とする債務（絵を描く債務、歌を歌う債務等）にありては債権者は第三者の履行の提供を拒絶するも債権者遅滞を生ずることなし。給付の数量の異れる場合においてもまた原則としては債務の本旨に従えるものと言うことを得ず。しかれどもこの点については多数または多量なる場合と少量または少数なる場合とを区別するを要す。後の場合においては所謂一部弁済の提供にしてその原則として有効なる提供にあらざるは言を俟たず。前の場合においては容易にこれを分離して債務額のみを受領することを得べき場合においてのみ債務の本旨に従いたる履行の提供となるものと解す（１）（補註）。

３　履行提供の時期に関しては第１３６条の規定する所により債務者は原則として履行期依然においても有効なる履行の提供を為し得べきこと疑を容れず。これ履行の提供が債務者遅滞の場合における催告と要件を異にする点の一なり。この点に関し独逸民法（２９９条）は特則を設け債権者が履行を提供するが為めに一時的の故障ある場合には債権力者遅滞を生ぜざるものとす。立法論としては独法の規定を以て妥当なりと信ず。けだし履行期依然における履行の提供は債権者の予期し難き所なるを以て全然債権者の保護を顧慮せざるは権衡を失するものなればなり。しかれども我民法の解釈としては同一に解することを得ず。

　履行期以降における履行の提供が債権者遅滞を生ずるに適するや否やについては議論あり。絶対的定期行為の場合を除き一般には有数なる履行の提供となるものと解する説あり。またこの説に似たるも絶対的定期行為の場合の外履行期以降における履行が債権者の利益とならざる場合を除外する者あり。余は大体において後説に従うも債務者遅滞の存する場合においては債権者は原則として履行の提供を拒絶して所謂填補賠償を請求し得るものと解す（２）。

　なお履行期の前後を問わず著しく不当なる時間において履行の提供を為すは債務の本旨に従わざるものと解せざるべからず。

４　履行提供の場所については多く述ぶべき所なし。弁済の場合において履行の提供為すべきこと言を俟たず。この点に関しては履行の時期におけるが如く債務者保護の為めに特則の存することなし。なお著しく不当なる場所において履行の提供を為すべからざるは履行の時期におけると同一なるものと解す（３）。

５　履行提供の一般的要件の第ニは履行提供を為す人に関す。履行の提供を為し得べき人は債務者なることを要するや否や、独逸民法においては言語上の提供につき特に「債務者の言語上の提供は」と規定するが故に（２９５条）第三者は現実の提供を為すことを得るも言語上の提供を為すことを得ざるものと解するを通説とす（４）。しかれども我法典は言語上の提供について特殊の制限を設くることなきを以て同一に解することを得ず第三者もまた弁済を為すことを得る範囲内において（民４７４条）現実及び言語上の提供を為すことを得るものとす（５）。但しこれが為めに弁済の場所を変更することを許さざるは勿論なるを以て例えば取立債務にありては第三者が債務者の住所において債務を為すべき旨を通知するを要す。不可分債務者の一人または連帯債務者の一人の為したる履行の提供は他の債務者にその効力を及ぼすものと解すべきか。余は嘗て消極説を採りたるも、第三者が弁済の提供を為したる場合においてすらこれによりて生ずべき債権者遅滞の効果は債務者に及ぶものなるが故に、本問の場合において生ずべき債権者遅滞の効力は共同債務者に及ぶものと解するを正当とす（６）。

６　履行提供の第三要件は提供を受くべき人に関す。履行の提供は何人に対してこれを為すことを要するか。原則としては「債権者及び有効に弁済を受領することを得る者に対してはまた有効に弁済の提供を為すことを得」と言うを得べし。しかれどもこの原則に対して多少の例外を認めざるべからず。

（１）　債権者の代理人の為したる弁済受領の拒絶が債権者遅滞を生ずるや否やは独逸の普通法上議論の存したる所なり。通説によれば一般的代理人と特定的代理人とを区別し前者の拒絶は債権者遅滞を生ずるも後者の拒絶はこれを生ぜざるものとす（７）。しかれども既にローゼンベルヒの論ずるが如く権限の一般的なりや否やによりて区別を設くるは正当にあらず。その行為について特に無条件にて受領すべき権限を授与せられたりやあるいは給付の内容を審査して受領するや否やを決定すべき権限を授与せられたりやを以て標準となさざるべからず。しかして通常の場合においては後に述べたる権限を有するものと解すべきが故に特に無条件にて受領すべき権限のみを授与せられたるにあらざれば代理人の拒絶は債権者遅滞を生ずるものと言わざるべからず。

（２）　債権の準占有者、受取証書の持参人に対する弁済は一定の条件の下において有効なるも、これ等の者に対する弁済の提供は債権者に対して何等の効力をも有することなし。これ等の場合においては弁済成立して初めて法律の規定する効力を生ずるに止まるべきこと法文上及び理論上言を俟たず（４７８条、４８０条参照）。

（３）　債権者が行為能力を備うることを要するや否やの問題は既に一言したるが如く弁済の内容たる給付行為の法律行為なりや否やによりて決す。その法律行為ならざる場合においては意思表示の受領能力を必要とせず。

（４）　不可分債権（債権者多数なる不可分債権関係）にありては債権者の一人に対して履行を為すことを得るも（４２８条）。法律の規定する所は履行のみに限るが故に一人に対する履行の提供を以て直ちに総債権者に対する関係において債権者遅滞の要件を具備したるものと解することを得ず（８）。

（５）　債権の譲渡ありたる場合においてその譲渡の通知または承諾以前に譲渡人に対し履行の提供を為したる時は譲受人に対する関係においてもまたその効力を生ずるを以て原則とす（４６７条４６８条）。然れども譲渡人が既に債権を譲渡したることを理由として受領を拒絶したる場合においては債権者遅滞を生ずることなし。けだし受領拒絶と同時に債権者譲渡を通知するものなるが故に受領拒絶による債権者遅滞は通知以前に生じたる対抗事由と称することを得ざるを以てなり（９）。

７　履行提供の第四の要件は履行準備の存在することこれなり。しかれども如何なる範囲において履行準備の存在することを必要とするかについては各種の履行提供について差異ある故にこれを事項に譲り、ここには単に履行準備の存在を必要とする時期および履行準備の存在に関する挙証の責任について論述するに止めんとす。

（１）　履行準備の存在を必要とする時期については法典に直接の明文を置かずといえども、履行の提供を為したる時においてその存在することを要するは理論上言を俟たざる所に属す。現実の提供にありては後に述ぶるが如く履行の準備の存在する事実を事実上債権者に呈示することを要するが故に、提供の時において履行準備の存在することを必要とすること勿論なり。また言語上の提供については法典上明に履行の準備を為したることを必要とするが故にまた履行提供の時において履行準備の存在ずることを必要とするものと言わざるべからず。

　履行準備は何時まで存続することを要するか。この点については法典に規定を欠く。しかれども債権者が弁済を受領しそのた履行の成立に必要なる協力行為を為すについて必要なりと認むべき期間内履行準備の存続するを以て必要にしてかつ十分なるものと解せざるべからず。詳言すれば現実の提供にありては債権者は直ちに受領を為し得べき地位に在るものなるが故に遅滞なくこれを受領すべくもし遅滞なくこれを受領せざるときは債権者遅滞を生ずるものとす。しかれども他の極端に趨りて債権者に寸刻の猶予をも与うることなく直ちに履行準備の状態を破壊するは（例えば持参したる弁済の目的物を一瞬時呈示して直ちに持帰るが如きは）これを債務の本旨に従いたる提供と為すことを得ず。債権者が弁済の目的物を審査する為めまたは弁済の目的物を倉庫に運搬するが為めに普通に必要なりと認めらるる時期はなお履行準備の状態を存続せしむることを要するものとす。次に言語上の提供にありては債権者は弁済受領の為めに出張し、または給付を成立せしむるが為めにその他の協力行為を為すことを必要とするものなるが故に、債権者がこれ等の行為を為すに必要なりと認むべき期間内履行準備の存続することを要するものと言わざるべからず。

　以上の如く履行準備は履行提供の時に存在し履行の成立するに必要なりと認むべき時期まで存続することを要するもその時期以降においては存続することを必要とするものにあらず。あるいは債務者が一定の期間内に給付を為すべき場合にはその期間内履行準備の存続することを要し、また給付を為すべき期間の定なくかつ何時においてもその給付をなすことを得べき場合においては常に履行準備の存続することを要するものと解する学説無きにあらず（１０）。しかれどもこの説の採るべからざるは明なり。債権者遅滞の存続期間内常に履行準備の存続することを要するは債務者に対して酷に失するのみならず、もしこれを必要とするときは債権者遅滞といえる制度の効用は殆ど全く消滅するに至るべし。履行準備を件いて履行の提供を為したるときは債務者は債権者の協力を俟たずして為し得べき行為を完了したるものなり、これによりて債権者遅滞を生ずるものとなさざるべからず。もし爾後に至りて履行準備消滅しかつ債権者が履行の請求を為したるときは債務者の遅滞を生ずることあるべしといえども、履行準備の消滅のみによりて債権者遅滞の消滅するものと為すことを得ず（１１）。

（２）　履行準備の存在について裁判上争を生じたる場合には債務者及び債権者の何れが挙証の責任を有するか。これ独逸の普通法上多少議論の存したる所なり。羅馬法にはこの点に関して何等の定めなく、独逸の普通法において通説及び判例は債務者が挙証の責任を有するものとなせり。独逸の第一草案においてはこれに従いたるも独逸民法（２９７条）はこれを改めて債権者が履行の準備なかりしことを証明する責任を負担するものとなせり（１２）。けだし債務者が履行の提供を為したる場合において履行準備の存在せざることは寧ろ稀有なる現象と認めたるが故なり。我民法においてはこの問題に関して何等の規定を置かず。しかして履行準備の存在することは履行提供の積極的要件に属するを以て、履行提供の存したることを主張する当事者（債務者）においてその挙証の責任を負うものと解せざるべからず（１３）。

（１）　１０本の麦酒を注文したるに１２本を提供したるときは、その１０本のみを受領すること容易なるを以て債務の本旨に従いたる履行の提供となすべきは明なるべし。金銭債務を弁済する場合について釣銭を出すことを要するや否やは、議論の存する問題なり（Krückmann,Recht,1901,S.85 fg.;Rosenberg,a.a.O.,S.178,Enneccerus Lehrb.Bd.I,Abt.2,§180,Anm.40;Oertmann,zu § 293,S.142;Staudinger-Kuhlenbeck,Vorbem.zu §§ 244,245,S.34 und zu § 294,S.208 etc.参照）。必ず債務額と同一の額を提供することを要すと解する説あり、取引の慣習に基き信義の原則に従いて解決すべしと解する説ありまた原則としてこの原則に従うも債権者が釣銭を出すこと能ざる場合にはこれを拒絶することを得るものと解する説あり。余は本文に曰えるが如くその場合において分離を為すことの容易なる場合即ち釣銭を出すことの容易なる場合にこれを拒絶するときは債権者遅滞を生ずるものとす。これ債務の履行、債権の行使共に信義の原則に従うべきことを原則とするものと解するが故なり。石坂氏、日本民法６１４頁参照。なお拙稿「釣銭について」法協、３５巻（大正６年）２０７７頁[本書３９７頁]。

（補註）　少数少量なる場合にも信義則を顧慮するを要す。

（２）　拙著、日本債権法総論�搨�版１３９頁註６参照。履行期以降における履行の提供が債権者の利益とならざる場合においてこれを以て債務の本旨に従いたる履行の提供と認むべからず。故に債権者遅滞を生ずるに適するものと解することを得ず。またこの範囲内においては債務者遅滞の効果として履行を拒絶して填補賠償を請求し得ること明なり。然れども我民法は履行遅滞の効果として一般に損害賠償を請求することを許すが故に履行期以降における履行の提供を拒絶して填補賠償を請求し得る場合は必ずしも以上の場合に限らざるものと解す。独逸民法については２８６条以下の規定存するにより多く疑問を生ぜずRsenberg,a.a.O.,S.180　参照。

（３）例えば債権者自身に返還すべきことを定めたる場合においても婚礼の席上または債権者の停車場より出発せんとする際に携帯に不便なりものを弁済することを許さざるが如し。

（４）　Oertmann,a.a.O.,S.147(dort Zitate)これに反しRosenberg,a.a.O.,S.170は取立債務の場合に限り第三者もまた言語上の提供を為し得べきものとす。

（５）　同説、石坂氏日本民法６１頁、三瀦氏、第三者の弁済を論ずる宮崎博士記念論文集４４８頁。

（６）　石坂氏前掲、余がこの論文を法協に掲げたるときは消極説なり。拙者、日本債権者総論�搨�版２４４頁。

（７）　Rosennberg,a.a.O.,S.171,172にこの問題に関する参考書を挙ぐ。この問題は厳格に言うときは履行提供の要件に関する問題にはあらずして受領拒絶の要件に関する問題なるも便宜上これに述ぶ。

（８）　この問題は独逸普通法上連帯債務について議論の存したる所なり。絶対的効力説　Madai,a.a.O.,S.437.相対的効力説　Wolff,a.a.O.,S.496;Mommsen,a.a.O.,S.317.独逸民法は前説を採る（４２９条）。我民法の解釈として石坂氏の説く所は少々明瞭を欠く。日本民法６１３頁においては「不可分債権にありては債権者の一人に対して履行の提供を為すことを得といえども総債権者の為にこれを為すことを要す」るものとするを以て総債権者の為に一人に対して履行の提供を為すときは総債権者に対する関係において債権者遅滞の要件を備うるものとなすが如きも、９５３頁においては債権者遅滞を相対的効力を生ずる事項に数う。

（９）　Rosenberg,a.a.O.,S175fg.この場合において債権者が更に履行遅滞を為すことを要するによる�揄ﾁ費用を請求し得るや否やの問題は遅滞の問題は遅滞の問題とは関係なく第４８５条によりて解決せらるべきものなり。余は同条の解釈上債権者においてこれを負担すべきものと解す。

（１０）　Munk,a.a.O.,S.5.

（１１）　Rosenberg.a.a.O.S.164 fg. 独逸民法は第２９７条の規定を設けたるを以てこの点について疑問を生ぜず。

（１２）　Leist,Archiv f.civ.Praxis,Bd.83,S.215;Munk,a.a.O.,S.70,Note 271 及び　Rosenberg,a.a.O.,S.165 に掲げたる判決。

（１３）　独逸民法２９７条の適用範囲に関しては、解釈上議論なきにあらず、総ての履行提供に関するものと解する学説あるも（Rosenberg,a.a.O.,S.166）言語上のていきょうのみに関するものと解するを多数説と認むべきものの如し（Oertmann,Planck-Siber zu § 297）これ事実上の提供は第２９４条により履行準備の存在を以て積極的要件とするが故なり。

第４項　履行提供の種類

履行提供を分かちて現実の提供及び言語上の提供となす。しかして債権者遅滞の要件として法律は現実の提供を必要とするを原則とし、一定の場合においてのみ言語上の提供を以て足るものとす。今まず両者区別の標準を述べ次に言語上の提供について詳論せんとす。

１　現実の提供と言語上の提供との差異はその提供の方法に存するものと解するを通説とす。しかして前者にありては提供の方法事実的なるに反し、後者にありてはその方法事実的なることなく単に言語的なるに止まるものとし更に何等の説明をも加えざるを常とす（１）。しかれども単に事実上提供すといい、言語上提供すというによりては区別の標準を明にしたるものと言うことを得ず。所謂言語上の提供にありても全然準備の事実を必要とせずというにあらざるのみならずその提供の方法もまたもとより口頭の通知なることを要するにあらず文書、使者等を以て通知するももとより妨なき所なり。また事実上の提供に関しても単に準備の事実あるを以て足るにあらずその事実成りたることを債権者に通知することを要しかつ債権者の協力（給付の受領）を欲する意思を通知することを要するは言を俟たず、即ちこの場合においてもまた履行準備の通知及び受領催告を必要とするものと言わざるを得ず。しからばその事実上の提供と言うは何の謂ぞ。

２　あるいは弁済者の方面において債務者の為すべき一切の行為を完了したるときは事実上の提供にして、未だその一切の行為を完了せざるときは言語上の提供なりと解することを得べきが如し（２）。しかれども所謂取立債務の場合において履行の準備を完了して取立を催告するは法典上及び学説上言語上の提供に属すること明なるが故にこの如く解することを得ず（３）。けだし取立債務においては債権者の住所に至りて弁済を為すことは債務者の為すべき行為に属せざるが故に、既に履行の準備を完了して取立を催告するときは、債務者の方面において為すことを要する一切の行為を完了したるものと解せざるべからざるが故なり。

３　ローゼンベルヒは現実の提供と言語上の提供とを区別するを以て理論上無意義にしてかつ実際上何等の利益なきものとし、提供の方法には元来一ありて二なく単に履行の準備について差異を設くることを得るに過ぎざるものとす。その要旨に曰く、提供の方法は常に履行準備（Erfüllungsbereitschaft）の表示にして一の意思表示なり、しかしてその意思表示の方法そのものについては何等の差異なきを以てこの点について現実の提供と言語上の提供とを区別することを得ず、唯その所謂履行準備の内容に関して差異を設くることを得るに過ぎず。換言すれば問題を如何に提供することを要するや否やに存するにあらずして何が履行準備として必要なるかに存するなり。しかして債権者が受領または取立によりてのみ履行に協力すべき場合には事実上履行準備の存在することを要するも、その他の場合即ち債権者がその他の行為を以て履行に協力することを要する場合及び債権者が予め受領を拒絶したる場合には言語的履行準備の存在するを以て足る云々（４）。この説は解釈論としてこれを採ることを得ざるのみならず理論上また明瞭を欠くものなしとせず。取立債務の場合において履行の準備を為して取立を催告するは法典上言語上の提供に属すること明なるに拘わらずこの説によるときは事実上の提供となるを以て解釈論としてこれを採るを得ざるは明なり。しかれども余がこれに反対する主要なる理由は履行準備の意義不明なるが為なり。口氏の所謂履行準備は債権者が履行の準備を為したりという事実なりやあるいは履行を為さんとする意思なりやあるいはまたその両者を包含するものなりや明瞭なりという事を得ず。もし現実の提供にありては履行を為さんとする意思に加えて履行準備を為したる事実あることを要し、これに反して言語上の提供にありては履行を為さんとする意思に加えて履行準備を為したる事実あることを要し、これに反して言語上の提供にありては履行を為さんとする意思のみを必要と解するものなるときはその当否は暫くこれを措き、その区別は極めて明瞭なりと雖、ロ氏の所謂言語的履行準備の場合においても履行を為し得べき事実の存在することを必要とせざるにはあらず。債務者は総ての準備行為を為し債権者の協力あらば給付を為すことを得べき状態に在ることを要するものとす（５）。故にこれを以て言語上履行の準備なりというは履行準備の事実を要せず単に準備ありと告ぐるを以て足るものと解することを得ざるなり。思うにロ氏が履行準備の差異に区別の標準を求めたるは善く肯綮に当れりといえども法典の辞句と一致せしめんが為めに言語的履行準備なる観念を用たるは正鵠を得たるものと言うことを得ず。我民法は幸にして言語上の提供なる字句を使用せず従って言語上なる文字に拘束せられて解釈を試むるの必要を見ざるなり。

４　事実上の提供及び言語上の提供の区別に関する卑見は既に一言したる所なりといえども（註[１４２頁]１３について見よ）更にこれを詳説すれば次の如し。

　履行の提供は債務者その他弁済者が履行を為し得る状態に在りという事実の通知と債権者の協力を催告する意思の通知によりて成立す。しかしてこの意思の通知に関して現実の提供と言語上の提供との間に何等差異の存することなし。唯事実の通知に関してはこれを事実上呈示するや否やの差異を設くることを得。法典が履行の提供は原則として現実にこれを為すことを要するものと規定したるはこの意義において債務者の履行を為し得べき状態に在るの事実を事実上呈示することを必要としたるものと解せざるべからず。故に語を換うれば両者の差異は履行準備に存するものと言いて可なり。現実の提供にありては債権者その他弁済受領者が履行準備の成立したる事実そのものを認識し得る状態に在ることを要するに反し、言語上の提供にありては履行準備の成立したる事実について通知を受くるを以て足る。即ち前者にありては履行準備の成立したる事実そのものを債権者の了知し得べき位置に置くことを要するに反し、言語上の提供にありては履行準備の成立したる事実について通知を為すを以て足るなり（６）。

（１）　Oertmann,zu § 294 等皆然り。

（２）　石坂博士は一見この説を採るものの如し。即ち事実上の提供に関しては「債権者が単に自ら為すべき受領行為を為すにより債務の履行を完了すべき程度において債務者が履行の為めに必要なる行為を為すを云うものとす」（日本民法６１５頁）。しかれども取立債務の場合を言語上の提供を許可する場合に加うるによりてみればこの説を採りたるものと解することを得ず。

（３）　独逸民法２９５条は特にこれを規定す、我民法は特にこれを規定せざるも解釈上疑なし。

（４）　Rosenberg,a.a.O.,S.150 ff.,S.183 ff. 同氏は tatsächliches Angebot を以て Angebot mit tatsächlicher Erfüllungs-bereitschaft とし wörtliches Angebot を以て Angebot mit wörtlicher Erfüllungsbereistschaft なりとす。同氏の説に対し Oertmann,zu § 294は einen bwrechtigten Kern を有するも法典の字句に適せざるものと評せり。石坂氏、日本民法６１７頁参照。

（５）　ローゼンベルヒが言語上の履行準備に関し履行準備の事実を要するはその１８８頁に明らかなるのみならずその挙ぐる例によるも肖像画を描くべき美術家は絵具絹布を用意して出張を求むるを要するものとし、手術を為すべき医師は手術用具包帯助手看護婦等を用意したることを必要とするによりて疑を容れず。

（６）　平易に説明すれば区別の標準は履行準備の事実を携えて提供を為すや否やに存するものと言いて可なり。ただこの説明によりては債務者が債権者の許に出頭して労務を為すべきことを提供する場合の如く、有体物の携帯を必要とせざる場合を包合せざるものと称せらるるおそれあるが故に本文の如く説明するなり。余の見解は従来の見解に対し実際上の結果において異れるにあらず。単に事実上提供すというの意義を理論上説明したるに止まれり。また区別の標準は提供の方法に存するや履行準備に属するやの問題に関しては履行準備の差異による（意思通知の方法上における差異にあらず提供の方法の差異に存するものと解するなり）。

（補註）　信義則煮従いて言語上の提供における履行準備を解すればその程度は現実提供における履行準備の程度に達することを要せざるものと解するを正当とすべし、即ち直ちに履行を為し得べき準備を要せず遅滞なく履行を為し得べき準備あるを以て足るものと解するを正当とすべし、拙著、日本債権法総論�搨�版４２７頁。

第２目　言語上の提供

　言語上の提供の意義に関しては既に詳論したるを以てここには債権者遅滞の要件として言語上の提供を以て足る場合を述べかつこの場合における特殊の要件を述べんとす。

１　言語上の提供を以て債権者遅滞を成立せしむるに適する場合は法典にこれを掲げたり。次の如し。

（１）　債権者が予め給付の受領を拒みたるとき。債権者が給付を受領せざる意思を予め債務者その他弁済者に通知したるに拘はらずなお現実の提供を必要とするときは債務者その他弁済者に対して酷に失するのみならず無用の労力と費用とを必要とするを以て法律は言語上の提供を以て足るものとしたるなり。しかしてその受領拒絶の方法は時期については何等の制限なしといえども債務者その他弁済者に対して拒絶の意思を通知することを要するは寧ろ言を俟たざる所なり。したがって例えば偶然第三者に対して債務者の給付を受領せざるべき旨を告ぐることあるもここに言う受領拒絶となることなし。また多数当事者の債権にありては不可分債務者の一人または連帯債務者の一人に対して為したる受領拒絶は他の債務者に対して何等の効力を有することなく（４３０条、４２９条、４４０条）また不可分債権者の一人の為したる受領拒絶はその効力を他の債権者に及ぼすことなし（４２８条）。

　受領を拒絶すというは履行期において給付の受領を為さずというの謂なり。故に予め「履行期に遅るるときは給付を受領せず」という意思を通知するももとよりここにいう受領拒絶となることなし。「履行期以前においては給付を受領せず」というの意思を通知したるときまた同じ。しかれどもこの後の場合においてはこれが為めに債務者が期限の利益を放棄して履行期以前において弁済を為すべき権利を失うの理由なし。したがって債務者はなお履行期以前において履行を為し、履行の提供を為すことを得るものとす唯その提供の方法は現実の提供たることを要するのみ。受領拒絶の理由はこれを論ぜず。したがって受領の準備調わざるによりたると給付を受くる利益の消滅したるとあるいは債務の存在せざるものと信じたるとその他の理由によりたるとを問うことなし。但し債務免除の意思に出でたるときまたは契約解除の意思に出でたるときにおいてこれ等の意思の表示ありと認むべき場合にはこれ等の意思表示となるの結果受領拒絶とならざることあるべきのみ。

　受領拒絶の法律上の性質に関しては多少議論の存する所なり。意思表示なりと解する説あり（７）。また法律行為なりと解する説あり（８）。しかれども近時有力なる学者はこれを以て意思通知に過ぎざるものと解する者漸く多し（９）。余もまたこの説を採る。けだし受領拒絶は法律効果に対する意思の表示にあらずして単に事故の不作為に関する意思の通知に外ならず。しかしてその結果として債務者その他弁済者が現実の提供を為すことを要せざるに至るは債権者のこれを知りかつこれを欲したることを必要とせざる法律効果に外ならざるが故なり。

　受領拒絶は意思表示にあらざること以上の如しといえどもなお一定の意思の通知を要素とする法的行為なり。したがってその性質の許す範囲内においてこれを意思表示に関する規定を準用することを要す。例えば行為能力、意思表示の効力発生時期に関する規定はこれに準用して可なり。これに反して条件、期限に関する規定の如きはこれを準用するの余地なし（１０）。

　受領遅滞の意思通知は債務者においてこれを撤回することを得（１１）。けだし債権者は受領拒絶により債権を失うことなくしかして現実の提供を必要とせざる理由は債権者が受領拒絶の意思通知を撤回するによりて消滅するを以てなり。この撤回は受領拒絶によりて生じたる法律効果を撤廃せんとする意思表示にあらずして債権者が拒絶の意思を有せざることを通知する行為にすぎず、故に意思表示にあらずして意思通知なり。その効力もまた取消の如く既往に遡及することなく唯将来に対するのみ。したがってその到達以前既に債務者が言語上の提供を為したるときはその提供は完全なる効力を有するものとす。

（２）　債務の履行につき債権者の行為を要するとき。言語上の提供を以て足る第二の場合は給付行為成立の為に特に債権者の行為を必要とする場合これなり。

　履行につき債権者の行為を必要とするというは履行成立の為めに単純なる受領行為以外に債権者の協力を要することを謂う。単純なる受領行為のみを要する場合を包含するにあらず。けだし単純なる受領行為をも必要とせざるときは債務者のみにて履行を成立せしむることを得べく従って履行提供の問題を生ぜざるを以て、現実の提供を必要とする場合においてもなお単純なる受領行為はこれを要するものなること明なればなり。

　債権者の協力は事実的なると法律的なるとを問わず。債権者が債務者の住所に来たり給付を受領すべき場合（取立債務）または肖像画揮毫の為に協力すべき場合等においては債権者の協力は事実的なり。また債権者が例えば売買の目的物の品質、数量を指定する権利を有しまたは選択債務において債権者が選択権を有する場合においてはその協力は指定権または選択権の行使にして法律的なり。その他協力行為の内容は債務関係の内容に応じてその態様を一にせず、荀も受領行為以外債権者の協力なくしては債務者において給付を為すことを得ざるときは総てここにいう要件を備えたるものとす。

　債権者の協力行為はまた協力義務を伴うや否やを問わず。債権者は原則としてこの義務を負わざること上に述べたるが如しといえどもその義務の存否はもとより提供の方法に関する問題とは関係を有せず。

２　言語上の提供は如何なる程度において履行準備を必要とするか。これ言語上の提供の成立要件に関し最も疑問の存する所なり。独逸の普通法において現実の提供と言語上の提供との差異を債務者が給付の目的物を持参するや否やに求めたる一派の学者は言語上の提供について現実の提供におけると同一なる履行準備の存することを必要と為し、したがって所謂取立債務につてはこの種の履行準備を為すことを得べきも、給付の目的物を確定するにつき債権者の協力を必要とする場合においては未だこの如き履行準備を為すことを得ざるが故に未だ有効なる言語上の提供を為すことを得ず、したがってまた債権者遅滞を生ずることを得ざるものと解せり（１２）。しかれどもこの説は極めて不当なる結果を生ずるを以て多数の学者及び判例はこれを採らず給付の内容を確定するが為めに債権者の協力を必要とする場合においてもなお言語上の提供を為し得べきものと認めたり（１３）。故に多数説によれば言語上の提供については必ずしも現実の提供におけると同一なる程度において履行の準備を必要とせざるものと言わざるを得ず。

　我民法においては単に「弁済ノ準備ヲ為シタルコトヲ通知シ云イ」と規定するに過ぎず。したがってその弁済の準備の範囲については各個の場合においてその債務関係の内容に応じてこれを決定することを要するものと解すべく、必ずしも現実の提供におけると同一の準備を必要とするものと解するの要なし。これ立法論としても当を得たるものと信ず。

（１）　取立債務については現実の提供におけると略略同一なる履行準備を要するものとす。けだし取立債務と持参債務との差異は唯債務者が弁済の目的物を持参することを要するやあるいは債権者において取立の為めに来ることを要するやに存するに過ぎざるを以て、履行準備を債務者の住所において成立せしむることを以て足るや否やの一点を除きては、取立債務の場合における履行準備は持参債務におけると異ることを得ざるなり（１４）。　

（２）　給付の目的物を確定するが為めに債権者の行為を必要とする場合、その他債務者が給付に着手するに先ちて債権者の協力を必要とする場合においては現実の提供におけると同一の程度において履行準備を為すことを得ず。しかるに法律はこの場合においてもなお履行の提供を為すことを得べきもものとすること明なるを以て、この場合において提供に必要なる履行準備は現実の提供におけると同一の程度に達せることを必要とせざるものと言わざるべからず。しかしてこの場合について如何なる程度の履行準備を必要とするかについては法律に明文なしといえども、債権者遅滞の趣旨及び債権債務の性質より論ずるときは、債権者の協力あらば遅滞なく給付を為すことを得べき程度において給付の準備行為を為すことを要するものと言わざるべからず。例えば債権者の指定する寸法に従いて椅子を調整する債務を負担せる者は椅子の調整に必要なる材料、労力、場所及び時間を準備するを以て足るべく、自己の画室において肖像画を揮毫する債務を負担せる者は画室、絵具、絵絹及び時間を準備することを以て足り、また債権者の選択する給付を為すべき債務を負える者はその選択に応じて何れの給付にてもこれを為すことを得べき地位に在るを以て足れりとす。要するに債権者の協力に応じて遅滞なく給付を為すことを得べき状態を成立せしめたるときは法律の要求する履行準備を為したるものと解せざるべからず。

　あるいは言語上の提供についても給付の成立するが為めに債務者の方面において為すことを要する一切の行為を完了したることを必要とする学説あるが如し（１５）。しかれども上に掲げたる諸例について明なるが如く、債権者の協力ありて初めて債務者において給付に着手することを得べき場合においては、その協力以前において、給付を為すが為めに必要なる行為を完了することは事実上不能に属す。しかもこの如き場合において履行の提供を為すの方法なく、したがって債権者遅滞を成立せしむるの途なしと解すべからざるは理論上言を俟たざるのみならず、法典の字句に徴するも単に「履行ノ準備ヲ為シ」たることを必要とするに止まるを以て、法律は債権者の協力なくして債務者の為すことを得べき履行準備のみを要求するものと解せざるべからざるなり。したがってまた種類債務について「物ノ給付ヲ為スニ必要ナル行為ヲ完了シ」たりというと（４０１条２項）第４９３条において「弁済ノ準備ヲ為シ」たりというとは必ずしもその意義を一にせざるを見るべし（１６）。

　債務者その他弁済者が債権者の協力に応じて遅滞なく給付を為すことを得る状態に在りや否やは当その給付に関する取引上の慣習を斟酌してこれを決定することを要す。協力あるや否や瞬時に給付を為すことを得ることを必要とするは債務者に対して酷に失す。当その給付につきて通常許与せらるべき荷造の時間、秤量の時間の如きはこの場合においてもまたこれを許与すべきこと勿論なり。独逸の判例は給付の目的物が未だ債務者の手裏に存せざるも、何時にてもこれを給付し得べき地位に在る場合には履行準備の存するものとす（１７）。給付の目的物の種類によりてはこれを以て履行準備の調いたるものと解するを得べし。以上の意義において債務者その他弁済者は一般に相当と認めらるべき履行準備を為すことを要するものと解して可なり（１８）。

　もしそれ立法論としては取立債務の場合、給付に着手するが為めに特に債権者の行為を必要とする場合及び債権者が弁済の受領を拒絶したる場合を通じてこれを同一なる規定の下に一括したるは策の得たるものにあらず。受領拒絶の場合においては履行準備の徒労に帰すること寧ろ十中の八九にいるが故に提供と同時に履行準備の存在せることを要求せざるを以て寧ろ妥当なりとせん。法典の所謂「履行ノ準備ヲ為シタルコト」を解釈する者宜しくこの点に留意するを要す（１９）。

（７）　Staudinger-Kuhlenbeck,zu § 295,S.210 はこれを以て einseitige,empfangsbedürftige Willenserklärung なりとししかも法律行為にはあらざるものとす。同氏は催告及び言語上の提供についても、また意思表示にして法律行為にあらざるものとす。Vgl.Komm.zu § 284.S.187.

（８）　Planck,zu § 295.dagegen,Planck-Siber zu § 295 S.297.

（９）　Eltzbacher,Handlungsfähihkeit,S.184;Klein,Zurücknahme von Willensmitteilungen,a.a,O.,S.251,Anm.25.derselbe,Die Rechtshandlungen i.e.SS.163,Anm.182;Oertmann,zu § 295.石坂氏、日本民法６１頁、拙著、民法全書第２巻２７頁。

（１０）　行為能力に関する規定を準用すべきは一般に学者の説く所なり Oertmann,zu §295.石坂氏、民法６１８頁等。錯誤、詐欺、強迫に関しては学者の説く所未だ詳ならず、クラインは比較的詳細にこれを論ず（前掲２５７頁以下）独立に詳細に研究することを要するを以てここにはこれを略す。

（１１）　Oertmann,zu §295;Staudinger-Kuhlenbeck,zu § 295;Klein,Zurücknahme von Willesmitteilungen,S.269.石坂氏、日本民法６１８頁。

（１２）　Römer,Abhandlungen aus dem römischen Recht usw.,Heft I,S.140;Mommsen,a.a.O.,S.154 fg.

（１３）　Windscheid,S.442,§ 345 Note 4a その他　Rosenberg,a.a.O.,S.183,Anm.10　に掲げたる諸著及び判例。

（１４）　同説 Oertmann,zu § 295,S.146;Rosenberg,a.a.O.,S.155,158.

（１５）　Hirsch,Zur Revision der Lehre vom Gläubigerverzuge,S.241 は一見この説を採るが如きも恐らくは用語の精確を欠けるものなるべし。

（１６）　種類債務において債権者が品質の指定権を有する場合に債務者が履行の準備を為して品質の指定を催告するは言語上の提供たることを得、しかれども未だ種類債権の特定を生ぜず。その他両者の関係については拙著、日本債権総論�搨�版３０頁参照。

（１７）　RG.Bd.50.S.260;Planck-Siber,zu § 297,S.301.

（１８）　拙著、日本債権法総論�搨�版４２７頁註１。Rosenberg,S.193 fg.に従い独逸民法について「もし債権者の協力ありしと仮定せば債務者は給付を為すことを得たりしなるべし」という状態の存在することを以て言語上の提供に必要なる履行準備と解する学説あり（Staudinger-Kuhlenbeck,a.a.O.）。しかれども我民法は積極的に履行準備の存したることを以て言語上の提供の要件となすが故にその儘にこれを採用することを得ず。履行準備の程度につき大正７年１２月４日大判、民録、２４集、２２８８頁、中島氏釈義巻の３、３８９頁。

（１９）　Planck-Siber,zu § 297,S.321 参照。

第２節　債権者の不受領

債権者遅滞の第二の要件は債権者が債務者の提供したる給付を受領せざることこれなり。民法第４１３条はこれを分ちて受領拒絶及び受領不能とす。次に項を分ちてこれを論ぜんとす。

第２項　受領拒絶

１　「債権者ガ債務ノ履行ヲ受クルコトヲ拒ミ」たるときは債権者遅滞を生ずること法典の明に規定する所なり（４１３条）。しかして法典はこの場合においてもなお履行の提供ありたることを前提とすること上述の如くなるを以て、履行を拒むと謂うは受領を拒絶するの謂に外ならず。換言すれば債務者に対して履行行為を為すことを禁止するの意思通知を必要とするにはあらずして、単に履行成立の為めに債権者の行為を必要とするに当り、その行為を為すことを拒絶するを謂うなり。したがって他人の不作為を要求する請求的意思表示にはあらず。

　受領拒絶は債権者の受領または協力をなさざる単純なる消極的状態を謂うかあるいは拒絶の意思の通知を要するか。独逸民法第２９３条は「債権者が提供せられたる給付を受領せざるときは」債権者遅滞を生ずるものとす。しかして受領不能については特に規定を設くることなし。故に学者は不受領を以て受領を為さざる消極的状態なりと解し、その債権者の意思に基きたりや否やを問うことなし（１）。我民法について石坂博士はこの説を採る（日本民法６２３頁）。しかれども余は我民法の解釈上この説に従うこと能わず、受領拒絶は債権者の意思に基きたることを必要とするものと解す。その理由次の如し。

（イ）　民法第４１３条は「履行ヲ受クルコトヲ拒ミ」という字句を使用す。故に文字解釈としては意思を要素とするものと解するを正当とす（２）。

（ロ）　受領拒絶と受領不能とを対立せしめたるについて見るときは拒絶には意思を要するものと解するを正当とす。けだしもし受領拒絶が受領を為さざる消極的状態の全部を包含するものと解するときは受領不能の場合もまたこの状態の一に属すること明なるが故なり。

（ハ）　意思を要素とするの結果が極めて不当なるときは反対説の如く「受クルコトヲ拒ミ」なる字句を自由に解釈するの理由あるべし。しかれども民法は受領拒絶の外に受領不能を掲げ、しかして受領不能は後に述ぶるが如く一般にその種類の履行を受くることが不能なりというの意義にあらずして「現に提供せられたる給付」を直ちに（遅滞なく）受領することの不能なるを謂うものなるが故に、受領を為さざる消極的状態の大部分は受領不能の範疇に入るべく受領拒絶について債権者の意志を要素とするも為めに不当なる結果を生ずるのおそれなし。

（ニ）　加これもし受領拒絶について債権者の意志を必要とせざるときは、却って不当なる結果を生ずるのおそれあり。即ち受領拒絶について意思を要せざるものとするときは、もとより意思能力及び行為能力を要せざるものと言わざるべからず。しかるに受領拒絶は拒絶者に不利益なる結果を生ずる行為なるが故に、行為能力を要するものと解するを正当とするが故なり（３）。しかして受領拒絶に意思を必要とするときは受領拒絶の本質は意思通知たる法的行為に外ならざるを以て行為能力に関する規定をこれに準用することを得べきなり（４）。

２　受領拒絶は債権者が絶対にその給付を受けずという意思を通知することを要するにあらず、履行の提供が債務の本旨に従いたる場合においては債権者がその提供せられたる給付をうけざることを通知するによりて直ちに受領拒絶となり、債権者遅滞を生ず。換言すれば債権者が他の時期においてまたは他の方法によりてあるいは他の意義において受領を為すべきことを告ぐるもなお受領拒絶となるを妨げず。

（１）　債権者が一時受領を拒絶するもなお受領拒絶なり。しかしてこの点については履行の提供が履行期における提供なりやまたは履行期以前におけるものなりやを区別することなし。但し履行期以前の提供については債務者が期限の利益を有することを要するは言を俟たず。

　債権者が一時受領を拒絶すると一般に正当と認めらるる猶予を求むるとはこれを同一視すべからず。債務者は信義に従いて債務の履行を為すことを要するものなるを以て債権者が履行の提供せらるるや否や瞬時に受領を為さざるを奇貨として直ちに履行提供を廃止するが如きはこれを債務の本旨に従いたる履行の提供となすことを得ず（５）。したがってまた債権者が普通に正当と認めらるる猶予を求めたるはなおこれを受領拒絶と為すべからず。しかしてその所謂普通に正当と認めらるる猶予時間の長短については各種の取引について自ら差異あるべく、また履行期における提供なりや否やによりて多少の差異を認めざるべからず（６）。

（２）　債権者が債務者の提供したる給付に対し自らまた同時に一定の給付を為すべき債務を負える場合において、債務者が履行の提供を為すと同時に債権者もまたその給付を為すべきことを請求したるときは債権者は自ら給付を為さずしてその提供せられたる給付を受領することを得ずしたがって自ら履行の提供を為すことなくして債務者の提供したる給付を受領すべきことを告ぐるは受領の拒絶とならざるを得ず。この点について独逸民法には第２９８条の明文あるが故に解釈上何等の疑を容れずといえども、我民法には何当の規定なきが故に解釈上この原則を認むることを得るや否やについて研究を要す。しかしてこの原則は汎く双務契約について適用あるが故に実際上頗る重大なる関係を有す。

　石坂博士は我民法上この原則を認む。曰く「債務者は債権者が反対給付を為す場合に自己の給付を為すを以て足るしたがって債務者が提供を為すも同時に債権者が提供を為さざるときは恰も債権者が履行の協力を為さざる場合と同一に論ずることを得」と。しかれどもその論旨やや明瞭ならざるの憾あり。履行の協力を為さざる場合と同一に論ずることを得

と云うは法律的構成の上において同一なりと謂うものなるかあるいは当事者の事情の同一なるを謂うに止るかこれを解するに苦しむ。もし前者なりとせば双務契約のみについて云うも同時履行の抗弁の性質に反するの嫌あり。この抗弁権は債権者の請求に対して一時的にこれを拒絶する抗弁権なること我民法の解釈上疑を容せざるを以て債務者が進んで自ら履行の提供を為す場合につき直接に適用あるものと言うことを得ず。また双務契約上の各債務は独立の債務にして抗弁権の行使せらるる迄は牽連関係を有せざるものなるが故に、抗弁権の行使せらるる以前においては各個の債務は独立に履行せらるることを得べく相手方の給付を為すことは履行成立の要件なりと言うことを得ず。しかるに債権者が履行の協力を為さざる場合とは協力なくば履行を為すことを得ざる場合を謂うものなるが故に法律的構成については両者の間に差異の存すること明なり。またもし後者の意義なりとせば如何なる事情が同一なりや同一法規を適用するに足るべき有力なる類似の点ありやを研究することを要す。

　独逸民法においてこの原則を採用したるは普通法に従いたるものなりといえども、普通法時代においてその理由を詳述したる者比較的多からず唯コーラー及びヒルシユは比較的詳述にこれを論ぜり。コーラーは履行の成立そのものについて債権者の協力を必要とする場合のみに債権者遅滞を生ずるにはあらずして債務者が履行を為すことを要するものと認むべき法律上の地位を作るが為に債権者の行為を必要とする場合に、この行為を為さざるときはなお債権者遅滞を生ずるものとし、しかして債権者が真正の債権者なることを証明せずまたは受取証書を呈出せずあるいはまた債務者の給付と同時に履行すべき反対給付を為さざるはこの場合に属するものとす（７）。

　我民法の解釈上独逸民法と同じく債権者がその同時に履行すべき債務の履行を提供せずして債務者の提供したる給付のみを受領せんとするは受領拒絶となるものと解するの点について余は石坂博士の説を採る。しかれどもその理由については次の如く説明せんとす。

　債務者が弁済と同時に反対給付を請求する権利を有する場合において債務者が反対給付の提供に対してのみ自己の債務を弁済すべき旨の条件を附して履行の提供を為すはこれを債務の本旨に従いたる履行の提供と為さざるべからず。けだしこの如き場合において単純に自己の給付のみを提供するもまたもとより債務の本旨に従いたる履行の提供なりといえども、もし債権者が前に述べたるが如き履行の提供に対して単純なる履行の提供を為すべき旨を請求するときは債務者は何時にてもその請求を拒絶する権利を有するものなるが故に、予め給付の交換を条件として履行の提供を為すもまたこれを債務の本旨に従いたるものと認むることを要すればなり。換言すれば双務契約上の債務については債務の本旨に従いたる

履行の提供と認むべきものには単純なる履行の提供と反対給付を条件としたる履行の提供との二者ありかつ債権者は乙を変じて甲となすの権利を有せざるものなるが故に、もし乙の提供ある場合に甲のみを受領すべきことを告ぐるは受領拒絶とならざるを得ざるなり（８）（９）。

（３）　債権者が提供せられたる給付を他の意義において受領すべきことを告ぐるも、もとより受領拒絶たることを妨げることなし。例えば債務の弁済として提供せられたる給付を贈与として受領せんとするは勿論、債務者が甲の債務の弁済に充当せんとしたる場合に債権者が乙の債務の弁済に充当するにあらざれば受領せずと言うが如きはまた受領拒絶となるものとす。

３　履行成立の為めに必要なる債権者の協力行為が単純なる給付の受領に止まらずしてあるいは給付の範囲を確定するが為めに、あるいは給付の物体を確定するが為めに、あるいはまた給付の方法若くは場所を確定するが為めに債権者の行為を要する場合において債権者がこれ等の行為を為さざるときは債権者の遅滞を生ずるやあるいはこれ等の場合においては債務者は未だ具体的に給付の提供を為すことを得ざるが故に債権者遅滞を生ずることなきや。これ独逸の普通法上多少議論の存したる所にしてコーラーは債権者遅滞の範囲を汎く解してこれ等の場合をも包含せしむべきことを極力主張したり（１０）。我民法の解釈上何れに解すべきかは第４１３条のみによりては明ならずといえども、これを第４９３条と比較するときは広義に解すべきこと疑を容れざるものと信ず。けだし第４９３条によるときは履行成立の為めに債権者の受領以外の行為を必要とする場合において債務者はなお所謂言語上の提供を為し得べきこと明にしてかつこの言語上の提供は第４１３条に謂う所の履行の提供に属することまた疑を容れざるを以てなり。即ち第４１３条において「履行ヲ受クルコトヲ拒ミ」と謂いまたは「履行ヲ受クルコト能ワズ」と謂うは特定せる具体的の給付を受領せざる場合またはこれを受領することの不能なる場合のみを謂うにあらずして、債務者が言語上の履行提供を為したる場合において債権者がこれに応ぜざる場合またはこれに応ずることの不能なる場合をもこれを包含するものと言わざるべからず。しかして以上は主として法典の文字を基礎として論じたるものなるもこれを債権者遅滞なる制度を認むる法律の目的より論ずるもまたこの如く解すべきこと疑を容れざる所に属す。けだしこれらの場合において債権者が履行の準備を為して言語上の提供を為すときは債権者の協力なくしてその為し得べき行為を完了せるものならばなり。

　上述の原則の適用せらるべき場合は頗る汎く一々これを列挙するは煩に堪えずといえども今その最も重要なるものを例示せば次の如し。

（イ）　選択債権において債権者が選択債権を有する場合に、債権者が履行の準備を為して選択を為すべき旨を通知したるに拘わらず債権者が選択を為さざるときは債権者遅滞を生ず。もとより選択債権において選択権者が選択を為さざるときは選択債権の移転に関する特則あり（４０８条）。しかれども両者はその要件及び効果を異にす。後者を以て前者を排斥する効力を有するものと解すべきにあらず。

（ロ）　種類債権において債権者が特に指定権を有する場合またその理を同じうす。

（ハ）　売買において買主がその目的物の数量または品質を確定する権利を有する場合（Spezifkationskauf）または売主が代償を確定する権利を有する場合に買主または売主が履行の提供あるに拘わらずその確定権を行使せざるときは債権者遅滞を生ず。

（ニ）　請負において注文者が仕事の完成に必要なる協力を為さざる場合また同じ。

（ホ）　債権者の特に指定すべき場所または時において履行することを要する債務に付き債権者がその指定を為さざる場合また同じ（１１）。

４　債権者の受領拒絶がその過失に基くことを要せざるは既にしばしば論じたるが如し。しかれども履行の提供が債務の本旨に従わざることを理由とする場合においてその履行の提供が事実上また債務の本旨に従わざるときは債権者遅滞を生ぜざることまた明なり。しかしてその果して債務の本旨に従いたりや否やについて争あるときは債権者遅滞の成立していることを主張する当事者において挙証の責任を有するものとす。

（１）　Oertmann,a.a.O.,zu § 293,Staudinger-Kuhlenbeck,a.a.O.,zu § 293 等通説なり、但し稀に反対説あり Lotmar,Arbeitsvertrag II.,S281 ff.

（２）　民法第４９３条において「予メ其（弁済）ノ受領ヲ拒ミ」と云えるについては意思を要するものと解すること通説なり（[前掲１６０頁]註７以下）。しかして我民法においては第４９３条第４９４条及び第４１３条を通じて常に「拒ミ」と云える文字を使用す。故に文字解釈より云えば第４１３条の場合にも第４９３条の場合と同一に解するを妥当とす。

（３）　前掲（１６０頁）注１０を見よ。本文に言える如く無能力者の受領拒否は法律上の効力なきも無能力なるが為に受領不能なるときはなお債権者遅滞を生ず。例えば未成年者に対して教授を為すべき債務を有する者が教授を為すべき旨の提供を為すときはその提供は給付行為が法律行為にあらざるが故に、有効なり（前掲）。しかれどもその未成年者自身が教授を受けずと告ぐるによりて直ちに債権者遅滞を生ずるにあらず。法廷代理人の同意を得て告ぐるかあるいは教授を受くることが不能なるに至りて初めて遅滞を生ずるものとす。換言すれば未成年者の意思通知のみによりて遅滞を生ずるにあらずして債務者が教授を為すが為めに一般に必要と認めらるる努力を成すもなお見成年者がこれを受けざるが為に教授を為すことの不能なる場合においてのみ債権者遅滞を生ずるものとす。

（４）　前掲[１６０頁]註１０参照。

（５）　拙著、日本債権法総論�搨�版１１０頁。

（６）　独逸民法２９９条と同一に解するは不能なるも本文の如く解するにより事実上不当なる結果を避くることを得べし。

（７）　Kohler,Annahme u.Annahmeverzug in Jh.Jahrb.,Bd.17,S.283 ff.derselbe,Gläubigerverzug,Zwölf Studien zum BGB.,S.150 この他 Hirsch,Zur Revision usw.,S.11 ff. の説く所はコーラーの説とやや異れるも煩を避けてこれを略す、なおSchey,a.a.O.,S.112;Rosenberg,a.a.O.,S.198.及び同処４）に掲げられたる諸著。されど全く反対説無きにあらざるが如し。石坂氏（日本民法６２５頁）及びローゼンベルヒは通説を採る者としてモムゼンを数うる如しといえども、モムゼンは明に反対説を採る。曰く「真正の双務契約例えば売買において反対給付の受領に対して給付すべしという履行の提供は充分なる履行の提供なりと言うこと能わず（中略）債権者は反対給付を受領するまで自己の給付の目的物を手より離すことを欲せざるときは債権者を遅滞に附することを断念せざるを得ず」と。Mommsen,a.a.O.,S.145,146.

　（８）　コーラーは Barzahlungに対して所有権を移転すべき場合にはdie Hingabe ohne Barzahpung wäre mehr,als der Verkäufer vertragsmässig zu leisten hat なりとす。余はこれを以て債権者の負担せる給付より以上の給付の提供なりとするは双務契約の性質に反するものと解するも、債務の本質に従いたる給付の提供はこれに限らざるものとし、しかして債務の本旨に従いたる給付の提供が２個以上の方法によりて為し得べき場合には債権者は他の方法によるべきことを理由として受領を拒絶することを得ずもしこれを拒絶するときは債権者遅滞を生ずるものとす。任意債務の場合その他履行の場所について債権者が選択権を有する場合の如き皆然り。

（９）　これに述べたる原則は主として双務契約について適用あり。しかれども受取証書の交付についてもこれを適用すべきは独逸学者の疑わざる所なり。我民放第４８６条の解釈上弁済者は弁済と交換的に受取証書の交付を請求そい得るものと解するときは同一に解せざるべからず。拙著、日本債権法総論�搨�版４１０頁、同説、石坂氏前掲。双務契約について債権者が自己の債務の履行を提供せざるときは本文に言うが如く債権者遅滞を生ずると同時に債務者遅滞を生ずること多し。しかれども債務者遅滞について過失を要するものと解するときは両者は必ずしも常に平行することなし。また両者はその効果を異にするが故に、履行の提供を為したる当事者をして供託を為すことを得しめかつ商法３１８条[現行５５６条]２８６条[現行５２４条]の権利を行うことを得しむる為めに特に債権者遅滞を認むるの実益あり Kohler,Annahme u.Annahmeverzug,a.a.O.,S.284 ff. にこの疑問を詳論す。

（１０）　Kohler Annahme u.Annahmeverzug,a.a.O.,S.262 ff.,S.355 ff.derselbe,Der Gläubigerverzug,a.a.O.,S.109 ff.;Hirsch,a.a.O.,S.9 ff.;Schey,a.a.O.,S.117-120. 及びシァイ上掲註に掲げられたる諸著。なおこの問題は受領拒絶及び受領不能に通ずる問題なるも便宜上この処に述ぶ。

（１１）　この種の例についてはコーラーの前註に掲げたる論文に多くを挙げたり。

第２項　受領不能

１　受領不能とは債権者が履行成立の為めに必要なる協力を為すこと能わざる事実を謂う。法文に「履行ヲ受クルコト能ワズ」と云うものこれなり。

（１）　履行成立の為めに必要なる債権者の協力に二種の別あること受領拒絶について述べたるが如くなるを以て、その協力不能にもまた二種の別あること明なり。即ち受領行為そのものの不能なる場合及び受領行為以外の協力行為の不能なる場合なり（１）。

（２）　履行を受くること不能なりと謂うは一般に当該の給付を受くることの不能なるを謂うにあらず。債務者の提供したる当該の給付を遅滞なく受領することの不能なるを謂う。故に例えば債権者が提供の時において恰も不在または旅行中なるが為めにまたは疾病に罹れるによりあるいはまた無能力者にして恰も法定代理人を欠けるが為めにその給付を受くること能わざる場合においてもまた受領不能たるに妨なし。縦令債権者が他の時または他の条件の下においては当該の給付を受くること可能なりとするもこれによりて受領不能にあらざるものと為すべからず。この如く受領不能の意義を債務者の提供したる当該の給付に対するものと解すべきは法文の字句についてこれを見るも明なりといえども、債権者遅滞なる制度を設けたる法律の目的について考うるときは唯この如く解するによりてのみ法律の目的を達することを得べきこと多言を要せずして明ならん。

（３）　履行を受くること不能なりと謂うは遅滞なく協力行為を為すことの不能なるを謂う。債権者は履行提供の状態を永続せしむべきことを請求すること能わずといえども、債権者に寸刻の猶予をも許与せずして直ちに履行準備の状態を破壊し得べきものと認むべからざるは既にしばしば述べたるが如し。

（４）　受領不能に過失を必要とせざるは嘗て詳述したるが如し。しかして受領不能は受領拒絶と異り債権者の意思に基きたることを必要とせざることまた言を俟たず。

２　受領不能は履行不能と相容れざること理論上言を俟たざるが如し。けだし履行不能なるときは不能なる給付について履行の提供あるべからず履行の提供無くして受領不能なるものあるべからざるが故なり。独逸における通説は履行不能と遅滞とを以て相排斥したる観念となすが故にまた債権者遅滞についても履行不能の存するときは債権者遅滞なるものあることを得ず受領不能の存することを得ざるものとす。しかれどもこの点については近時有力なる反対説無きにあらず。今履行不能についてその詳細を論ずるは冗漫のおそれあるを以てこれを避くべしといえどもその受領不能との関係についてはここの一言せざるべからず。

　問題は債権者について存する事由によりて履行不能を生じたる場合において生ず。例えば手術を為しまたは肖像画を揮毫する債務において債権者の死亡した場合、機械を修繕する債務においてその機械の焼失したる場合、工場に機械を据付けまたは工場において労務を為すべき債務についてその工場の焼失したる場合の如く、履行不能の理由が債権者の方面に存するときはなお受領不能の場合と同じく債権者遅滞を生ずるかあるいは履行不能なるが故に遅滞を生ずること無きか。この場合において債権者遅滞の成立を認むる学説の理由を見るに左の二点に帰するものの如し。

（イ）　これ等の場合においては履行不能なりといえどもその履行不能は受領不能の結果として生ずるものなり。故になおこれを以て受領不能と為さざるべからず（２）。

（ロ）　債権者遅滞の制度は公平（Billigkeit）の原則の上に立つものなり。故に教授を受くべき債権者の死亡したる場合に死亡者に教授を為し得るかというが如き自然科学的の理由によりて問題を解決しべからず。債権者の着用すべき衣服を調整すべき場合において債権者の死亡したる場合と上述の場合とにおいて債務者の地位には何等の差異なきが故に、その法律上の効果もまた同一ならざるべからず（３）。

　余は我民法の解釈上独逸における通説に従い債権者遅滞は履行の可能を前提とするものと解すべきものと信ず。その理由次の如し。

（イ）　理論上より言うときは債権者の方面に存する事由によりて履行不能となるは受領不能の結果履行不能となるものと為すことを得ず。履行不能なるときは受領の能不能の問題を生ずることを得ず。けだし受領不能とは債権者が一般的に履行に協力することの不能なるを謂うにあらずして、提供せられたる当該の給付に協力することの不能なるを言うものなるが故にまず履行の提供にあらざれば受領の能不能の問題を生ずることを得ず。しかして履行不能なるときは履行の提供を為すことを得ざるが故なり。

（ロ）　債権者遅滞を認むる法律の目的より論ずるもこの場合に遅滞を認めざるが為めに不当なる結果を生ずるのおそれなし。けだし債権者の責に帰すべからざる事由によりて客観的に履行不能を生ずるときは債務者はその債務を免るるものなるが故に、債権者の方面に存する理由によりて債務関係の存続するが為めに債務者が不利益を被るおそれなきを以てなり。反対論者がこの場合において債権者遅滞を認むる真の理由は独逸民法上雇用契約、請負契約等において債権者遅滞を認むるときは債務者は反対給付を受くる権利を失わざるももし債権者遅滞を認めざるときはこれを認むることを得ざるの点に存するものなるべし。しかれども我民法は雇用契約及び請負契約における危険負担について特則を設けざるのみならず双務契約における危険負担の問題についてもまた債権者遅滞の存在するや否やを以て標準と為さず単に履行不能が債権者の責に帰すべき事由によりて生じたりや否やを以て標準と為すに止まるを以て独逸民法と異り債権者遅滞を生ずるや否やはこの問題の解決に影響なくしたがってこの場合において債権者遅滞を認めざるもわずかも不当なる結果を生ずるのおそれなし（４）。

３　受領不能と履行不能とを区別するの標準は理論上明瞭なるも事実上その識別の困難なること尠からず。例えばある劇場において出演すべき債務につき債権者がその興行を警察上禁止せられたるときまたは劇場の焼失したる場合においては通常履行不能となるも、もし契約の内容がその劇曲に限らずまたはその劇場に限らざりしときは履行不能にあらざるものと言わざるべからず。故に債権者が警察上の禁止の為めに履行期までに他の劇曲を以てまたは他の劇場において開演することを得ざるときは債権者に過失ありや否やを問わずして債権者遅滞を生ずるものとす。また工場において労務を為すべき場合に工場が焼失したるときは履行不能をなるを常とするも、もし契約の内容上工場を制限せざるものなるときは受領不能となるものとす。また例えば一定の場所に機械を据付くる債務においてその場所のみ暴風雨の為め破損したるも速に修繕することを得べきものなるときはなお履行は可能なるものにして受領不能たるに過ぎずこれに反して工場全部焼失したるときは通常履行不能なりと言わざるを得ず。これ等の諸例その他諸種の例について両者区別の標準を求むるに次の二点に帰するものと信ず。

（イ）　受領不能は主観的に債権者の協力行為そのもののみ不能なるものにして履行不能はその他の要件を欠くものなり。前例において劇場焼失せば債権者が主観的に劇場を供することの不能なるに止まらず債務者が劇場において給付を為すべき客観的要件の欠けたるものなり。債権者その人の肖像画を揮毫しまたは債権者その人に教授、手術等を為すべき場合に債権者の死亡するは特定の第３者についてこれ等の行為を為すべき場合にその第３者の死亡せる場合と何等選ぶ所なきが故に、また主観的行為のみの不能にはあらずして客観的要件の欠けたるものと言わざるべからず。

（ロ）　履行不能言わんが為めには履行を為し得べき時期と認めらるる時期において履行を為すことの不能なることを要す。即ち定期行為においては履行期において履行不能なるときは履行不能なること明なるも、その他の場合においては履行期において一時履行を為すべき要件を欠くも爾後なお履行を為し得べき時期と認めらるる期間内にその要件を成立せしむることを得るときはこれを履行不能と言うことを得ず。例えば前例において工場の一定の場所に機械を据付くべき債務につき履行期にはなおその場所の完成せざるも程なく完成すべき場合またはその場所が暴風雨の為めに一時破損せるも速に修繕を為し得べき場合にはなお履行可能にして債権者遅滞を生ずるものと言わざるべかさず。けだし履行は履行期を中心とするものにして履行期において履行可能なるときは爾後履行不能なりや否やを問わず履行可能なりと言わざるべからざること既に述べたるが如しといえども、履行不能の意義を定むるについては定期行為の場合を除き厳格に履行期のみについてこれを決するを得ずその債務の性質に従い履行を為し得べき期間内において履行を為すことの不能なる場合において初めて履行不能となるものと解せざるべからざるを以てなり（５）。

（１）　前項註１０を見よ。

（２）　Kohler,Gläubigerverzug,a.a.O.,S.159 ff.S.214 ff., ,,der Gläubiger kann dem Schuldner die Unmöglichkeit nicht entgegenhalten,die zuerst ihn und erst per consequens den Schuldner trifft.’”;derselbe,Lehrbuch,S.349.

（３）　Crome,Syatem des d.B.R.,Bd.2,S.149,Anm.32. その他この場合において債権者遅滞の成立を認むる学者二三あり。但しクローメは Enneccerus を同説として掲ぐるもエ氏は特に一定の工場にて労務を為す債務にあらずして一般にある種の労務を為すべき場合等には工場焼失するも履行不能にあらずというに止まり履行不能となるときは債権者遅滞を認むるものにあらず、Lehrbuch,§ 280,Anm.1.§ 367.

（４）　民法５３６条、独逸民法３２４条、６１５条、６４４条参照。履行不能の場合には、債権者遅滞を認めざるは通説なり Ortmann,zu § 293;Planck-Siber,zu § 293;Titze,Unmöglichkeit,S.22 ff.;Kisch,Krit.V.Jahresschrift,1903,S.513.石坂氏、日本民法６２７頁以下。但し石坂氏はこの場合において債権者遅滞を認むるや否やによりて我民法上また反対給付請求権の存否に影響を生ずるものと解するが如し。しかれどもこの説は独逸民法の解釈としては正当なるも我民法の解釈としてはこれを採ることを得ず。

（５）　本文に述ぶる所は一時的不能と永久的不能との別を認むるに非ず。履行不能は履行を為し得べき時期または期間内において履行を為すことの不能なるを謂うものにして永久的に不能なりや否やを問わずといえども、その履行を為し得べき時期と謂うはこれを厳格に狭義に解すべからずと言うなり。しかして履行期以後幾何の期間内なお履行を請求し得べく履行を為し得べきものと見るべきかは各個の債務につき取引上の信義の原則に基きてこれを決定することを要す。

第４章　債権者遅滞の効果

１　債権者遅滞の効果を生ずる時期については法律に明文あり、履行の提供ありたる時より遅滞の効果を生ずるものとす（４１３条）。したがって債権者遅滞は履行の提供と債権者の不受領との両者を以てその成立要件とするものなりといえども遅滞の効果を生ずる時期は履行提供の時期にして不受領の時期にあらず。

２　債権者遅滞より生ずべき法律効果の内容については我民法は殆んど何等の規定をも掲げざるが故に解釈上疑問頗る多く学者の所説また区別に岐る。試に債権の本質及び債権者遅滞を設けたる理由のみに基きて論ぜんか次に述ぶる諸種の効果を生ずるを以て理論上正当なりと言わざるべからず。

（１）　債権は限時的性質を有し、限時的に債務を拘束するを以てその本質とす。債務者遅滞の制度はこの債権の限時的性質に基きて法律のこれを認めたるものなり。故に債権者の不受領あるが為めに債務者の拘束を永続せしむるは債権の本質に反しかつ債権者遅滞を認めたる法律の目的に合せず。ここにおいて法律の採るべき途二あり、その一は債権者遅滞によりて直ちに債務関係を断絶せしむることこれなり。その二は債務者一方の行為によりて債務関係を終了せしむるの方法を認むることこれなり。前者はローマ法の解釈上あるいはこれを認むる学者無きにあらずといえども債権者に対して酷に失し社会生活の実情に適せざるを以て近世の法律はこれを認めず。後者はローマ法にその淵源を発し、近世法の汎くこれを認むるものにして我民法の認むる供託もまたこれに属す。

（２）　上述の如く債権者の遅滞以後なお債権関係の尊属を認むるを正当とすといえどももし債権者の不受領なくば債務者の法律上の拘束は履行提供の時を以て止むべかりしものなるが故に債権者の遅滞以降において存続する債権関係は遅滞以前における債権関係とその効力を同じくせざるを以て正当とす。換言すれば債権関係の内容たる法律上の連鎖は債権者遅滞の為めに多少の弛緩を受け即ち債務者の責任の軽減を生ずるを以て理論上正当なりとす。

（３）　債権者遅滞以後に存続する債権関係は債務者に新たなる不利益を蒙らしめざるを以て正当とす。けだし遅滞以後に存続する債権関係は債権者の不受領にその原因を有するものなればなり。

（４）　双務契約においては危険債権者に移り、債務者は爾後当事者の責に帰すべからざる事由によりて履行不能となりたる場合においても反対給付の請求権を失うことなきを以て正当とす。けだしもし債権者の不受領無くば債務者は反対給付の請求権を有すべきこと明なればなり。

　理論上においては如上の効果を生ずるを以て正当とすといえども我民法がその全部を認むるや否やについては疑問尠からず。

以下説を分かちてこれを詳論せんとす。

第１節　債権関係の消滅に対する効果

１　ローマ法の解釈上債権者遅滞当然の結果として債権の消滅を生ずるや否やは普通法上多少議論の存したる所なりといえども通説は当然この結果を生ずることなきものとす（１）。もとより債権者の受領拒絶が債権放棄の意思表示を包含する場合においては我民法上債務免除として債権消滅の効果を生ずること疑なしといえども、受領拒絶は上述の如く自己の不作為に関する一の意思通知に過ぎざるものにして債権放棄の意思表示にあらざるが故に、債権者遅滞の結果として当然債務の免除あるものと為すことを得ず。また債権者遅滞の結果直ちに履行不能を生ずるときは履行不能の理由によりて債権消滅の効果を生ずといえども、これ債務者の責に帰すべからざる事由によりて履行不能を生ずるが為めにして、これを債権者遅滞そのものの効果と為すことを得ず（２）。

２　債権者遅滞の結果当然債権消滅の効果を生ずることなしといえども、債務者をしてその一方的行為によりて債権消滅の効果を惹起することを得しむるの必要あるは既に述べたるが如し。

　民法第４９４条は債権者が弁済の受領を拒みまたはこれを受領すること能わざるときまたは弁済者の過失なくして債権者を確知すること能わざる場合において弁済者が債権者の為めに弁済の目的物を供託してその債務を免るることを得べき旨を規定す。この規定において供託の要件として掲ぐる所は債権者遅滞の要件に比して厳格ならざるを以て（３）いやしくも債権者遅滞の存するときは供託の要件を備うること明なり。故に債権者遅滞の効果として債務者が供託を為すの権利を取得するは解釈上何等の疑を容れざる所に属す。唯その供託の費用は債権者債務者何れにおいてこれを負担すべきか疑問無きにあらず。余は後に述ぶるが如く所謂増加費用の償還請求権を認むるを以て供託の費用は債権者においてこれを負担すべきものと解す（４）。

　債権者遅滞の効果として我民法の認むる免責方法は供託の一に限る。故に債務の目的たる給付が性質上供託を許さざるときは債務者は債権者の協力を俟たずして免責を得るの方法を有せず（５）。

３　スイス債務法第９５条は債権者遅滞の効果として物の給付以外の給付を目的とする債務については契約解除権の成立を認む。これ物の給付以外の給付を目的とする債務については供託によりて債務を免かるる方法なきが故に、特にこれを認めたるものにして、立法論としては頗る当を得たるものと信ず。しかれども我民法の解釈上これを認むることを得ざるは多言を要せずして明ならん。この場合においては我民法上債務者が双務契約の解除を為さんと欲せばまず相手方の債務の履行を請求し、その不履行を理由として解除を為すの外なし（６）。

（１）　Zimmern,im Archiv. f.civil. Praxis,Bd.3,1833,S.121 ff. は債権者遅滞の結果当然債権消滅するものとなせり。これに反して Thibaut,im Archiv f.civil.Praxis,Bd.5,S.332 ff.;Mommsen,a.a.O.,§ 30,S.285 fg.;Rosenberg,a.a.O.,S.210.　等殆ど総ての学者は当然消滅することなしとす。近世の法律皆然り。

（２）　定期行為の場合には遅滞の結果直ちに不能を生じ、不能によりて債権の消滅を生ず。しかれども債権消滅は不能の結果にして遅滞そのものの効果にあらず。

（３）　拙著、日本債権法総論�搨�版４３９頁。

（４）　仏民１２６０条、瑞債９２条、独民３８１条は債権者の負担すべき旨を規定す。なお独逸の学者は債権者遅滞の効果として供託そのものに関して詳論するを常とす。しかれども供託は債権者遅滞のみの効果にあらざるを以て今はこれを述べず。

（５）　羅馬法に認められまた独逸法に認むらるる免責方法については上に一言せり（９８頁以下）。労務を目的とする債務についてはこれ等の法律によるもなお一方的免責方法なし。中島氏釈義巻の３，４０９頁は供託の途なき場合につき我民法上目的物の放棄を認む。

（６）　同趣旨、大正４年５月２９日大判（オ）７７号、民録第廿一集８５８頁。独逸民法もまた債権者遅滞の効果として解除権を認むることなし。しかれども独逸民法は雇用契約及び請負契約につき特則を設け債権者遅滞の効果として債務者は当然報酬請求権を有するものとなすが故に解除権を認むるの必要多からず。独民６１５条、６４４条。我民法上解除権の成立を認むる場合は契約上解除権の成立を認めたる場合を除き債務不履行の場合に限るが故に債権者の受領義務を認め債権者遅滞を以て債務不履行と解するにあらざればこの場合に当然解除権の成立を認むることを得ず。しかして本文に述ぶる如く反対給付の請求を為し相手方の履行遅滞を理由として解除を為すの方法は債務者がまず履行するの義務を負える場合その他債権者において給付の範囲を指定する権利を有する場合等においてこれを実行することを得ざるが故に立法論としてはスイス債務法の如き規定を設くるを正当とす。

第２節　債務者の責任に対する効果

１　弁済の提供はその提供の時より不履行によりて生ずべき一切の責任を免れしむ。これ第４９２条の規定する所なりしかして弁済の提供に応じて債権者が弁済の受領を為したるときは債権は弁済によりて消滅し、爾後債務者が不履行によりて生ずべき何等の責任をも負うことなきは言わずして明なるが故にこの規定は債権者が受領を為さざる場合を規定したるものにして即ち債権者遅滞の効果を定めたるものと解せざるべからず。

２　弁済の提供以前に債務者の遅滞の存せざる場合において、債務者が弁済の提供を為し債権者の遅滞を生ずるときはこれによりて履行の遅延を生ずると将た履行の不能をしょうずるとを問わず、その遅延または不能に対して債務者に何等の過失なきこと言を俟たず。したがって債務者には債務不履行の事実存すること無きが故に、不履行によりて生ずべき何等の法律効果をも発生することなきは殆ど言を俟たず。

３　弁済の提供以前債務者が既に履行遅滞にある場合においてもなお弁済の提供は上述の効果を有すべきか。これ遅滞以後における履行の提供もまた債権者遅滞を成立せしむるに適するや否やの問題と牽聯して解決することを要する問題なり。余は履行期以後における履行の提供は原則として債権者遅滞を生ずるに適せざるものと解すること既に述べたるが如し（１４４頁）。しかれども債務の性質及び遅滞の程度にによりて履行期以後における履行の提供もなお客観的には債権者の本旨に従いたる履行の提供と認むるべき場合無きにあらずこの場合においては債権者遅滞を生じ従ってなお第４９２条の適用あるものと言わざるべからず（１）。

４　「債務の不履行より生ずべき一切の債務を免る」というの意義如何。

（１）　あるいはこれを解して債権者が提供を受領せざるにより履行なきに至りたるが故に生ずべき不利益なる結果を免れしむるの意なりとす（２）。しかれども「不履行」を解して履行なき事実なりとし一切の債務を免るというを解して不利益なる結果を免ると為すはやや汎きに失するものと信ず。例えば債権者遅滞以後において当事者の責に帰すべからざる事由によりて履行不能を生じたるときは債務者は本条によりて当然反対給付の請求権を失うことなきものと解すべきか。反対給付の請求権を失うこともまた不利益なる結果を蒙ることの一に属すべしといえども、この場合は第５３６条第２項の規定する所にして第４２９条の関知する所にあらず。

（２）余はこれに債務不履行というは第４１６条、第４１８条、第４１９条等その他多数の場合において民法が不履行と言えると同じく債権者の責に帰すべき事由によりて履行を為さざる事実を謂うものと解す。けだし債権者遅滞の存するときは、既に債権者履行遅滞以後における履行の遅延は債権者の責に帰すべき事由によるものにあらず、従いて不履行によりて生ずべき法律効果を生ずべからざるを以て法律は第４９２条を以てこれを明にしたるなり。一般に履行なきことより何等の不利益をも蒙ることなしと解するは法文の字句に反す。今その結果を列挙すれば次の如し。

（イ）　既に遅延利息その他履行遅滞による損害賠償請求権を生じたるときは過去に遡りてこれを消滅せしむることなしといえども、将来に対してはこれを生ずることなし。未だ履行遅滞あらざるときはもとより全く遅延利息その他遅滞による賠償請求権を生ぜず。

（ロ）　債権者は質権または抵当権を実行することを得ず。これ等の担保物権の実行は債務の不履行を要件とするものなればなり。但し債権者遅滞によりて債権は消滅することなきを以てこれによりて質権抵当権の消滅を来たすことなし。もし債権者が担保物権を消滅せしめんと欲せば、更に進んで供託を為すことを要す。先取特権についてまた同じ。留権置もまた債権者遅滞によりて当然消滅することなし。民法は「弁済を受くるまで」と規定するが（２９５条）故に弁済の提供によりて当然留置権の消滅するものと解するを得ず。もし債務者が留置権を消滅せしめんと欲せば供託を為すの外なし（３）。

（ハ）　債権者は予定賠償額または違約金を請求することを得ず。この効果もまた債権者遅滞の効果として一般に認めらるる所なり（４）。しかれどもこの点においては弁済の提供前に既に債権者の履行遅滞ありたるや否やを区別することえお要するものと信ず。未だ履行遅滞なかりしときは予定賠償額または違約金を請求し得べからざることもとより明なりといえども、既にこれ等の請求権を成立せしめてるときは、これ等の請求権は爾後弁済の提供あるによりて全然消滅するの理なし。けだし弁済の提供による履行遅滞の終了は既往に遡りて履行遅滞の効果を全滅せしむるものにあらざればなり。余はこの点について予定賠償額または違約金が履行遅滞について定められたりやあるいは全然履行無き場合について定められたりやを区別するを要するものと信ず。前の場合においては予定賠償額または違約金の請求権は履行遅滞によりて成立するを以て爾後弁済の提供あるもこれによりて既に成立したる請求権を消滅せしむることを得ず。これに反して後の場合においてはもし履行期以後における履行がなおその債務の履行と認められるべきときはこれ等の請求権を成立せしめざるものとす。

（ニ）　債権者が保証人に対して有する債権は主たる債務の不履行を積極的要件とするものにあらず。故に債権者遅滞の場合においても債権者はなお保証人に対して履行の請求を為すことを妨げずまた保証人はこれに対して普通の場合に妨げる抗弁権のほかに特殊の抗弁権を有することなし（５）。

（ホ）　債権者は契約の解除権を行使することを得ず。債権者が債務不履行の場合につき解除権を有すべき旨の契約ある場合たると不履行により法律上解除権を有する場合たるとを問わず。

（ヘ）　２年以上永小作料または地代の支払いを怠りたるにより永小作権または地上権の消滅を請求する権利は債権者遅滞の場合においては発生することなし（２６６条、２６７条）。けだし土地所有者が小作料または地代について受領遅滞に在るときは支払を怠りたるものと云うことを得ざればなり。

５　債権者遅滞の効果としてローマ法以来一般の立法は債務者の責任の軽減を認むるを常とす。即ち債務者は爾後経過失の責任を有することなく単に故意または重過失についてのみ責任を有するものとす（６）。債権者遅滞を認めたる法律の目的より論ずるときはこの系威厳を認むること正当なりといえども我民法の解釈上これを認むることを得るや否やについては法典に何等の根拠無きが故に頗る疑問の存する所に属す。余は嘗て民法第４００条は目的物の引渡を為すまで善良なる管理者の注意を以てその物を保存することを要するものとし、しかして無償寄託に関する第６５９条は例外的規定なるが故に類推を許さざるものとし解釈論としては責任の軽減を認むべき法典上の根拠無しと述べたり（７）。しかれども今日においては例外的法規も全然同一なる立法理由の存する場合には拡張解釈を許すものと解するが故に、債権者遅滞以後においては第６５９条を類推適用し、責任の軽減を認むるを正当なりとす（８）。故に債権者遅滞以後においてももし債務者の故意または重過失によりて履行不能を生ずるときは債務者は損害賠償の責に任ずべきも軽過失については唯具体的軽過失についてのみ責任を負い、抽象的軽過失については責任なきものとす（９）。

６　債権者遅滞は爾後約定利息の発生を停めるや否や。独逸民法は約定利息の発生を停止するものと規定するも（独民３０１条）普通法については債権者遅滞の効果として唯遅延利息のみその発生を停めその他の法定利息及び約定利息は遅滞当然の効果としては当然その発生を停めず、供託を待ちて始めてその発生を停むるものと解するを通説とせり（１０）。我民法はこの点について何等の規定を設けず。しかして解釈上消極説を多数とするも反対説無きにあらず。即ち横田博士は給付を為すに必要なる行為を完了したる債務者をして依然填補利息若くは遅延利息を支払うの義務を負担せしむるは不公平なるを以て債務者は給付すべき元本に対して利息を支払うの義務を負わざるものと解す（１１）。余は嘗て債権者遅滞以後に存続する債務は遅滞依然に存在したる債務とその性質を異にするものにあらざることを理由とし何等の規定なくば依然利息を発生するものと解したるも、今はこれを改め原則としては約定利息の発生を停止するものと解せんとす。けだし履行期以後に生ずべき利息は性質上遅延利息にして約定利息にあらず唯利率のみ約定利率に従うに過ぎざるを以て（４１９条）債権者遅滞以後債務不履行の効果たる遅延利息債務を生ぜざると同一の理由により約定利息債務も論なり。この如く解することが公平の原則にも適するものというべし（１２）。

（１）　弁済の提供が履行遅滞を終了せしむるは一般に認めらるる所なり。石坂氏、日本民法５１６頁、川名氏、債権法要論１６０頁、拙著、日本債権法総論増訂版１４１頁、Mommsen,a.a.O.,S.322 ff.　しかれども履行遅滞を終了せしむるに適する弁済の提供はまた完全なる給付の提供なることを要すること明なり。したがってあるいは本来の給付に加えて遅延による損害賠償を為すべきことを提供するを要す。

（２）　川名氏債権法要論２４８頁。独逸民法第１草案２６０条には論者の主張する所に似たる規定あり。即ち債権者が遅滞に在るときは不履行(Nichtleistuhg)の場合につき定められたる特別おしての法律上の不利益は債務者に対して発生せざるものとす。この規定は後に不必要として削除せられたり。我民法の規定する所はこれとその範囲を同じうせず。

（３）　独逸民法２７４条２項参照。

（４）　石坂氏、日本民法６３２頁。Rosenberg,a.a.O.S.289;Mommsen,a.a.O.S.290 etc.

（５）　ローマ法ににはこの点について特殊の規定なし。モムゼンは債権者の訴えに対して債務者の為めに　exception doli を認むべきものとす　Mommsen,a.aO.,S.292. 我民法については同一に解することを得ず。

（６）　Mommsen,a.a.O.,S.286 ff.;Rosenberg,a.a.O.,S.274 ff.;Windscheid,Pand.II,§ 246,449.独逸民法３３０条、スイス債務法にはこの点について何等の規定を置かざる学者は第９９条第項に基きて同一に解すべきものとす　Oser,Komm.zu § 92,S.308;zu § 99,S.320. 我民法につき中島氏釈義巻の３、４０２頁、これを採る。

（７）　法協３４巻２００９頁〔かの論文の執筆されたときの説を指す〕、同説、石坂氏日本民法６３３頁、同氏「債権者遅滞以後ニ於ケル債務者ノ目的物保管義務」法学志林１４巻３号６３頁、拙著、日本債権法旧版１５４頁。川名氏、債権法要論２４９頁に述ぶる所は明ならず。

（８）　同説、横田氏債権総論２５０頁、岡松氏、民法理由７１頁。拙著、日本債権法総論増訂版１８０頁。

（９）　債権者遅滞以後における履行不能が債務者の過失に基かざるときは債務者は賠償義務を負わざること勿論なり。しかれどもこれ特に債権者遅滞の効果として挙ぐるに値せず。債権者遅滞に在るときは債務者は履行遅滞に在らざるを以てその過失によらざる履行不能について責任を負わざるは一般の原則上当然なればなり。

（１０）Windscheid,Pand.II,346,S.450 fg.;derselbe,Heidelb.Kr.Z.S.III.S.273;Hirsch,a.a.O.S.150fg;Rosenberg,a.a.O.S.286;Kohler,Annahme u.Annahmeverzug,a.a.O.S.392 fg.;Mommsen,a.a.O.S.288 fg.etc. 但し遅延利息以外の法定利息においては遅延利息と同一に解すべきやあるいは約定利息と同一に解すべきやについて議論あり。我民法においては遅延利息は不履行より生ずる法律上の効果なるがゆえにその理由によりて発生を止むるに過ぎず故にその理由の在ぜざる他の法定利息については同一に論ずることを得ず。

（１１）　反対、石坂氏日本民法６３５頁。中島氏、釈義巻の３、４０４頁、大正５年４月２６日、大審院判決、民録、２２集８０５頁。

（１２）　反対、石坂氏日本民法６３５頁、拙著、日本債権法総論旧版１５４頁、拙稿、本論文法協３４巻２０１２頁。参照、拙著、日本債権法総論増訂版１８０頁。

第３節　増加費用に対する責任

１　債権者遅滞の結果債務者について損害の生じたるときは債権者はこれを賠償することを要するや否や。これ普通法上議論の在したる所にして、あるいは損害の全部について賠償義務を認め(１)あるいは債権者遅滞によりて特に生じたる保管費用及び弁済費用即ち所謂増加費用のみについて償還義務を認め(２)あるいはまたこの増加費用についても独立の訴権を認めずして単に債権者が履行を請求するに当たり債務者は抗弁として費用償還を請求し得るに止まるものとす(３)。独逸民法においては増加費用の償還請求を認むるも(独民３０４条)全部の損害賠償請求権を認めず。これに反して仏蘭西民法について債権者遅滞を認むる学者は損害賠償義務を認むるを常とす(４)。

２　理論上より言うときは全部の損害賠償請求権を認むるの根拠なきと共に費用の償還請求権は当然これを認めざるべからず。

（１） 　全部の損害賠償請求権を認むる学者は受領義務または過失を以てその根拠とす。しかれども両者共にこれを認むべからざることに既に第２章において縷説したるが如きを以て一般的損害賠償請求権を認むるべき根拠なし。しかして所謂無過失損害賠償義務を認むるの必要はこの場合においては存在せざるべし。

（２） 費用の償還義務を認むる必要あるはローマ法以来学者の全く疑わざる所なり。だし債務者は履行期において履行を為すべき法律上の拘束を受くるに止まるものなるが故に債権者地帯以前における保管費用及び第１回の弁済費用は原則として債務者がこれを負担するを正当とするも、債権者遅滞以後における保管費用及び第２回の弁済提供の費用は債権者の不受領によりて特に増加したる費用なるを以てこれを債務者の負担に帰せしむべきにあらず。加この近世法においては債務者は債権者遅滞の効果として弁済の目的物を放棄することを得ざるのみならず債務者はなお自己の財産におけると同一の注意を以て物を保存する義務を負うを以て債権者遅滞以後においてももし必要なる保存行為を為さざるときは損害賠償義務を負担せざるを得ず。故にもし増加費用の賠償義務を認めざるときは法律は債務者を避くべからざるディレンマに窮迫するものと言はざるべかず。もし保管を為さざらんか損害賠償義務を負うに至るべく、もし保管を為さんかまた自己の損失においてこれを為さざるを得ざるなり。債務者が履行を為すにつき債権者の協力なくして為し得べき一切の行為を了し、債権者の不受領によりてなお債務を免るること能わざるに拘らずなおこれの如き不利益なる地位に債務者を陥るるはもとより公平なりと言うべからずまた便宜なりと言うべから法律の目的に適合するものに非ざるなり。あるいは曰わん、債務者は供託によりて債務を免るることを得るが故に何等の不都合なしと。しかれども供託は総ての債務についてこれを為すことを得ずまた縦令理論上供託の不能ならざる給付についても実際上供託の不能または著しく困難なるもの尠からず。例えば満州の在る石炭会社が横浜に在る某汽船会社に石炭数万トンを売却しこれを数隻の運送船によりて横浜に運搬したるに汽船会社は倉庫の充満せるにより受領すること能わずとせば、石炭会社は汽船会社の受領を為すことを得るに至るまで自己の費用を以てこれを保管せざるべかれざるか。これを供託し、あるいは売却して売得金を供託することを得るとするもこれを為すが為にはまた少なからざる労力と費用とを要すべし、その費用もまた債務者の負担に帰すべきか。あるいはまた数１０頭の馬を給付すべき者は債権者遅滞以後直ちにこれを供託することを得ざるべし、その供託を為しまたは売得金を供託し得るに至るまでの馬の飼料は債務者においてこれを負担すべきか。これの如き例は容易にこれを数１０倍加するを得べく事実上供託の制度を以て債務者を保護するに足らざるは多言を要せずして明ならん。

３　我民法の解釈上一般的損害賠償義務を認むる学説あり。

（１）　債権者の受領義務を認むる学者は債権者の不受領を以て債務不履行となし、債務不履行の理由によりて損害賠償を認む。しかれどもこの学説の採るべからざるは既に述べたるが如し。唯当事者の特約により特に債権者の受領義務を定めたる場合には例外として債権者遅滞と同時に債務者遅滞を生ずることあるが故に債務者遅滞として損害賠償義務を生ずることあり得べきのみ（５）。

（２）　第４１３条に債権者は「遅滞ノ責ニ任ズ」と云える文字のみを根拠として損害賠償義務を認むる学説あり（６）。しかれども「責ニ任ズ」といえる字句を以て直ちに損害賠償責任を定めたるものと解するは独断なり。いやしくも責任ありと規定するときはその責任の内容無かるべからずといえどもその内容は損害賠償のみに限るにあらずもし法律に何等の規定なく場事項の性質及びその他の法律の規定に従いてこれを解釈するを要す。例えば第１０９条に「責ニ任ズ」というは損害賠償責任を定めたるものにあらざること明なるべし。しかるに債権者遅滞については理論上損害賠償義務を認むるの根拠無きが故に「責ニ任ズ」と云うを解して損害賠償責任を定めたるものと為すことを得ず。

（３）　なお横田博士は「債務者が他に損害を受けたるときは不法行為に関する一般の原則に従いその賠償を債権者に求むるは格別遅滞の効力としてこの請求権を行使することを得ざる」ものとす（７）。その意甚だ明ならずといえども債権者に過失ありかつ債権者が損害を蒙りたるときは不法行為を構成するものと為すものの如し。しかれども債権者遅滞は権利の不行使に止まるが故に債務者の権利を侵害せつものと言うことを得ずしかして我民法７０９条は損害の外に権利の侵害を必要とするを以てこの場合に不法行為の成立を認むることを得ず。

４　反対の極端に存するものは石坂博士なり。即ち同氏は損害賠償義務を認めざるのみならず費用の償還請求権もまた我民法の解釈上認むべからざるものとす（８）。その理由に曰く、遅滞以後における保管はこれを以て事務管理と為すことを得ざるを以て費用償還義務を認むるについてもまた法律の規定を要するしかるに我民法にはこれの如き規定存在せざるを以てこれを認むることを得ずと。この解釈は概念法学的解釈としては正常なるべしといえどもその結果極めて不当なるが故に他に全く解釈の方法無きにあらざればこれに従うべからざるものと信ず。しかして他に解釈の方法ありや否やは次にこれを述べんとす。

５　余は両説の中間において増加費用の償還請求権のみを認めんとす。その主要なる理由は既に述べたるが如くこの償還請求権を認めざるときはその結果極めて不当なりというに存すといえどもこの立法的理由にのみに根拠するにあらず。その解釈上の理由次の如し。

(１)　第４１３条は債権者が遅滞の責に任ずる旨を規定す。故にその責任の内容たるものなるべからず。第４９２条によりて債務者が不履行によりて生ずべき一切の責任を免るというは不履行を原因とする法律効果の生ぜざるべきことを消極的に規定するに止まるが故に、これを以て積極的に債権者の責任を定めたるものと解することを得ず(９)。また債務者が供託を為すの権利を取得することも、これによりて債権者が義務を負うに至るものにあらざるが故にまた債権者の責任を定めたるものと言うことを得ず。この他法律が債権者遅滞による責任の内容として特に規定したるものを見ず。故にもし費用の償還義務をも認めざるときは第４１３条は全く内容を有せず存在の価値を有せざる規定とならざるを得ず。しかるに第４１３条に「債権者ハ遅滞ノ責ニ任ズ」と規定せる字句はこの如く内容を有せざる無用の文字と解釈するを必要とするにあらず。遅滞以後における債務の履行については債権者が責任を有し、履行上必要なる事項については債権者がその負担に任ずる旨を規定したるものと解するを寧ろ自然の解釈とす。しかして債権者遅滞以後において債務者がなおその債務を履行することを要するは債権者の不受領に基因するものに外ならざるを以てその債務の履行について必要なる事項については債権者がその負担に任ずるはまた理論上正当なること言を俟たず。この如く第４１３条を解して遅滞以後における履行は債権者の負担において為さるべき旨を規定したるものと為すは寧ろ自然なる解釈にしてかつ理論上正当なるが故に第４１３条のみによるも所謂増加費用の償還義務を認むるを正当とす。

(２)　債権者遅滞以後において履行を為すが為めに増加したる費用は債権者の負担すべきものと解すべき第二の根拠は第４８５条なり。同条但書によるときは債権者の住所の移転その他の行為によりて弁済の費用を増加したるときはその増加額は債権者これを負担すべきものとす。これによりて見るときは債権者が受領を拒絶したるによりて弁済の費用を増加したるときは当然同条によりて債権者自らその増加額を負担すべきのみならず同条を設けたる法律の目的について考うるときは債権者の方面に存する自由による履行費用の増加は債権者にこれを負担すべきものなること明なり。けだし同条但書はあえて債権者の方面において過失の損することを必要とするものにあらざるが故に、単に弁済費用増加の原因が」債権者について存することを必要とするものと解せざるばからざるが故なり。

　債権者の行為による弁済費用の増加は当然債権者の負担すべきものと規定する民法の規定は但書の形式を採るものなりといえども、敢て理論に反する例外的規定にあらず。これを債権者遅滞の場合について見るときは民法第４１３条の趣旨を闡明明したる規定なりと解するを正当とす。

　以上の理由により債権者の受領拒絶によりて増加したる弁済費用は第４８５条但書によりて債権者の負担すべきものと解すべくまた債権者の受領不能によりて増加したる弁済費用及び債権者遅滞以後における必要なる保管費用は直接に第４１３条によりて債権者の負担すべきものと解するを我民法の趣旨に合するものと信ず。

６　債権者の償還することを要する費用は債務の履行を為すにつき必要なるものに限る。費用の償還義務を認むる根拠は前述の如く我民法上第４１３条及び第４８５条に存するのみなるを以て債権者遅滞の履行を為すにつきて必要なる費用についてのみ償還義務を負うのみと解せざるべからず、即ち債務の目的物を保存するが為に必要なる費用及び第２回の弁済費用はこれを債務の履行を為すにつきて必要なる費用と為すことを得べしといえどもその他の費用特に有益費用については債権者の効果として償還義務を認むることを得ず。

７　独逸の学者は事務管理の理由によりて費用償還請求権を認むるもの尠からず(１０)。しかれども事務管理は管理者が管理の義務を有せざることを前提とするを以てこの場合に事務管理の成立を認むることを得ず(１１)。あるいは債権者遅滞以後において債権者は積極的に管理を為す義務を負うにあらず唯債務者は故意または重過失について責任を負うを以て管理を為さざるときは故意または重過失によりて目的物を毀損したることとなり、従って間接に管理を為すことを要するに止まるものとす(１２)。しかれどもこの論は尠くとも我民法の解釈上これを採ることを得ず。既に述べたるが如く我民法においては債権者遅滞以後における債務者の保護義務を以て遅滞以前における保管義務とその性質を異にするものと解することを得ざるなり。

(１)　Wolff,a.a.O.S.481;Mommsen,a.a.O.S.296 ff.　ローゼンベルヒはモムゼンを以て第２説を採るものとすしかれどもモムゼンは一般に債権者遅滞が債権者の不利益となることあるべからずとなし、かつ債権者の提供したる金銭を爾後窃盗または強取せられた場合には履行不能を生ずるにはあらざるも債務者は債務を免るべきものとするよりて見れば単に費用の償還請求権のみを認むるものと為すを得ず。

(２)　Hirsch,a.a.O.S.135 ff.;Rosenberg,a.a.O.S.292;Kohler,Annahme u.Annahmeverzag, a.a.O.S.376fg.

(３)　債務者が抗弁権を有するは疑なきも、訴のよりて独立に費用の償還を請求し得るや、如何なる訴によりてこれを請求し得るかについては議論あり。事務管理による償還請求権を認むる者あり(Schey,a.a.O.S.129ff.)契約上の訴権を認めその他の債務については抗弁権のみを認むる者あり(Hirsch,a.a.O.)独逸民法草案には全部の損害賠償請求権を認めたるも(Prot.I,S.1252 ff. )独逸民法はこれを採らず。端西債務法もまた一般的賠償請求権を認めず唯債権者の危険及び費用において供託し得べき旨を規定するに止む、されど学者は事務管理または不当利得の理由によりて一般に費用の償還請求権を認む(Oser,a.a.O.○ 92,S.309)。

(４)　前掲〔１１０頁〕注２参照

(５)　この場合にも常に債務者遅滞となるにあらず、債務者遅滞について過失を必要とする学説によれば債権者遅滞となるも債務者遅滞とならざることあるは明かなり。

(６)　乾政彦氏「債権者の引取義務」法政大学創立３０周年記念論文集２頁。

(７)　横田氏、債権総論２５０頁。

(８)　石坂氏、日本民法６３６頁以下。

(９)　同説、乾政彦氏前掲。

(１０)　Kohler,Gläubigerverzug,S.234,Anm.132;Mommsen,a.a.O.,S.297;Rosenberg,a.a. O.,S.294;Oser,a.a.O.我民法につき中島氏、釈義巻の３、４１１頁、これを採る。

(１１)　Schey,a.a.O.S.130 ff.;Hirsch,a.a.O.石坂氏前掲。

(１２)　Rosenberg.a.a.O.

第４節　双務契約において反対給付請求権に及ぼす効果

１　双務契約の債権について債権者の遅滞を生ずるときはその提供せられたる債務について以上述べたる諸種の効果を生ずるのみならず反対給付の請求権に対してもまた一定の法律効果を生ず。けだし双務契約上の両個の債務は所謂牽連性を有するものなるが故にその一方の債務の履行について債権者の不受領なる事実存するときはその事実はまた他の一方の債務に対して一定の影響を生ずるを以て正当とするが故なり。この点において研究を要する問題２あり。所謂同時履行の抗弁権と危険負担とこれなり。しこうしてこれ等の問題については双務契約の性質について詳細なる研究を必要とするもこれには単に債権者遅滞の効果を論述するに止む。

２　債権者遅滞の効果として同時履行の抗弁権(契約不履行の抗弁権)が消滅するや否やは議論の存する所なり。債務者が自己の債務の履行提供を為しつつ反対給付の履行を請求するときは相手方は同時履行の抗弁権を有せざること明文上明なりといえども(５３３条)債務者が一旦履行の提供を為し債権者遅滞を生じたるときは爾後その債務者が反対給付の請求を為すに当りては更に履行の提供を為さざるも同時履行の抗弁権を行使せらるることなきや解釈上疑問なきにあらず。独逸の普通法においては債権者遅滞の効果としてこの抗弁権の消滅を認めること通説なりしも(１)独逸民法においてはこれを認めざるを通説とす(２)。我民法の解釈上石坂博士は後説に従い、債権者は受領遅滞にあるもなお同時履行の抗弁権を失わざるものとす(３)。余はこれに反し受領遅滞に在る債権者は同時履行の抗弁権を喪失するものと解するを正当とす。けだし我民法題５３２条に「相手方ガ其債務ノ履行ヲ提供スルマデ」というは必ずしもこれを狭義に解するの要なく、自己の債務を履行するに先ち既に相手方の債務の履行提供あるときはその提供の時期が自己の債務を履行するときと同時なりや否やはこれを問わすして抗弁権の成立を認めざるを以て文字解釈として寧ろ自然なる解釈とするが故なり。加この双務契約における債務の牽連性より論ずるもこの場合には抗弁権の消滅を認むるを正当とせん。けだし双務契約の牽連性は両個の債務を以て不可分なるものとなすにあらずして両者別個の債務関係なるも畢竟公平の原則と普通の場合における当事者の意思とに基きてこれを認むるものに外ならずしかしてそれ何れの点より見るもこの場合においては抗弁権の消滅を認むるを以て正当とするが故なり(４)。あるいは債権者遅滞の効果として同時履行の抗弁権の効果として同時履行の抗弁権の消滅を認むるも債権者の遅滞は何時にても債権者が弁済を受くべき旨の意思表示を為すことによりて消滅すべきものなるが故に、債権者がこの意思表示を為したるときは再び両債務の牽連を成立せしむるものとす(５)。しかれども既に債権者遅滞の効果として同時履行の抗弁権の消滅を認むるにおいてはその終了を理由として抗弁権の復活及び牽連関係の復活を認むるは正鵠を得たるものと言うことを得ず。けだし遅滞の終了は将来に対し遅滞の効果を生ぜざるの効力を有するに止まり既往に遡りて既に生じたる遅滞の効果をも全滅せしむるものにあらざるが故に、例えば既に保存費用を支出したるときはその償還義務を消滅せしめざると同じく、既に抗弁権の消滅を来したるときは消滅したる権利の復活を生ずるものと為すことを得ざるなり。

　我民法について反対説を称うる論者は我民法上債権者遅滞の効果は債務者をして不履行より生ずべき一切の責任を免れしむるに止まるというを以てその理由とす（石坂氏前掲）。しかれども我民法においては債権者遅滞の効果として特に規定せるものなく第４９２条の如きも明文上においては債権者遅滞の効果なることを示せるにあらず。故にこの場合においても明文上特に債権者遅滞の効果として抗弁権の消滅することを規定せずというは反対説を採るの理由となすことを得ず。その規定の内容上債権者の遅滞にあらざることを要件としたるものまたは債権者の遅滞に在る場合を規定したるものは皆間接に債権者遅滞の効果を規定せるものと為さざるべからず。しかしてこの場合においては「相手方が履行の提供を為すと規定するが故に既に相手方が履行の提供を為したるに拘わらず受領を為さざりし場合即ち債権者の遅滞にある場合には抗弁権を有せざるものと解せざるべからず。

３　債権者遅滞の効果として危険の移転を生ずるは一般に学者の認むる所なり(６)。しかれども我民法においてはこの原則は例外なく適用せらるるものに非ず。もし何等の規定なしとせば却って第４１３条によりて遅滞以後における履行は常に債権者の危険において為さるるものなることを認め得べしといえども危険負担については第５３４条以下に特則あるが故にこれに従いて解釈するを要す。

(１)　特定物に関する物権の設定移転を目的とする双務契約については原則としては危険債権者にあるが故に(５３４条)普通の場合においては問題を生ぜず。唯特に債務者が危険を負担すべき旨の特約ある場合において問題を生ず。しこうしてこの後の場合においては法律の規定により当然危険の移転を認むることを得ずといえどもこの如き特約は普通の場合においては弁済の提供を為すまで危険を負担するの趣旨なるべきが故に債権者遅滞以後においては何等の特約なきこととなり従って第５３４条によりて債権者が危険を負担するものと解せざるべからず。これに反してその特約の趣旨が弁済の実行せらるるまで債務者において絶対に危険を負担するに存するときは危険の移転を認むることを得ず。

(２)　不特定物に関する物権の設定移転を目的とする契約については特定を生ずるによりて危険の移転を生ずること第５３４条第項の規定する所なり。故に債権者遅滞の要件たる履行の提供が第４０１条に謂う所の「債務者カ物ノ給付ヲ為スニ必要ナル行為ヲ完了シ」に該当するときは危険の移転を生ずること勿論なり。しかれども既に述べたるが如く履行の提供は必ずしも常に特定を生ずるに適するものにあらず。例えば債権者が品質または数量を指定する権利を有する場合には履行の準備行為を為して指定を為すべきことを催告するによりて履行の提供は成立し債権者遅滞を生ずべきも、債務者は自ら物の分離を為すことを得ざるが故に特定を生ずることを得ざるが如し(７)。

(３)　物権の設定移転以外の給付を目的とする双務契約については第５２６条の規定による。しかして債権者遅滞以後当事者の責に帰すべからざる事由によりて生じたる履行不能を以て当然債権者の責に帰すべき事由による履行不能なりと解するときはこの種の双務契約については危険の移転を生ずるんものと解せざるべからず。しかれども余はこの解釈を採らざること既に述べたるが如くなるを以て債権者遅滞の効果として常に危険の移転を認むることを得ず（８）。唯不受領または受領不能につき債権者に過失ある場合においては、爾後当事者の責に帰すべからざる事由によりて生じたる履行不能もまたこれを債権者の責に帰すべき事由による履行不能と解することを得るが故にこの場合に限り危険の移転を生ずるものと解す（９）。

（４）　双務契約における一方の債務が選択債務なる場合においてはその債務の履行不能については第４１０条及び第５３４条及び第５３６条に従う。即ち数個の給付の中不能なるものを生じたるときは第４１０条に従い特定を生ずべくしかして特定後給付不能を生じたるときはその特定したる給付の性質に従い第５３４条または第５３６条による。これに反して数個の給付が全部一時に履行不能となるときは題３６条に従う。但し債権者が遅滞に在るに止まらず代４０８条によりて選択権の移転を生じかつ債務者が選択権を行使したるときはその特定を生じたる債務の性質に従い第５３４条第１項第２項または５３６条によりて危険負担の問題を決すべきこと勿論なり。

(１)　André,Einrede des nichterfüllten Vertrages,1890,S.139 ff.;dort Zitate.

(２)　Oertmann,a.a.O.zu § 320;Staudinger-Kuhlenbeck,zu § 320. しかれども独逸民法と我民法とは条文の字句を異にす。独逸は bis zur Bewirkung der Gegenleistung と規定し我民法は「履行ヲ提供スルマデ」と規定す。殊に独法に関する通説は直ちに参考と為すに足らず。殊に独法についても全く反対説無きにあらず後に述ぶるローゼンベルヒの外 Staub,Exkurs zum HGB.§374 Anm.5 は抗弁権の消滅するものとす。

(３)　石坂氏、日本民法第６巻２５１頁以下は明に抗弁権の消滅せざるものとするが故に同氏日本民法第２巻６３３頁において「双務契約にありて債権者が遅滞に在る場合には自己の債務に関しては提供為したるものなるが故に反対給付を請求することを得」と述ぶるは履行提供の存続せる場合のみに関するものなるべきか。判例はこの見解を採る。

(４)　同説、末弘氏、債権各論１４４頁、拙著、日本再建法各論増訂版１１９頁、同処に掲ぐる判例を見よ。双務契約における両債務の牽連性の性質については学説上議論あれど今は述べず。余はこれを以て畢竟するに公平の原則に基くものと認むるが故にまた公平の原則に基きてこれに制限を認むるを正当と信ず。しかして債権者が履行の提供を受けたるに拘わらずこれを受領せざる場合には、爾後債権者に、債務者の債務もまた同時に履行すべきことを要求する権利を与えざるを以て公平の原則に従うものとす。但し同時履行の抗弁権を失わしむるは牽連性の弛緩を認むるにすぎずしてその全滅を認むるにはあらず、故にその債務が履行不能となりたるには拘わらず反対給付の請求権を消滅せしむることなきや否やの問題即ち所謂危険負担の問題は抗弁権の喪失を認むるによりて直ちに解決せらるべきものにあらず。独逸の学者にしてこの両者を同一の問題として論ずる者あるも（André 前掲）誤れり。

(５)　Rosenberg,a.a.O.S.284 fg.

(６)　石坂氏、日本民法６３５頁、独逸民法３００条２項、３２４条２項。Kohler,Gläubigerverzug,S.224 ff./derselbe,Annahme u Annahmerverzug,S.3芟37 ff./Windscheid,Pand.II.§ 326;André,a.a.O.Rosenberg,a.a.O.S.282 ff.

(７)　前掲第１節第４項〔１６１頁〕註参照。独逸民法については不特定物に関する物権の設定移転を目的とする双務契約について物の分離なきときは縦令債権者遅滞を生ずるも危険の移転を認めざる者多し。Rosenberg,a.a.O.S.277 fg.;Oertmann,zu § 300(dort Zitate).

(８)　拙著、日本債権法各論１４５頁以下。

(９)　独逸民法においては受領遅滞以後における債務者の責に帰すべからざる事由による履行不能について特則を設け債権者の責に帰すべき事由による履行不能と同一に看做すべきものとす(３２４条)。独逸民法についてこの特則を必要とせるは同法においても受領遅滞以後における履行不能を以て理論上債権者の責に帰すべき事由による履行不能と為さざるが為めなり。

この点説を改めたり。拙著日本債権法各論増訂版１３５頁、拙稿「債権法における信義誠実の原則」前掲。

第５節　余論

立法論としては債権者遅滞の効果として論ずべきもの尠からず。債務者の責任の軽減を認むるを正当とするはその一なり。一定の要件の下に解除権を認むることを正当とするはその二なり。明に増加費用の償還請求権を規定して疑義を芟除するはその三なり。双務契約におけるその効果についてもまた明文の規定あるを便宜とせん。殊に余は債権者遅滞において債権者に過失ある場合においては積極的損害賠償義務を認むるを以て法律の目的に適するものと信ず。受領義務なきが故に義務なくして過失を認むることを信ずというが如き概念法学に囚わるるは立法者の事にあらざるなり。

第５章　債権者遅滞の終了

１　債権者遅滞の終了原因においては法律に何等の規定を置かず。故に一般の理論と債権者遅滞の性質とに根拠してこれを決するの外なし(１)。

(１)　債権が消滅したるときは受領遅滞の消滅すべきこと疑を容れず。しかしてその債権消滅の理由が弁済の受領によると、債務の免除によると、債務者の責に帰すべからざる事由による履行不能によると、将たその他の事由によるとを問わず。

(２)　債権者遅滞以後債務者の責に帰すべき事由に基きて履行不能を生じたるときは債権者遅滞は終了す。けだしこの場合においては債権は消滅することなく損害賠償請求権として存続するものなりといえども、新に債務不履行を生ずるものなるが故に債権者遅滞の存続を認むることを得ず。従って不履行によりてしょうずべき効果を発生するは勿論債務者は直ちに賠償金額の供託を為して債務を免るるを得ず更に賠償金額の提供を為しその不受領あるに及びて始めて供託を為し得べきものとす。

(３)　債権者及び債務者が新に履行期を定むる契約を為したるときはこれによりて遅滞の終了すべきこと言を俟たず。

(４)　債権者が受領の準備を為して履行を受くべき旨を通知したるときはまた遅滞の終了するものと解せざるべからず。然れども単純に履行を催告するも受領の準備を為さざるときは履行不成立の原因たる債権者の方面に存する障害は未だ除去せられらるものなるが故に遅滞を終了せしむること能わず。故に履行に着手するが為めに債権者の行為を必要とする場合においてはその協力行為を為すことを必要とし、また受領不能の為めに債権者遅滞の生じたるときは受領可能の状態を生じたることを要す。

　以上（３）及び（４）の場合即ち債権者の行為によりて遅滞の終了を生ずる場合においては如何なる人の行為を要するかの問題を生ず。即ち債権者自身の行為を要するか、多数当事者の債権については一債権者の行為を以て足るか等の問題を生ず。しかしてこれ等の問題については嘗て履行の提供を受くるに適する人について述べたると同じく、弁済の受領を為すに適する人の行為を必要とするを以て原則とするもの言わざるべからず。この原則の適用及びその制限においては履行の提供を受くるに適する人について述べたる所に準じて比較的に容易にこれを解決することを得べきが故に今はこれを略せんとす。債権者が履行の請求を為すに当りては費用の賠償義務について履行の提供を為すことを要するものと解すること独逸における通説なり（２）。しかれども我民法の解釈としては同一に論ずることを得ず。債権者は債務の履行につき自己の方面に存する障害を芟除するを以て足るが故に同時に自己の債務の提供を為すことを要するものと解することを得ず。唯債務者はその債務の目的物に関して生じたる債権を有するが故に留置権を行使することを得べきのみ(２９５条)。

(５)　債権者遅滞は債務者の放棄によりて消滅すとの説あり（３）。しかれども一般的に債権者遅滞の効果に対しては放棄を為すことを得ず、唯遅滞より生ずる個個の権利については放棄を為すことを得べし。例えば不履行より生ずべき一切の責任を免るることについては放棄を認むることを得ざるも費用の償還請求権、供託を為すの権利については放棄を認めて可なり。

２　債権者遅滞の終了は既往に遡りてその効果を生ずることなし。故に終了以前において債務の不履行ありたると同一の効果を生ぜざるは勿論、既に生じたる費用償還請求権の如きもまた消滅することなし。

(１)　独逸民法第一草案にはこの点について規定ありたるも(２６２条)後削除せられたり。Prot.I.S.1258-1260;Prot.II.S.668.

(２)　Oertmann,Vorbem.zu §293 ff.,S.142;Mommsen,a.a.O.S.339;Rosenberg,a.a.O.S.267.独逸民法第１草案２６２条は明にこれを規定せり。

(３)　Mommsen,a.a.O.S.338.

(法学協会雑誌第３４巻(大正５年)５・８・９・１１・１２号(民法研究第３巻所載))

債権者遅滞について

１　「債権者の遅滞と弁済の提供」と題する論文において、大審院判事法学士磯谷幸次郎氏は、弁済の提供が必らずしも常に債権者遅滞の要件にあらざることを論ぜられた(法曹記事、２８巻１０号１４頁以下)。余は嘗て債権者遅滞論を発表し〔本書８９頁〕我民法上弁済の提供を以て債権者遅滞の絶対的要件となし、立法論として多少非難すべきものではあるが、解釈論としては、なお、弁済の提供なくば債権者遅滞を生ぜざるものと解するの外なしと論じたのである。今磯谷判事の諸説を読んで、氏が社会の取引観念と公平なる条理とに着眼せらるる点においては大に吾が意を得たることを悦ぶのであるが我民法の解釈上債権者遅滞に弁済の提供を必要とするや否やについては遺憾ながら未だ通説及び余の嘗て述べたる所論を覆えすに足るべき理由を発見せぬ。今少しこれを論じて見たい。

２　磯谷氏が弁済の提供を以て債権者遅滞の必要的要件にあらずとせらるる理由は、偏に債務者の保護に着眼せらるるが為めである。一般の場合には、縦令一旦債権者が受領拒絶の意思を表示し、あるいは債権者の為すべき協力行為を為さざることがあっても、債権者はその意思を翻して受領することもあるべく、また業務多忙等の為に協力行為を遺忘することもあり得べきことであるから、予め受領を拒み、もしくは協力行為を為さずという事実のあった場合に、直ちに債権者に遅滞の責を負わしむることは、債権者に対して苛酷に失するの嫌がある。故に原則としてはこれ等の場合のもなお弁済の提供を必要とするものであるがこの如く弁済の提供を必要とするは、債権者の受領は協力を期待し得べき場合なることを前提とするものと解すべく、その不能は期待し得べからざること明確なる場合には、言語上の提供もまたこれを必要せざるものと解せねばならぬ。斯かる場合における言語上の提供は何等の意義を有せざる無用の長物であって、法律が債務者をして這般無用無意義なる形式的行為を実行すべく強制するものと解するは決して解釈の正鵠を得たるものにあらずと論ぜらるるのである。

３　磯谷氏が以上の如く論是らるる理由は、もし如上の場合に弁済の提供を以て債権者遅滞の要件と解するならば、債務者はその所謂無用無意義なる弁済の提供を為すにあらざれば、自ら履行遅滞の責を免るることを得ざる結果となるをおそれらるるが為めであること、氏の論文の随所に現れている。しかしながら債務者が遅滞の責を負うや否やの問題と、債権者の遅滞を生ずるや否やの問題とは、明にこれを区別することを要する。債務者が弁済の提供を為さざる場合に債務者をして履行遅滞の責を免れしむるが為めには、必ずしも債権者に受領遅滞ありと為すことを要せぬ。債務の履行が遅延するも、それが債務者の責に帰すべき事由に基づかざる場合には、履行遅滞を生ぜざるものと解すべきではあるが、履行遅滞を生ぜずということは直ちに債権者の受領遅滞を生ずるという理由とはならぬこと明である。例を挙ぐる迄もないことであるが、家屋の賃借人が伝染病の為めに弁済期において家屋を返還すること能わざる場合には、履行遅滞を生ぜざるものと解すべきであるが、またもとより債権者遅滞を生ずるものと解すべきではない。この如く債権者遅滞を生ぜずということと、債務者遅滞を生ずるということは、常に相伴うものではないのであるから、債務者をして遅滞の責任を免れしむるが為めに債権者遅滞を生ずるものと解することはその必要なきことと言わねばならぬ。

　民法第４９２条に「弁済ノ提供ハ其提供ノ時ヨリ不履行ニ因リテ生スベキ一切ノ責任ヲ免レシム」と規定している。しこうして題４９３条には弁済の提供の方法を規定しているから、債務者が遅滞の責任を免れんとせば第４９３条に従って弁済の提供を為すことを要するものと解し、唯債権者遅滞を生ずる場合には債務者は遅滞の責を負わざるが故に弁済の提供なくとも履行遅滞の責を免るるものと解することこれ磯谷氏の諸説の根拠である。しかしながら、第４９２条において「弁済ノ提供ハ其提供ノ時ヨリ不履行ニ因リテ生ズベキ一切ノ責任ヲ免レシム」と規定しているのは、単に弁済の提供あらば事後債務不履行による責任を生ぜずということを規定しているに止まって、弁済の提供なくば常に必ず履行遅滞の責任を生ずるものと規定しているのではない。余の解する所によれば、我民法上債務者の遅滞には弁済期において履行を為さざることが債務者の責に帰すべき事由に基けることを必要とするものであるから、縦令弁済の提供を為さざるも、その提供を為さざることが正当の理由に基ける場合においては遅滞の責を生ぜざるものと解すべきである。故に第４９２条を根拠として如上の場合に債権者遅滞を認めざれば債務者遅滞を認むるの結果となると解するは誤謬なりと言わねばならぬ。

４　民法第４１３条には「債権者ガ債務ノ履行ヲ受クルコトヲ拒ミ又ハ之ヲ受クルコト能ワザルトキハ其債権者ハ履行ノ提供アリタル時ヨリ遅滞ノ責ニ任ス」と規定している。通説は、この規定を根拠として債権者遅滞には常に必らず履行の提供を要するものと解するものと解するのであるが、磯谷氏は「単に法文の字句より看るときは所論の如く解せられざるに非ずといえども、その法文は畢竟債権者において受領遅滞の責を負うべき時期を定めたるものにして、この法文あるの故を以て債権者が受領を拒みまたはこれを受くること能わざる総ての場合に絶対的に債務者をして弁済の提供えお為さしむることを要するものと解するは即断なり」(前掲１９頁)と言いかつその後に論ぜらるる所によれば、一定の場合には弁済の提供を為すことなくして債権者は当然遅滞に附せらるるのである。余の見る所を以てすれば、単に法文の字句より看るときはその法文は債権者遅滞を生ずる時期のみを規定したるものと解すべきが如くであるが、その時期をきていしたる当然の結果として、その要件をも併せて規定したるものと解すべきである。何時より債権者遅滞を生ずるかの問題が決定せられずして漫然債権者遅滞を生ずということは何等の意義をも有せざるものである。随ってもし何時より債権者遅滞を生ずるかという問題が第４１３条のみによりて決定せらるるのであって、またその遅滞を生ずる時期は弁済提供という唯一の事実によりて決定せらるるなあば、弁済の提供は遅滞発生の時期を決定するものにして同時にまた遅滞発生の要件をなすものと言わねばならぬ。

５　抑も、債権者と債務者とを適当に保護するということは債権法における基本的原則であって、磯谷氏の所論もまたこの基本的原則を顧慮せられたるものであることは余の疑わざる所である。しかしながらこの基本的原則に基いて氏の挙げられたる場合即ち債権者が予め受領を拒絶しまたは協力為さずかつ受領または協力を期待し得べからざることの明確なる場合になお弁済の提供を要するや否やの問題を解するに、債権者をして遅滞の責任を免れしむるが為めには弁済提供を要せざるも、更に進んで債権者をして受領遅滞に陥らしむるが為めには弁済提供を要するものと解することが法文上は勿論我民法全体の精神にも適するものと言わねばならぬ。債務者遅滞を生ぜずということは、単に不履行の為めに債務の範囲を増加せず、また債権者は不履行の場合において行使し得べき違約金請求権、損害賠償請求権、質権、抵当権等を行使し得ずというに止まるのであるが、もし債権者遅滞を生ずれば履行遅延による不利益は債権者の負担に帰するものと解すべきであるから、債権者は単に利益を失うのみならず不利益を被るものとなるのである。しこうして民法は契約解除(５４１条)、選択権喪失(４０８条)、売買の予約(５５６条)等諸種の場合において、当事者の一方が一定の行為を為さざるにより権利を失いその他不利益を被るべき場合には所謂最後の通帳を必要とし、その一定の行為を為すべき機会を与えているが、これと同一の理由に基づいて、債権者遅滞の場合においても、受領遅滞ということによって債権者が不利益を被ることの要件として、債務者が履行の提供を為すことを必要とし、債権者をしてその受領を為すべき機会を有せしめたのである。故に、債権者遅滞の要件として常に履行の提供を必要とするものと解することは第４１３条の規定に適するのみならず、民法の精神にもまた適するものであって、債務者を保護する方法としては唯履行遅滞を生ぜずと解することを以て足りるものと信ずる。

６　債権者が失踪逃亡してその住所またはい所を知ること能わざる場合になお弁済の提供なくば債権者遅滞を生ぜずと解するときは、その結果において不当なりということは、磯谷氏がその諸所説の理由として挙げらるる所である。この点は余もまた前論文において説述した所であって｢所在不明なる相手方に対し一般に意思表示を為すの方法を規定せざるハ法典の不備なり｣と述べている〔1〕(本書１３１頁以下)。しかしながら、この場合において弁済の提供を要せずして債権者遅滞を生ずるという論者の説には未だ遽かに左袒することを得ぬ。元来我民法は一般に意思表示について所在不明なる相手方に対する意思表示の方法を規定していらぬのであるから(独民１３２条参照)その方法なきことによりて生ずる不当なる結果は債権者遅滞に特殊なるものにはあらざるのみならず、もしその方法の規定なきにより一般の意思表示についてこの如き場合には表示を要せずと解すれば取消、解除等の場合において更に不当なる結果を生ずべく、また弁済の提供のみについてこれを要せずと解するならば極めて権衝を失することとなる。殊に債務者遅滞の場合と比較してこれを考察するならば、第４１２条題項によって期限の定なき債務については債権者が履行の請求を為したることを履行遅滞の要件とするものであるが、もしこの場合において債務者の所在不明なるが為めに履行の請求を為し得ざる場合には履行遅滞を生ぜずと解するの外ないであらう。論者はこの場合にも履行の催告を必要とせずと解せらるるのであるかあるいは債権者遅滞についてのみ弁済を受くべき旨の催告を必要とせずと解せらるるのであるか。もし前者なりとせば第４１２条に反するの結果となり、もし後者なりとせば極めて権衝を失するの結果とならう。

　債権者遅滞の場合においては所在不明なる債権者に対して弁済提供を為すことをその要件と解してもさのみ不当なる結果を生じない。即ち、一面には、上に述べたるが如く、この如き場合には債務者の遅滞を生ぜずと解することによって、また他の一面においては供託に関する第４９４条の規定によって債務者を保護することを得るのである。故にこの如き場合において不当なる結果を生ずることを理由として債権者遅滞は弁済提供を必要的要件とせざるものと解することもまた余の首肯し得ざる所である。

〔１〕　この点現行法９７条の２(昭和１３年追加)参照。

(法学志林第21巻(大正8年)2号(民法研究第３巻所載))

再び債権者遅滞と弁済の提供について

１

　大正８年２月余は法学志林第２１巻第２号に「債権者遅滞について」(本書２０３頁)といえる一文を載せ磯谷幸次郎氏の「債権者の遅滞と弁済の提供」と題する論文(法曹記事、２８巻１０号所載)に対して多少の批評を試みたり。今磯谷氏がこの拙文に対して本年４月の法学新報(３０巻４号)に批評を加えられたるを細読するに、先に公にせられたる同氏の論文を多少誤解したる所あるが如くまた余の論文頗る簡単にして意を蓋さざりしが為めに誤解を招きたるの点無き主要なる目的と為すもの、深く磯谷氏および読者の寛恕を乞う。

２

　債権者遅滞は必ずしも常に弁済の提供を必要とせず債権者の受領もしくは協力が不能なるかまたは全然これを期待し得べからざることの明確なる場合には債務者は所謂言語上の提供を為さざるも債権者は受領遅滞に在りと為すことこれ磯谷氏の所論なり。しこうしてその所説の理由として磯谷氏の先に述べられたる所を読み余はもし如上の場合に弁済の提供を以て債権者遅滞の要件なりと解すれば債務者は無用無意味なる弁済の提供を為すにあらざれば自ら履行遅滞の責を免かるるを得ざるの結果となるをおそれれられたるものと解せり。けだし同氏は明にこの事を理由として挙げらるることなしといえどもその趣旨は氏の第１論文の随所に現われたりと解したるが故なり(１)。しかるに今氏の第２論文を見るに縦令如上の場合に債権者遅滞を生ぜざるものと解するも債務者が履行遅滞に在るの結果を生ぜずと論ぜらるるが故に余の前回の評論はこの点において標的を失いたるものにして余が氏の第一論論文を誤解したるは深く不明を謝する処なるも氏とこの点において解釈を同じくするは余の寧ろ欣快とする所なり。

(１)　磯谷氏の第一論文１５頁以下に「債権者が予め弁済の受領を拒みまたは債務の履行につき債権者の為すべき協力行為を為さざるときは債務者は自己の責任を免るるが為めには弁済の準備を為しかつこれか受領を催告することを必要とすれとも這は相手方たる債権者の受領または協力を期待し得べき場合なることを前提とするものにしてもし債権者の受領または協力か不能なるかもしくはこれを期待し得へからさることの明瞭なる場合には債務者は叙上言語上の提供を為ささるも遅滞の責を免るるものと言わさる可からす」と謂い、また２１頁には「以上数個の場合には債務者は形式的弁済の提供を為ささるも債務不履行より生する責任を免脱せられ相手方を遅滞に附することを得るものと解するを妥当とすへく」と謂う。これ当に基きて磯谷氏は債務者をして履行遅滞の責を免れしむるが為めに債権者遅滞に弁済の提供を必須の要件と為すべからずとせらるるものと余の誤解したるはあるいは過失なき誤解なるべきか。

３

　余の解する所によれば債権者が予め受領を拒みまたは債権者の受領もしくは協力の全然期待し得ざる場合に債務者は弁済の提供を為さざるも債務者の責に帰すべき事由による履行遅滞に在らざるが故に債務者には履行準備の責なくまた履行の提供なきが故に債権者にも受領遅滞なしとす。しかるに磯谷氏はこれに対して「是れ唯債務者をして遅滞の責を負はしめざるに止り・・・・・この場合に債権者もまた遅滞に附せられたるものに非ざるが故に債務者は債権者の履行遅滞を原因として自己の被りたる損害に対して賠償を求むるの途なきものと云わざる可からず」と論ぜざる。しかれどもこれを以て債権者の受領遅滞を認むるの論拠と為すは余の解するに苦しむ所なり。債権者の受領遅滞(自己の債権に関す)と債権者の履行遅滞(自己の債務に関す)とはもとより別個の法律事実にして両者は相伴うことを要するにあらず。両者ともに並存することありといえども受領遅滞なくして履行遅滞を生ずることあり履行遅滞なくして受領遅滞生ずることあり。故に債権者の履行遅滞を認め債務者に損害賠償請求権ありと解せんが為めに債権者の受領遅滞を認めざるべからずと論ずるは余の解するに苦しむ所なり。あるいは「債権者の履行遅滞を原因として」とあるは債権者の受領遅滞の誤植なりと解せんか。しかれどもこの如く解すれば、債権者の受領遅滞は唯増加費用償還請求権を生ずるに止まり一般に損害賠償請求権を生ずるものにあらざるが故にこれを原因として損害賠償請求権を認められたるの理を解すること能わず。故に履行遅滞を受領遅滞の誤植なりと解するは正当なる解釈にあらざるべし。

　磯谷氏が如上の場合に受領遅滞を認むるにあらざれば債権者の履行遅滞を認むることを得ずと論ぜらるるは受領遅滞を認むるにあらざれば債権者は双務契約においてなお同時履行の抗弁権を有ししたがって履行遅滞に陥ることなしと解せらるるが為なるべし。しかれども我民法第５３３条は債権者の受領遅滞を以て同時履行抗弁権の喪失の事由なりと明定せるにあらず(余は受領遅滞に在る双務契約の当事者は同時履行の抗弁権を有せざるものと解するも頗る議論あり。拙著、債権法各論増訂版１１９頁)またこれを以て同時履行抗弁権喪失の事由なりと解するももとよりこれを以て同時履行の抗弁権を喪失すべき唯一の事由なりと解するの理なし。故に受領遅滞を生ぜざるものと解することは双務契約の当事者について履行遅滞を認むるに何等の妨となることなし。

　惟うに債権者の受領または協力が不能なるかもしくはこれを期待し得べからざることの明確なる場合においては相手方がその弁済の提供を為さざるも債権者は自己の双務契約上の債務について履行遅滞に陥るものと解するを正当とす。しかれどもこれ債権者が受領遅滞に陥れるが為めにあらずして債権者がその債務を履行せざるにつき正当なる理由なくその債務を履行せざるはその責に帰すべき事由によるものと解すべきが故なり。けだし民法が同時履行の抗弁権を認めたるは給付と給付とを交換することを以て双務契約当事者の契約を為したる趣旨に適するものとしまず一方の給付を為すべく強要するはこの趣旨に反しかつ公平の原則に反するものとしたるが故なり。故に第５３３条には「相手方カ其債務ノ履行ヲ提供スルマテハ自己ノ債務ノ履行ヲ拒ムコトヲ得」と規定せりといえども相手方に履行ｔの提供なきことを理由として自己の債務の履行を拒絶するが為めには相手方の履行提供あらば履行を完了せしむることを得べき事由あることを必要とす。自ら受領を拒みまたは受領不能なるべき事由あるに拘わらずなお相手方の履行提供を要求するはもとより権利の濫用なるが故に同時履行抗弁権の如き公平の原則に基きたる権利についてこれを認むべからざるは明なりと言うべし。余はこの点において磯谷氏と結果において説を同じくする者にしてまた同氏の引用せられたる判例に賛成する者なるも理由においては磯谷氏と見解を異にするを悲しむ。

　磯谷氏はその諸説を例証するが為めに２個の設定を掲げらる。しかれどもその２例孰れも遅滞の問題にはあらずして不能の問題と解すべきなり。甲が海外に旅行するに当り乙を通訳として同伴しこれに報酬を与うることを契約したる後甲乙に背きて乙を同伴せざることを通知し丙を伴いて出発したりという事例において何人も乙が損害内相を請求するにつきまず旅装を整えて提供を為すことを要するものと解する者無かるべし。しかれどもその然る所以は甲の受領不能の結果履行不能を生じたるが故なり。受領不能と履行不能との関係については議論あるもその給付を為すことが一般観念上不能と認むべきものなるときは履行不能となるものとす。しかしてこの場合において甲が一旦帰国して更に乙を同伴するは理論上不能にあらずといえども一般観念上既に不能となりたるものと解すべきが故に乙は民法第５３６条によりて反対給付の請求権及びその請求権に対する履行遅滞による損害賠償請求権を有するものと解すべきなり。磯谷氏の掲げられたる第２の例については履行不能なること更に明なるが故に重ねて説かず。

４

　磯谷氏は第４９２条と第４１３条とを比較し余が「弁済ノ提供ハ其提供ノ時ヨリ不履行ニ因リテ生ズヘキ一切ノ責任ヲ免レシム」という第４９２条を解して単に弁済の提供を為せば爾後債務不履行による責任を生ぜざることを規定したるに止まり弁済の提供なくば常に必ず履行遅滞の責を生ずる旨を示したるものに非ずと解釈する以上は、同一の筆法により民法第４１３条の法文においても這は単に受領遅滞の責を負うべき時期を定めたるものにして債権者が受領を拒みまたはこれを受くること能わざる全ての場合に履行の提供なくば常に必ず受領遅滞の責を生ずる旨(生ぜざる旨の誤記なるべし)を示したるものに非ずと論断すべきものと論ず。しかれども第４９２条と第４１３条とは全く法文の性質と構成を異にす。第４９２条は弁済提供の効果のみに関する規定にして債務不履行の全般に関する規定にはあらず。故に債務不履行に関する一般原則に基き履行遅延につき債務者に過失なき場合に債務不履行による責任を生ぜざるものと解するは寧ろ当然なり。しかるに第４１３条は受領遅滞の要件に関する唯一の規定にして他に受領遅滞に関する一般原則なるもの存在せざるが故に第４１３条の要件を備えざるも一般原則によりて受領遅滞を生ずるものと解することを得ず。磯谷氏は両者の間に径庭を設けくべき何等の理由あるを発見すること能わずと論ぜらるるも余はその径庭を認むべき法文上及び理論上の理由ありと考うる者なり。

５

　余は前論文において「弁済の提供を以て試験者遅滞の絶対的要件となしたるは立法論として多少非難すべきもの」なりと言えり。これが為めに既に立法論として磯谷氏の見解を正当なりとすれば解釈論として何が故にこれを採らざるかとの反問を蒙れり。しかれども余は磯谷氏の見解を以て立法論として正当なりと言いたるにはあらずして弁済の提供を以て債権者遅滞の絶対的要件としたるは立法論として多少非難すべきものなりと言えるに過ぎず。立法論としても直ちに磯谷氏の所見を正当とするにあらず。惟うに債権者遅滞に関する立法論としては論ずべきもの頗る多く今これを詳論することを得ずといえどもその一端を述ぶればあるいは受領不能または受領拒絶につき債権者に過失あるときに限り損害賠償義務を認めその他の場合には増加費用を負担すべきものと規定するを正当とすべくあるいは債権者遅滞の要件についても更に詳細なる規定を設くるを正当とすべし。しかしてこれ等の改正は思想上不可分の関係を有するものにしてその一のみを変更するも多くの実益を見ず。殊に債権者遅滞の要件のみについて論ずるも効果発生の時期を明定するは必要欠くべからざる所に属するが故にあるいは独逸の如く確定期限の定めあるときとなしあるいはスイス法の如く債権者が拒絶を為したるときとなすを要すべく、漫然債権者の協力の期待すべからざる場合をも加うる見解には立法論としても承服することを得ざるなり。この点について余の前論文に説きたる所簡にし失し誤解を招きたるは余の遺憾とする所なり。

(法学志林第２２巻(大正９年)９号(民法研究第３巻所載))

財政法改正問題概論

序言

１　財産法改正問題概論としてここに論ぜんとする所は臨時法制審議会における民法改正問題とは無関係のものである。臨時法制審議会に対する諮問第１号は既にしばしば新聞紙等に従って伝えられたるが如く「我邦古来の淳風美俗」に反しまたは反するの処ある現行民法の規定の改正要綱を定むることを内容とするものであるから財産法の改正問題とは聊か縁が遠いものと考えられる。しかして審議会がこのやや縁の遠い問題をも審議の問題とするや否やはなお未決の状態に在る現状においては審議会に関係して財産法改正問題を論ずることはもとより不能である。余が今論膳とする所が審議会及び審議会における民法改正問題と何等の関係を有せざるものなることはまず冒頭において注意して置かなければならなぬ。

２　法律は立法手段に従って改正せられなくとも事実上変更せらるるものである。最も厳格なる法律たる憲法ですら法文の変更なくして事実上変更せらるることあるは学者の承認する所であるから，況して憲法以下の法律殊に民法が法文の変更を俟たずして事実上変更せらるることはその例に乏しからずまた学者の多くこれを是認する所である。仏蘭西においてデュギー，シャルモンを初めとし多くの学者が民法の　transformations　を論ずることは普く人の知る所であるがドイツにおいてもこれを認むる学者はその数に乏しくない。エールリッヒが生きたる法律（das lebende Recht）を研究すべしと力説するはこの処にその立脚点を有するものと思う。我民法についても民法の法文が変更せられて解釈せられ適用せられつつあることはその例に乏しくない。この問題即ち判例及び学説による民法の変更発達の問題はドイツにおいては嘗てヘーデマンがこれを試みたものであって（Hedemann,Werden und Wachsen im bürgerlichen Recht 1913）興味深き研究題目であるが勿論この一小論文の序言に述べる所ではないからこれを他日に譲ることとする。

３　学説及び判例による成文法の補足及び発達が固定せる法文と移り行く会社との調節を図るにおいて重大なる使命を有するものなることは疑を容れざる事実ではあるがしかしまたこれのみによって会社と法律との調和を保たしむることは頗る難事である。けだし学説及び判例による法律の新しき解釈は現存せる成文法の為めに多少の制限を受けねばならぬ。その制限の有無及び範囲については特に所謂自由法説の出現以来多くの学者の注意を惹起したのであって今もとよりこれを述ぶべき所ではないが，無制限に解釈の範囲を拡張するということは理論上不当であってまた実際上妥当なる結果を齎らすものではない。殊に成文法全体のシステムを破壊するが如き解釈は法律的秩序を破壊するものとしてこれを是認することを得ぬ。これが故に民法全体の精神において推移せる社会の思潮と調和せぬものを生じたるときは学説及び判例のみによって法律と社会との調和を保たしむることは不能若くは著しく困難とならざるを得ぬ。この時において社会と法律と歩調を一にせしめんが為めには立法的手段によるの外ない。

　立法的手段による民法全部の改正は上に述べたるが如く現在民法の解釈によって最早新しき社会の需要を充たすことを得ざるに至らば必要であって１日も忽にすべからざるものであるが，この程度に達したる後初めて法典の改正を試むることは立法政策としては寧ろ拙なるものである。法律は社会の規範であって単に裁判官に判断の準備を示すに止まるものではないから法文の字句が拡張若くは縮小して解釈せられて初めて適当なる結果を生ずるが如きは法典として完全なるものと言うことを得ぬ。随ってこの如き法典を改正し法典の字句そのものによって社会的規範の内容を明にすることはこれまた立法者の使命と言わねばならぬ。

　財産法改正問題として余が今論ぜんとする所はこの最後の意味においての改正論をも包含している。しかし乍ら単にこれのみに止まるものではない。新しき会社思潮に適したる財産法の基調が現行民法に適当に発表せられたりや否やについても疑問尠からざるが故に余はこの点についても多少の改正論を試みざるを得ぬ。もしこれに対して所謂新しき社会思潮は未だ確定せるものにあらざるが故に今において財産の改正を唱うるはなお早なりと言う者あるならば余は社会と共に歩むべく寧ろ社会に一歩を進むべき立法者の使命を余りに軽視するものと答うるのみである。

１

１　財産法は疑も無く現代社会における経済生活の基礎を定むるものである。されば経済学の泰斗アドルフ，ワグナーはそのGrundlegung der politischen Oekonomie において基礎的社会制度として財産制度を論じ，またProperty and Contract の名著においてアメリカのイーリー（Ely）は基礎的社会制度として財産権及び契約を数えている。その他社会生活の改善または改革を論議する学者，思想家は財産制度の着眼せざるは無く今この点において学説を紹介するの要を見ぬ（１）。

２　財産法の内容殊に財産権の私有または公有，私有財産権の範囲及び効力，相続の認否及びその範囲，契約自由の原則及びその制限，損害賠償責任の要件等に関する財産法の内容が冨の分配の基礎を定むるものであること随って社会問題として極めて重要なるものなることは上に述べたるが如く多くの学者，思想家の認むる処であるが稀にはこれに反対する者がある。社会主義の主張を批判するについて今日富の配分を改めて万人公平に分配するもその除かんとする不平均，不公平は直ちに明日出現するであろうと論ずる者は外国にもまた我国にも存在するのである。しかし乍らこの如き理由を以て社会主義を非難するは当を得ざるものである。社会主義者の主張する処はその奉ずる主義の如何によって必ずしも同一ではないが単に現在における富の配分を変更して新たなる分配を為すべしと主張するに止まるものではなく今日の富の分配の基礎たる財産制度，この財産制度を認むる財産法そのものを変更しようと主張するのである。労働にいらざる所得を非難し，多数人の経済生活が不安の状態にあることを慨嘆し，また資本主義の生産方法が単に生産方法としても適当のものにあらずと主張するは社会主義者の共通なる主張と見ることを得るのであらるが，これ等の主張は単に富の配分という現存の事実を変更しようというのではなくしてその根拠たる制度そのものを変更すべしというの主張である。しこうして現在制度の基礎たる財産法そのものを変更するならば富の分配という事実にも影響を及ぼすことは明であるから社会主義に対する非難として新なる富の分配が直ちに旧態に復すべしと言うは肯綮に中らざる非難である。

３　上に述べたる処は社会主義者の主張する財産制度の改正を是認するという意味ではない。唯財産法を改正するも富の分配には影響を及ぼさず社会生活には影響を及ぼさずという一部の誤らる思想を非とするに止まるのである。余は今社会主義の評論を試みんとする者ではないがもし社会主義に反対せんとならば上に述べたるが如き浅薄なる理由を以てすることは出来ぬ。宣しく人間の本性または心理に基づいて吾人人間が所有欲によって活動するものであるかその他の欲殊に創作欲によって活動するものであるかを究め，また利己心に動かされて活動するものであるか利他心によって活動するものであるか，異りたる語を以てすれば生存競争を為すべき本性を有するか相互扶助を為すべき本性を有するかを研究せねばならぬ。社会主義を実現したる場合に個人の生活及び社会の生活が今日よりも幸福なるまた義あるものとなるや否やは吾人人間の本性を離れてこれを考うることを得ぬ。しこうして人間が利己心を有すること，所有欲に動かされて活動すること，随って相互扶助のみを為すべき本性を有せざることが尠くとも今日においては争うべからざる事実であるならば社会主義を実現すること殊に共産主義を実現すること殊に共産主義を実現することは決して人間の幸福を増進する所以ではない。しかし乍ら現存の財産制度が理想的のものであり改良変更の余地なしと考うることはまた眼前の事実を見ざる独断である。現存の財産制度に対する社会主義者の攻撃が一も採るに足るものなしというは名に恐れて実を見ざるものと言わざるを得ぬ。富の分配の不均衡，無資産階級の生活の不安，物質的及び精神的発達に対する機会の不均等などという現存の状態が悦ぶべき現象でないことは明であるから吾人はこれを避け難き人類の災厄（necessary evil）として放任することなく如何なる程度までこれを緩和し得るかを考えねばならぬ。唯これを研究し議論するに際しては常に現代の人間の本性を基礎とすべく，また今日までの人間の歴史を尊重せねばならぬ。

４　社会制度の改良発達はもとより財産法の改正のみでその目的を達し得るものではない。根本的問題は勿論人間そのものの発達改良に在るのであってこの点については教育殊に，社会教育の力に俟たねばならぬのである。しかしながらこの点は私の専門以外であるから問題の外に置くの外ない。しこうして法律の方面のみについて考えても問題は公法私法に亘っていり私法についても財産法の外親族法において重大なる改正問題が有る。諸外国においても社会制度の改正を研究する者は殆んど皆ファミリーの問題に着眼しているのである。しかれども我国においては親族法改正問題として家族制度の問題をも包含しているのであるからその極めて重要なることは余といえどもこれを否認するものではない。しかし乍らこの問題は既に十分に社会の注意を喚起していり，殊に臨時法制審議会におけるこの問題の研究は往々誤り伝えらるるが如く決して退嬰的ではなく寧ろ進歩的傾向を帯びているものと考うるから今はこれに論及するの必要を感じないのである。

　財産法の改正は親族法の改正と軽重相譲らざる今日の重大問題である。社会主義運動はその攻撃する現在社会状態の如何に応じて高低の波動を示している。露西亜は暫く措くが独逸において今回の大戦後社会主義の大に勢力を占むるに至った原因はその国の学者の既に言えるが如く戦争中及び戦争後におけるその社会状態に在るのである。戦争中軍需品の供給者及び商品の所有者は異常なる利益を収得した。しかるに輸入の壮絶と通貨の非常なる膨張は物価の非常なる騰貴を生じて一面益々富める者をして富ましめ貧しき者をして生活の苦悩を嘗めしめた。しかるに戦争の終結は軍隊の解体となり軍隊の解体は労働の需要と供給とを著しく不権衝ならしめた。斯くの如き社会状態ありしこうして敗戦国民の弛緩したる心理状態あることは独逸おいて戦争中及び戦争後社会主義の勢力を占むるに至った原因である（２）。

　我国における社会状態は幸にして今日なお健全であってこれを以て直ちに諸外国における社会状態と同一視するはもとより誤謬である。余は我国における社会状態を見ずして，徒らに彼における新しき思想を実行せんとする者の顰に傚う者ではない。しかし乍らこの健全なる社会状態を永く将来に持続せんとするならばしこうして個人と社会と共に適当なる発達を遂げしむべき国家の目的を達成せんとするならばその弊害と見るべき現象は漸次にこれに改良するの傾向に向わねばならぬ。この意味において，余は財産法の改正問題が現時の重大問題として今少しく我国の学者及び政治家の注意を喚起せんことを深く希望するのである。

（１）　Richard T.Ely,Property and Contract,1914はfundamental institutions of the firstr rankとして次の５つを掲げている。

�T.Property,public and private.

�U.Inherritance.

�V.Contract and its conditions.

�W.Vested rights.

�X.Personal conditions.

Francesco Cosentini,La Réforme de la Législation Civile,1913.

E.Marguery の Le Droit de Propriété et Régime dénocratique,1906　も財産法改正問題を社会改良問題の重要なるものとしている。

Anton Menger が資本主義を維持する法律制度として私所有権と契約自由とを挙げていることは言うまでもなかろう。

（２）　L.Pohle,Kapitalismus und Sozialisnus,1920,S.84.独逸新憲法〔ワイマール憲法〕は私所有権を認めまた相続を認めているから共産主義ではないが，Eigentum verpflichtet（所有権は義務を生ず）と云うのみならず住宅及び植民の為めにする土地の公用徴収を認めていりまた私有企業を法律に従って公用に移し得るものとなしまた労務の権利と義務とを認めていりその他この種の立法的方針を憲法に示しているから将来この憲法に基いて如何なる法律が制定せられて社会主義を実行するに至るかは今日において予想することを得ぬ。

２

１　財産法近世の傾向は個人主義より国体主義に移り行くの点に存する。個人の利益を保護することを目的として認められたる財産権は国体の利益、社会の利益を増進するが為めに認めらるるものと考えらるるに至った。この点は古き財産法と新しき財産法との相異れる基調であってこの新しき財産法の基調を民法に闡明ならしむるは財産法改正の要諦であらねばならぬ。

２　個人主義は古くストア哲学に現われていりローマ法もまた個人主義の法律と認めらるるものであるがその法律においてまた哲学において高調せられたるは１８世紀及び１９世紀のことである。その原因としては中世の暴虐なる政治に対する反動、文藝の復興、産業の発達等種種なる現象を数え得るのであるが、その原因は兎もあれ個人の覚醒、詳しく言えば個人としての人間の覚醒が自然法学の基礎を為しまた仏蘭西憲法における人権宣言の基礎を与えたることは疑を容れざる事実である。当時の思想によれば人間は生まれながらにして自由、独立、独存のものであって人間として尊うべからざる、消滅すべからざる権利、自然権を有する。この如き人間はその相互の自然権を保護せんとする目的を以て相接近しここに社会または国家を組織する。したがって社会または国家の任務とする所は各個人の自然権を保護するに在り、その国家の法律は各個人の自然権にその根源を発するものである。しかしてこの如き思想に基きて制定せられたる民法は言うまでもなくナポレオン法典、即ち仏蘭西民法である。

３　人権宣言及びこれに基ける仏蘭西民法の基調となった個人主義が今日において維持すべからざる思想であることは今叙説するまでもなかろう。社会成立に対するその説明が歴史の事実に反し人間の本性に反することは暫く措くとするも個人主義に基ける法律は到底現今の複雑なる社会において、大企業の勃興及びその他の原因によって著しく貧富の懸隔を生じたる現代の社会において、多数人に幸福なる生活を保障することを得ざるものとなった。大なる富豪の有する所有権がその個人の利益の為めのみに認められたる権利でありしたがってこれを社会的目的の為めに行使するも、非社会的目的の為めに行使するも、全然その個人の自由であり、これを行使せざることも、将たこれを濫用することも、その個人の自由なりとするならば、社会の多数人はこれが為めに幾多の辛苦を嘗めねばならぬ結果となろう。この如きことが国家の理想、法律の理想であってはならぬ。

４　しからばこの個人主義に基いて作られたる財産法は如何なる方法なる方向に向って進むべきかまた如何なる方向に向って進みつつあるか。凡そ旧き制度と新しき社会思想との間に間隙を生ずる場合には学者及び為政家の見解は大体４個の傾向に分るるものである。旧制度をその儘に維持せんとする保守的傾向、旧制度を維持しつつしかも新しき理想によってこれを変更せんとする改良的傾向、旧制度を破壊して新しき社会組織を樹立せんとする革命的傾向及び何等の有意的行動を執らずして自然の成り行きに放任せんとする放任的傾向これである。これ以外に復古的傾向を加える学者もあるが(米田庄太郎氏、輓近社会思想の研究上巻緒言)復古主義は現代の社会を根本的に改造して過去の黄金時代に復せしめんとする場合には革命主義の一となりまた根本的改造を加うることを主張せざる場合には改良主義の一となるものであるからこれを独立なる主義はまたは傾向と為すべからざるものと信ずる。しこうして以上４種の傾向中殴米諸国において今日最も大なる勢力を有するものは疑もなく改良的傾向と革命的傾向とであるが我国においては現状維持主義の保守的傾向も大なる勢力を有するのである。随ってまず現状維持主義の当否より攻究して見ねばならぬ。

　現状維持主義を学説として主張している学者は我国においてもこれを見ないのであるからその主意義の内容を明にすることは困難であるが、革命主義を非難する者は勿論、改良主義を非難する者も我国には尠くないのであるから現状維持の保守的傾向を有する者は尠くないと考えねばならぬ。しかしながら余は現状維持を以て満足する主義には賛成することを得ぬ。その理由の第一は現状維持なることが果して今日の状態において永く可能なりや否やを疑うの点に存する。その第二は現状維持は人間の生活、社会生活に対する吾人の理想に適せざるものと考うるの点に存する。既に述べたるが、社会思想に変遷を生じ、社会全体の利益、即ち社会を構成する総ての階級の利益、社会を構成する総ての人間の幸福を圖ることが社会の目的であり国家の目的であるものと社会における多くの人々が考うるに至った後においては、この現在の社会思想と彼の個人主義に基ける財産制度との間には尠くとも多少の間隔を生じたるものと言わねばならぬ。しこうしてこの間隔はこれを単なる一時的現象と考うることを得ぬのであるから財産制度は法律の改正の有無に拘わらず変更せらるべき運命を有するものであって純粋なる現状維持ということは永く可能なるものと考うることを得ぬ、しこうして社会の力による変転を座して待つとあるいは法律を改正すると両者孰れを政策上得策と為すべきかは人々見る所を異にするであらうが余は寧ろ後者を採る者である。

　余が現状維持に満足する保守主義に反対する第二の理由即ち現在における財産制度及びこの制度に基ける富の分配が人間の生活及び社会生活に対する吾人の理想に適せざるものなりということについては多く言を費すの必要を見ない。社会を構成する総ての人が同一の財産を有し身体及び精神の発達について同一の機会を有するということは実現し難き空想ではあるが、さりとて現在における状態よりより善き状態を作るということが全然不能なりとは考うることを得ぬ。現状における不公平、不均衡を緩和して広き意味における社会政策を財産制度について実行するということは決して不能ではあるまい、

　革命的傾向は余の極力排斥せんとするものである。今これについて詳しく論ずるの時を持たぬのであるが、既に述べたるが如く現状の財産制度即ち私有財産制度は現今における人間の本性に基礎を有するものであってこれを根本的に変更することは却って人間をして幸福なる生活、自由なる生活及び意義ある生活に遠ざからしむるのみならず急激に現存制度を変更せんとする企画秩序を破壊して非常なる犠牲を伴うものなるが故である。種の保存及び発達、将来に向かって人間の文化生活の発達を図ることも、勿論社会及び個人の目的として吾人の考うべき処ではあるが、現在存在する人種の生活もまた同一なる程度において社会及び個人の目的であらねばならぬ。しかるに所謂革命主義はこの現在に存在する人類の生活に対して余りに大なる犠牲を要求し今日まで進化し来りたる文化生活に非常なる障害を与うるものである。しかれどもその現存制度を破壊したる結果如何なる制度を生ずべきかというに現在の人間を以てしては却って不幸、不自由、無意義なる生活を生ずべき制度となるものと考うるが故に余は革命主義にはその形式においてもその内容においても賛成することを得ざるものである。

５　財産法近世の傾向は本節の冒頭に述べたるが如く個人主義より団体主義に移り行くの点に存するものである。しかして余の所謂改良主義はこの傾向を基礎として財産法を改正せんとするに在る。今まずこの傾向の存するや否やを攻究し次節において理論上これを是認すべきや否やを研究しようと思う。

　財産法について個人主義より団体主義に移り行く傾向ありというは主として資本的財貨に対する財産権についてこれを言うのである。しこうして土地所有者はこの種の財産権中最も重要なるものの一であるからまず土地所有権について考えて見ねばならぬ。土地所有権については新に個人所有権を認むる場合と既に個人所有権の目的たりしものを国家の所有に移す場合との二つに分って考うることを便宜とする。新に個人所有権を認むることは開墾による所有権の下附、払下、売却等の場合にこれを見るのであるが(これらの場合に国家が従前より私法上の人格者として所有権を持っていったのであるから新に個人所有権を認むるものにあらずと反対する者があるかもしれぬがそれは余の所論の形式を攻撃するもので実質には触るることはない)この点についても多少団体主義に移るの傾向を認むることを得る。開墾によって所有権を与うることは北海道における未開墾地について我国にも多く実例を見るのであるがその理由はもとより特定の個人を利するが為めでは無くて開墾を奨励して生活を増加するという公益上の理由に基づくものである。しこうしてアダム、スミスは私人による開墾が国家の為す開墾に後れるものなりと言っているのであるがこの断定に対しては近時疑を挟む者が尠くないのである。ニュージーランド及び他のアウストラリアにおける土地政策はこの点について参考にすべきものであるが長文になるおそれがあるので他日にこれを譲ることとする(１)。白耳義においては１９世紀の前半には土地の個人所有を奨励する為めに払下または売却を地方庁等に奨励したのであるが後にはその方針を変更して払下または売却を困難ならしめた。これは言うまでもなく或る種類の土地については個人所有よりも国家または公共団体の所有を便宜と考えたからである。

　個人所有たりし土地を国家の所有となすことは、公用徴収についてこれを見るのである。しこうして仏蘭西の人権宣言がこの公用徴収について極めて厳重なる制限を附していることは善く人の知る処であるが、その条件または制限は緩和せらるるの傾向に在るものと言うことが出来る。憲法だけについて見ても日本憲法台７条〔旧権法〕の規定と人権宣言の定むる所とを比較すれば差異の存することは明瞭である(２)。しこうして公用徴収の方法によって土地の収用せらるることが、個人所有権に対して一大打撃であってこれを加うるは公益上の理由即ち社会全体の利益を圖る為めであることが明であるならばこの点において個人主義より団体主義に移り往く傾向を認め得ること明であらう。

　土地の管理及び利用についても同一の傾向を認むることが出来る。詳しく述べると長文に亘るおそれがあるからこの点については唯耕地整理法、市街地建築法等が団体主義の為めに設けられたる新しき立法であること及び民法の方面においては土地の利用が或る場合においては権利の濫用として不法行為と認めらるるに至りたる仏蘭西及び我国の判例の沿革をヒントとして挙ぐるに止めて置く。

　土地所有者に牽連して直ちに考えらるべきは所謂公企業である。多く言を費すまでもなく鉄道事業、通信事業、煙草、塩の専売等を公企業として私有財産によるこの種の企業を制限するは疑もなく財産権の制限である。しこうしてこれ等の公企業が近世においてその範囲を拡張し随って富の分配の不平均を生ずべき機会を減少したることは争うべからざる事実である(３)。

　経済上からは余り重大なる問題ではないが景勝なる土地を国有とするかあるいは私有とするも一般人の観覧を許さしむることとするは、諸国の採用している政策である。埋蔵物発見の場合に「学術技芸もしくは考古の資料に供すべき埋蔵物」なるときは発見者または包蔵物の所有者に所有権を取得せしむることなくして国庫に帰属すべきものと定めているのは(遺失物法１３条２項〔文化財保護法６３条〕)これまた同様の趣旨に基くものである。

　特許権、著作権等の所謂無体財産権が一定の期間を限って認めらるるに至った理由を考うるならば、これ等の権利を認むることが公益上の理由に基くこと即ち社会全般の団体的利益を保護せんとする理由に基けることを明に看取することが出来る。発明、著作等を為したる者を特に保護して特別なる権利を認むることは公平の理由に基くものと考うる者もある。しかし乍らその公平というも要するに社会的利益に適するというに外ならぬ。殊にその存続期間を定めていることは余りに永くこれ等の権利を存続せしむるときは一般の利益を害するに至るべくしこうして発明、著作等を奨励して文化の進歩を図るの目的は一定の期間これ等の者を保護するによりて十分に達せらるるが故である。

　契約自由の原則についてもまた明に個人主義より団体主義に移り往く傾向を認むることが出来る。この点については労働契約、賃貸借契約等に牽連して述ぶべきもの頗る多いのであるからこれを独立の論文に譲らねばならぬが、傾向の基調のみを述ぶるならば個人の意思は自由なるべしという基本的原則あって唯その意思の内容が公益に反する場合には例外として意思の効力を認めずという個人主義に基ける契約自由の原則が漸時変転して、総ての私法制度と同じく契約自由の原則もまた社会全般の利益を保護することを目的とするものであり、その団体的利益を保護するという目的を達する手段として個人の意思の自由を認むるものなりという団体主義に基けるものと為ったのである。

　財産移転について相続税及び不動産取得税を認めていることは明に私有財産制に対する一の制限であって、この制限を認めたることが団体的利益の保護を目的とすることは言を俟たぬ処である。不動産の増価税を認むべきや否やの問題もまたこれに牽連して考うべきものである。

　上来述べたる処によって財産制度が個人主義より団体主義に移らんとする傾向に在ることは大体これを明にし得たと信ずる。余の言わんとする所はもとより個人財産の制度が消滅せりというのではなくまた消滅すべきものなりと言うのでもなく唯これを維持する社会的理由、これを認むる社会的思想に変遷を生じたりと言うに止まる。言を換うれば現在の財産制度には個人的基礎と社会的基礎とあり、個人的作用と社会的作用とあり、しこうしてその社会的作用は今後益々高調せらるべき傾向に在りと言うのである。その社会的作用と個人的作用と孰れを主とするを理論上正当とするかまたこの傾向に基いて如何に財産法を改正すべきかは次に論ぜんとする処である。

(１)　Cosentini, La Reforme de la Legislation Civile, p. 387 et suiv .; Eiy, Property and Contract, vol. I,p.169 etc. New Zealand, Victoria 等の Land Acts は国家社会主義と関係を有するものである。

(２)　La Declaration des Droits de I`Homme　には　La propriete etant un droit inviolable et sacre,nul ne peut en etre prive si ce n`est lorsque la necessite publique legalement constatee I`exige evidemment, et sous la condition d`une juste et prealable indemnite. と規定している。賠償の要件を憲法に規定している点のみについて見ても日本憲法と異っていること明である。

(３)　アメリカの Cornelius Vanderbilt が鉄道事業によって一億ドルの富を作りこれが今日の Vanderbilt Family の富の基礎であることその他通信、水道等の事業に関するこの種の事例においてはEly, Property and Contract, vol. I, p.80　以下を見よ。なお公企業を認むる理由については美濃部氏、日本行政法第４巻３７１頁以下参照。公企業の範囲を今日よりも更に拡張すべきや否やは鑛業等について重大なる問題たるこというまでもない。

３

１　財産法改正問題を論ずるの前提として余は前節において財産制度が個人主義より団体主義に移り往く傾向にあることを述べかつその傾向の存在を明にするが為めに数個の現象について簡単なる説明を試みた。これによってこの傾向の存在することは略々明にせられたものと信ずるが、財産法改正問題を論ずるの前提としては単にこの如き傾向ありという事実を明にしたのでは足らぬのであって更にその当否を研究せねばならぬ。しこうしてこの傾向に当否を研究するについては個人所有権の基礎を論ずべく、また個人と社会との関係を論ずべきである。しかるにこの２個の問題共に法律学の問題として、経済学の問題として、将た社会制度の問題として、更にはまた哲学的問題として古くはアリストテレスより今日に至るまで既に幾多の学者の研究したる処であってその文献は寔に汗牛充棟も啻ならざる状態にある。この如き問題について一々参考書を挙げて詳にこれを論ずるはこの一小論文の前提としては不適切でありまた余の現在における力と時間とを以てしては不能時に属するから今は唯大網を示して上に述べたる傾向を是認するの理由を概説するに止むる。

２　私有財産制の基礎ということは２個の異れる意義に解せらるる。その１はこの制度の歴史的起源であって、この意義において学者は共産制より分産制に進みたるものなりや、あるいは事実的占有より直ちに個人所有の分産制に進みたりや、あるいは財産の如何によりてこの過程に差異ありや等の問題を研究するのである。その２はこの制度の理論的または哲学的基礎の意義であって、この意味において学者は何が故に社会において個人所有権の制度を認むるかの理由を研究するのである。余が今玆に述べんとするはこの後の問題についてである。この両個の問題はもとより関係なき問題ではないが両者を分離して攻究することを不能とする程密接なる関係を有するものではない。

　私有財産制の基礎に関する学説は種種に分類することを得るが便宜の為め小異を顧みず大同によってこれを大別するならば個人的理由に基礎を求むるものと社会的理由に基礎を求むるものとの２種とすることを得る(１)。この他なおその孰れにも属せざるものとして神授説と法定説とがあるがこの２者については今多く説述するの要を見ぬ。神授説というのは神が地球を人間に与えたものであるから人間は各自これを所有することを正当するという見解であって、国家国家内の諸種の制度等を神意に帰せしめんとする旧時の見解と同じく、今日において学説としてこれを論ずるは不当である。法定説(The legal theory, Legaltheorie)というのは所有権を以て法律と共に生れ、法律と共に消滅すべき成法の産物なりとするものである。この学説は自然法説に異り、総ての権利と同じく所有権もまた法律の認むるによって初めて権利となるものと解するの点において正当であるが、何によって権利が成立するかの問題を答うるのみであって、何が故に権利を認むるかの問題については殆んど解決を与えぬのであるから、言を換ふれば、所有権の成立原因(Entstehungsgrund)を説くに止まってその存在を正当とするの理由(Daseinsberechtigung,raison detre)を説かぬであるから、所有権を認むる法律の当否を考究するに当たっては多く参考するに値せざるものである。

　私有財産制の基礎を個人的理由に求むる学説というのは個人の性質、個人の人格または個人の行為にこの理由を求むる学説を総称したのである。所有権を以て自然権即ち自然法上の権利と為す学説はこの種類に属するものの一であって嘗て大に勢力を有したることは上に述べたるが如くであるが今日においては旧自然法学説と共にその勢力を失墜した。所有権を以て一の自然権なりと主張するは一の独断に過ぎざるのみならず、縦令自然権なるものを解して法律によりて認むることが人間の個人的性質に適する権利なりとするも、この学説によっては何が故に所有権が自然権であって、生存権が自然権に属せざるか、何が故に一方には所有権という自然権を多量に有する者あるに反し、他方には殆んどこの自然権を有せざるものあるかを説明することを得ぬ。

　所有権を認むるは個人の人格に基くものなりとする学説もまたこの種類に属するものの一である。この学説もまた多数の学者によって唱えらるる処であるがその要領とする所は個人の人格の発達の為めには物界の一部を各個人の所有に属せしむるこのが必要または有益なりし、従って所有者は物界に実現せられたる人格に外ならずとするにある(２)。しこうしてその人格の発展ということの意義を或学者はこれは無形的、哲学的の意義に解し(３)また他の学者はこれを有形的、経済的の意義に解している(４)。惟うにこれ等の学説は幾多の心理を包含しているのであって軽々しくこれを批評し去るを許すさぬのではあるが、所有権の基礎を説明して余蘊なしというには足らざるものと考うる。上にも述べたるが如く私有財産制存否の問題は人間の性質、現代における人間の性質を離れて論ずることを得ざる問題であり、かつこの人間の性質に基けば一定の範囲における私有財産を認むることは人格発達の為めに適当なるものであり、しこうして個人の人格の無形的及び有形的の発達は明に社会及び法律の目的に一に属するものであるから、所有者の基礎を個人の人格に求めるということはこの点において正常なりと言わねばならぬが、しかし社会及び法律の目的は単に各個人の発達発展のみに存するものではないから、個人的方面のみに着眼して問題を解決せんとするは正常なりということを得ぬ。加之、もし各個人の人格を自由に発達せしむることのみの為めに所有権を認むるものとするならば、総ての個人の自由なる発展の為めに物資の著しく不足なる現代において何を標準としてその各個人の有すべき財産の範囲を定むるべきかの問題を解決することを得ぬ。もし自由に放任して自然の成行に任すというのであれば或者は人格の発展に必要なるより以上の財貨を私有して他の者は殆んど全くその必要なるものをも有せざるに至るべく、また各人平等に分配するというならば各人各々発展せしむべき人格を異にしその能力に差異あり、またその発展せんとする方向に幾多の差異ある実際の状態に頗る不適当なる結果を生ずべきである。しこうしてこの如き不当なる結果を生ずる重きを個人的理由に置き、個人を主として問題を解決せんとしたが為である。

　学者は人格主義を非難してこの学説は唯人格の発展に物資の必要なることを主張するに止まるのであるから各個人が唯物資の上に一定の処分権を有することを必要とするという結果を生ずるに止って個人所有権を認めねばならぬという結論を生ぜずと言い、またあるいはこの学説は如何なる財産制度を必要とするかと言うことを明にせざるが為めに社会主義者は却って人格の発達の為めには私有財産制は適当なるものにあらずという主張を為すに至ると言っている(５)。しかしながらこの非難は肯綮に中らざるものと思わるる。もし個人の人格の発展ということが果して吾人の理想とすべきものであり、社会及び法律の理想とすべきものであって、しこうしてこの理想を達するが為めに分産主義可なり集産主義また可なりと言うならば法律の認むべき財産制度としても分産主義可なり集産主義可なりという結論を生じて何等不当なるを見ぬのであって、その見解が社会主義の乗ずべき機会を与うるということは多く顧慮するに足らぬのである。唯吾人の深く考うべき処は個人の発展が第一次において社会及び法律の理想とし、目的とすべきものなりや否やの点に在る。

　私有財産制の基礎を個人的理由に求むる学説の一として吾人は次に個人の行為に所有権の基礎を求むる学説を攻究せねばならぬ。しこうしてこの学説に正当に属すべきものとして余は先占説と労働説とを考えて見ることとする。掠奪説もまた掠奪という個人の行為を以て所有権の基礎なりと認むるという点からしてはこの分類に属すべきが如くであるが、掠奪説を採る論者は所有権はこの如き不当なる基礎の上に立つものなりということを理由としてこれを否認し、または尠くとも現今におけるが如き私有財産制を否認せんとするものであるから(６)所有権の存在を正当とする理由を説明せる学説としてはこれを攻究するの要を見ぬ。

　先占説(Okkupationstheorie, occupancy theorie)とは無主物先占を以て所有権発生の起源となしかつ所有権存続の理由と為すものであって、国際法及び自然法の鼻組みたるフーゴー、グローチウス以来この説を採る者は尠くなかった。しかし乍らこの説は或種の物に関する所有権発生の一原因を説明するのみであって、総ての物に対する所有権発生の総ての原因を説明するに足らざるのみならず、その一発生原因を以て一般的に所有権存在を正当とする理由となすことは理論的根拠を欠くものであるから法律が私有財産制を認むる理由の説明としては頗る不十分である。単に所有権発生の起源を説明するものとしても無主の動産については正当であるけれども土地については占有によって直ちに個人所有権の認められたるものであるかあるいは或る種類共産制より分産制の進化したるものであるか歴史上疑問多く、寧ろ後者の見解が大体において真に近いものと考えらるる。また動産のみについても先占説を以てしては譲渡、相続等による所有権の取得を説明するに足りない。これを理論的に考うるならば物界の一部が未だ如何なる人とも直接の関係を有せざる場合にまずこれと直接の関係を作りたる人をしてこれを所有せしむるということが先占によって所有権を認むる理論的根拠の全部である。これのみを以て現存の私有財産制の根拠を説明するに足らざることは多く言わずして明であらう。

　労力説(Arbeitstheorie, labour theory)というは個人が労作を加えたる物についてその個人の所有権を認むることを以て所有権の基礎なりとするものである。この労力説または労働説は有力なる英国の　John Locke に基くものとせられているのであるがロック及び爾後のクラシカルの経済学者が労力または労働を以て私有財産制を是認する理由としたることが(７)偶ま以て私有財産否認論者に有力なる武器を供したることは注意すべき現象である。即ち資本による取得を以て不当なる取得と為し、労働者が労働による利益の全部を取得すべしと主張する社会主義者の主張(労働全政の主張)はクラシカルの労働説と同様なる前提に基いて異りたる結論を認めたるものである。

　労働説と占有説を比照すれば、既にスタールも言っているが如く(8)興味ある対象を為せるものであって、占有説がローマ法に基き労力説がゲルマン法に基けることはローマ人が侵略的国民たりしことと関係をゆうするものである。ローマ人は財貨を以て既に現存せるものと認め、それが全然無主物でありまたは敵陣に属せる場合には無種物占有によって所有権を取得するものと為せるに反し、ゲルマン民族の思想においては財貨は人類によってその努力に従って初めて作らるるものとし、これを作りたる者が所有権を取得すべきものと為したのである。しかしてこの沿革を比照するならば労働説即ち労働を以て所有権取得の唯一もしくは主要なる原因と認むる学説が近世において経済的弱者の主張としてあるいは経済的弱者を保護せんが為めの主張として現わるることは深き意味を有することと思わるるのである。

　労力説をその全般に亘って批評することはこの小論文の適当なる範囲を越ゆることであるが、結論のみを示すならば、余は大体において先に述べたる人格説に対する批評を繰返すの外ない。労力を加えたる者をしてその労力によって作られたる者を所有セ氏無べしと言うことは明に心理を包含しているが、これのみを以て所有権の基礎とする事は、相続、譲渡等による所有権の取得を認むる現在の法律を度外視しても、果して理論上正当であろうか。問題は個人対社会のそれに帰すること嘗て人格説について述べたと同様である。個人の労働はそれ自身所有を正当とする終局の理由であるか、あるいは個人の労働を所有の原因とすることが人類の発達、社会の発達の為めに必要または有益なるが故にこれを以て所有の原因とすることを正当とするのであるか。また縦令個人の労働を所有の終局的原因と認むることが正当なりとするも所有を正当とする原因はこれのみに限らるるを正当とするものであるか。見解の分るる所ではあるが、余は人類の発達、社会の発達、人間の幸福にして意義ある生活を以て法律及び社会の目的なりと考うる者であるから、労働を以て所有の原因とすることも唯この目的に適するが故に正当なりと考うる者である。したがってまた労働によらざる取得を認むることが現代の人間に適し現代の社会の発達に適当なるにおいてはこれをも認むるを正当なりと信ずる者である。加この現代における生産はその方法頗る複雑なるものが寧ろ多数であってその生産物について労作を加えたる者を特定することは不可能である。況んやその生産に対して原因を与えたる者を考うるならばこれを労作者のみに限ることは出来ぬ。資本を供したる者、機会を与えたる者は勿論、その背後に在って労作を為すことを可能為らしめたる社会全部即ち国家もまたこれをその原因者の加えねばならぬ。言を換うれば現代における生産は個人の労働のみによる生産と言わんよりは寧ろ社会による、団体のよる生活である。従ってその生産のよる取得者も個人的によってこれを決定せずして、社会的理由によってこれを決定するを正当とするのである。国家もその一部を取得すべく、資本を供し、機会を与えたる者も一部を取得すべく、労働者もまたもとよりその一部を取得するを正当とする(９)。現今において資本に対する利潤多きに失することは明白なる事実であって、その理論上及び実際上正当にあらざることは多言を要せざることではあるが、その弊に激せられて、全然これを否認せんとするはまた理論上正当なりと言うことを得ぬ。もしそれ利潤減少の目的を達せんが為め聲を大にして利潤否認を唱うるを便とすと言わばこれ学問的研究の範囲を超ゆるものであって今これを批評するの要を見ぬ。

３　所有権の基礎を社会的理由に認むる学説というは社会の維持及び発達の為めに個人所有権を是認する学説をいうのである。ロスコー、パウンドの言えるが如く法律は進化の種種なる階梯を経て今や社会化(Socialization)の時代の到達せるものである(１０)。しこうして総ての法律の目的が個人中心主義によりて解決すべからずして社会中心主義によりて解決すべきものである上は個人所有権を認むるの理由も社会的理由にこれを求めざるべからざることは明である。

　個人と団体または社会との関係は哲学上、理論学上及び法理学上困難なる問題の一である。自然法説、社会契約説が個人に発足して、本来自由なる個人がその利益を保護し、その所有権を確保せんがために各自由の一部を放棄して団体を組織し、社会を組織したるものと説くはもとより個人本位の学説である。その非事実的にして非論理的なることは今日において学者の疑わざる処である(１１)。独逸の碩学ヴントは「個人と社会との関係において」(Über das verhältnis des Einzehnen zur Gemeinschaft)と言える講演において、実験的科学としての心理学に基いて精神的団体生活(ein geistiges Gesamtleben)が個人生活に基くものではあるが、個人の存在と同一なる実在(ein dem Einzeldasein gleiche……Realität)を有するものであり、個人の行為が団体の最も重大なる生活目的に関する場合においては団体は個人に優越したる実在(eine rhm ((Einzeldasein))übergeordnete Realität)を有するものなりと述べ、しこうしてこれを以て実験的科学として心理学が吾人の実際生活上の倫理的要素に適合する所以なりとしている(１２)。余は今個人と団体との関係について数多く存在する学者の所論を引用するの煩を避くるけれども、社会における諸種の制度は総て皆、、、、、、その最も基本的なる国家の権力も、、、、、、団体が尠くとも或る場合には個人に優越したる存在を有し、その団体の維持及び発達の為めそれ等の制度を認むることが必要もしくは有益なりということにその是認せらるべき理由を有するものと解することを近世における学説の趨勢なりと信じ、またこれを唯一の正当なる解決なりと信ずる者である。

　しからば社会的利益、シュタムラーの語を以てすれば社会的理想(das soziale Ideal)というものは如何なる内容を有するものであるか。これを詳説することは他の機会に譲らねばならぬことであるが、人間を以て生存競争を為すべき本性を有するものと考え、生存競争によって社会の進化するものなりと解する学者は、この方法による社会の進化を以て社会の目的なりしとし、法律制度はこの目的を達するの手段として是認せらるべきものとするのであるから、生存競争における適者または優者が財産の私有をなすことはもとより当然なりと解するのである。これに反して人間を以て相互扶助を為すべき本性を有するものとし相互扶助を以て社会的理想と為す者はその障碍の一として現在の私有財産制度を攻撃し、またマルクス(Marx)、エンゲルス(Engels)の如き唯物的社会観を抱く者は社会における生産(die gesellschaftliche Produktion)の増加を以て社会的理想となし現存の資本主義的社会制度はこの目的に反するものとして現存の法律制度は到底永続すべからざるものと為すものである(１３)。惟うの闘争心を以て人間の第一次的本性とする性悪説、協働心を以て人間の第一次的本性とする性善説、共に極端の失するものであって共に吾人の生活経験の適せざるまた人間の歴史に根拠せざる独断である。利己心及び利他心共に存在することは吾人の否むべからざる生活経験であってまた歴史の証明する事実である。牧野博士が「事実の上ではこの両つが(争闘的なる生活と協働的なる生活)共に成立していること、原始的民族においてもさうであるし、我々の文化民族においてもまたおなじである」と言っていらるるのは(志林、２３巻１号、１９頁)全く同意見である。随ってまた生存競争上の優者の為めの無制限なる所有権を是認せんとする生物学的社会進化論の学説も、相互扶助論者の私有財産否認論も共に社会的理想、社会的目的を正当に理解したるものと言うことを得ぬ。

　社会または団体が個人の存在と同じきまたは個人の存在に優越したる実在を有するということは、ヴントも言っているが如く、個人の存在を離れて団体の存在に対して無価値なりということでもない。団体における個人の存在が不幸なるものであり、無意義なるものであってどうして団体そのものの生活が意義あり価値あるものであり得やう。唯団体は個人の混和ではなくコングロメラートではなく個人によって成立するも統一的一体として、自由に選択せられたる動機に基いて統一的なる行動を為し得るものとして個人を支配し得る存在を有するものであるから、団体自身の生活を脅威すべき現象の存在するときは、個人に対して極端なる場合にはその生命の放棄をも要求し得るものである。この如く団体の存在は個人を通じたる然も個人と併立せる存在であるから、所謂社会的利益、社会的理想の内容を定むるにおいては個人の生活、個人の性質、個人の人格を無視すべからざると共に、これに優越したる存在を有する団体そのものの生活、団体そのものの発達を主眼とせねばならぬのである。余が所有権の基礎を個人的理由に求むる孰れの学説にも左袒することを得ざるはこの理由に基くものである(１４)。

　社会的理想ということを以上の意義に解して、その理想を実現せんが為めに如何なる財産制度を適当とするかということは次に来るべき問題である。しこうして余はこの点において共産主義にも与せず、また無制限なる私有財産主義にも左袒せず、一定の範囲においてまた一定の条件の下に私有財産を認むることを最も適当なるものと信ずる者である。もし人間が、現代における人間が、創作欲を第一次的本性とせざる者であるならば共産主義は人間の発達に適し、社会の進化に適する制度であらう。またもしこれと反対に、所有欲、闘争心のみが人間の第一次的本性であるならば、所有を制限し、生存競争を抑壓することは人生に反し、個人および社会の進化に反するものであるあらう。しかるに現代における人間は以上両方面の性質を共に第一次的本性として有するものである。私有財産制を認むることはその競争心に適するものとして人間の発達、社会の進化に適当するものであるが、これのみであっては協働心といえる人間の本質的一方面を無視するものであるから、この一定の範囲において一定の条件の下に私有財産制を認むべしという結論を生ずるのである。言を換うれば社会の利益の増進、個人の人格の発展という社会的目的に達する範囲においてまたこの目的に達する条件の下に私有財産制を認むべしという結論を生ずるのである。その一定の範囲、一定の条件といことの内容を攻究するはこの論文の本質であって次節に述べんとする処である。

　要之、私有財産制を認むることが社会の進化に適するというこうは余が今日において私有財産を是認する唯一の理由である。しこうしてその社会の進化に適するものと解するはもとより現代の社会、現代の人間を根拠としてこれを言うのであるから、私有財産制が絶対の真理なりといい、あるいは万世不易の真理なりというのではなくまたこれを理想的制度なりとして謳歌するものでもない。もし幸にして人間の進化が闘争心を絶滅せしめ競争心、嫉妬心、所有欲等を絶滅せしむるならばその変化したる人間にとって私有財産制が適当の制度なりとは何人も考えぬ処であらう。唯これを説くは空想を語るものであって学術論の範囲を超ゆるものであるから今はこの問題に触れぬのである。

(１)　Ely, Property and Contract, vol. II, p.531 は次の９種の学説を挙げている。

(１)自然権説(The natural rights theory)、(２)社会契約(The social contract theory)、(３)人性説(The human nature theory)、(４)先占説(The occupancy theory)、(５)労働説(The labour theory) 、(６)神授説(The theistic conception of property)、(７)掠奪説(The robbery and violence theory)、(８)法定説(The legal theory)、(９)一般利益(The general welfare theory)、しこうして Ely 自身はこの最後の説を採る者である。

　　Wagner, Grundlegung, 3.Aufl.(1894),Bd. II,S.210 ff. は次の３種または５種の学説に分類している。(１)人性説((１)一般的人性説(２)経済的人性説)、(２)個々の場合について所有権を認むる公理的原則を定めこれを以て一般的に所有権の基礎と為す学説((１)先占説(２)労働説)、(３)所有権の基礎を人性にも帰せずまた個々の場合における所有権取得の原則に基かしむることもなくこれを成法の産物なりとするもの(法定説)。

　　岡村氏「所有権ノ基礎観念ニつキテ」京法６巻１１号１１５頁以下(明治４４年)は嶄新と目すべき説として歴史説、進化説及び、社会連帯説を紹介している。歴史説は所有権の制度を以て歴史上の根源を有するが故に人為を以て変更すべからずとする説であって所有権の理論的根拠を説明せるものでないから本文にはこれに論及しなかったのである。進化説は人間が生存競争によって進化するものであり生存競争の優勝者が所有権を有するものと認むる点において人性説に加えても宜しいのであるが生存競争によって人類が進化し社会が進化するものであり所有権はこの進化の一条件として認めらるるものと考うるの点からして寧ろ所有権の基礎を社会的理由に求むるものと言うことが出来る。したがって社会連帯説などと共に後に述ぶることとする。

　　なお　Berolzheiner の System der Rechts-und Wirtschaftsphilosophie,Bd.IV,§ 8及び Conrad 等の Handwörterbuch der Staatswissenschaften,Bd.III,Eigentum und Besitz の項(R.Stemmler の執筆)にも本文に述べた諸種の学説その他参考書が掲げられてある。

(２)　Lieber,Bolitical Ethics, 2 ed., Vol.I,chab.II,”Property is nothing else than the application of man,s individuality to external things or the realization and manifestation of man,s individuality in the material world.”

(３)　Hegel,Grundlinien dr Philosophie ds Rechts, § 41,S,78, ,,Die Person muss sich eine äussere Sphäre ihrer Freiheit geben, muss als Idee zu sein.”;Ahrens, Naturrecht oder Bhilosophie ds Rechts und des Staates, Bd.II,S. 109 ff. 畏友岡阿部次郎氏は本年〔大正１０年〕１月の中央公論に載せられた｢人性批判の原理としての人格主義的見地｣において人格主義を高調し「人格主義の倫理的要求は必ずしも制度としての共産主義を必要とせず制度としての私有財産主義を非としない。唯彼にとって絶対的に必要なのは財産を公共的のものと思惟する観念である」と言っている。この観念だけで十分なりや否や、第一次の社会化を以て足りるか更に第二次の社会科を必要とせざるかは後に述べんとする所であるが、阿部氏に特に望む所はその所謂人格主義の個人主義と如何に異れるかを更に詳しく説明せられたき点である。同氏が人格主義の第三の標準として述べている点は普通の個人主義と区別すべき点を明にせられたのであるが個人対社会の問題について今少しく詳しく説明して欲しい。同氏が物質を以て人格にとっての価値、条件的価値を有するに過ぎずとせる点については全然同感である。

(４)　Wagner,Grundlegung,a.a.O.S.212 に掲げられたる学説等。

(５)　Wagner,Grundlegung,a.a.O.S.222 にこの如き非難が述べてある。

(６)　Proudhon,Qu,est-ce que la propriété. は La propriété,c’est le vol. と言っていり(chap.1,p.14)’所有者と voleur との類似点を力説している(p.205)。しかしながらプルードンが共産主義にも反対するものであり寧ろ一種の私有財産制度(現在のそれとは著しく異っているが)認むるものであることは注意を要する点である。なおプルードンについては中澤臨川氏「正義と自由」１０３頁以下参照。

(７)　Locku, Treatise on Civil Government は人は所有権の保護の為めに政治的社会を組織するものとなし、また人はその需要を満足せしめんが為めに労力を為し労力によって人は物界と人格とを結合せしむるが故に所有権を取得するものとしている。　Adam Smith,Wealth of Nations は労力と貯蓄とを以て所有の基礎とし、殊に労力を以てその第一次的基礎(the original foundation of all other proberty) としている。その他 Ricardo,Brinciples of Political Economy and Taxation;Thiers,De la Propriété 等この説を採る者は多数ある。

（８）　Stahl, Rechtsphilosophile, II,1 Abt. § 29, s.363 ff. vgl. Auch Wagner, a.a.O.S. 213.

（９）a.a.O.vol.2,p.543; Stammler, Wirtschaft und Recht,2 Aufl.;Schmoller, Über einige Grundfragen der Sozialpolitik und der Volkswirtschaftslehre, S.70 ff.

（１０） Roscoe Pound, “The End of Law as developed in Legal Rules and Doctrines,’’ Harvard Law Review, Vol.XXVII,No.3,January 1914,6.The socialization of law,p.225 et saq.;Roscoe Pound,”The End of law as developed in Juristic Thought,”Harvard Law Review,Vol.XXVII,No.5,May 1914;Roscoe Pound,”Interests of Personality,”Harvard Law Raview,Vol.XXVIII,No.4,February 1915,No.5,March 1915. Individualism より Collectivism に移り往く英国立法における傾向を示したるものとしては Dicery,Law and Opinion in England,Lecture VII,VIII,IX 及び Introduction to the Second Edition を見ねばなぬ。なお社会法学の参考書は穂積重遠氏、法理学大綱８９頁以下に載っているからここには述べぬ。同氏が生物的社会進化論を称して「此ノ派ノ論者ガ例エバ『ニーチェ』ノ如ク、動モスレバ現在及ビ将来ノ国家ノ任務ヲ以テ自然淘汰ノ指導、適者適存ノ助長ニアリトスル『社会的優者主義』（Social aristocracy）ニ陥ルハ賛成シ能ワザル所ニシテ現在及ビ将来ノ国家法律ノ任務ハ寧ロ生存競争ノ抑制、自然淘汰ノ制限、不適者生存ノ保障等即チ社会的劣等者保護主義ニ存セザルベカラズ。コレ即チ所謂『法律ノ社会化』（The Socialization of Law）ナル近時ノ傾向ノ一要素ナリト云ウベシ」（同書８４頁）と言っているのは畢竟同意見である。余は唯不適者生存の保障を社会進化の一要素として、人生の協動心に基ける社会進化の一方面として観察せんとする者であるが穂積博士が「近時ノ傾向ノ一要素」というもけだし同意見であろう。

（１１）　穂積重遠氏、前傾４２頁、Berolzheir,System der Rechts-und Wirtschaftsphilsophie, Bd.IV,S.3 ff. 等。

（１２）　Wilhelm Wundt,Reden und Aufsätze,2 Aufl.S.36 ff.insb.S.59;Windelband,Einleitung in die Philosophie （1914）,S.301 ff.,,Auch in den extremsten Fällen,zu denen dieser Gegensatz führt,darf niemals der Einzelne den Gesamtwillen ignorieren,-niemals dieser jenen völlig opfern.”しかして団体と団体との比関係は蜂蟻等の団体生活と異る人類の団体生活の特徴なりとしている。なお同氏が３１９頁以下において自然法、法律哲学等について述ぶる処及び Wundt,Ethik, 2 Aufl.,Bd.I,S.447”Individualwille und Gesamtwille”において述ぶる処も参考とすべきものである。

（１３）　唯物的人生観に対しては今は唯余もまた吉野博士等と同じくまた阿部次郎氏の前掲論文に述べられてあるが如く唯物思想のみを以て満足すること能わざる者なることを言うに止めて置く。

（１４）　所有権の基礎を社会的利益（Social utilities）または社会的幸福（Social welfare）に認むる学者は尠くない。独逸における利益法学（Interessenjurisprudenz）または目的法学（Zweckjurisprudenz）の泰斗たるイェリングは英国式の個人的実利主義を変じて社会的実利主義に傾かしめた者であるから、私有財産の基礎も社会的実利にこれを求めて次の如く言っている。,,Es ist also nicht wahr,dass das Eigentum seiner Idee nach die absolute Verfügungsgewalt in sich schlosse.Ein Eigentum in solcher Gestalt kann die Gesellscaft nicht dulden,und hat sie nie geduldet-die Idee des Eigentums kann nichts mit sich bringen,was mit der Idee der Gesellsehaft in Widerspruch steht.”（jhering,Der Zweck im Recht,Bd.I,S.523）しばしば引用したる Ely は Property and Contract の第一巻に The social theory of private property:or private property asocial trust と言う章を設けて（１６５頁以下）個人所有権が社会的利益の為めに認められたる social trust であることを述べかつ多くの経済学者、法律学者、自然科学者等の所説を引用している。嘗て引用したる Cosentini. Marguery,Charmont,Duguit,Pound 等がこの見解を有することは言うまでもなかろう。なお Schmoller 前掲もこの点において参考すべきものである。

附記　この論文の本論として私は諸種の財産権についてその権利がその財産権を認めたる法律の目的に適応してこれを行使する法律上の義務を負うべきものであること、殊に土地所有権の如く限られたる財産に対する権利については社会的利益の為めにこれを行使せざる者に対して制裁を設くべき等を論ずる考であった。しかるにその起稿に志していった時に国際連盟の仕事の為めに欧羅巴に行くこととなり、滞在1年8ヶ月、帰来再び民法殊に財産法の研究に従事しているのであるが、この論文の続稿を書くよりは個別の方面から問題を観察したい気分になり、まず債権法について信義誠実の原則を書いた。これは表題において著しくこの論文と異ってはいるが同じテーマに属するものとして御了解を願い度いものの一である。債権法以外の財産法についても別に表題を設けてこの論文に示したる意思を展開して見ようと考えているので、この論文だけは如何にも纏まりのつかぬものではあるが殆ど奮態を改めず唯２３の誤植のみを訂正してこれを論文集に収めることとした。なおこの論文を物権法に関する論文集に収めずして民法総論に関するものに加えたのは財産法全部に関するものとして起稿したるが故である。

（国家学会雑誌34巻（大正9年）12号、35巻（大正10年）2号（民法研究第一巻所載））

債権法における信義誠実の原則

総論

１　信義誠実の原則が債権法を支配する基本原則と認めらるるに至ったことは近世法の著しき特色の一つである。ヘーデマンはその「第１９世紀に於ける私法の発達」において独逸民法第１５７条及び第２４２条が契約の解釈と債務の履行に付き「取引の慣習を顧慮したる信義誠実」（Treu und Glauben　mit Rucksicht auf die Verkehrssitte）を標準とすべき旨を規定して債権法を支配すべき大原則を示したることを以って私法発達史上独逸民法の成し遂げたる大なる功績なりとしている （１）。スイス民法第２条は其の第１項に於いて「各人はその権利の行使に於いて及びその義務の履行に於いて信義に従って（nach Treu und Glauben; selon les regles de la bonnne foi）行動すべし」と規定しているが、これを註釈したライヘルはこれを以って近世の取引法（Verkehrsrecht）には当然に包含せられたる原則なりと言っている（２）。近世法の此の特色を認むる学者としては尚シュタムラー（R.Stammler）、サレイユ（R．Saleilles）、パウンド等幾多の学者を挙ぐることを得るが、余が本論文に於いて目的とする所は信義誠実の原則の比較法的研究、沿革的研究又は法理論的研究ではなく此の原則の我が民法に於ける適用を研究せんとするに止まるのであるから、この原則が近世法の特色を為すに至った原因及び経路に付いては必要なる最小限度に於いて其の大綱を述ぶるに止めようと思う。

２　信義誠実という観念はその起源をローマ法に発する。ローマ法における　exception doli generalis（一般的悪意の抗議）の適用範囲及びその actiones bonae fidei の訴訟手続に於いて ex bono et aequo 即ち善意及び衡平 bonum et aequum に従って判断すべしとしたることの意義に付いては学者間議論あり、例えばシュナイダーは比較的その適用範囲を狭く解し（３）、ヴェントは之を広く解してその効用を力説しているのであるが（４）、信義誠実という観念がローマ法にその淵源を発するものたることは疑いを容れぬ。しかし信義誠実というこの観念を契約の解釈について、又権利の行使及び義務の履行に付いて重要なる標準とするということはローマ法以来故障なく発達し来つたものではない。元来法律及び契約に依る法律関係の確定ということと信義誠実に依る個々の裁判の具体的妥当ということとは高低の波を作って発達すべき運命を持っているものである。この点はパウンドの緒著に解り易く説明せられてあるが（５）、法律が厳格に失するか或いは法律と社会との疎隔が著しくなれば、正義公平又は信義誠実に依って、裁判の具体的妥当を得んとする社会的要求が強くなり、従ってこれらの原則は広く適用せらるることとなるが、この原則の適用範囲が余りに広くなれば、裁判官専権の弊を生じ、裁判の結果を見る迄は結果の予想を為すこと能はざるが為に法律生活の安定を害するに至り、ここに反動を生ずるのである。しかして此の如き発達変遷の波動は又著しくその当時の社会状態及び社会理想に依って影響せらるるものである。第１８世紀の後半より第１９世紀の中葉まで即ち仏蘭西民法とその法制を於いては個人の自由、個人の権利の尊重ということが社会の理想と認められ、法律の目的とせられたるのであるから、個人の契約に因って定められた権利及び義務は厳格にこれを行使し履行することを以って法律の目的に適するものとせられたのである。勿論此時代の法律に於いても信義誠実ということが全く影を潜めたというのではない。仏蘭西民法に於いてもその１１３４条第３項には「契約は信義に従って履行するを要す」と規定し又１１３５条にもやや同趣旨の規定がある（６）。ただしこれらの規定は信義誠実の原則によって債権者の権利を制限するものではなくして唯債務者の義務の体様を定めたるに過ぎない。従ってまた契約尊重（Vertragstreue）の原則を補充したるものとしてのみ認めらるるに過ぎなかったのである。ザクセン民法(１８６３年)についても同様である。その第８５８条に「契約の履行は特約、法規に従う外総じて信義誠実に従い、誠実なる人の為すべき所に従ってこれを為すことを要す」と規定しているのは矢帳契約尊重の原則の範囲を出でざるもので従って又仏蘭西民法の規定と同様に当時に於いて多く重要視せられなかったのである（７）。

此傾向は第１９世紀の末葉以後著しき変化を受けた。その原因は種々あるがその最も重要なるものは疑いもなく、個人の自由、個人の意思を基本とする社会観がややその勢を失って社会、団体を基本とする社会観が次第に力を得来つたことである。パウンドが前世紀の終より現世紀の初に亙って法律家は人間の意思(human wills)よりも人間の需要又は欲望を考うるに至ったと言い（８）、又サレイユがジェニーの有名なる解釈方法論の序文に於いて仏蘭西民法制定以後の社会の変遷を述べ契約自由のみを以っては新しき社会の要求に適し得ずと論じているのもこの意味に外ならぬものと思う（９）。この点については牧野博士がその多くの論文に於いて幾度か説明せられた所であるから蛇足を加うるの必要を見ない（１０）。

原因の第二は取引の範囲が拡張し取引の関係が複雑となり、信義誠実の原則に依って法律及び契約を補足するの必要が著しく増加したということである。この點については尚後に説明する機会がある。

原因の第三としては第１９世紀に於ける法律及び法律学の状態を数えることが出来よう。仏蘭西の裁判所がその古い法律を新しい社会現象に適応せしむる為に貴重なる努力をしたこと及びそれがジェニーの上に述べた解釈方法論を通して所謂自由法学説の原因と為ったことは普く知られた事実であって今述ぶる迄もない。しかして法律及び法律学の此状態に於いて正義、公平、信義、誠実という観念が重要なる地位を占むるに至るべきことは睹易き又必然なる事理である。独逸に於いても羅馬法の研究に没頭したる普通法時代に於いて羅馬法のexceptio doli generalis 又は bona fidesの原則が学説及び判例に大なる影響を及ぼしたことは云うまでもない。されば１８９６年に独逸民法草案の採否の未だ決定して居らなかった時、エック（Ernest Eck）が「一般悪意の抗議」は法律に規定無くとも尚これを認めらるべきや否やの問題を提起したるに際して、多数学者の見解はこれを肯定したのであった（１１）。第１９世紀に於ける独逸のこの法律及び法律学の状態も亦信義誠実の原則を発達せしむるに影響する所が少なくなかったものと考えらるる。

　信義誠実の原則は此の如くして近世取引法の特色を為すに至った。将来或いはこの原則の個々の適用を法律を以って確定することはあろう。恰も相殺、同時履行の抗議等、当初羅馬法に於いては信義誠実の一般原則の適用として認められたものが今日法律の規定として厳存するが如くである。しかし取引の範囲が益々拡張し取引の関係がいよいよ複雑となるべき近世の社会に於いてこの信義誠実の原則を法律を以って遺漏なく確定するということは到底期待し難き所である。然るのみならず信義の原則の個々の適用を法律に規定したる場合に於いてもその法規を実際に適用するに当っては再び信義の原則に依らねばならぬことがある。例えば双務契約に於ける同時履行の原則は上に述べたるが如く信義の一般原則に基づいて認められたものではあるが、これを今日の如く抽象的に法律に規定するときは各場合に付て法律の目的を達する為めには再び又信義の原則に依らねばならぬこと後に述ぶるが如くである。であるから信義誠実の原則は唯近世法の特色たるに止まらずたとえ将来成文法の規定が比較的完備するに至っても尚その価値を失うには至らざるものと考えらるる。

３　信義誠実を以って近世の債権法、取引法を支配する原則なりとすることに対してはもとより反対論がある。シュナイダーが此原則を比較的狭く解せんとすることは上に述べた通りであるが、墺太利の私法学者シャイは独逸民法のようにこれを一般原則とすれば自由判決に破壊的武器を興しうることとなるべしと言い（１２）、又ヘンレはその信義誠実論に於いて彼の所謂信義誠実法学（Treu‐und Glauben-Jurisprudenz）が危険なるべきことを力説している。ヘンレは独逸民法第１５７条が法律生活の骨髄を毒すべき二種の流行病を惹起したものとしその１を自由法学、その２を信義誠実法学なりとしている。そして両者共に法律生活の安全を害する恐るべき流行病であるが、自由法学はまだ社会全般の利益を顧慮するに反して信義法学は唯両当事者の利益を顧慮するに過ぎぬものとして、殊にダンツを攻撃し（１３）、しかしてこの思想が広く行われかつ判例に非常なる影響を及ぼしていることを慨歎している。しかしヘンレと雖も法律に欠点あることはこれを否認し得ないのであって、その欠点は所謂類推（Analogie）を以ってこれを補綴すべしというのであるから、結局に於いてその信義誠実対する攻撃は信義誠実の濫用を警戒するということの外には多く意義の無いものと思わるる。何となれば類推を適法とする究極の理由は条理にこれを求むるの外無いのであって（１４）、又条理を以って法源と認むるならば、類推を認むると同じく条理に基づいて信義誠実の原則を認むることを正当とするが故である（１５）。

信義誠実の原則に対する反感は自由法説に対する反感と略々同様であるから今これを詳述することを避けようと思うが、要するに次の３点に帰する。

その１は法律と道徳とを混同するということである。その２は裁判官の法律に対する関係を自由ならしめるということである。その３は法律生活の安全を害するということである。此の他尚信義誠実とか法律的感情とかを高調するときは裁判官及び法律学生をして法律そのものの研究を忽諸に附せしむるという弊害ありと例えばヘンレは述べているがこれは実質的反対理由ではなく、又信義誠実の原則を正しく理解するに於いては此の如き弊害の起こるべき理由は無いのであるから真面目に妄を弁ずる必要はあるまい。

道徳と法律とを混同するという非難に対しては、この程度に於いて道徳の要求に応ずることは即ち法律の目的なりと答うべきである。恰も公の秩序、善良の風俗に反する事項を目的とする場合にその法律行為を無効とする同一である。道徳善を奨励することは法律の目的に属せずとするも道徳悪に対して法律の保護を興しうることは法律の目的に適するものと言うことを得ぬ。

裁判官は法律に従って裁判を為すべき義務を負う、然るに信義誠実の原則は時に法律を無視するの結果となるが故にこの原則は裁判官のこの義務に対する違背を是認する結果となるというのが信義誠実の原則に対する第二の非難である。この非難に対して独逸の学者は信義の原則に従うべしということも亦成文法の規定であるから、此の原則に従って裁判するということは即ち法律に従って裁判することであって、法律に違背するものにあらずと答うる者が多い。しかしこれは寧ろ形式的答弁に過ぎざるのみならず成文法に同様の規定なき我が民法に付いては同様に論ずることは出来ない。私はやはり条理が法源の一つなりということに理論上の理由を求むる。しかして実質上の理由としては成文法の性質にこれを求めねばならぬものと信ずる。成文法は性質上抽象的一般的なる規範である。然るに吾人の社会生活に於ける社会則として要求せらるる行為の準則は具体的個別的である。従って抽象的なる法規はその性質上信義誠実というが如き他の原則に依って具体化せらるべきものである。このことは信義の原則に成法を補充する効力を認むるものである。しかし補充と無視との異なることは勿論であるから、裁判官の任務に違背せしむるが如き結果を生ずるものではない。

　法律生活の安全（Rechtssicherheit）を害するということは信義の原則に対する最も重大なる非難である。法律生活の安全が法律的秩序を維持する所以であって法律の重大なる目的に属することは疑いを容れない。もし著しく法律生活の安全を害する危険があるならばたとえ個々の場合に不当、不都合なる結果の生ずることを忍んでも法律の文学、契約の字句に膠着することが適当であろう。しかし余は信義誠実の原則に従うが為に法律生活の安全を害するという危惧は寧ろ机上の空論であって実際上さして心配に値すべき結果を生ずるものではないと信ずる、その理由の二三を挙げてみよう。

　理由の第１は信義誠実ということの意味が裁判官の主観的判断に依って決定すべきものでは無く、客観的標準に依って決定すべきものであるという点である。独逸民法はこの意味を表わすが為に「取引の慣習に顧慮したる」という字句を加えて￥いのであって、我が民法に付いて信義誠実の原則を認むるに付いても客観的標準に従ってこれを決定すべきは言を俟たぬ。従って個々の裁判官の感情に依って裁判の結果が左右せられ所謂感情法学（Gefuhlsjurisprudenz）に陥るの弊を生ずる心配は無い。

　第２の理由は信義誠実の内容を定むべき客観的標準の意義である。もしこの意義を定むるに付いてその事項に関する取引上の慣習があるか又は其の他の所謂文化規範（Kulturnormen）があるならばこれに依るべく、かくの如き文化規範なき場合に於いてもその社会に於ける正常なる人の合理的判断を標準とすべきである（１６）。故に信義誠実に依る裁判の結果はその社会に於ける通常人の想像する所と多く一致すべきであってこれが為に法律的秩序を害するの弊は極めて僅少なるべきである。

　第３に合議制を本体としかつ上訴の途を今日の裁判制度に於いては、信義の原則を採用するが為に、裁判官の感情が裁判の標準となり、その他法律生活の安全を危うくするが如き結果を生ずるおそれは極めて少ない。寧ろ千篇一律の裁判を為し個々の具体的事情を顧慮せざるが為に法律の真の目的を発揮し得ざる危険の方が多い。

　第４に法律発達の沿革に徹するならば羅馬法に於ける exception doli generalis 及び bona fides の原則がその法律の発達に貢献し（１７）、英法に於ける Equity がその法律の発達に重大なる寄与を為したことは疑いを容れざる事実である。学者或いは現今の法律が原始的法律にあらざることを理由として信義の原則が法律の発達に貢献すべき余地は既に消滅したるが如く論ずる者もあるが（１８）、これは法律の発達したると同時に社会が又著しく複雑となりかつ日々に複雑となりつつあることを看過するものと言わねばならぬ。所謂文化規範を研究し、生きたる法律を研究し、社会法学の研究する所に従って、信義誠実の原則を適用することは今後法律の発達に貢献する所以であらねばならぬ。

４　我が大審院は信義の原則が債権関係を支配すべきものなることを認めた。大正９年１２月１８日の大審院判決がそれである(民録２６集１９４７頁)。従来信義の原則に基づける判決は無かったのではないが「債権関係を支配する信義の原則」ということを明言したる点に於いて此の判決は特に注意すべきものである（１９）。余は嘗てより信義の原則を以って債権法の基本原則とすべしと考えたのであって（２０）、この判決が此の原則を明言したことを喜ぶと共にその判例多くを示して信義誠実の意義を漸次判例に依って定められんことを希望するものである。

　信義誠実の原則は我が民法の解釈適用上特に重要なるもので、その適用の範囲は頗る広きものと信ずる。成文法の各種の法規が弾力性を有し伸縮力を有する観念を多く包含している法典にあっては信義誠実の一般原則に依って成文法を補充する必要は比較的少ないが、これに反して此の如き弾力性を有する観念を包含することの比較的少ない法典にあっては、その解釈適用に当たって信義誠実の一般原則を用いて成文法を補充すべき必要が頗る大きい。しかして我が民法法典はその条文の数が独逸民法などに比して半数にも足らぬ程なのであるから(日民は１１４６条、独民は２３８５条)我が民法の規定は普通には多く大綱を示すに止めたものと考えらるるようであるが、各個の規定を比較して見ると弾力性、伸縮性を有する字句は却って独逸民法に多くして我が民法に少ないのである。独逸民法が信義誠実(Treu u. Glauben)とか善良の風俗とかいう概念を我が民法に比して多く使用していることは今条文を挙げて述ぶる迄も無いことと思うが、その他に「公平なる裁量」(billiges Ermessen)という言葉を用いている例は数多く(独民３１５条、３１７条、３１９条、６６０条、７４５条、９７１条、１２４６条、２０４８条、２１５６条等)、又「僅少」(Geringfugigkeit)、「軽小」(Unerheblichkeit)、「重要」(Wesentlichkeit)、「不相当」(Unverhaltnismassigkeit)、「相当」(Angemessenheit)、という種類の観念を用いている例が我が民法に比して遥かに多い。であるから信義誠実の一般原則に依って成文法を補充するの必要は独逸民法等に比し我が民法に於いては特に大きいものと言わねばならぬ。この点は後に此の原則の適用を論ずる際に詳しく述べねばならぬ所であるから今はこれに止めて置こう。

５　信義誠実の原則の適用範囲は私法のみに限るものではない。ラーバンとは公法、憲法に於いても此の原則の適用あるべきことを述べ（２１）、レオンハルトは民事訴訟の挙証責任に付いて信義の原則の適用ありとし（２２）、又マイヤーはその所謂文化規範が刑法の適用に影響あるべき旨を論じている（２３）。しかしこの原則の最も重要なる意義を有するは疑いも無く私法であって、そして債権法である。それは私法殊に債権法は所謂取引(Verkehr)に関するものが多いのであって、そしてこの取引は信義を基礎として始めて円満に行われ得べきものなるが故である。元来債権は個人が相互に相当の信用を措くことが出来る社会に於いて初めて発生するものである。原始社会に於いて物々相交換し、又大災等の後に於いて現金払いを必要とするは此の理由に基づくものである。しかして近世取引の発達するに及んで信用の価値は益々増加し、従って債権の財産としての価値は著しく重要なるものと為ったのである（２４）。取引法、債権法は此の如く信義を基礎として成立するものであるから、信義誠実の原則がこの種類の法律に於いて特に重要なる意義を有すべきことは寧ろ当然と言わねばならぬ。余は本編に於いて、債権法を主として論ずるのは右の如き事情あるが為である。

　債権法に於ける信義誠実の原則の適用に付いては債権債務の内容、債権の行使及び債務の履行に付いて論述せらるるものが多い。余も主としてこれ等の点を攻究せんと欲するのではあるが、しかし余は債権発生以前及び債権発生以後に於いても此の原則を適用することを正当なりと考える者である。次節に於いてまず債権関係存続中に於けるこの原則の適用を論ずるのは債権関係発生以前にその適用なしとするが為ではない。唯比較的疑問少なき問題より論述することが了解に便宜なりと考える為に此の順序を採るに外ならぬ。

　　

(１)Wilhelm Hedemann, Die Fortschritte des Zivilrechts in �]�T�] Jahrhundert, 1910, § 8 Sitte u. Austand als ultimaratio legis, S.117 ff., insb. S. 123.

(２)Reichel, Komm. Zu Art.2 Schw. Z. G. S. 9 ,,ein dem modernen Verkehrsrecht von selbst innewohnendes Prinzip.“

(３)Konard Schneider, Treu u. Glauben im Rechte der Schuldverhaltnisse, 1902 ; derselbe, im ArchBurgR., Bd. 25(1905), S.209 ff. ; derselbe, Treu u. Glauben im Civilprozesse(1903).

(４)Wendt、Die exceptio doli generalis im heutigen Recht oder Treu u.Glauben im Recht der Schuldverhalotnisse in ArchZivPrax., Bd. 100(1906), S.1 ff.

(５)Roscoe Pound の法律哲学については、小野氏「パウンドの法律学について」法協４２巻１号２号３号及び宮本英雄氏の紹介、法学論争１０巻５号(大正１２年１１月)参照。

(６)佛民１１３５条“Les conventions obligent non seulement a ce qui y’est exprime, mais encore a toutes suites quel’equite, l’usage ou la loi donnent a l’obligation d’apres sa nature. ”

(７)Sachsisches BGB.,§858 : Die Erfullung eines Vertrages hat dasjenige zu umfassen, was nach der besonderen Verabredung der Beteiligten，nach den gesetzlichen Vorschriften uber den in Frage stehenden Vertrag und uberhaupt nach Treu und Glauben und nach der Handlungsweise eines redlichen Mannes zu leisten ist.

(８)Pound，Introduction to the Philosophy of Law，p.89“Jurists began to think in terms of human wants or desires rather than of human wills．”

(９)Geny，Methode d’interpretation et sources en droit prive positif に載せられたRaymond　Saleilles の序文。

（１０）　牧野博士の特に信義誠実に関する論文としては「具体的妥当性」志林

　 24巻10号(大正11年10月)。尚Hedemann，Fortschritteにも同様の見解が述べてあり、又　Emil Steinbach, Treu u.Glauben in Verkehr(1900)、S.54 ff．も独民の157条、242条を以って「団体の利益の為に個人の利己主義を制限するもの」(Beschrankung des Egoismus der Individuenim Interessse der gesamtheit)としている。

（１１）　Wendt，a.a.O.,S.5 の述ぶる所に拠る。

（１２）　ｖ.Schey，Die Obligationsverhaltnisse des oster. allgemeinen Privatrechts，I(1907)，S.546 ff.

（１３）　Danzについては我妻栄氏の「ダンツの裁判官の解釈的作用」法協４１巻１号２号３号参照。

（１４）　拙著、日本民法総論１７頁。

（１５）　Rudorf　Henle，Treu u. Glauben im Rechtsverkehr(Vortrag)，1912．

（１６）　M．Ernst　Mayer，Rechtsphilosophie，S．85はKulturnormenに従って Treu u．Glaubenの内容を定むべしと言う。この書に付いては田中誠二氏「エム、エー、マイヤーの新法律哲学」国家学会雑誌３７巻１０号以下参照。尚取引の慣習に付いてはPaul Oertmann，Rechtsordnung u．Verkehrssitte，1914参照。同氏は取引慣習の適用範囲を信義に依って制限せらるべきものとして、ダンツが信義ということの意義を決定するに付いて取引慣習に依って定むべしという(Danz, Einfuhrung in die Rechtsprechung, S.36/７)を難じている(S.83−85)。勿論公益に害ある取引慣習も亦信義の意味を定むるものとは言うことを得ないが、このことは一般に取引慣習が信義を定むる標準となることを否定する理由とはならぬ。

（１７）　Wendt，a.a.O.,S.97. 尚英法に付いてはPound等英米人の諸著の外、Ehrlich の Soziologie des Rechts 及びJuristische Logikにしばしば英法のことが述べてある。

（１８）　Henle,a.a.O.,S.10/11.　尚へンレはTreu u. Glauben の意義が eine dunstige, auf-und abwallende Nebelmasse(曖昧模糊)なりと非難する(S.8)。しかし弾力性を有する法則を設けることは近世法の特色の１であって非難に値せぬ。

（１９）　此の判決に付いては牧野博士、前掲論文に詳しく解かれてある(30頁以下)。

（２０）　拙著、日本債権法総論増訂版110頁、同各論増訂版118頁、拙稿、判批「契約解除の要件及び効果」民事判例研究225頁以下特に232頁等。石坂博士は給付の物体及び方法を定むるに付いて契約又は法律の規定に不備ある場合には信義の原則に依るべきものとされている(日本民法３７４頁以下)。我妻氏は弁済提供に付き信義則を応用するに非ざれば遂に適当な解決を見出し得ないと述べている(大正１０年度判例民法５５６頁)。

（２１）　Laband, DJZ.,1904, S.324 ,,So wie im Privatrecht muss auch im offentlichen Recht das Prinzip von Treu und Glauben herrschen. Ohne bona fides ist namentlich das konstitutionelle System nicht durchfuhrbar. “Hedemann, Fortschritte, S.124,Anm.9 に依る。

（２２）　Franz　Leonhard，Beweislast，1904，S.５.

（２３）　M．E.Mayer，Rechtsnormen u．Kulturnormen 1903，S．108．；derselbe，Strafrecht　Allgem．Tell，1915，S．３ ff

（２４）　Pound，Introduction to the Philosophy of Law, p.236: “Wealth,in a commercial age, is made up largely of promises.”　拙著、日本債権法総論増訂版１頁。

第１節 　債権関係存続中に於ける此原則の適用

第１項　債務の履行

１　債務の履行に関して信義誠実の原則を適用すべき場合はすこぶる多い。何を給付すべきかの問題に付いて、如何に給付すべきかの問題に付いて、債務者遅滞の効果に付いて、同時履行の抗議に付いて、又債権者遅滞の効果に付いて信義の原則の適用に依り法律及び契約の定る所を補充すべき場合が少なくない。今これ等総ての場合を網羅して叙述することは具体的妥当を主眼とする此の原則の性質上不能事に属するのではあるが、その重要なる場合を述ぶることは此の原則の意義を明らかするが為に必要である。

２　何を給付すべきかの問題は債務の履行の問題というよりは主として寧ろ債権債務の内容の問題である。しかし又債権の内容の問題と離れて別に履行の物体として信義の原則を顧慮すべき場合がある。

（１）　種類債務に於ける変更権の問題はその１つである。種類債務に於いて債務者が物の給付を為すに必要なる行為を完了し又は債権者の同意を得てその給付すべき物を指定したるときは種類債務は所謂特定又は集中を生じ「以後其物ヲ以テ債権ノ目的物トス」るのである(４０１条)。此の特定を生じたる後債務者が給付の目的物を変更し他の同種の物を以って給付を為し得るや否やが所謂変更権(ius variandi)の問題であって、解釈上議論の存ずる問題たること改めて説く迄も無い。しかして法文には「以後其物ヲ以テ債権ノ目的物トス」と謂い又危険負担に関する民法５３４条に於いて特定物に関する物権の設定又は移転を目的とする双務契約に付いては第４０１条第２項に依りてその物が確定したる時よりその物の滅失又は毀損は債務者の負担に帰するものとしているから、債権者はその特定したる物のみを請求し得べく、債務者も亦その特定したる物を給付すべく即ち債務者は変更権を有せざるを以って法律の規定する所と云はねばならぬ。然るに此の原則を以って貫徹するときは必要なくして債務者を拘束し不当なる結果を生ずるが故に独逸の学者は概ね皆何等かの理由に因り、特定の場合に付き債務者の変更権を認むる（１）。我が民法に付いて石坂博士及び三瀦博士は全く変更権無きものと解するが（２）、余は信義の原則に従って特定の場合には変更権を認むべきものと解し（３）、又中島博士は「法律ノ最高ノ目的ヨリ論シテ一旦特定シタル債権ノ目的物ヲ変更スル権利ヲ債務者ニ興」ふべきものとし即ち債務者に利益ありて債権者に何等実質的損害を興へざる場合に変更権を認むべきものと解している（４）。

石坂博士が変更権を認めざる理由は次の如くである。

(イ)「特定ハ単ニ債務者ノ利益ノ為メニノミ生スルモノニアラス同時ニ債権者ノ利益ノ為メニ生ス」と。これは原則として変更権を否認する理由となる。しかしながら変更するも何等債権者に不利益を生ぜざる場合にも変更権を否認する理由とはならぬ。

(ロ)「物体ノ特定ト共ニ債権者モ危険ヲ負担スルカ故ニ債務者ニ自由ニ変更スルノ権利アルコトヲ認ムルコトヲ得ス」と。物の自然的の滅失又は毀損が債権者の負担に帰するは物の運命が債権者に属したるが為めにして即ち債権者がその物のみを請求し得るが為なり。故に此の点は原則として債務者も亦その物のみを給付する義務を負うの理由と為すを得べし。然れども債務者がこれを変じて他の物を給付することとすることは寧ろ債権者をして先に選定したる物に対する危険負担を免れしむるものであってこれが為に特に債権者に損害を及ぼすものではない。故に此の点も亦例外として債権者に損害を及ぼさざる場合に付き変更権を認むるの支障となることはない。

(ハ)「変更ノ権利アリトスルハ一般取引ノ観念ニ合セサルコトアリ」と。然れども変更権を認むることが一般取引の観念に合することあるも亦否むべからざる事実である。信義に適する場合に於いてのみ変更権を認むるは一般取引の観念に背馳するものではない。

此の如く全然変更権を認めざる学説は理論上及び実際上理由なきものと思う。しかして例外として変更権を認むるの理由を中島博士の如く法律の最高目的に求むるのはもとより誤れりと言うことを得ないが、しかし所謂最高目的なるものは寧ろ漠然たるを免れざるが故に、債権法を支配すべき信義の原則に依りてその例外たるべき場合を定むるを実際に適するものと考える。

信義の原則に依って変更権を認むるに付いては次の諸点を顧慮すべきである。

(ａ)債務者は信義に反して変更を為すことを許さぬ。債務者が変更を為したのに対して債権者が先に確定した物の給付を請求したとき、債務者は直接法律に基づいて何等の主張をも為すことを得ぬ、唯債権者の主張が信義に反したる場合にその点を指摘して自己の後に為したる履行の提供が尚債務の本旨に従った履行の提供たることを主張し得るに過ぎぬ。従って債権者に対して信義を要求するが為には債務者自らが信義に反せざることを要すること勿論である。故に例えば先に提供したる物が中等以上の物であった為に中等品との差額を利する為に処分を為し又は容易に代品を得られざるが如き場合に処分を為した場合には債務者は変更に対して責任を負はねばならぬ。しかしこれ等の場合に於いても腐敗し易き物を処分するとか保管の為め過分の費用を要する物を処分するのは信義に反せざるものたること言を待たぬ。

(ｂ)債権者の方面に於いても亦信義の原則を考えねばならぬ。後に提供せられた物が先に選定せられた物と同一の利益を債権者に興しうる場合に於いて債権者が強いて最初の物を要求するは信義の原則に反するものと言わねばならぬ。

　中島博士は債権者に通知を与え又はその同意を得て特定する場合には常に変更権なしと解する。しかし此の如き場合にも以上の２用件に適するならば変更権を認めて差支えなしと思う。又「債権者ガ最初給付シタル物ノ受領ヲ拒絶シ遅滞ニ在ル場合」には常に変更権ありとする。しかし物に欠点ありとして受領を拒絶したる場合でなくして、物を受領してもこれを置くべき場所なきが為に受領を拒絶し受領遅滞に在るが如き場合には無制限に変更を認むるべきではなく、矢張信義の原則に従って変更の正当なりや否やを決定すべきものと考える。

（２） 債務者の提供したる給付に些少の不足あった場合に信義の原則を生ずることは先に述べた大審院の判決に依っても明かである。此大正９年１２月１８日の判決は買戻権に関するものであるが、代金は金５１７円、契約費用は金１２円８銭であるから、民法第５８３条第１項に依れば買戻金は都合金５２９円８銭であるのに、買戻権者の提供した金額は５２８円で差金１円８銭の不足があった。その不足を生じたる理由は買主の支出した契約費用の額が買戻権者に知れてなく、又買主がその額を告げざりしに因るものである。此事案に対して大阪控訴院は「不足ノ金額ヲ提供シテ為シタル買戻ノ意思表示ヲ有効ナリト為ス能ハス」と判決したのであるが、大審院はこれを破毀し極めて些少の不足ある場合にその不足額の弁済を請求し得べきは勿論であるが「斯ル不足アルヲ口実トシテ買戻ノ効力ヲ生セスト云フカ如キハ債権関係ヲ支配スル信義ノ原則ニ背反スルヲ以テ不足アルニ過キサルトキハ買戻ノ効力ヲ生スト為スヲ相当トス」と判決したのである。

　此判決に対して牧野博士の批評のあることは既に述べた。博士は社会連帯の原理から法律及び契約を合理的なものとして理解し、当事者を公平に取扱ったものとして解釈するの立場から此の判決を推奨しかつ「此の判決は買戻権者の側に於いても亦信誠実の原則に従ってその行動を為したものなることを予定しているものにちがいない。些少の不足は概念的に如何なる場合に於いても買戻の効力を発生するに妨となることがないというのではない。相手方の信義誠実に依らんとする者にはその信義誠実を濫用する態度があってはならないのである」と述べて居らるる。誠にその通りである。しかして此の点は大審院の判決に現れた事案からも看取することが出来ると思う。買戻権者は故意に些少の金額を提供したのではなく契約費用の額を確認するに由なく、相手方はこれを告げなかった為にその契約費用と推測する額を提供した所がその額が実際の額より１円８銭だけ少なかった事案だと解せらるる。従って此の点に於いても大審院の判決は正当だと思う。

　牧野博士に従えば「民法第５８３条の文言に『藉口』することは権利の濫用に帰着するものなることを明らかにしたのである」（５）。権利の濫用とする観念に帰着するものなることには異存は無いが、テクニックとしては買戻権者の為した給付の提供は買戻の条件に適する。即ち第５８３条の要求する所に適する給付の提供と見ることが正当ではなかろうかと思う。しかしてその要求に適するものと解するは此の債権者債務者間の関係に於いて買主は信義に従って提供を為し買主これを拒絶するは信義に反するということを理由とするのである。余がこれを権利行使の問題として論ぜず債務の履行の問題としてここに論ずるは此の理由に因るものである。

　給付額の不足に付いては尚同時履行その他の場合に付いて問題となる。同時履行に付いては後に述ぶる。

（３） 債務者の提供したる給付の量が債務額を超過し債権者がその差額を返還すべき場合には特に所謂「釣銭」に付いて問題となる。此の点に付いて余は嘗て意見を述べたことがあるから今再びこれを論じないが要するに問題は、嘗ても述べた通り信義性質の原則に依って解決すべきである（６）。

（４） 債務者が従たる給付を為すべきや否やの問題も信義の原則に依りて解決すべきことが多い。この問題の一部は契約その他法律行為の解釈に付いて信義に従うべしという問題であるが他の一部は法律行為の解釈以外の問題に属する。法律行為以外の原因に因って債務を生じたる場合及び法律行為に因って生じたる債務に付いても法律行為の目的そのものとは関係なき事実に関する場合がそれである。例えばコーザックの挙ぐる例に依ると、停車場のレストランで食事をした旅客が主人に発車時刻を尋ねた場合に、主人が重過失で間違った時間を告げたときは損害賠償義務ありとし、こういう従たる給付(Hilfsdiensten)に付いても返答をする以上は適当な返答を為すべき義務ありと論ずる（７）。此の場合の従たる給付を為すの義務は当事者間の契約を信義の原則に依りて解消することに依ってこれを認むるよりは停車場に於けるレストランで食事を提供する義務には信義の原則上此の如き義務が付随しているものと解するが穏当であろう。此種の例は数多く想像することが出来るが今その１２を挙げてみよう。産婆として或る家に雇われた者はその家の子供が隅々怪我をした場合に依頼を受けたならば包帯をしその他手当てをしてやる義務を負うものと解すべきで、もしこれを拒絶した為に損害を生ずれば賠償責任を認むべきである。又家屋の貸主は勿論借家人に飲料水を供給する義務を負うものではないが、借家人の方は断水で近傍に住む貸主の方には十分の飲料水があるような場合には、信義の原則上賃貸借上の法律関係に従たる義務として飲料水供給の義務を認むることが適当ではなかろうかと思う。ここに一言注意せんと欲するは、私が此の問題を家屋の賃貸借と離れたる生存権の問題として取扱うのではないということである。家屋の賃貸借は住居の為の賃貸借で（その以外の目的の為の場合も勿論あり得るがその場合は除く）そして賃貸人は家屋を住居に適する状態、即ち生存に適する状態に置く義務を負担する。此の義務は通常は飲料水を供給するような義務を包含しないけれども、上に述べたような特別の場合に、信義の原則に従って、これを包含せしむることは、尚法律論の範囲を超えざるもので、寧ろ再建法を支配する信義の原則に適するものと考うるのである（８）。

（５） 一部弁済が債務の本旨に従った弁済でないことは学者の疑わぬ所である。しかし此の点に付いても信義の原則を考えねばならぬ。分割して数回に給付せねば不都合な場合に債権者は第１回に提供せられたものが債務額の全部でないことを理由としてその受領を拒絶し得るものと解すべきではない（９）。これは（２）に述べた所と関係しているが、やや異なった問題である。如何に

３　如何に給付すべきかの問題に付いて信義の原則の適用せらるべきことは疑いを容れぬ。此の点に付いては従来学者の説いた所に多く附加すべきものを見ないから簡単に述ぶるに止めよう。

（１）　給付の時に付いては提供の時期と時刻と時間と皆信義に適することを要する。

　(イ)時期は原則として債務の履行期以前であっても宜しいことは債務者が期限の利益を有するものと推定せらるる関係上明かではあるが、しかし期限前の弁済提供は信義に適するものでなくてはならぬ。履行期前突然債務者が弁済の提供を為すときは債権者に受領準備の無い場合が少なくない筈であるから、突然の提供で債権者を受領遅滞に陥らしむるということは特に多量の物の給付にあっては債権者に酷である。故に期限前の弁済提供は特に信義の原則に従って、その債務の本旨に従える提供なりや否やを決定する必要がある。期限後の弁済提供に付いては便宜上債務者遅滞の効果として後に述ぶることとする。

　(ロ)履行の時刻に付いて民法には規定は無いが、商法には第２８３条〔現行５２０条〕の規定あり「法令又ハ慣習ニ依リ取引時間ノ定アルトキハ其取引時間内ニ限リ債務ノ履行ヲ為シ又ハ其履行ノ請求ヲ為スコトヲ得」るものとしている。此規定に依って一般には履行の時刻に制限がないということを知り得るが、しかしこれ亦信義の原則に依って此原則を補充すべきであって、例えば深夜眠れる人を叩き起こして履行の提供を為し又は履行の請求を為しても差支えない趣意と解すべきではない。

　(ハ)給付提供の存続すべき時間に付いては法律に何等規定が無い。債権者の直ちに受領し得べき性質の給付に付いては此のことは問題とならぬが、給付の種類に依ってはこれを受領するが為に相当の準備を要することがあり得る。此の種の給付に付いては受領の為め相当の猶予を与うべきで、即ち給付の提供は相当の時間継続することを要する。これ亦信義の原則の一適用に外ならぬ。

（２） 履行の場所に付いて我が民法は債権者の住所を原則とし、即ち持参債務を原則としたるが故にこれを信義の原則に依って変更又は補充すべき場合は独逸民法等に比して著しく少ない。独逸民法は債務者住所主義を原則とした為に取引の実際と著しく異なる結果を生じ、為めに或る学者は法律の規定する債務者の住所は債務地（Schuldort）で履行地ではないとし（１０）、又他の学者は信義の原則に従ってこれを補充、変更することを要するものと論ずる（１１）。此の如く我が民法に付いては信義に従って履行の場所に関する法律の規定を補充する必要が少ないけれども、しかし絶無ではない。特定物の引渡に付いて民法第４８４条は債権発生の当時その物の存在した場所に於いてこれを弁済すべきものとしている。不動産に付いて此規定は不都合な結果を生ずるおそれは無いが動産に付いては不都合な結果を生ずる場合があろうと思う。動産の寄託に付いては第６６４条の特則があるが、使用貸借、賃貸借に付いては特則無く、従って４８４条に依るのであるが、動産を貸す場所は偶然なる事情で決定することが多いからして、貸借契約をしたその偶然の場所で返還するよりは債権者の現在の住所で返還した方が信義の原則に適する場合が多い。この意味に於いて信義の原則は履行の場所に付いても適用の余地がある。尚当事者が何処で弁済しても宜しいということを特約した場合に於いても信義の原則の適用がある。ローマ法にこんな例がある。借りた金を何処で弁済しても宜しいという特約があったとしても貸主と借主とが旅行中強盗に逢った際に返金するのは有効な弁済でないというのである（１２）。これ程不当でなくとも婚礼の席上とか汽車で出発する際とかに返還することの不当な物品もあるであろう。その不当なりや否やは信義則に依って決定すべきである。

（３） 履行の方法に付いて信義の原則が問題となることがある。例えば債務者が返還すべき物を足の上に載せて債権者の鼻先に出したような場合には有効な弁済の提供と見るべきではなく、従ってこれを受領せざるも債権者遅滞とはならざるものと解すべきである。

（４） 弁済提供の用件たる履行準備に付いても亦信義の原則が問題となる。民法は現実の提供と言語上の提供とを分ちかつ言語上の提供に付いても弁済の準備を必要としている。然るに現実提供と言語提供との差は弁済準備の如何に存ずること明かであるから言語提供に付いて必要とせらるる弁済準備は完全なる弁済準備たることを要せざるものと言わねばならぬ。即ち現実提供の場合の如く直ちに給付を為し得べき準備あること要せず遅滞なく弁済し得べき準備あるを以て足れりとすべきである。その遅滞なく弁済し得べき程度の履行準備ありや否やを決定するの標準はこれを信義の原則に求めねばならぬ（１３）。

　此の点に関して大正１０年１１月８日の大審院判決は言語上の提供に於ける履行の準備は提供の際「即時に」履行を為し得るだけに完全に整っていることを必要とせず唯将来債権者が所要の協力を為したときに債務者が「相当の時期に於いて」履行し得るだけの準備が今日整っているを以て足れりとし、総額３万９１５０円の内１３５０円に付いては即時支払の準備無かりしという理由の下にその提供を効力なしとしたる大阪控訴院の判決を破毀した（１４）。この事件は提供金額に付いて履行準備の一小部分が欠けて居ったという点に於いて、先に述べた買戻しに関する大正９年の判決と類似しているが大審院は此判決に於いては「債権法ヲ支配スベキ信義ノ原則」を理由とすることなく、現実の提供と言語上の提供との差異を理由とした。上に述べた如く此二種の提供の差異が履行準備に存することは言語上の提供に付いて完全なる履行準備を必要とせざるものと解するについて成法上の根拠となるものではあるが、如何なる程度に於いて履行準備を要するかという問題は信義の原則に依り成法の規定を補充して初めて決定し得べきものである。此判決を評釈したる我妻氏も信義の原則を応用するに非ざれば「提供の問題は遂に適当な解決を見出し得ない」と述べている。

４　双務契約に於ける同時履行の抗弁権は信義の原則に基づくもので即ち此原則に基づいて双方の当事者を公平に保護することを目的とするものであるから、これに関する諸種の問題に付いては信義の原則を適用してこれを解決せねばならぬ。今それらの問題の内比較的重要なものを左に掲げる。

（１） 当事者の一方が給付の大部分に付いては履行を為し又は履行の提供を為したる場合に、相手方は尚残存の給付あることを理由として同時履行の抗弁権を行使し得るかという問題がある。独逸民法(３２０条２項)は特別の規定を設け反対給付を拒絶することが、事情に依り、特に残存給付の比較的僅少なることに依り、信義に反すべきときは反対給付を拒絶することを得ざるものとしている。これは独逸の普通法時代に於いても通説の認めた処であって、我が民法には特別の規定はないが、同時履行抗弁権の性質上この抗弁権を行使することが信義に反すべき場合にはこれを認むべきではない。即ち対価たる給付に付いては既に履行又は履行の提供あり唯付随的給付が残っているに止まる場合には全く同時履行の抗弁権なきものと解すべく、又対価たる給付に付いても大部分に付いて履行又は履行の提供のあった場合には反対給付の全部に付いて抗弁権があるものと解すべきではない。即ち反対給付が分割を許す場合には残存給付に相当する部分に付いてのみ抗弁権あり又分割を許さざる場合には全く抗弁権なきものと解すべきである（１５）（１６）。

（２） 債権者遅滞にある当事者は同時履行の抗弁権を有するか。この問題に付いて余は嘗て詳しく論じたことあるから今は前に述べなかった点に付いて一言するに止める。私は受領遅滞に在る当事者は同時履行の抗弁権を有せざるものと解することが我民法第５３３条の字句に適するのみならず(独逸民法は字句を異にするから、その解釈に従うは誤っている)信義の原則にも適するものと信ずるのであるが、大審院が反対の解釈を採る理由を見るに、抗弁権を認めざるときは却って不公平の結果を生ずべきことをおそるるようである。即ち明治４４年１２月１１日の大審院判決(民録１７集７７２頁)には「一タヒ履行ノ提供ヲ為シタル後無資力ノ状態ニ陥ルコトアルモ相手方ハ必ラズ其債務ノ履行ヲ為ササルベカラズシテ甚ダシキ不公平ノ結果ヲ観ルニ至ルベシ」と言っている。しかしこれは履行提供を為した当事者が其の後無資力となったという特別の事情を推測し、前提としたるが為に生じたる懸念であって一般の場合に履行提供の継続を要求することが不公平な結果を生ずることを否認する理由とはならぬ。債務者が一旦債務の本旨に従った履行の提供を為し、債権者がこれを受領せざるが為に受領遅滞に陥ったに拘わらず、以後債権者が自己の債務の履行を請求せられたる場合に一旦自ら受領を拒絶し又は受領を為さざりし給付の提供を再び為すべきことを理由として自己の債務の履行を拒絶し得べきものと解するは特別の事情なくば信義の原則に反するものと言わねばならぬ。故に第５３３条の規定する通に「相手方カ其債務ノ履行ヲ提供スルマテ」抗弁権を有するに止まり、一旦履行の提供あらば最早抗弁権を有せざるを原則とし、唯判例の推測するが如き特殊の事情ある場合に信義の原則に基づいて例外として抗弁権を認むるが正当である（１７）。

（３） 同時履行の抗弁権の効果として債務者遅滞に如何なる影響を及ぼすかの問題に付いても別に新しく論ずる必要を見ぬ。此の点に付いて法律に特別の規定は無いが、信義の原則に依れば、相手方が履行をせず又履行提供をせず、何時にても、同時履行抗弁権を行使して自己の債務の履行を拒絶し得べきが故に履行を為さないことは、正当の理由に基づくものであるから縦令期限に履行をしなくとも債務者遅滞とならぬものと解せねばならぬ。これは従来から判例の認むる処である（１８）。

（４） 双務契約当事者の一方乙が債務を履行することの不能なること又は債務を履行せざるべき意思を有することの明瞭なるときには相手方甲は自己の債務の履行を提供せずして、乙の債務の履行を請求しても、乙は同時履行の抗弁権を行使して不履行の責任を免るることを得ず、即ち解除権の発生等債務者遅滞の効果を生ずるものである。これは大審院が従来判例として認むる所で、大審院は此の如き場合に甲に債務の履行の提供を強ふるは「全ク条理ニ反シ何等ノ実益ヲモ有スルモノニ非サルカ故ニ」と説明している。これ即ち信義の原則に基づいて同時履行の抗弁権を制限したるに外ならぬ。「失踪逃亡其他債務者ノ責ニ帰スベキ事由ニヨリ債務ヲ履行スルコト能ハサルカ、若シクハ之ヲ履行セサルノ意思明確ナル」為に相手方が履行の提供をせずして請求をしたる場合に自らに此の如き事情あるに拘わらず同時履行の抗弁権を行使し、債務者遅滞とならざるものとするは信義の原則に反するが故に判例は同時履行抗弁権を認めないのである。従って如何なる事情あらば同時履行抗弁権を否認すべきかを定むるに付いても信義の原則に従わねばならぬ（１９）。

５　上来述べた所に依って債務の履行は信義に従って為すべきであって、又信義に従って為すならば多少法律又は契約の要求する所と異なる所があっても、民法謂う所の債務の本旨に従った履行の提供となることを明になし得たと思う。その信義に従った履行提供を為さない場合には即ち不履行の問題を生じ又信義に従った履行提供を為したに拘わらず債権者が受領しないときは債権者遅滞を生ずるのである。その不履行及び債権者遅滞の効果に付いても信義の原則に依るべき場合があるがこれは履行又は履行の提供そのものの問題ではないから項を別にして論じようと思う。

（１）　Oertmann,Komm.zu § 243,S.21 に参考書を掲ぐ。

　（２）　石坂氏、日本民法１４６頁以下。尚三瀦氏、債権法提要５２頁は慣習の存ずる場合を除き変更権なしとしかつ我民法の解釈として異説あるを知らずと述ぶ。然れども異説　あることは本文述ぶる所で明であろう。

　（３）　拙著、日本債権法総論増訂版３３頁。同所に「債権者ガ単ニ債務者ヲ苦シムルノ意思ヨリ」同一の物を要求したときはと云ったのは不必要な制限であったと思う。

　（４）　中島氏、釈義、債権、１８１頁以下。

　（５）　牧野氏「具体的妥当性」志林２４巻１０号３３頁。

　（６）　拙稿「釣銭ニ就テ」〔本書３９７頁以下、特に４０５頁〕、拙稿「債権者ノ遅滞」〔本書１４３頁以下〕。

　（７）　Cosack, Lehrbuch, S.332 ff.

（８）　債務者が譲渡すべき権利に関する証書を有するならばこれを給付すべきこともまた一種の従たる義務である。

　（９）　ローマ法においても信義の原則に基いてこの一部弁済の問題を解決したことについては Wendt,a.a.O.,S.130. 拙著、日本債権法総論増訂版１０９頁。

　（１０） Leonhard, Erfullundsort, 1909. 債務地とレオンハルトが言うのは債務の裁判管轄等債務の運命を定むべき地をいうので、独逸民法が債務者の住所を履行の場所というのはこの債務地を定めたるに過ぎず履行地（Vollzygsort）はこれと関係なく定むべしと言うのである。多数説ではない。

　（１１） Wendt, a.a.O.,S. 129.

（１２） Fr.72 pr.Fr.39 D.de solut. 46,3. Wendt,a.a.O.,S.123.

（１３） 拙稿「債権者ノ遅滞」〔本書１５０頁以下、特に１５７頁以下〕。

　（１４）　民録２７集１９４８頁、判例民法大正１０年度５５３頁、我妻栄氏評釈。拙著、日本債権法総論増訂版４２７頁。

　（１５）　拙著、日本債権法各論増訂版１１７頁以下、石坂氏、日本民法２０５３頁。末弘氏、債権各論１４３頁は全然抗弁を為し得ざる場合を認むべからざるものとし「斯クノ如キハ原告ヲ救ハントシテ反ツテ被告ヲ不当ニ害スルモノニシテ之ヲ認ムルコト能ハズ」と言う。しかし全然抗弁権なしとする場合は残存給付が極めて僅少で契約を為したる目的は大体において既に達せられたる場合に限るのであるから被告を「不当」に害する結果を生ずることはあるまい。もしその場合に抗弁権ありとするならば給付が分割を許さざるが為に反対給付の全部に付いて履行拒絶権を認むることとなり却って著しく不公平なる結果を生ずるであろう。

　（１６）　買主が物品の引渡を了したかどうか、即ち買主は尚同時履行の抗弁権を有すかについて大正１１年１１月２４日、大判集１巻１２号７３３頁、末弘氏評釈、法協４１巻１９４６頁、１１年度判例民法４５７頁参照。この判決は取引上の慣習によるべしとして居る。勿論正論であるが、その取引上の慣例による理由は信義に従って履行の意義を決定するが故である。

　（１７）　拙稿「債権者ノ遅滞」〔本書１９３頁以下〕、拙稿判批、法協３６巻１０９７頁、民事判例研究２２０頁。同説、末弘氏、各論１４５頁。反対、石坂氏、日本民法２０５１頁、同氏、債権法大綱３２３頁。独民には「反対給付の為さるるまで」（biszur Bewirkung der Gegenleistung）とあり我民法の「履行ヲ提供スルマデ」と言うと異なって居る。普通法時代の学説については Andre, Einrede des nicht erfullten Vertrages(1890), S.140 以下。

　（１８）拙著、日本債権法各論１３２頁、同、総論増訂版１３８頁及び同所引用の判例学説。反対、石坂氏、研究３巻４９０頁。

　（１９）大正１０年１１月９日大判、民録２７集１９０７頁、その評釈、我妻氏、判例民法大正１０年度５４３頁。この判決以前の判例は我妻氏の評釈に載せてある。

　　　

第１項 履行遅滞

１　履行遅滞即ち債務者遅滞の要件については信義誠実の原則によって民法の規定を補充する必要がある。履行遅滞の要件を規定している民法の条文は第４１２条と第４１９条とだけである。この他第４１５条及び第５４１条も履行遅滞に関係ある規定ではあるが、その要件についてはこの後の２条文によっては知り得る所は無い。しかしてこれらの規定だけでは履行遅滞の全部を明にすることが出来ぬので信義の原則でこれを補充する必要がある。今その理由を述べてみたい。

　第４１２条は履行遅滞の要件を規定しているものではあるが、唯期限と履行遅滞との関係を規定するに止まるものであるから、これを以て履行遅滞の全部の要件を規定したるものと解することは出来ぬ。第４１９条は金銭債務の不履行を規定するものであって、この種の債務について債務者は不可抗力を以て抗弁と為し得るものなることを推論し得る。しかしこの推論は所謂反対解釈であるからその解釈の結果が一般原則に復帰するものなることを明にしてのみ初めて是認し得らるる所である。履行遅滞に過失を要するや否やが解釈上の一疑問たることは今更述ぶるまでもない所だがこの疑問は法典の字句のみによって解決し得ざること上に述べた通である。この点について私は今尚もとの如く債務者は無過失なりしことを証明して遅滞の責任を免れ得るものと信ずる。私はこの解釈を採る理由として、(イ)過失なくば責任なしということが我民法の原則なること、(ロ)理論上この点について履行遅滞と履行不能との間に区別を設くる理由なきこと及び(ハ)金銭債務に関する第４１９条第２項によれば一般の債務については債務者は不可抗力を以て抗弁と為し得るものと解すべきことの３個の点を挙げた。即ち第４１９条の反対解釈が過失責任主義という我民法の原則に復帰せしむるものなることを理由としたのである(１)。私はこの理由の外に不可抗力の抗弁を認むることが信義誠実の原則に適するものであるという理由を附加したい。債権は信義誠実の原則の上に立つものであるから債権者は債務者に対して必ず給付の内容を実現すべきことを要求し得るのではなくして誠意を以てその実現に努力すべきことを要求し得るに過ぎない。さればこそ給付の不能が債務者の責めに帰すべからざる事由に基いたときは債務者に損害賠償責任が無いのである。債務者が履行を遅延したる場合においてもその理は同一で無ければならぬ。債権者は債務者に対し期限までに給付を為すべく誠意ある努力を為すべきことを要求し得るに過ぎぬ。もし債務者が不可抗力に因って履行を遅延したることを証明したるときは、債務者に義務違反なく即ち履行遅滞とならざるものと解すべきである。

２　履行遅滞の効果について信義の原則の適用あるべきことは余が嘗てより述べた所であって今更にこれを述ぶる必要を見ない。即ち遅滞の結果債権者が直ちに所謂履行を拒絶して履行に代るべき損害賠償即ち所謂填補賠償を請求し得るや否やにつき、余は原則としては債権者この権利を有するも、契約の性質又は当事者の意思表示によりてこの権利なきものと認むべき場合及びこの権利を行使することが信義の原則に反する場合においては例外としてこの権利なしと述べたのである（２）。この点について大正７年４月２日の大審院判決(民録２４集６１５頁)は商人間の米の売買に関し遅滞後１箇月以上の期間を経過してから履行に代わるべき損害賠償を請求したる事件に対し契約を解除してからでなくてはこの損害賠償を請求し得ざるものと判決している。これは商人間の売買においては専売によって利益を得ることを目的とするものであるから履行期に贈れて給付を受くるも尚契約を為したる目的を達し得るということを理由とするものである。しかし信義の原則によって填補賠償請求権の有無を決定すべしという私の見解から言えば今少し具体的の事情を審査して問題を決定すべきである。履行期日以後１箇月以上を経過していること、売主は履行提供を為したる事実なきことの如きは寧ろ填補賠償請求権を認むることが信義の原則に適するものなることを認めしむる事情であろう。私は裁判所が今少しく親切に具体的事情を審査してこの頻繁に起る問題を決定して欲しいと思う。原審即ち東京控訴院の判決が原告を勝たしている点から見ても、具体的事件は原告に填補賠償請求権を認むることが信義の原則に適するものではなかったかと思はしむるのである。

（１）　拙著、日本債権法総論増訂版１３７頁以下。

（２）　拙著、日本債権法総論１２０頁、増訂版１３９頁。

第２項 受領遅滞

１　受領遅滞即ち債権者遅滞の要件たる履行の提供について信義誠実の原則を考慮することが必要であることは既に本節第１項において述べた所であるが、受領遅滞の効果についてもまたこの原則の適用を考慮する必要がある。この受領遅滞の問題について私は嘗て債権者遅滞と題して論じたことがあるが、その後説を改めた点があるので問題となるべき論点だけを簡単に述べて見たい。

２　債権者遅滞の効果として債務者の責任の軽減を生ずるや否や我民法の解釈上議論あること嘗て述べたるが如くである。この点について余は従来立法論としては責任の軽減を認むるを正当とするも解釈論としては責任の軽減を認むることを得ずと解して居った。その理由は、(イ)責任の軽減を認むる規定なきこと、(ロ)第４００条において善良なる管理者の注意を要求する民法の規定が原則規定で、第６５９条において自己の財産におけると同一の注意を以て足るものとする規定が例外規定であるというの２点であった。しかし今は解釈論としても責任の軽減を認むることが適当であると思う。責任の軽減を認むる直接の規定が無いということは債権者遅滞の効果については有力なる解釈上の理由ではあるまい。けだし債権法は信義の原則によって補充すべきものである上に殊に債権者遅滞の効果については、第４１３条に唯「遅滞ノ責ニ任ス」と規定するに止まりその責任の内容を規定して居らぬ関係上殊に信義の原則によって補充すべき理由が強いからである。しかして信義の原則によってこの問題を解決するならばローマ法以来一般の立法例に同じく責任の軽減を認むることが正当である。債務者は既に履行の提供を為し債務の消滅せざるは受領拒絶又は受領不能という債権者側に存する理由のみに因るに拘わらず履行提供以前と同一の注意義務を認め、いやしくも善良なる管理者の注意を無くさざれば損害賠償の責に任ぜしむることは公平の原則に適するものと言うことを得ぬ。

　第４００条が原則法規であって第６５９条が例外法規であるということも有力なる解釈上の理由ではあるまい。けだし牧野博士も既に論ぜられたるが如く、例外法規であるからその適用範囲を狭く解せねばならぬということは、概念法学的の解釈論であって、例外法規といえどもその立法理由を研究してその適用範囲を決定すべきである(１)。第６５９条において無償寄託における受寄者の責任を軽減し、有償寄託におけるが如く善良なる管理者の注意を必要とせざるものと規定したることは、報酬を与えずに託けたのであるから寄託者は報酬を与うる場合と同一程度の注意を要求することは出来ぬ、受寄者の方面から言っても無料で託かるのであるから、自分の物と同様に取扱えばそれで宜しいということを立法理由とするものである。然らば保管義務が寄託契約で生ずる場合でなく、他の契約または直接に法律の規定によって生ずる場合においてもその保管について直接または間接の報酬または対象の無い場合には全く同一の立法理由が存在するのであるから、第６５９条を類推適用して、自己の財産におけると同一の注意を加うるを以て足るものと解すべきである。例えば自己の意思に基かずして自己の所持内に入った他人の所有物を保管するについては上述の注意を用うるを以て足るものと解するを正当とする。債権者遅滞以後債務者が給付の目的物を保管するについても同様である。もし債務者が受領遅滞以後の保管について保管料を請求し得る契約が存在しているならば、例えば有償寄託において返還の時まで期間に応じて保管料を請求し得るという特約がある場合には、債務者は善良なる管理者の注意を以て物を保管すべきであるが、これに反して受領遅滞以後の物の保管について債務者が直接にも間接にも何等報酬を受けざる場合には唯無償受寄者と同一の注意を以て物を保管するを以て足るものと解すべきである。

　これを要するに信義誠実の原則によってこの問題を解決するときは無償寄託に関する第６５９条を類推適用し、その類推適用を許すべき場合には受領遅滞以後債務者の責任の軽減を認むべきである。

３　受領遅滞は約定利息の発生を停むるかという問題について、私は従来消極説を採ったが今は改めて積極説を採る（２）。積極説を採った理由は３つあった。(イ)受領遅滞の前後において債務はその性質を変ぜざるものであるから何等の規定なくば依然利息を生ずべきものと解するが正当である。(ロ)公平の原則上利息を停むることを正当とするとしても公平の原則を採るが為には法典に何等か根拠がなければならぬ。(ハ)公平の原則から言っても債務者は受領遅滞以後も元本を利用し得るものであるから利息を支払はしめても不当ではない。しかしこれら３個の理由共に有力なものではなかった。

　(イ)受領遅滞の前後において債務の性質に変更なしということは依然約定利息を生ずるという結論を生じない。無利息債務であったものが履行遅滞以後遅延利息債務を生じても尚同一債務たることを失わぬと同じく、利息債務だったものが受領遅滞以後利息の発生を停止しても尚同一債務たることを失わぬは明である。

　(ロ)公平の原則または信義誠実の原則を採用するが為に法典上の根拠を必要としたことは余りに法典に囚われた議論であった。

　(ハ)約定利息を支払はしむるも不公平にあらずと言ったことも妥当を欠いている。受領遅滞は債権者が受領の準備をして履行を催告すると何時でも終了すべきものであるから債務者は安心して元本の利用を為すことは出来ない。かかる不安心なる元本利用の機会あるが為に消費貸借期間の継続中と同一の約定利息を支払はしむることは約定利率が法定の制限内において有効なることと併せて考うるならば著しく不当である。

　受領遅滞以後にも約定利息を支払うことを要するや否やの問題については場合を分つて考うる必要がある。即ち当事者間にこの点に関する特約ある場合とこの如き特約なき場合とをまず分けて考えねばならぬ。当事者が現に元本を返還するまではたとえ受領遅滞以後といえども約定利息を支払うべきことを特約した場合には勿論その特約に従うべきで、何等問題を生ずるの余地は無い。問題は唯何等の特約無き場合にのみ生ずるのである。受領遅滞の場合までを予想して特約をするというようなことは実際上稀有であろうが法律論としてはこの場合をも考える必要がある。

　受領遅滞以後約定利息を支払うべきや否やについて特約なき場合も更に消費貸借の種類によって分類して考えねばならぬ。

　（１）　消費貸借に返還時期の定ある場合　　この場合に借主が履行期において履行の提供を為したならば以後利息を支払うことを要せざるは明である。この場合においては敢えて信義誠実の原則を適用する必要はない。けだし期限到来後に利息を支払うものとすれば、それが遅延利息たることは第４１９条第１項によって明でありしかして受領遅滞後遅延利息を支払うことを要せざるは第４９２条によって明なるが故である。

　消費貸借に返還期限の定あるとき借主が期限前に弁済の提供を為し貸主がその受領を拒絶したる場合はどうであるか。これはかくの如き履行の提供によって受領遅滞を生ずるや否やの点が第５９１条第２項の解釈上問題となるのである。私のように第５９１条第２項に「借主ハ何時ニテモ返還ヲ為スコトヲ得」という規定が同条第１項と同じく返還時期の定なき消費貸借のみに関するものと解するならば期限前の弁済提供は同条によっては債務の本旨に従った提供にあらずまた利息付消費貸借において期限は債務者のみの利益の為に定めらるるものではないから第１３６条によっても有効なる弁済提供と解することを得ず、従ってその受領を拒絶するも受領遅滞を生ぜず従ってまた依然約定利息の支払を請求するに支障とならざるものと解すべきである（３）。

　（２）　消費貸借に返還期限の定なき場合　　この場合については第５９１条の適用あることは勿論である。そしてもしその第１項が規定しているように債権者が相当の期間を定めて返還の催告を為した場合には問題を生ずるの余地なきこと返還期限の定ある場合と同一である。即ち貸主の請求に対して借主が弁済の提供を為し貸主が何等かの都合で受領することが出来ずまたは受領を拒絶した場合にも以後利息を生ずるや否やは唯遅延利息についてのみ問題となること第４１２条第３項と第５９１条との関係上明であるから、以後約定利息を生ぜざるは勿論である。

　返還期限の定なきとき債務者は利息付消費貸借であっても「何時ニテモ返還ヲ為スコトヲ得」る。この場合に債権者が突然に返されては困ると言って受領しないとかその他の理由で受領遅滞を生じたとき借主は最早約定利息を支払わないで宜しいか。この場合だけが本モンにおいて問題となるのである。借主は一定の利息を支払うことを訳して金を借りている。その契約には現に金を債権者の手に返すまで利息を支払うということは明記していないがまた何時まで利息を支払うということも特約してはいない。貸主は或は１年位その利息で金を貸して置けると思ったかも知れぬ。ところが借主は突然金を手に入れたか半年程で返して来た。貸主はそれでは困るから今は受取らぬと云う。借主は自分が供託するか或は貸主が受取るまで尚約定利息を支払わねばならぬか。私はこの場合について従来は尚利息を支払わねばならぬものと解して居ったのだが、それでは信義誠実の原則に反するしまた第５９１条の精神にも反するものと考えるので、約定利息の発生を停むるという説に改めたのである。貸主が実際１年間その利息で金を貸して置きたかったのならば１年を期間とする消費貸借をすれば宜しかったのである。然るに無期限の契約をして置きながら弁済の受領拒絶をすることによって、民法第５９１条の認むる借主の利息を実際上無効ならしむるということは信義の原則上許さるべきではないと思う。

４　債権者遅滞以後当事者の責に帰すべからず事由に因って履行不能を生じた場合には第５３６条第２項に謂う所の債権者の責に帰すべき事由に因りて履行を為すこと能はざるに至りたるときというに該当するか。この点に関しても余は従来の見解を改めて多数説に従った。このことは債権法各論の増訂版に述べたのであるが、そこに述べた所は極めて簡単であるから、ここに少し詳改説の理由を述ぶることを許されたい（４）。

　余が従来必ずしも債権者の責めに帰すべき事由に基くものと解することを得ずと解したについては二つの理由があった。(イ)責に帰すべき事由と我民法において謂うは故意または過失に基く事由を謂うのである。然るに債権者遅滞は受領拒絶または受領不能について債権者に故意または過失ありしことを要件とせざるものであるから債権者遅滞以後不可抗力に因って生じたる履行不能を全て債権者の責に帰すべき事由に基けるものと言うことを得ぬ。宜しく受領遅滞が試験者の故意または過失に基ける場合と然らざる場合とを区別しその故意または過失に基ける場合においてのみ以後生じたる不可抗力に因る履行不能を債権者の責に帰すべき事由に因る履行不能と解すべきである。(ロ)債務者の履行遅滞以後履行不能を生じたる場合とこの場合とを同一視するは誤である。履行遅滞は過失を要件とするが、受領遅滞はこれを要件とせぬ。

　右の２個の理由中第二の理由は正当ではあるが唯反対論の理由の一を攻撃するのみでもしその他に有力なる反対論の理由があるならば問題を決定すべき標準とはならぬ。要は積極論に有力なる理由があるかどうかで決定されねばならぬ。

　理由の第一として私の嘗て述べた所は責に帰すべき事由ということを常に主観的に責むべき事由即ち故意または過失ある事由と解すべきものとしたのであった。しかしそれは責に帰すべき事由という法典の字句に囚われた解釈であって同じ字句であっても債権者の場合と債務者の場合と、それぞれ立法理由と信義の原則とを考えて意義を決定すべきである。

　法文の字句から言えば寧ろ積極論に有利である。債権者遅滞を規定する第４１３条は債権者は遅滞の責に任ずと規定している。従って受領遅滞以後遅滞を原因として生じたる損失、詳しく言えば履行の終了せざりしことに因る危険は債権者の負担するものと解することが法文上穏当なる解釈である。たとえそのソ損失の負担は積極的損害賠償の責任を包含せずとしても、弁済の受領無かりし為以後当事者の責に帰すべからず事由に因って履行不能と為った場合に反対給付の請求権が消滅するや否やの問題については、自ら履行提供を為したる債務者に損失を蒙らしめざることが正当である。信義誠実の原則によって第４１３条と第５３６条第２項とを解するとき私は自らの不受領に因って自ら受領し得べき給付の履行不能を生ぜしめたる債権者は、これを理由として自ら支払うべき反対給付の義務を免るべきものではなかろうと思う。

　要するに私は信義の原則という見地から第４１３条と第５３６条第２項との立法理由及びその適用範囲を考えて見た。そして私の従来の考えが余りに責めに帰すべき事由という字句に因えられたことを考うるに至ったのである。

５　債権者遅滞の効果として債務者が給付の目的物を遺棄(derelictio)し得るや否やについて私は嘗て羅馬法以来の沿革と独逸民法の規定(３０３条)を述べ、我民法についてはこれを認むることを得ずと言うに止めたのであるが（５）、保管義務について述べた所はこの点についても適用あることを一言して置きたい。即ち受領遅滞以後債務者は自己の財産におけると同一の注意を以て物を保管するを以て足るものであるから、空地の如く保管の為に多大の費用を要しかつ保管者を置かざるも損害を生ずるの危険少なき物についてはたとえ保管者無かりしが為に損害を防止することを得ず為に損害を生ずるも損害賠償義務無きものと解するを正当と考える。この点については従来述べた所を改むるのではないが、多少不十分であったと考えるのでここに補充して置き度い。

６　債権者遅滞のその他の効果については信義の原則から考えても従来述べた所に多く補充するの必要を見ぬ。

　増加費用を債務者が請求し得るや否やについて余は従来積極説を採って置いたのであるがこれは信義誠実の原則から考えれば益々当然のことと言わねばならぬ。債務者が弁済の提供を為したるに拘わらず債権者が受取らぬ為に弁済費用を増しまたは保管費用を必要とするに至ったときその増加した費用を債務者の負担とすることが信義の原則に反することは言わずして明であろう。

　債権者遅滞にある双務契約の当事者が同時履行の抗弁権を有するか或は第二回に債務者が履行の提供を為さずして反対給付を請求したる場合に債権者は履行提供なきことを理由として自己の為すべき債務の履行を拒絶し得べきかについて解釈上議論あることは嘗て述べた所である（６）。余は今尚旧の如く受領遅滞にある双務契約の当事者は同時履行の抗弁権を有せざるおのと確信するものであるが債務者の履行請求もまた信義に反してはならぬと思う。即ち債務者は敢えて言語上の提供に必要なる履行準備を為したる後相手方の債務の履行を請求するを必要とはしないが、事故の債務について容易に履行を為し難き事情を生じたるに拘わらずその故障を排除せずして相手方に対して履行を請求したるときは相手方はその点を理由として同時履行の抗弁権を行使し得るものと思う。同時履行の抗弁権は殊に公平の原則の上に立つものであるから、具体的場合にこれを認むる信義に適するや否やは特に考慮せらるべきである。判例が今尚受領遅滞にある当事者に常に同時履行の抗弁権を認めていることは余の深く遺憾とする所である。

　債務者が債務の不履行により生ずべき一切の責任を免るること(４９２条)及び供託を為し得ること(４９４条)については嘗て述べたる所に何等附加すべき必要を見ない。受領遅滞のみを理由としては契約解除権を生ぜざることもまた同様である。債権者に損害賠償義務を生ずるや否やの問題は不受領について債権者に過失のあった場合に特に考慮の必要ある所ではあるが、法律の規定には賠償義務を認むべき根拠なく、また義務違反なきに拘わらず賠償義務を認むるは解釈論として頗る困難ではなかろうかと思う。信義の原則からこの問題を更に考慮しても契約の趣旨によって受領義務を認め得る場合を除外して考うるならば、上に述べた増加費用の請求権、危険の移転及び責任の軽減を認むることによって信義誠実の要求に適応し得るのではなかろうかと思う。損害賠償義務を認むる学者が近頃増加したように聞くのであるが私は信義誠実というかなり自由な立場からこの問題を考えてみてもそれまでを認むる理由なきものと考うる者である。

（１）牧野英一氏「自由法論の理論的及び実証的義務について」志林２５巻３号１頁以下、特に１３頁以下、同氏「例外法規と法律の進歩」法律新聞大正１２年１月１日第２０６９号、拙著、日本債権法総論増訂版１８０頁。

（２）拙稿「債権者ノ遅滞」[本書１８４頁以下]、拙著、日本債権法総論１５４頁、同書増訂版１８０頁。

（３）拙著、増訂日本債権法各論４２５頁。

（４）拙著、増訂日本債権法各論１３５頁。余の旧説に付ては日本債権法各論１４５頁、本書１９６頁以下。

（５）本書９８頁。

（６）拙著、増訂日本債権法各論１１９頁以下、及び同書１２０頁(註１１)引用判例及び諸著参照

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

第１節 　債権関係終了後に於ける此原則の適用

１　一概に債権関係と言ってもそれには種々の種類、種々の階梯がある。唯一回の給付を以て終了してシマウ債権関係もある。借りた金を返したとか、買った物品を引渡したとかいうが如き場合はこれに属する。また回帰的に数回の給付を為すべき債権関係もある。所謂遂次供給契約及び継続供給契約がそれえある。更にまた一定の継続的法律関係を当事者間に成立せしむる債権契約がある。不動産の賃貸借及び雇用はその典型的なるものである(１)。債権関係終了後において信義則の適用ありや否やの問題は主としてこの最後の継続的債権契約について生ずるものであるが、順序としてまず一時的債権契約から述べよう。

２　一時的債権契約なるか継続的債権契約なるかは契約の種類によって定まることが多い。例えば売買、交換等は通常一時的債権契約であって、賃貸借、雇用、委任、組合の如きは通常継続的債権契約である。しかしこれまた一概に契約の種類のみによって一率に断ずることは出来ぬ。売買またはこれに準ずる契約であっても唯一回または数回財産権を移転するのではなくして、回帰的または継続的に一定の財貨を供給することを目的とするときは当事者間に継続的法律関係を生ずるものと言わねばならぬ。例えば一定期間または不定期間内の瓦斯或は電気の供給契約の如きものがある。また委任は通常継続的関係を作るものであるがまた一個の法律行為のみを為すことを目的とすることもあり、雇用もまた一回の労務を目的とすることもあり、組合も一個の共同の仕事のみを目的とすることあり、賃貸借といえども動産の賃貸借には極めて一時的なるものもあり得る。であるから一時的債権契約に関する法則と継続的債権契約に関する法則とが如何に各個の具体的契約に適用せらるべきかを決定するについてはあながち契約の種類のみによることは出来ぬのであって、信義則に従って各個の契約の目的を考量することが必要である。

３　一時的債権契約の終了以後において信義則によって終了後の法律関係を決定すべき必要は絶無ではなかろうと思う。それは給付不能に因って債権の終了したる場合である。給付不能で債務が消滅したる場合に債務者はその給付不能となったという事実を債権者に通知する義務を負うものであるか。債務者の責に帰すべき事由に因って給付不能を生じたときには通知義務を認めてもこれを認めなくても結果において別に差異は無い。何となれば給付不能を通知せざるが為に債権者に損害を生じたるときはその損害は債務不履行に因って生じたる損害の一部としてその賠償を請求し得べきこと言を俟たぬが故である。これに反して債務者の責に帰すべからざる事由に因って給付不能を生じたる場合には債務不履行にはならず従って一般に債務者に損害賠償義務が無いのであるから、給付不能の事実を債権者に通知せざるが為債権者に損害を生じたる場合にその損害を賠償することを要するや否やの問題は一に通知義務の有無によって決定せらるるのである。

この問題については我民法にも独逸民法にも直接の規定は無いが独逸民法について多数の学者は信義に基いて通知義務を認むべきものとし（２）我民法について石坂博士は他の場合に通知義務を認めた法律の規定の類推適用と信義則とに基いてこの場合にも通知義務ありと解している（３）。私は信義則のみに基いて通知義務を認むるを正当と信ずる。他の場合に通知義務を認めたる法律の規定を類推適用するということも理由の一に加うべきようであるが、これを理由とするときは後に述ぶる債権者に通知義務ありや否やの問題を解決するに当って困難を生ずるのみならず他の場合と尚趣を異にしているので類推適用という理由は避け度いと思う。他の場合に法律が通知義務を認めた場合は頗る多い。債権譲渡の通知（４６７条）、連帯債務者の一人の免責行為の通知（４４３条）、保証債務における免責行為の通知（４６３条）、供託の通知（４９５条３項）、承諾延着の通知（５２２条）、申込取消の延着の通知（５２７条）、買主及び贈与者の瑕疵欠缺の通知（５５１条、５７２条）、売主に対する共有物分割及び競売の通知（５８４条但書）、賃借物について賃借人の為すべき通知（６１５条）、委任事務処理の報告（６４５条）、委任終了の通知（６５５条）、寄託物に関する受寄者の通知（６６０条）、事務管理開始の通知（６９９条）、債権質設定の通知（３６４条）、抵当権処分の通知（３７６条）、抵当権実行の通知（３８１条）、後見人の報告（９２８条〔現行８６３条なるも実質的変更を受く〕）等であるが、これ等の場合を通じて「立法上ノ理由トスル所ハ通知受領者ヲシテ通知ニ依リ予メ其将来ノ処置ヲ決スルカ為必要ナル知識ヲ興フルニ在リ」という石坂博士の解釈は成程正当であるとしても、これ等の通知義務を認めた法律関係は種々異なって居りその義務違反の効果もまた同一でないからその類推適用ということはやや困難ではあるまいかと思う。殊に債務について債務者の責に帰すべからざる事由に因る給付不能が生じたる場合は独逸では第２７５条の規定に依りまた我民法においては第４１５条の反面解釈によって債務関係は消滅するのであるから、問題は通知という関係だけについて尚債務関係の存続を認むべきかということになるのであって、これを当事者間に法律関係が存在しているが為に通知義務を認めたる場合と同一視することはやや無理ではなかろうかと思う。

私は信義則だけを理由として通知義務を認め得ると思う。独逸のハムブルヒの裁判所で問題となった事件で学者の度々引用する例であるが、甲が乙汽船会社と特定の船に８月２日に乗船する契約を締結している場合に、その船が難波したことの通知を汽船会社は８月１日に受取ったのにこれを乙に通知しなかった為に乙は他の船に乗るべき機会を失った。この如き場合に汽車会社がその旨を甲に通知すべきことは独逸の裁判所が言うが如く取引上の信義の要求する所と言わねばならぬ。また受託者が類焼で焼失したとか売買の目的物、質物などが不可抗力で焼失したとかいう場合にもその焼失の旨を通知しないで宜しい、黙って居ても差支えないということは取引上の信義に反するものと言わねばならぬ。勿論通知を怠っても目的物の価格そのものを賠償すべき義務を生ずるのではないが通知を怠った為に他の物を買う機会を失ったとか他の汽船を求むる時機を失したとかいう為に生じた損害だけは賠償せねばならぬ。元来債務者は給付を為して債権者に利益を享受せしむることに努力すべき義務を負うものであるイから給付の物体について意外の状態を生じたときはそれを債権者に通知する義務を負うものと言わねばならぬ。これが例えば賃借物について修繕の必要を生じ或は第三者が権利を主張したる場合には遅滞なくこれを賃貸人に通知することを要するものとした立法の理由であって、同様の規定は売買の場合には無いが同様に解すべきでありまた一部破損したのでなくして全部焼失して給付不能となった場合にも同様に解すべきである。

４　債権が債務者の給付意外の原因で消滅した場合に債権者はその旨を債務者に通知する義務があるか。クラインが挙げている例によれば甲が乙の建物を取毀つべき請負契約を為して乙はその建物の近隣に住んで居り債務者甲は一里余りを隔てて住んで居った。この時に偶然落雷の為その建物が焼失して取毀つことは不必要になりかつ不能になった。債権者乙はその旨を甲に通知する義務を負うか。クラインは信義則を理由として通知義務ありとしまた同一理由で債権者が連帯債務者の一人に対してまず履行の請求を為し後意を変じて他の債務者に請求をした場合には第一の債務者にその変更の通知をせねばならぬと言っている（Klein 上掲）。石坂博士は債権者に通知義務を認むる理由なしとし唯双務契約にあっては債権者は同時に債務者たるが故に債務者に通知義務を認むると同一の理由に因って債権者に通知義務を認め得るものと論じ、しかして双務契約以外の契約より生じたる債権については債務者に対する権利を行使するについて債権者に注意義務を認むることは理論上不当であるから民法第４５５条において債権者が保証人に対し、主たる債務者に対する権利を行使するについて注意義務を認めたのは理論上正当にあらずと論じている（石坂氏、前掲論文）。

石坂博士の右の議論は債権者は債権を行使する義務を負わずということをその点とし従って債権者は債権の行使に関し何等の義務をも負うべき理由なしという結論に達しているものであるが余はそれに賛成することが出来ぬ。債権は権利なり義務にあらずということは唯債権者が債権を行使しなくても宜しい、行使すべく強要せらるることが無いというだけであって、これを行使する場合に相当の注意を用うべきこと、信義に反すべからざることの如き制限を加えても債権のこの性質に反するものとは思われぬ。信義の原則は既に述べたように債権者にも債務者にも同様に適用せらるべきであって、このことが債権者と債務者の平等待遇の趣旨に適するものであるから私は債務者が給付不能の場合に通知義務を負うと同一の理由で給付不能以外の理由で債務者が給付を為すの要なきに至ったことを債権者が先に知った場合には債務者にこれを通知する義務ありと解する。

５　継続的契約の終了後信義則によって当事者間の法律関係を整理するの必要は昨年の大震火災以後所謂焼跡のバラック問題として社会の視聴を惹いた。私は当時「大災後の私法問題」と題して東京日日新聞（１２年９月２６日以降）及び大阪毎日新聞に一小論文を掲載し、後にこの論文は牧野博士、花岡博士及び寺田学士の論文と共に「災後の法律問題」と題して出版されているがその点についても少しく補充する必要があるから継続的契約一般について述ぶるに際しこの点にも触るることを許されたい。

（１）　継続的契約の終了後における法律関係について明に法律に規定あるものは委任に関する第６５４条である。この規定は所謂応急処分を為す義務を認めた規定で即ち委任終了の場合において急迫の事情あるときは受任者、その相続人または法定代理人は委任者、その相続人または法定代理人が委任事務を処理することを得るに至るまで必要なる処分を為すことを要するものとしたのである。次条(６５５条)で委任終了の事由はその委任者に出でたると受任者に出でたるとを問わずこれを相手方に通知しまたは相手方がこれを知りたるときに非ざればこれを以てその相手方に対抗することを得ないのだがその対抗要件を具えた後においても尚第６５４条は適用があるのであるから民法は契約がその終了の対抗要件を具えた後においても尚応急処分を為すべき債務関係を認めたるものと解せねばならぬ。この規定について２個の問題を述べて見たい。その一は委任が有償委任なりしとき応急処分を為した受任者は報酬を請求し得るや否やの問題で、そのニはこの規定を他の継続的契約に類推適用すべきや否やの問題である。

(イ)報酬問題について独逸民法(６７２条、６７３条)は委任がその範囲において尚存続するものと見做す(der Auftraggilt insoweit als fortbestehend)と言っているから問題を生ずる余地は無いが、我民法は唯「必要ナル処分ヲ為スコトヲ要ス」と言うのみであるから解釈上疑問たるを免れぬ。余は嘗て「我民法ハ只応急処分ヲ為スベキ義務ヲ認メタルニ過ギザル故ニ事務管理ニ関スル規定ノ類推適用ニヨリ費用償還請求権ノミヲ認ムルヲ正当トスベシ」と述べたのであるが今回債権各論の増訂版ではこれを改めて積極説を採った（４）。先に消極説を採った理由はこの規定を以て本来義務なかるべきに拘らず法律の規定によってこの義務を認めたのであるから法律の規定する範囲内においてのみその法律効果を認むべしとし、しかして法律がこの義務を認めた趣旨は事務管理における管理継続義務(７００条)と同一だから事務管理の規定を類推適用して費用償還義務のみを認むべしと言ったのである。然るに更に考えて見るとこれは例外規定であって本来義務無かるべき所に法律が特に義務を定めたという見方よりも継続的契約の終了原因が発生した場合に突然に総ての関係が断絶して仕舞うものではなく当然後始末をすべきであって従ってこの規定は信義則上当然であり継続契約の性質上当然である事項を注意的に規定したものであるという考方の方が正当であると考うるに至った。これ増訂版においては「信義ノ原則上(独逸法と)同一ニ解スルヲ正当トスベシ」と言った所以である。思うに組織的の法律関係については所謂前生(Vorleben)と後生(Nachleben)とを認むべきである。解散後の法人は法人の後生で設立経過中の法人はその前生であるように、継続的契約も一の組織的法律関係であり一の継続生活関係を樹立するものであるからその終了原因はこれを終了せしむべき原因で直ちに絶対的に終了せしむる事由にはあらざるものと解することがこの種の法律関係の性質に適するものと思う。或は事務管理において管理継続義務を認めたる第７００条の規定とこの規定とが法文の字句において極めて類似しているが為にこの規定もまた事務管理以上の義務を認めたるものと解する理由もあるようであるがそしてまた突然の終了で本人に損失を及ぼしてならないという点で法立理由も類似しているのではあるが、しかし両者の間に義務の性質について差異あることを見逃してはならない。事務管理は本来管理すべき義務なくして管理を開始したものであるからその継続義務もまた事務管理上の義務たること明であるが、委任の場合の事務処理の有無は委任契約に因って生じたものであるからその終了後における処理継続の義務を事務管理の義務に外ならぬものと解するは正当ではないと思う。また結果から考えても応急処理によって本人は利益を受くること委任契約存続中と同一であるからその範囲において報酬支払義務を認むることは信義、公平に適するものと言わねばならぬ。

(ロ)この規定を他の継続的契約終了の場合に類推適用すべきや否やの問題については上に述べた所によって余が如何なる見解を有するか明であろうと思う。応急処分を為すことが継続的契約の性質上当然であってまた信義則上正当であるならば他の継続的契約についてもこの規定を類推適用すべきである。

この点について判例上問題となったのは雇用契約終了後引継ぐべき義務がある場合に引継前占有物を不正に横領する行為が業務上横領罪を構成するや否やの点である。大正１１年８月３日の大審院刑事部判決がこれを肯定しているのは平野学士の評釈に言うが如く雇用契約終了後尚業務の継続を認むるということが根底にあるのでなければならぬ（５）。そうでなくば業務上の横領と認むる理由はない。もし委任について債権契約の一部残留を認むる理由が委任が当事者間の特に信用を基礎とする特質に基くものと見るならば雇用について委任に関する規定の類推適用によって同様の結果を認むることを得ないであろう。しかし委任終了後応急処分を為すべき人は受任者のみではなくその相続人または法定代理人をもこれに加えていることから考うれば個人的信用関係ということが立法上の理由なりと解するを正当と信ずる。然らば同じく継続的法律関係を生ずる雇用についても同様の義務を認むべきである。しかしてこの場合にも応急処分を為すべき範囲においては報酬請求権の存続を認むべきこと言を俟たぬであろう。

（２） 賃貸借終了の際における信義則の適用については２つの問題を考うる必要がある。その一は新貸借の期間満了の後賃借人が賃借物を占有することは不法占拠となるや否やの問題である。その二は上に一言したる焼跡のバラック問題である。

（イ）賃貸借が終了して賃借人が賃借物を占拠すべき権限なきに至りたるに拘らず尚これを占拠すれば不法占拠として不法行為となることは大正７年５月１８日の大審院連合部判決の決した所である(民録２４号９７６頁)。この判決に対し平野博士は継続的債権契約の特質上大に疑われねばならぬものとし即ち既に成立していた長い継続関係を整理する為、或は借地上の家屋を取扱い、借家内の家財を取片付ける為収去明渡の期間(Raumungsfrist)が少なくとも設けられて然るべきであると論じている(志林前掲２５巻４号４９頁)。その意は立法論として適当なる収去明渡の期間を設くることが正当なりというに在るか或は現行法の解釈論としてもこれを認むべしというにあるかやや明でないが論者の意は恐らく後者にあることと思う。もし然りとせば私はそれに賛成するを躊躇せざるものである。民法及び賃借法、借家法の条文によれば期間の満了に因って賃貸借が終了してもその終了は絶対的なものではなく、賃借人が賃借物の使用収益を継続し賃貸人がこれに対して異議を申述べなかったときは賃貸借は尚継続せるものと見るのである(民６１９条、借地法６条、借家法２条)。それによって見るならば賃貸人が異議を述ぶるまで賃貸借継続の目的を以て賃借物を占有することは決して法律の禁止する所ではなく、寧ろ賃借人は賃貸借終了の後と雖も賃貸借継続の為には適法に尚継続してその物を占有し得べきことを認めたるものと言わねばならぬ。然るに適法なる目的を以て賃借物の占有を継続したる賃借人の行為が賃貸人の異議ありたるが為に初より不法行為となり不法占拠となることは到底是認すべからざることと言わねばならぬ。しかしながらまた賃貸借終了後継続して賃借物を占有する賃借人の行為を以て総て皆適法なるものと言うことも出来ぬ。悪借地人、悪借家人が容易に土地または建物を引渡さざるが為に善良なる賃貸人が苦しめらるることは顕著なる事実であるから賃貸借終了後賃借人が賃借物を占有することを以て常に不法占拠とならざるものと解するもまた不当である。故に私は賃貸借契約の継続的契約たる性質に基いて、その終了後においても各当事者は互に信義則に従って契約関係を整理する権利と義務とを有するものとし従って終了後賃貸借を継続する目的を以て賃借物を占有するは不法占拠とならぬが、その占有に対して賃貸人が異議を述べたときはその以後の占有は原則として不法占拠なるものと解する。但この最後の場合においても賃貸人は各個の場合に応じて相当なる収去明渡の期間はこれを許容せねばならぬ。

大審院は賃貸借終了後の賃借物占有を以て不法占拠とせざるときは賃貸人が賃金を請求し得るの理由を発見するに苦しむものと考うるようである。即ち不法占拠なるが故に不法行為として損害賠償義務あるものとしその賠償範囲は反証なき限り従来の賃料を標準としてこれを定むべきものとしている（６）。しかし賃貸借終了後の賃借物の占有を以て直ちに不法占拠となるものと解せずとするもその不法占拠となるまでの法律関係を賃貸借関係の存続と見ることは上に述べた民法第６１９条等の規定によって寧ろ当然というべきであるから之を適法と認めたるが為に賃金債務を認むる点において不都合を生じるおそれはないと信ずる。

(ロ)目的物の滅失に因って賃貸借が終了したる場合について、殊に大震火災後の焼跡のバラック問題について私が嘗て述べた所は、要するに権利濫用の観念によってこの問題を解決しようというのであった。これはもとより信義誠実の原則に従って賃貸借終了後の法律関係を整理すべしという基礎観念に基くものであったが、説明が少しく簡に失したるが為に既にバラックを建築したる場合における法律関係、即ち既に建ててしまったものを撤去せしむる権利の濫用問題のみを取扱ったので、将来バラックを建てんとして地主に交渉をする場合の法律関係を説明しなかったというように解せられたようである。しかし私の真意とする所は賃貸借終了後の法律関係は普通の場合でも信義誠実の原則に従って解決すべきであるが、大震火災後の極めて異常なる生活関係を整理するについては、殊に弾力性を有するこの原則を適用することが正当でまた必要であるということを述べんとしたのである。即ち既にバラックを建築したる後における撤去問題について相当の期間内は撤廃を猶予することが夫の際における生活関係上信義の要求する所であると同様にバラック建造の許可を請求せられたる場合にも地主は相当の期間内ならばこれを許容すべきものと解することが夫の際における信義則の要求する所なりというのであった。

６　信義誠実の原則は従来主として契約関係の継続中債務の履行及び債権の行使について説明されて居った。私はこの原則は契約関係の存続中のみならずその終了後においても適用あるべきものと考うるので本節においてはその点に関する私の見解を明にし得たと思う。私は尚この原則は契約関係の成立前においてもその適用を認めて差支えなきものと考うるのでこの点は次節においてこれを説明したいと考える。

（１）　継続的債権契約については平野氏の研究がある、志林２５巻１号乃至４号「継続的債権契約の特質と賃貸借及び雇用」。

（２）　Oertmann,Komm. zu § 275, S.105 ; Kruckmann, ArchZivPrax., Bd. 101,S.181 ff.; Dernburg, B.R.,�U, § 96 ; Klein, Anzeigepflicht, S.111; Placnck,Komm. zu §275 ; Wendt, a. A. O., ArchZivPrax., Bd.100, S.140. 尚 Stammler, Die Lehre v.d.richtigen Recht, S.372 ; Kohler, ArchburgR., Bd.25, S.171 ff. ; OLG,Hamburg, Seuffert’s Archiv Bd. 56, N.219. 此事件が本文に述べた船の事件である。

（３）　石坂氏、日本民法５７９頁、同氏「通知及ヒ通知義務」民法研究１巻３９３頁以下、明治４２年京法４巻７号９号。

（４）　拙著、日本債権法各論下巻増訂版６３２頁、学説については同所６３３頁(註７)殊に平野氏の論文及び判例評釈参照。

（５）　判例集１巻７号、刑４０７頁、平野氏評釈、法協４１巻９５５頁、５号１５９頁、１１年度判例民法２２９頁、拙著、日本債権法各論増訂版５５６頁。

（６）　大正１０年５月３日大判民録２７集８４４頁、大正１０年度判例民法１９８頁(中川氏評釈)。

第４節　契約締結前に於ける此原則の適用

１　契約締結前に一方の当事者に過失ある為に相手方に損害を蒙らしめた場合にその損害を賠償する義務ありや否や。この問題は有効なる契約が成立するに至らなかった場合と有効なる契約が成立したる場合とを区別して研究する必要がある。

有効なる契約が成立するに至らなかった場合について独逸普通法における通説は当事者に何等の責任なしとした。この通説に反対したものは有名なる Jhering の「契約締結上の過失」(culpa in contrahendo) の議論である（１）。イェリングは例えば錯誤に因って契約が無効なる場合にその契約を有効なりと信じたるが為に蒙った損害即ち所謂消極的契約利益（negatives Vertragsinteress） を賠償すべきものとしかつ契約が無効となるべき事情が無いということ例えば売買の目的物が消滅しているというような事情が無いということを確かめずに無効なる契約を締結することはそれ自身既に過失なりとしこの理論によって消極的利益を賠償せしむべき実際上の必要に応ぜんとしたのである。イェリングのこの論は羅馬法の解釈として誤りでありまた過失を擬制する点において理論に合せずとせられ、イェリング自身も後に至ってはこの見解が事実の真相に適合せざることを自認しているのであるが（２）しかし契約締結上の責任に関して統一主義を立てんとしたことは学会に大なる影響を与えたので、現今の独逸民法等が意思表示の瑕疵に対する責任を認めまた履行不能に因り無効なる契約における責任を規定しているのはこの学説の影響を受けたものなること一般に認めらるる所である。

契約締結所の責任の一種について独逸民法は結果責任を認めている。即ちその第１２２条において意思表示が第１１８条（諧謔表示）によりて無効なるか或は第１１９条（錯誤）、第１２０条（誤伝）によって取消されたる場合においてその意思表示が相手方に対する意思表示なるときはその相手方に対し然らざるときは総ての第三者に対し、表意者は相手方または第三者がその意思表示を有効なりと信じたるが為に受けたる損害を賠償することを要する、但その額は相手方または第三者が意思表示の有効なるについて有する利益を超ゆることなしと規定ししかしてその第２項において被害者が無効または取消の原因を知りまたは過失に因りて知らざりし場合（知ることを得べかりし場合）には賠償義務なしと規定している。これはイェリングが契約締結上の過失によって解決せんとした一場合であるが独逸民法は表意者の過失を要件とすることなく唯被害者の悪意または過失を以て免責要件とするに止めた。即ち一種の無過失責任、結果責任を認めたものである。

契約締結上の責任の他の一種について独逸民法は過失責任を認めている。即ちその第３０７条において不能の給付を目的とする契約の締結に際し給付の不能なることを知りまたは知るべかりし者は消極的契約利益の賠償義務あるものとしこれまた相手方が不能を知りまたは知り得べかりし場合には責任なしとしている。これまたイェリングの契約締結上の過失に属する一場合であるが、過失を要件としかつイェリングとは異り過失を擬制しては居らぬ。

以上の外契約居締結上の責任を規定したるものとして無権代理人の責任に関する獨法第１７９条（我民法１１７条と同趣旨）を挙ぐることを得るが私はこれを代理制度の信用を維持するが為に設けたる特別の規定となし一般的考察の他に置くを正当と考える。

２　我民法上有効ならざる契約の締結に対する責任を研究するについてはその無効または取消の原因を区別して考うる必要がある。蓋し無効なる契約または取消されたる契約の全部について契約締結に対する責任を認むることは法規上も実際上もその理由なきと同時に、或る種の無効についてはその責任を認むることを正当とするが故である。

（１） 無能力を理由とする取消の場合には取消を為したる無能力者に賠償責任を認むべき理由も必要も無い。損害賠償義務ありとすれば取消権を与えて無能力者を保護したる理由を没却すること勿論である。であるから無能力者を保護すべき理由なき場合即ち無能力者が能力者たることを信ぜしむる為詐術を用いたる場合にはその行為を取消し得ざるものとしているのである。意思能力欠缼の為に意思表示が無効なる場合においても意思無能力者に賠償責任を認むべからざるは勿論である。

（２） 法律行為が法規に違反しまたは公序良俗に違反したる事項を目的とするが為無効なる場合において無効なるが為に生じたる損害を賠償する責任を生ぜざることは勿論である。独逸民法(３０９条)は禁止法に違反する契約についてその第３０７条および第３０８条の規定を準用すべきものと規定して居り独逸の学者はこれに基いて善良の風俗に反するが為無効なる場合には同様なる賠償責任なしと論ずるのであるが（３）、明文なき我民法においては禁止法に違反する場合においても賠償責任を認むべき理論上の理由なくまた実際上の必要なきものと考える。

（３）　要式行為において方式を缺くが為法律行為の無効なる場合において賠償責任の問題を生ぜざるは疑を容れぬ。

（４）　意思表示に欠点ある場合において我民法は損害賠償を認めて居らぬ。信義則によってこれを補充し賠償責任を認め得るや否や研究を要する問題であるが余はこれを認め得ざるものと考える。以下意思表示の各種の欠点について考えてみよう。

(イ)心裡留保即ち非意思表示について我民法(９３条)はこれを一般に意思表示の効力を妨げざるものとし、独逸民法(１１８条)の如く諧謔表示を有効として居らぬからこの点においては問題を生ずる余地はない。唯相手方に対する意思表示において相手方が表意者の真意を知りまたはこれを知ることを得べかりし場合においてはその意思表示は無効であるからこれを有効なりと信じたる第三者に対する関係においてのみ賠償責任を生ずるや否やの問題を生ずる。しかし乍らこの無効も第９４条の無効の如く善意の第三者に対抗し得ざるものと解すれば賠償責任の問題は自ら消滅する譯である。余は嘗て反対説を採ったことがあるが今日においては第９４条第２項をこの場合に類推適用するを正当と考えるので賠償責任の問題を議論すべき必要を見ぬ。

(ロ)相手方と通じて為したる虚偽の意思表示の無効は善意の第三者に対抗し得ざるものであるからこれまた賠償責任の問題を生ずることはない。

(ハ)錯誤の理由に因って法律行為の無効なる場合に賠償責任を認むべきや否やは多少研究を要する。錯誤者に過失の有無を問わずして消極的利益の賠償責任を認むる結果責任主義を我民法の解釈として採るべからざるは疑を容れぬ。結果責任を認むるが為には法律の規定を要するにこの場合には何等の規定が無いからである。また表意者に重大なる過失ある場合には表意者自ら無効を主張することを得ぬから無効の為に相手方の受くべき損害を賠償する責任を生ずるや否やの問題は起らぬ。唯錯誤に陥るについて表意者に軽過失があった場合において表意者がその錯誤を理由として法律行為の無効を主張したるとき相手方は賠償請求権を有するや否やの点のみが問題となる。この場合には過失に因って他人に損害を加えたのであるからその賠償責任を認めても我民法の主義に反しないようである。しかしながら故意または過失に因って他人に財産上の損害その他の損害を加えた場合に常に賠償責任を認むることは我民法の主義ではない。我民法は過失と損害との外に違法ということを民事責任の要件とする。不法行為について故意過失と損害の発生との外に権利侵害を用件とするはこれが為である。その違法ということを拡張的に解釈して公序良俗に反することまたは信義公平に反することをも包含するものとしても何等かの意味において違法という要件が備わらねば民事責任を認むることは出来ぬ。然るに過失の結果錯誤に陥りその結果無効な法律行為をするということは他人の権利を侵害するものならざるは勿論公序良俗にもまた公平信義にも違反するものと言うことを得ぬ。加この民法が法律行為の要素に錯誤ありたる場合にその意思表示を無効とするは表意者を保護せんが為でありしかして民法は錯誤について軽過失ある場合にも表意者に無効を主張することを許しているのであるから民法はこれの如き過失者をも保護する趣旨と解せねばならぬ。この点を考うるならば錯誤に因りて意思表示を為したる者にはたとえ錯誤に陥るにつき過失ありとするも賠償責任を認むべからざること明であろう。

(ニ)詐欺または強迫に因り意思表示の取消された場合に取消権者に損害賠償義務なきは勿論である。詐欺または強迫を受けた者に損害賠償の請求権あるは詐欺または強迫を第７１０条の解釈上不法行為と認むる当然の結果であるが取消を為して尚損害賠償を請求するが為には取消を為すも尚損害あることを要する。この点は信義則とは関係が無いが意思表示の瑕疵に関する責任問題であるから一言したのである。

（５） 原始的客観不能の為に契約が無効なる場合にその不能なる給付を為すべかりし者（以下債務者と言わん）は契約が無効なるが為に相手方の蒙りたる損害を賠償する義務を負うかまたその賠償義務ありとせば債務者に過失ありたることを要するか。

特定物の売買において目的物の数量が不足なるときまたは物の一部が契約当時既に滅失したる場合または目的物に隠れたる瑕疵ある場合において民法は所謂売主の担保責任を定めている(５６５条、５７０条)。これ等の担保責任は売買の目的物が契約当時より欠点を有してその一部不能なることが初より確定せる場合に関するものであるから客観的一部不能に対する契約締結上の責任を定めたものと言わねばならぬ。そしてこれ等の規定が第５５９条によって売買以外の有償契約に準用せらるることを原則とするは疑を容れぬ。唯この客観的一部不能に関する規定が客観的全部不能に因って契約全部の無効なる場合にも類推適用せらるべきや否やが解釈上困難なる問題となるのである。余は嘗てこの問題について消極説を採ったのであるが今はこれを改め信義則に基いて客観的全部不能の場合にも当事者に過失あることを要件として賠償責任を認むることを正当と考える（４）。

有償契約において法律が原始的一部不能に対する責任を認めたのは全部給付の債務あるに拘わらず一部を給付するは債務不履行なりと認めたるが故ではない。初めより欠点ある特定物を売買する契約をしたのであるから売主は唯その欠点ある特定物を給付すべき債務を負担するに過ぎず従ってその特定物を給付するは債務不履行とはならぬ。故に法律が担保責任を認めたのは売買その他の有償契約について当事者の責任を重からしむることを取引上の需要に適しかつ信義公平に適するものと認めたるが故なりと解せねばならぬ。この如く担保責任が完全なる物を給付する義務に基くものでないとするならば契約の無効なるが為に全く給付義務なき場合にもこの担保責任を認めたる立法趣旨に従って賠償責任を認め一部不能に関する規定を類推適用することは正当なりと言わねばならぬ。

担保責任は売主の過失を要件とせざる結果責任である。然らば客観的全部不能の場合に担保責任に関する規定を類推適用すべしとすれば結果責任を認むべきようである。然るに私は多少の疑問を抱きつつ尚結果責任主義を採らず過失責任を認むることが信義則に適し我民法の趣旨に適するものと考える。その理由は次の如くである。

元来錯誤に因る法律行為と一部不能なることを知らずして為したる売買とはその性質において極めて類似したるものである。例えば一定の土地が５０坪あるものと誤信して１万円で売ったのにその実１００坪ありしとするならば目的物の数量に関して錯誤ある売買であって通常法律行為の要素に錯誤あるものであるから売主は売買の無効なることを主張し得る。然るに１００坪ありとして２万円で売った場合にその実５０坪しか無いとするならば売主に担保責任を生ずるのである。共に錯誤なるに拘わらず前の場合には売主が保護せられ後の場合には買主が保護せらるるのは如何なる理由に因るのであるか。それは前の場合には５０坪を標準として代金が定められたるに反し後の場合には１００坪を標準として代金が定められたるが故である。換言すれば数量不足または物の一部滅失を原因として担保責任を認めたのは数量に不足なきものとし、物の一部滅失なきものとして代金が定められたるが故であり、また隠れたる瑕疵を原因として担保責任を認むるは瑕疵なきものとして代金が定められたるが故である。もとより担保責任の理由はこれのみに尽くるのではなく、これのみでは代金減額請求権の外に損害賠償請求権を認めた理由を説明し難く、その理由は上に述べたるが如く売買その他有償契約の特質に求めねばならぬのであるが錯誤の場合と異なった規定を設けたる趣旨は以上の如く考ふべきである。然るに給付の目的物の全部が初めより客観的不能なる場合には代金の額ということは全く問題とならぬ。契約無効なるが為代金請求権は全く存在しないからである。この如く一部不能の場合と全部不能の場合とはその事情全く同一なりと言うことを得ざる故に一部不能の場合に於ける担保責任の規定をその儘に全部不能の場合に類推適用することは出来ぬ。しかして担保責任に関する規定と錯誤の場合とを比較し信義則によってこの法典の缼を補うならば売買その他有償契約の債務者に過失ある場合に於いてのみ契約締結上の責任を負担せしむべきである。

過失を要件と解するについて尚一の理由がある。それは無効なる契約の締結上の責任はこれを不法行為上の責任と解すべきことである。一部不能に止まるときは尚契約は成立するが故に民法はこれに対する責任を契約上の責任とした。然るに全部不能の場合には可能なる契約を締結すべき予約を存じたる場合を除くの外契約上の責任を認むることを得ぬ。しかしてこれを不法行為上の責任と解するならば第７１０条に依る不法行為と解するの外無いのであるから故意または過失ある場合即ち自己の為すべき給付が不能なることを知りもしくは知り得べかりし場合に於いてのみ責任あるものと言わねばならぬ。

故意または過失に因って不能の事項を目的とする法律行為を為したる場合に常に不法行為となるであろうか。第７１０条に謂う所の自由は精神上の自由を包含するものとし、詐欺、強迫に因る法律行為はこの精神上の自由に属する契約締結の自由を侵害するものとして不法行為と認めるのである。しかし不能なることを知りもしくは知らざるについて過失ある場合に契約を締結することは、当然この違法の要件を具備するものと解することは出来ぬ。私は当該の契約の性質に依り不能なることを告げずもしくは不能なりや否やを審査せざることが信義則に反する場合に於てのみ違法の要件を具うるものと解するを正当と考える。しかして信義則に反するや否やを決定するについては民法が有償契約と無償契約とについて担保責任を異にしたることに鑑み無償契約については寛に、有償契約については厳に解すべきものと思う。

３　有効なる契約が成立した場合に於てもその契約に欠点がある為に契約締結上の責任を生ずることがある。その或るものについて民法は規定を設けたるが或るものについては規定を設けて居らぬ。従ってその規定なきものについて信義則によって法典を補充すべきや否やの問題を生ずる。まず民法に規定ある部分について述べよう。

（１） 担保責任　　売買について担保責任を認めたのは契約は有効に成立するがその契約の目的物に欠点がある為に売買に契約締結上の責任を認めたのである。この場合に売主に結果責任を負担せしめたのは上に述べた通である。又その責任の内容は総ての債権各論の教科書に明であるから此処には述べまい。尚この担保責任が総ての有償契約に準用せらるることは言うまでもない。

（２） 賃借物の瑕疵に基く貸主の責任　　この責任は我民法に於いては賃貸借が有償契約であり従って売主の担保責任に関する規定が準用せらるる結果生ずるものではあるが独逸民法については売主について責任を認めざるに拘わらず貸主については特に責任を認むる学者があるから特にこれを掲ぐることとする。

（３） 委任者の責任　　民法第６５０条第３項は「受任者ガ委任事務ヲ処理スル為メ自己ニ過失ナクシテ損害ヲ受ケタルトキハ委任者ニ対シテ其賠償ヲ請求スルコトヲ得」と規定している。この損害は委任事務処理の為に生じたるものたることもあるが又委任の目的物に瑕疵ありたるが為に生ずることもあり得る。この後の場合においては恰も次に述ぶる受寄物に瑕疵ありたる場合の如くこれを契約締結上の責任と認めねばならぬ。

（４） 受寄物の瑕疵に基く責任　　寄託物の性質または瑕疵に基き受寄者の受けたる損害については民法は一種の過失責任を認むるに止める、即ち過失ありたることは賠償責任の積極的要件ではないが寄託者は過失なかりしことまたは受寄者がその性質または瑕疵を知りたることを証明してその責任を免れ得るものとしている(６６１条)。これまた一の契約締結上の責任を認めたるものと言はねばならぬ。

（５）　組合の業務を執行する組合員について委任に関する第６５０条が準用せられている、従って上の委任について述べたと同一の範囲において組合についても契約締結上の責任が認められているものと言はねばならぬ。

４　上述した所は我民法上有効なる契約が成立した場合における契約締結上の責任であるが契約締結上欠点ありたるが為に相手方が損害を蒙ることあるはもとより民法が列挙したる場合に限らぬ。独逸民法について特にこの問題を研究したのはレオンハルトであって（５）そしてレーゲルスベルゲルはその趣旨においてレ氏の論に賛成し、もしレ氏の論が現行法の解釈として当らざるものあればそれは現行法の欠点あることを示すものであるから法律学に依ってその法典の欠点を補充することを要すると述べている（６）。今レオンハルトがその「契約締結上の過失」において論ずる所の全部を紹介することは出来ぬがその要領だけを述べよう。売買の場合の瑕疵担保について独逸民法(４６３条)が悪意(Arglist)か保証(Zusicherung)のある場合に限り売主に責任あるものとしたのは取引上の需要に応ずべく明に狭過ぎる。売買の目的物について契約締結当時既に欠点あり売主がこれを告げざるについて過失あるか或はこれを知らざるについて過失ある場合に買主がその欠点の為に損害を蒙ったときは売主に損害賠償義務を認めねばならぬ。この賠償義務を独逸民法の個々の規定(６９４条、６７８条)から類推することは、反対の規定もあるから困難であるが、一般の補充的原則(eine erganzende allgemeine Regal)を認めることを得るならばそれに依って民法の規定を補充してこの賠償責任を認むることを得よう。しかしてこの如き一般の補充的原則即ち契約締結者に締結について過失がある為に相手方が損害を蒙った場合にはその損害を賠償すべしという一般原則を認むることは（１）羅馬法以来従来の法制に適し（７）（２）緊切なる実際上の必要によって要求せられかつ（３）民法の他の原則(契約成立後過失に対して責任ありとするの趣旨)に合するものであるから現行法の解釈上これを認めねばならぬ。この賠償責任を他の理由に因って説明せんとする見解即ち債務不履行、不法行為又は黙示の担保契約等に依って説明せんとする見解は総て皆この事象を説明するに足らぬからイェリングとは異なった意味において契約締結における過失責任を認めねばならぬ。

５　我民法が契約締結上の責任として規定している所は委任及びその準用せらるる組合の場合を除くの外契約の目的物に瑕疵或は欠点ある場合に限っている。物に瑕疵のあった場合は売買に関する民法の規定が総ての有償契約に準用せられるから実際上信義則によってこれを補充すべき必要を生じないが契約締結上の欠点は物の瑕疵に限らざるが故にこの後の場合について問題を生ずる。今まず如何なる場合について問題を生ずるかを考えて見よう。

（１）　売買の目的物について客観的には瑕疵なく欠点なきも使用上別種の物と認むべきときは尚第５７０条謂う所の物の瑕疵と解することが正当であろう。例えば特定の麦一升が種子用のものかと質した後それを買った場合に売主の然りと答えたのが誤りで実は食用には適するも種子用には適せぬものであったときは当事者が特に保有すべきものと定めたる性質を欠如するのでこれを物の瑕疵と解すべきである。然るに物の性質には何等の関係なく単に物の使用方法を誤り告げたに止まるときはこれを物の瑕疵と解することは出来ぬ。例えば種子の売主が播種方法を誤り告げ、機会の売主がその使用方法を誤り告げたるが如き場合である。この如き場合には売主の担保責任に関する規定の孰れもこれをt適用することが出来ぬ。賃貸借の目的物等についても同様の事実を生ずることは多く言うを俟たぬ。

（２）　雇用契約において当事者が契約締結上重要なる事実を告げずして契約を為したる場合例えば使用者は労務者の身体又は健康に重大なる関係を有すべき特別の事情を告げず、又労務者はその重大なる疾病又は非行を告げずして契約を為した場合には責任を負担すべきや否やの問題を生ずる。

（３）　請負契約、運送契約等において請負人または運送人たるべき者が契約締結前種々の通知或は通知を為すことがあるがその場合にその通知が誤って居った為に相手方に損害を興えたときは賠償責任があるのではないか。例えば家屋建築の請負において請負契約成立前注文者が種々の質問、問合を為したのに対して請負人が告ぐべきことを告げず又は告げたることに誤ありたる場合或は運送契約において汽車汽船の時間表に誤謬があり又は乗客の問合に対して誤って解答を為したような場合である。

（４）　委任契約についても法律の規定しているのは唯委任者の契約締結上の責任であるが受任者に契約締結前過失があった為に委任者が契約締結後損害を蒙ることがある。例えば銀行業者に委任を為すに当って諸種の相談を為し或は問合を為した場合に銀行業者が誤った事実を告げそれに基いて委任を為した為に損害を蒙るが如き場合である。独逸においてはこの場合に銀行業者に責任を負わしむべき必要が認められ独逸帝国裁判所はその責任の根拠を銀行と顧客との取引関係（Geschaftsverbindung）に求めたことがあるが（８）この如き取引関係なき場合にも責任を認むべき必要ありと論ぜられている（９）。

（５） 保険契約について被担保者の契約締結上の責任は夫の告知義務に依って解決されているが保険会社の方で重要なる事項を告知しなかった場合については規定が無い。これが這般の大震火災後火災保険について問題となったことは改めて述べるまでも無い。

（６）　著者と出版業者との間の出版契約については普通に法律上の問題とならぬことが多からう。しかし著者が著作の分量などについて著しく誤った事実を告げそれが過去に基いて居った場合には問題となり得る。

上に述べたやうな問題を解決するについて種々な見解があらう。しかし既成の観念の中に当嵌めようとする見解は孰れも無理を生じ又総ての場合を解決するに足らぬ。今簡単にそれらの見解を批評して見よう。

(一)　債務不履行説　　売買の担保責任を債務不履行の効果とする見解は嘗て広く行われたが今日においては寧ろ少数説であろう。担保責任以外の契約締結上の責任を契約に因って生じたる義務の違反として説明せんとする見解がある。クリュックマンの見解はそれである。ク氏は契約に因って契約成立後直ちに諸種の事情を通知すべき義務即ち所謂通知義務(Anzaigepflicht)を生ずるものとし上に述べたるが如き場合はこの義務の違反なりとしている（１０）。しかし上に述べた例によって明なるが如く契約締結前に真実を告げずまたは誤った事実を告げたことが損害の原因であるに拘わらずこれを契約締結後の通知義務違反として説くは誤であろう。かつまた他の申込を拒絶したる場合の如く契約締結に因り直ちに損害を生じたる場合には契約締結後の通知では損害を免るることが出来ぬ。

(二)　不法行為説　　不法行為の概念を以て問題を解決せんとする学者がある（１１）。私は上に有効なる契約の成立せざる場合における契約締結上の責任を不法行為上の責任なりとして説明した。また私は不法行為と契約違反、債務不履行との間に本質上の差異を認めざるものである。しかし我民法の組織においては契約違反、債務不履行の範疇に属すべき現象についてはまず契約法及び債務不履行に関する規定を適用すべきであるから上述の現象が契約法によって解決を成し得るにおいてはこれを不法行為として解決すべきにあらざるものと考える。

(三)　黙示担保契約説　　旧時にはこの説を採った者があるが近時にはこの説を採る物殆んど無い。担保契約の事実上存在する場合にはもとより問題なく、その事実上存在せざるに拘わらずこれを擬制するは誤りである（１２）。

(四)　予約説　　本契約成立前に予約あるものと認め誤りたる告知を為すが如きはこの予約上の義務違反とする説である（１３）。予約あらばもとよりこの説によって解決を為し得うるが常に予約ありとするは擬制と言わねばならぬ。

上来述べたるが如く既成の概念を以てしては上に述べた問題を解決することが出来ぬので私は信義則に基いて契約締結上の責任を認めこれによって上述の問題を解決しようと思う。

信義誠実の原則は債権法を支配する大原則なるべきこと本論の冒頭において述べた所であるが、契約成立の為に種々の準備的交渉を経過して、終に契約成立するに至った場合には契約当事者は単にその契約成立後における行動についてのみ法律上の拘束を受くるに止まらずその成立前における行動についても信義に反したるものあらばその当事者は法律上の責任を負担するものと為さねばならぬ。契約締結前に義務なし故に義務違反あるべからずという一片の論理のみを以てしては契約法をして社会の需要に適せしむること能はず又契約法の全部が信義則に従うの結果を収むること不能である。既に民法は上に述べた諸種の場合において契約当事者に契約締結上の責任を認めたのであるから信義則によって契約締結上の責任を拡張し締結前においても当事者に注意義務を認め注意義務の違背ある場合に損害賠償の責任を認むることは民法の趣旨に適するものと信ずる。

信義則に基いて契約締結上の責任を認むるということは、有効なる契約の成立したる場合においては不法行為上の責任を認むるということと同義ではない。契約関係の全体を信義則を以て律するという意味である。契約関係の存続する間は信義則の支配を受くること勿論であるがその終了後においても信義則によってその終了後の法律関係を整理し、その成立以前において準備交渉の階梯あらば信義則を以てこれを律して初めて契約関係の全体が信義則の支配を受くることとなるのである。もし不法行為の理論のみによるときは準備交渉の階梯において不当なる告知あるも相手方の承諾なくその他契約の成立するに至らざりし場合においても契約成立したる場合と同様なる責任を認むることとならう。これ契約法を以て問題を解決すると不法行為の理によると結果を異にする点の一である。余は契約法を以て率することが結果にいおいても正当なりと考える。

６　信義則に基いて契約締結上の責任を認むるについて次に簡単にその要件を考えて見よう。

（１）　契約の有効に成立したことを要する。全然契約が成立するに至らなかったときは、例えば契約を成立せしむる目的で準備交渉をしたがその交渉不成立の場合には、たとえその交渉に際して当事者に不注意があっても何等責任を負担せしむべき理由は無い。契約は成立したが、即ち当事者の間に合意は成立したが、錯誤とか履行不能の為にその契約の無効なる場合に損害賠償責任を生ずるや否やは上に述べた。その履行不能の場合において、私は当事者に過失責任を負担せしむべきものと解したのであるが、この場合には契約は無効であるからその責任の性質は契約上の責任ではなく不法行為上の責任なりと解したのである。右２個の場合と異り契約締結について契約上の責任を認むるのは後に契約関係を生じたその効果が準備行為当時に遡及するに外ならぬのであるから、上に諸種の例について述べた如く兎に角有効なる契約が成立したことをその要件とするのである。

（２）　契約成立前一方の当事者が契約成立後相手方の蒙った損害について原因を与えたことを必要とする。告知すべきことを告げず或は誤った告知を為したるが為に相手方に損害を蒙らしむるが如きはその例である。

（３）　その原因を与えたについて過失があったことを必要とするか。担保責任等民法が明文を以て契約締結上の責任を認めたる場合は殆んど皆結果責任であって過失責任でないことは上に述べた通である。しかし信義則に基いて民法の規定を補充し一般的に契約締結上の責任を認むるについては我民法が過失責任を原則としたことに顧みて過失を以て要件とすることが正当なりと信ずる。

（４）　信義則に反することを要する。この契約締結上の責任を認むるのは本来信義則に基くのであるからその責任を認むることが各個の場合において信義則の要求する所に合致せねばならぬ。元来契約を締結するに際して人はまず自己の利益を考量するものであるからまず相手方の利益を考慮すべきことを要求することは出来ぬ。従って或る事実が相手方に不利益を及ぼすべき場合にその事実を告げずまたはその事実の有無を審査せずということは常に必らず賠償責任を生ずるものと為すことは出来ぬ。唯その告げざることまたは審査せざることがその種の取引について社会上非難すべきものなる場合においてのみ法律上責任を生ずるものと解せねばならぬ（１４）。

（５）　最後に契約締結に際して一方当事者に過失あるのみならず相手方にも過失あることがある。この場合には民法が債務不履行(４１８条)及び不法行為(７２２条２項)について過失相殺を認めたと同一の趣旨に基いて過失相殺を認めねばならぬ。蓋し「自己の不注意に基ける損害は他人にこれを転嫁すべからず」という過失相殺の立法理由はこの場合にも同様に当嵌まるからである（１５）。しかしてもし第４１８条と第７２２条第２項との孰れを類推適用すべきかと言うならば、余はこの契約締結上の責任が契約上の責任なることを理由として第４１８条を類推適用すべしと考ふるものである。

(一) Jherings J., Bd. 4 S.1 ff. 参照。岡松氏、無過失損害賠償責任論[学術選書３１２頁以下及び同処(註七四)]に掲ぐる諸著。

(二) Jhering，Schuldmoment，S.38.

(三) Fischer、Der Schaden，S．124，125；Oertmann,Komm.zu § 369,S.162 etc.

(四) 拙著、日本債権法各論増訂版７２頁。

(五) Fr.Leonhard, Verschulden beim Vertragsschlusse (1910) に於て主として氏の見解を述べて居るがその以前に Die Haftung des Verkaufers fur sein Verschulden beim Vertragsschlusse, Gottinger Doktordissertation あり、尚後に同氏の Burgerliches Recht, Ein Lehrbuch in kurzen Satzen (1923),S.66 にも簡単な説明がある。

(六) Regelsberger、Gesetz und　Rechtsanwendung. Jherings J., Bd.58 (1911), S.172.

(七) 羅馬法の解釈に付ては議論あり独逸普通法の多数説は之を認めないがレオンハルトは羅馬法の解釈としても之を認むべきものと論じ又普通法時代契約当事者に此責任を認めた判例を挙げて居る(Leonhard,a.a.O.,S.9)゜尚ザクセン民法(９２２条)以外は皆之を認めて居ることを述べて居る、普國法(ALR.１,5 § 320, 325 ff.)、墺民法(９３２条)、瑞債(２４３条、２４５条)。

(八) RG.,Bd.19,S.100 ; Bd. 27,S.123.

(九) Fr. Leonhard, a.a.O., S.20.

(十) Kruckmann, ArchZivilPrax.,Bd.101, S.205 ; Klein, Anzeigepflicht, S.116.

(十一) Kipp, DJZ.8, 255 ff.; Werner, Recht 6, 476 ff. ; 7,308 ff. ; Muller, Recht 6,541 ff. (之等の諸雑誌目下閲覧の便宜なく Leonhard,a.a.O.,S.32 の引用に依る)

(十二) Gluck 92 ; Windscheid, § 393 Anm.2, § 394.

(十三) Alsberg, Holdheims MSchr., 1906, S. 321 ff. (Leonhard,S.20 に依る)。

(十四) Leonhard,a.a.O.,S.62,, Eine allgemeine Pflicht zur Anzeige besteht nicht;……sondern nach den Ums anden,nach Treu und Glauben ist zu bemessen, was man den Parteien zumuten kann.と云うは同趣旨である。

(十五) Leonhard, a.a.O., S.65 も此場合に獨民２５４条を類推適用すべしと論じて居る。余は大災後の火災保険問題に付て過失相殺に依って相当の範囲の保険金請求権を認むべしと述べた(｢災後の法律問題｣８２頁以下)。

　信義誠実の原則に関して述ぶべきことは以上に盡きては居らぬ。意思表示の解釈について、法律行為の内容の決定について、また権利の濫用についてこの原則の適用あることは一般に認めらるる所である。またこの原則の内容そのものについても、法律則と道徳則との関係についても述ぶべきことが少くない。しかし債権法における信義誠実の原則としては以上の論述したる所を以て略々

その要領を述べ得たりと考うるので余りに永く紙面を塞ぐことをおそれ今回はこれを以て擱筆することとする。

法律問題としての公序良俗

１　学者が金銭的対価を受けて教授を為すの契約は公の秩序、善良の風俗に反するや否や。羅馬法はこれを積極的に解せり、我民法その他現今欧州大陸諸国の法律においてこれを消極に解すべきは疑を容れず。この如き変遷の原因はこれを時代思潮或は一般人民の道徳観念に求むることを得べし。然らば即ち変遷したるものは事実にして法律にあらず、公序良俗の内容の問題は事実問題にして法律問題にあらずと解すべきか。

公序良俗の問題少くとも公序良俗の内容の問題が法律問題なりや事実問題なりやは学者間争の存する所なり。分つて三種となすことを得べし。第一は漠然事実問題なりとするものなり、第二はこれを区別して事実問題と法律問題とを包含せりとするものなり、第三はこれを純然たる法律問題となすものなり。

これを漠然事実問題となす者は仏蘭西の学者プラニオルなり。曰く契約が良俗に反するや否や即ちその反道徳的性質を帯ぶるや否やは裁判官によりて判断せらるべき事実問題（question de fait）なること当然なりと（Planiol、Traiteelementaire de droit civil, t. I, n.294）。独人ハイルフロンはその民法教科書の第三版（1904年）において（S.556）は良俗なる観念の確定を以て事実確定の問題とし上告の範囲に属せずとしたるも第五版（1908年）にはこれを改めて法律問題とせなり（S.556）。

これを事実問題と法律問題とに区別する者は寧ろその数に乏しからず。Lotmar、Crome、Holder　の如き然り。ロトマーの「反道徳契約」なる著書は１９８６年の述作にかかると雖も、なお一般に良俗問題に関する権威と認めらるる所にして、この点に関しても、後の学者にしてロ氏の説に支配せられたりと認むべき者少からざるを以てここにその大要を述べんと欲す。

ロ氏は契約と道徳との関係について問題を形式的と実質的との二者に分ち、形式的に契約がその如何なる点において道徳と関係を生ずるやの問題、例えば契約の内容についてこの関係を生ずるか、或は契約の縁由についてこの関係を生ずるかの問題はこれを法律問題なりとし、これに反して如上の形式的関係の存する場合において、その果たして道徳に反するや否やの実質上の問題は事実問題なりとす。この故に反道徳的契約について法律問題となるは唯問題の方向を定むるの範囲に限る。ロ氏は羅馬法についてこの如き形式の三種を認め、その三種の形式は多くの変更を加うることなくして独逸民法にも適用あるべきものとせり。即ち第一に契約がその内容たる行為、受忍(Duldung)または不行為について道徳に反するや否や、第二にその行為不行為そのものは道徳に反すること無きもこれを以て契約の内容となし、債権債務の関係を以て人の自由に拘束を与うることが道徳に反すること無きか、例之、婚姻を為さざるべしとの契約、詐欺の抗弁を棄つべしとの契約の如きが道徳に反するや否や、第三にその行為不行為を以て契約上の債務の内容となすは未だ道徳に反するものと認むべからざるも、これを以て金銭の給付と因果関係に置くことが道徳に反すること無きか、例之、哲学者または法学者の金銭を対価とする教授契約、離婚に同意すれば一定の金額を与うべしとの契約が道徳に反することなきやの三種の形式あるものとせり。しかして或る契約につき以上の三種何れかの形式に該当Bするや否やは形式的問題にして法律の決すべき所即ち法律問題なり、これに反して如上の何れの形式に該当したる場合に、更にその契約の内容等が実質上良俗に反するや否やは法律の答ふる能はざる所にして事実解釈の決する所なり。注文の決し能はざるのみならず、所謂法律観念、法律意識、法律感情も亦この関係について何等の交渉を有せざるなり、これを決するものは即ち国民一般の道徳なり、しかしてこの道徳観念存否の問題は事実確定の問題に外ならず、従って良俗の内容の問題は証拠に因って決せらるるを得べく、また良俗に反するや否やについて錯誤あらば事実の錯誤にして法律の錯誤にあらず、裁判官がこの点に関して判断を誤ることあるも上告の理由となすことを得ずとす。

ロ氏の説に最も類似せるものはクローメの説なり。氏は何が善良の風俗なりやの問題と契約はその内容の如何なる点について良俗の問題を惹起こすかの問題と分ち、前者は道徳に関する一般観念の決する所なるを以て事実問題に属し、後者は法律の答ふべき所にして法律問題なりとす。しかしてその法律問題として論ずる所はロ氏の述ぶる所とその分類においても異ることなし。シュタウディンゲルの説く所また同じ。即ち各個の場合について何が良俗なりやの問題は単に事実確定の問題なるが故に上告の範囲に属せずとなす。

ロ氏に似て少しく趣を異にせる者はヘンデルなり。氏は善良なる風俗の観念を定むるに当り、善良なる形容詞と風俗なる名詞とに分ち、一定の風俗存在してその内容が善良ならざるべからずとするが故に、問題を風俗存在の問題とその可否善悪の問題とに分ち、前者は事実確定の問題なるが故に法律問題にあらずとなし、後者は存在せる一定の事実を法律上判断するものなるが故に法律問題なりとなす。

案ずるに良俗の問題を以て漠然事実問題なりとするはその誤謬なること勿論なると共に、これを以て法律問題と事実問題とに区別し、何が良俗なりやの問題を以て事実問題に過ぎずとなすもまたその当を失するものと言わざるべからず。左に少しくその理由を論ぜんと欲す。

凡そ法律の規定はその範囲の広狭如何を問わず、抽象的なるを以てその通性となす。抽象的なる法律の規定を具体的各個の場合に適用すというは抽象的規定を以て大前提となし、各個の場合を以て小前提となし、三段論法によりて結論を求むる作用なり。その簡単なる例を求むれば心神喪失の状況に在る者について総て禁治産の宣告を為すことを得といえる法律と、甲者は某々の精神障疑の状態に在りといえる事実との関係において、前者を大前提となし、後者を小前提とし、その結論として甲者を以て心神喪失の状況に在り従って禁治産の宣告を為し得というを得るや否や。これ即ち法律適用の問題なり。従って三段論法によりて法律の適用を為さんとすれば大前提たるべき法律と小前提たるべき事実と共に解釈を加えざるべからず。前者は法律の解釈なり、後者は即ち事実の解釈なり。これが故にこの二種の解釈問題は常に法律の適用に先立たざるべからず。説例についてこれを見れば心身喪失の意義を解して精神障疑の常態となすは法律の解釈なり、甲者の状態を解釈して或は醫学上精神病なりとし、或は行為の弁識力を欠如せる状態が常態として存続すとなすが如きはこれ即ち事実解釈の問題なり。この事実解釈と先の法律解釈とに基き、法規を以て大前提となし甲者の場合を以て小前提となすを得ること即ち後者が心神喪失の状況にあることを定むるは即ち法律適用の問題なり。換言すれば法律問題には二種ありというを得べし。一は即ち法律解釈の問題にして他の一は法律適用の問題なり。しかしてその事件に関する事実問題とはその事件を総合して事実を確定するの範囲に限る。この標準を以て公序良俗の場合に蒞まば或る法律行為が某々の行為を内容としたりといひ、某々の目的を以て為されたりというは事実問題なり。この如き事実が法律の規定したる抽象的範囲の下に統括せらるるや否や、即ち公序良俗なる抽象的観念の範囲如何、その当該の場合を包含するや否やの問題は即ち法律問題なり。

或は言わん、契約が良俗に反するや否や、即ち善良の風俗の意義如何は法律自らこれを決することを敢えてせずしてこれを事実関係の如何に一任したるものなり、故に善良の風俗に関する法規はこれを普通の法規と同一視すべからずと。答えて曰く、誤れり。近世立法の趣勢は法律と社会とを調和し一致せしむるにあり、従って法律の規定をして伸縮性を有せしむること少なからず。例を民法の範囲に求むれば「重大なる事由」「相当の期限」「やむを得ざる事由」と言うが如し。この如き規定の内容が社会の状態の変遷、各個の事実関係の如何に因て多少その変更を受くるはもとよりその所なり。然れどもその各個の事情に応じて法規の意義、範囲を定むることは即ち各個の場合に付き立法者が法としたるものを判定する所以にして、即ち法規の解釈なり。これ等の法規もその法規たる性質に於いて普通の法規と異らざるが如く、その解釈の性質もまた普通法規の解釈と異るものにあらず。均しく法律解釈の問題、法律の意義、内容を判定する問題にして大審院の権限に属す、善良の風俗の意義範囲を決するは道徳問題を決するにあらずして民法第９０条の内容、その適用範囲を定むる問題なり。

独逸学者にしてこの第三の説を採る者は比較的多からず、シュタムレル、エンネクツェルス、ハイルフロンの如きはこれに属す。シュ氏は、その正法論中に良俗の意義を定むるは法律の内容を定むる問題なるが故に法律問題なりとし(Stammler, Die Lehre vom richtigen Recht,S.390 ff.)、エ氏は良俗に反するや否やを決するは良俗に反する行為を無効とする法規の解釈適用の問題なるが故に法律問題なりとす(Enneccerus, Burgertliches R., I.2 Lieferung. S.441, Anm.2)。ハイルフロンはその理由を示さず。その他ハイン(Hein, Die guten Sitten, 1906)、ハーゲン(Hagen, Die guten Sitten als Rechtsbegriff im Beitrage z. E.d.D.R., 1908)もまた現に数うるを得べし。

我大審院の判例に於ても契約解釈の問題とこれに民法第９０条を適用し得るや否やの問題とを分ち前者を以て控訴院の問題とし後者を以て大審院の問題となせり(３４年５月１１日同年６月２４日同年１１月１６日３５年２月６日４０年３月１８日)(なお刑法上知覚精神喪失の意義に関する法律問題に付ては牧野英一氏「二個の注意すべき精神病事件」参照、法学協会雑誌２６巻１号所載)。

２　或法律行為が公序良俗に反するや否やの問題を以て全然法律上の問題なりとすればその解決は即ち法律の答うべき所にして法律家の決すべき所なり。唯これを決するに当り単にその標準を成分法律の内に求むべきや、各種の法令に反せざる場合にもなお公序良俗に反することあるべきかは第２段の問題に属す。我国の学者にして或は前説を採り、公序良俗に反するものとせられたる各種の法令に該当するにあらざれば民法第９０条によりて無効とすべきにあらずと論ずる者無きにあらず(江木衷氏、現行民法論２０６頁)。その理由とする所に曰く、公序良俗の問題は法律問題なり、この法律問題を司法官に一任するは司法官を以て立法官を兼ねしむるものなり、司法官を以て立法官を兼ねしむるなお可なりといえども、もしこれを容るるものとせばこの範囲に於いては成分法令を改廃するの権限もまた司法官に認めざるべからず、然れども司法官をしてこの権限を有せしむること、例えば婚姻年齢の規定を改廃して法律上不適齢者の婚姻も公序良俗に反することなしとするはその不当なること明なりと。然れども論者が或る範囲、即ち良俗の意義を定むる範囲において司法官を以て立法官を兼ねしむるの必ずしも論理に反せざるを認むるが如く、公序良俗の意義を定むるの内につき単に或る範囲において司法官をして立法官を兼ねしむるもまた論者の論理に矛盾すること無かるべし。換言すれば司法官をして立法官を兼ねしむるとするも必ずしもその権限が絶対的たるを要せずとすれば、法律の成分に反せざる範囲においてこの権限を認むるを得べきなり。更に一歩を進めて論ずれば論者の所謂立法的作用となすものも自ら法を作るの意義において法律問題たるにあらずして、既に存するの法を各個の場合に適用するに過ぎずと論ぜざるべからず。けだし司法官は或る法律行為の良俗に反するや否やを判断するに当り、決して同種の法律行為が良俗に反するや否やにつき一般的抽象的原則を立てて、以て爾後この如き行為を律し、他の裁判官をしてこれに従わしめんとするの意思を有するにあらず、またその権限を有するにあらず、唯各個の場合に権利と義務とを認むべきや否やを判断するのみ。しかしてその判断するに当りては新に法を作り、自らこれを適用するにあらず、唯法律に所謂公序良俗に反するや否やを標準とするのみ、法律が成文によりて良俗の意義を明確ならしめたる場合と、単に公序良俗といいてその範囲の伸縮を自由ならしめたる場合と、これを法律上より論ずれば法律の解釈適用の作用たる点において差異の存することなし。更に他の方面より論ずれば善良の風俗に関する諸種の法令に関係なき場合において特に民法第９０条の適用を見るものというを得べし。独逸民法の如きは禁止的法律に反する法律行為を無効とするの規定(獨民１３８条)とを並存せしめたり。我民法においてはこの如き対立を見ずといえども法律の禁止的規定に違反する法律行為（例えば民法に認めざる物権を設定する法律行為）の如きはその点において無効なるが故に民法第９０条は特に法律に明文の禁止なき場合についてその適用を見るものと言わざるべからず。

以上の如く法律の成文上明に或る行為の無効または取消を規定したる場合にはその法律行為の効力につき何等の疑問を生ぜざるを常とするも、唯その要件の全部を具備せざる場合につきなお民法第９０条の適用あるべきや否や、その要件を具備する場合にはなお民法第９０条を適用して異りたる効力を付するを得るや否やの問題を生ず。例えば民法第４２４条所謂廃罷訴権において債務者及び受益者が単に債権者を害することを知れるに止まらず、債権者を害するの悪意を有し、或は両者共謀して単に債権者を苦しめんとするの害意に基づき財産権移転の法律行為を為したりとすれば、その行為は第４２４条によりて取消の請求を為し得るのみならず、第９０条によりて良俗に反するものとして無効となすことを得べきや。又第４２４条の要件の一たる債権者に害を及ぼしたる事実の存せざる場合においても、上に述ぶるが如き単純なる害意、共謀その他の事情の加わりたるを理由として民法第９０条を適用することを得べきや。更に一例を挙ぐれば、民法第１４６条予め時効の利益を放棄するを得ずとなす規定につきその規定の要件たる放棄なく、単に完成を困難ならしめたる場合に民法第９０条を適用することを得べきや否や。

如上２個の場合につき余は同一の要件の下においてもしくは法律所定の要件を欠如せる場合においては、上述の如き特別規定の外に民法第９０条の適用なきものと信ず。けだしこの如き法律行為につきその要件と効力とを規定したるは法律が或は良俗に反する特別の場合としてその効力を要件と定め、或は良俗に反するや否やの問題に入らずして他の関係上（例えば相手方保護）その効力を定め、同一の事情の下において良俗問題の発生を排斥したるものなるが故なり。例えば法律は姦通に同意を為す行為（準法律行為、民８１４条[現行法なし]）の効力を認めたるが故に民法第９０条によりてその効力を否認することを得ず。その他詐欺、権利株売買等についても民法第９０条の適用の余地なし、但し事情を異にし要件を加重したる場合についてはこの如き特別法律の支配を受くべきにあらず(Dick、Der Verstoss gegen die guten Sitten im Arch. f. Burg.R., 1909,Bd.33,h.1,S.86 ff.).。

成分の法律の以て良俗違反の標準を決するもの無き場合については如何なる標準を以て法律行為の効力を決すべきや。この点に関しては２個の根本的に異れる学説を区別するを得べし。一は法律最終の目的を前提しこれを基礎として契約自由の範囲即ち各個の場合における良俗違反の問題を研究するものなり。この研究方法を採れる著名なる学者は即ちシュタムレル氏なり。氏がその正法論(Die Lehie vom richtigen Recht)及び「経済と法律」(Wirtschaft und Recht)において説ける所は頗る広遠なるも、要するに法律の目的を以て社会的理想即ち自由意志を発動し得る人の共同団体に存するものとなしこれより数個の原則を演繹して各種の場合を律せんとせり、この研究方法を採れる者にはなおハーゲン、マイヤーあり。これに反して多数の学者は寧ろ統一的目的を標準とすることなく、各種の契約が当時の社会に撹乱的影響を及ぼすや否やを以て標準となせり（Lotmar、a.a.O., Enneccerus, a.a.O.,Dick,a.a.O., Franz Cahn im Jherings Dogm. �]�]�]�\、S.28 等）。余は法律、道徳、宗教の関係において法律によりて支配すべき範囲を何れに限るべきかは、統一的標準によりてこれを定め、しかして各個の場合において如何なる程度において社会の秩序を撹乱し、一般人の道徳観念に背馳するやはこれを各種の場合について判定するの外なしと信ず。第一の点について注意するを要するは善良の風俗に反する法律行為の効力を否認するは法律の保護を与えずといえる消極的関係において法律が道徳風俗に影響を及ぼすものにして例えば未成年者の喫煙飲酒を禁ずるが如く積極的手段に出づるものにあらざることこれなり。これが故に社会の事多く自然に放置すべし、多く法律を以て干渉するは策の得たるものにあらずといえる一部社会学者の論は良俗の場合においては未成年禁煙禁酒の場合の如く、重大なる関係を有せざるものといわざるべからず。然れども契約自由の原則より立論すれば、私人間の法律関係は当事者間の自由契約に放任すべし、法律を以て検束を加うるは非なりとの議論を為し得るが故に彼の放任論、自然主義もこの場合に全然無関係なるにあらず、唯積極と消極との差異に基き多少影響の程度に差異あるを言わんと欲するのみ。次に第二の点については所謂社会を如何なる範囲に限るべきか、一国全部たることを要するか、一階級、一地方にても足れりとすべきか、一般道徳は客観的に定むべきか、主観的裁判官の判定によるべきか等諸種の問題を生ず。これ等の詳細の点に至りては多少問題の範囲を超越するの嫌あるを以て今は述べず。

無権代理人の責任を論ず

緒言

　　

往昔取引の敏活を要せざりし社会において法は拙にして速ならんより寧ろ遅にして巧なるを尚べり。羅馬法の下に代理制度の発達せざりしものその原因を種々の点に求むるを得べきも社会の需要が法律の迅速なる運転を要求すること無かりしことはけだしその最も有力なるものなるべし。近世の社会においては即ち然らず、法は敏活なる取引の要求に適応せざるべからず、されど速なれば即ち拙なり易し、法律の運転迅速なれば脱線衝突の危険あり人畜のこれが為めに害を被るものなきを保せず、此間に処するの方策を講ずるに非ずんば近世の法律は未だその発達を誇るべからざるなり。

代理制度は法律関係の運転を迅速滑脱ならしめんが為に近世法の下に発達したる制度の一なり。しかしてまたこの種の制度の一として取引の安固を危うくするの弊もまたこれを伴はざるにあらず。本人は常に背後に隠れて法律行為の成立に興らず、代理人はまた自ら法律行為の効力を受くることなくしかして本人は代理人が一定の資格を備うる場合においてのみ法律上の効果を受くるを以てこれが相手方たるべき第三者は本人と法律行為を為したりと信じて、その信頼の水泡に帰すること寧ろ稀有ならざるべく、転じて代理人に向えば自らの名において為されたる行為にあらずとの遁辞を設けて責任を免れんとすべし。この危機を予防して代理制度に対する信頼を深厚となすに非ずんばこの危険なる交通機関の乗客は常に寥々たるべきなり。これにおいてか法律はこれが予防の方策を講じて２種の設備をなせり、その一は一定の条件の下に特に本人に対する法律上の拘束を認めたるものにして学者或はこれを表見代理権の制度という (中島博士、表見代理権、京都法学会雑誌５巻２号) 。他の一は代理人自身について特殊の法律上の責任を認むるものにしてここに論ぜんとする所のもの即ち是なり。前者は我民法１０９条、１１０条および１１２条の規定する所にして、後者は１１７条の規定する所なり。

第１節　小沿革

　

１　羅馬法には一般的代理制度なかりしを以て自ら無権代理人の責任に関する一般的制度なく、その代理類似の制度を認めたる狭隘なる範囲内においては無権代理人（falsus procurator）の責任を全然認めざりしにあらずといえども唯責任に関する一般の法則を無権代理人に適用したりというに止まり特殊の法則の以て無権代理人の責任を認むるものに非ざりき。詳言すれば、債務行為にして代理を認めたるものにありては第三者の為に無権代理人に対する訴権（actio qoud iusso, action quoari institoria）を認めたれどこの訴権たる元来代理人が代理権を有せざるが為に成立するものに非ずして羅馬法においては代理人が代理権を有する場合においても代理人は行為当事者として当然法律行為上の効果を受け、本人は唯従たる当事者として法律上の効果を受くるに止まりしなり。また既存の債権の変更または消滅を目的とするいわゆる債務処分の行為においては債権成立を目的とする行為の如く代理人自ら行為の当事者として法律上の効力を受け本人をして従たる効力を受けしむとおいうこと不能なるを以て無権代理人の独立の責任を認むべき需要なかりしにあらずといえども羅馬法はこの場合においても特殊の法則を設けず、ただ不法行為を構成する場合について不法行為上の訴権（actio sine causa）を認めまた債権者の無権代理人に弁済を為したる場合について不当利得返還の訴権（condictio sine causa）を認むるに止まれり。

２　西暦第１７世紀の頃に及び独逸においては債権契約について一般に代理を許可するに至りたりといえどもその代理に因る法律関係を解すること尚羅馬法の旧套を脱せず代理人自ら行為当事者として法律行為の効果を受けしめ本人をしてこれに従属して法律行為の効果を受けしむるに止まりたるを以てまた自ら無権代理人の責任について特殊の法則を認むること無かりき（Muhlenbruch, Pandekten, I, § 181 ; Puchta, Pandekten, §273 etc., Vangerow, Pandekten,§ 608）。この説の実際上における最大の欠点は無権代理人より第三者に対する訴権を否認するを得ざるの点にあり。

ブフカ等の主唱に基き近世における代理の観念漸く発達して観念上当然本人直接の責任を認め本人について法律行為の効果の全部を帰属せしむるにおよびては代理人は代理行為当然の結果として法律行為上の効果を受くること無きに至りたるを以てこの理由によりて無権代理人の責任を認むることを得ず新に責任の理由を発見するの需要に迫らるるに至れり（Buchka, Stellvertretung, S.232 ff.）

然れどもその当初において学者は唯羅馬法において夫の債権処分行為について認められたる責任の法則を其儘に応用してこの需要に応ぜんとするに止まれり（Brinz, Krit. Blatter, �U, S.39 ; L.Seuffert, Ratihabition, S.77 ; Hellmann, Stellvertretung,S.143）。しかしてその不法行為の責任は羅馬法の原則に従えるの結果唯故意の存する場合についてこれを認め過失を包含せざりしを以てその範囲極めて狭くその責任の内容もまた欺罔因りて生じたる損害の賠償即ちいわゆる消極的契約利益のみにして履行の利益を包含せざりしを以て社会の需要に応じて第三者の保護を完うするに足らざりき。

無権代理人の責任の範囲を少しく拡張したるものはイェリングなり。イェリングは契約を為すについての過失（culpain contrahendo）なる観念を認め、人は契約上の債権債務の関係に立ちこれを履行する場合について過失の責に任ずべきのみならず契約を為すことについてもまた同一の注意を為すの義務あり、過失あらばこれに因りて生じたる損害即ち相手がその契約を有効なりと信じたるが為に受けたる損害（negatives Vertragsinteresse）を賠償するの責に任ずべきものなりとす。しかしてその例として代理人が権限無くして契約を為したる場合を挙げたり（Jhering, in Jh. Jahrb., Bd. IV, S. 1 ff.）。

イェリングの契約過失論については異論少なからざりしといえども無権代理人の責任を過失の場合に拡張することについては有力なる学者のこれに賛同するものまたその数に乏しからざりき（Laband,in GoldschmidtsZ.X., S.234 ff. ; Mitteis, Stellvertretung, S.163 ff. ; Dernburg, Pand. I,§119）。

然れども独逸学会の趨勢はこの所に止まるを肯んぜず、更に無権代理人の責任の範囲を拡張して、過失の有無に拘らずその責任を認むるに非ずんば以て取引の需要に応じ代理制度の信任を博するに足らざるものとなせり。然れども成文法のこの如き特殊の責任を認むるもの無きを以てやむを得ずして擬制に走れり、黙示の担保契約説即ち是なり。

黙示の担保契約説に二種あり。一派の学者は代理人はもし本人について法律行為上の効果を成立せしめ得ざる場合においては自己の名においてその行為を為し自らその法律行為上の効果を受くべしという従たる契約を為すものなりとなせり（Bunchka, a.a.O.,S.238）。この説は一面においてその範囲狭に失し債権処分の行為について適用するを得ざりしのみならず他の一面においてその効果を認むること第三者保護の目的を超過し第三者の拘束をも認めざるを得ざりしが故に広く行はるるに至らざりき。他の一派の学者はこの弊に鑑みて少しく担保契約の内容を変更し、契約そのものの当事者となるに非ずして本人の法律上の拘束を受くべきことを担保し、この担保契約に基づきて本人が法律上の拘束を受けざる場合には代理人自ら契約の履行をなしまたは損害賠償を為すの義務を負うものとす、ヴィントシャイト等の主唱したる所即ちこれなり（Windscheid, Pand. I, § 74 ; Keyssner, Buschs Arch. �]�T, S. 69 etc.）。この黙示的担保契約説は責任の範囲を認むること広くその責任の内容もまた能く第三者の保護を完うするに足りたるを以てまた実際家の採用する所となり度々独逸帝国裁判所の判例に現れたり（RG.,�]�]�]�X, Nr.34, S.145 ff.）。然れどもこれ等の黙示的担保契約説が畢竟擬制に過ぎざるは争うべからざる所に属す、多数の場合において第三者は代理権の存在を信ずべく代理権不存在の場合を予想して担保契約締結の意思を有しこれを表示すること無かるべし、その実際上の結果において当時の社会の需要に適応するものありしといえども要するに便宜の為に理論を犠牲に供したるものと言わざるべからず。

独逸普通法時代における学説の趨勢を達観するに不法行為、不当利得および債務不履行の普通の原則の当然の適用のみによりて無権代理人の責任を認むることのみによりては代理制度の信任を厚くし第三者の保護を完うし、取引の安固を図ることを得ずとなし、何等かの原則によりて夫の原則を拡張し、責任の範囲を拡張せんとしたること極めて顕著なり。然れどもその理論上の論拠に至りては未だ多数学者の承認を受くべきものなく、この間にありて裁判所は度々実際上無権代理人の責任を認め未だ慣習法として無権代理人の特殊の責任を認むるに至らざりしも裁判所の慣行としてはその殆ど動かし難きものありしを見るなり。

３　欧州諸国の法律を通覧するに何れかの範囲の下において無権代理人の責任を認めざるは無し。今その詳細を掲ぐべきにあらずといえども重要なるものの二三を示さんとす。

（１）　仏蘭西民法　　仏民法１９９７条に曰く「相手方に自己の権限について十分なる知識を与えたる代理人は特に自ら担保の約束を為さざりし場合にはその権限を超過したる行為について責任を負うことなし」と。仏蘭西民法が特に無権代理人の責任について規定せるものはこの一条のみ。従って担保の特約無き場合及び代理権の範囲について十分の知識を与えざりし場合たる普通の場合においては無権代理人は普通の原則に従って責任を負うものと言わざるべからず。しかして仏民法における不法行為の規定(art.1382,1383)は広く有責の作為または不作為に因りて他人に損害を加えたる者はこれに因る損害を賠償する責任を有するものとなせるが故に無権代理人の契約を為せる場合においても恰も夫のイェリングの契約締結過失説の如く過失についてもまた無権代理人の責任を認むるを得べしといえどもここ以外において無権代理人について特殊の責任を認むることなし。伊太利民法また然り(同法１７５１条)。

（２） 墺太利民法　　墺太利民法には無権代理人の責任に関して特殊の規定なし。殊に対外関係たる代理、無権代理の関係と対内関係たる委任、事務管理の関係とを甚だしく混同して規定したれど要するにその結果においては仏蘭西民法と略同じく無権代理人に過失ありたる場合に不法行為者として損害賠償の義務を認めその賠償の範囲は夫の消極的利益に限れるものの如し(墺民１００９条、１０３５条、１３１１条等)。

（３） 英法　　英吉利の普通法においては又無権代理人の責任に関して特殊の法則無く唯担保の特約ある場合において契約違反に基く損害賠償の訴権(action of contract for breach of warranty)を認め代理権の存在について故意に相手方を欺罔したる場合について詐欺の訴権(action of deceit)を認むるに止まれり。爾後更に無権代理人の責任を拡張すべき社会上の必要に迫られ、事実上担保の特約無き場合にも擬制に因りて黙示の担保契約(implied warranty of authority)を認めしかして学説及び判例にてその黙示の担保契約を認むべき場合を略一定するに至りしが(collen v.Wright, Cherry v. Colonial Bank, Lily v. Smales ; Pollock, Contract, p. 109 etc.)、更に一転して近世の学者は代理権の主張(assertion of authority)の観念を以て代理権担保(warranty of authority)の観念に代え担保契約ありというの擬制を避け、単に代理権ありと主張しもしくは代理権ありと信ぜられるべき行為を為すこと自体に因りて損害賠償の責任を生ずるものなりと説明するに至れり(Liability by “holding out.”Story, Commentaries on the law of agency, §264; Holland, of jurisprudence,p.225 ; Firbank’s Executors v. Kitson)。然れどもこの最後の点に至りては英法学者の間に未だ争なしというにあらず(Anson, Contract, p. 348)。

（４）　独逸法　　独逸普通法における学説の変遷は既にこれを述べたり。しかしてその最後の発達に属する無権代理人の特殊の(sui generis)責任を認めんとする傾向は立法事業の進歩と共に漸く成文法に顕れ、まず独逸手形法第９５条の規定によりて手形上の意思表示に関する無権代理人の責任を定め、次いで独逸旧商法(Das Allgemeine Deutsche Handelsgesetzbuch)第５１５条において商法の範囲について無権代理人の責任を規定し遂に独逸民法第１７９条の規定を生むに至れり。今試みにこれを訳出すれば次の如し。

　代理人として契約を為したる者はその代理権を証明せざる場合に本人がその契約の追認を拒みたるときは相手方に対しその選択に従い履行又は損害賠償の責任を有す。

　代理人が代理権の欠缺を知らざりしときは唯相手方が代理権ありと信じたることに因りて受けたる損害のみを賠償する責任を有す、但し相手方が契約の有効なることに因りて受くる利益を超ゆることなし。

相手方が代理権の欠缺を知りもしくは知るべかりしときは代理人は責任を有せず。代理人が限定行為能力者なりし場合に於ても亦責任を有することなし、但し其法定代理人の同意を得て行為を為したる場合は此限にあらず。

（５）　スイス債務法　　スイス債務法は独逸における学説および独逸手形法の影響を受け過失の点を顧みることなくして無権代理人の責任を認めたり、然れども損害賠償の範囲については規定を設けず(同法４６条、４８条)。

要この無権代理人の責任に関する立法および学説はこれを新旧の二派に大別するを得べし。いわゆる新派とは独逸の手形法、同商法、同民法、スイス債務法および最近における英法の判例および学説の如く無権代理人の責任について特殊の法則を認むるものにして、いわゆる旧派とは仏民法、墺民法および英国普通法の判例の如く唯債務不履行、不法行為の法則のみによりて無権代理人の責任を定めんと欲するものなり。我民法はその何れに属するか、これ次節以下において論ぜんとする所なり。

第二節 我民法の解釈

　我民法１１７条に曰く

　　他人の代理人として契約を為したる者がその代理権を証明すること能はずかつ本人の追認を得ざりしときは相手方の選択に従いこれに対して履行または損害賠償の責に任ず。

　　前項の規定は相手方が代理権なきことを知りたるときもしくは過失に因りて之を知らざりしとき又は代理人として契約を為したる者が其能力を有せざりしときは之を適用せず

第１項　責任の根拠

　無権代理人は何が故に本条に規定するが如き責任を有するか、これ即ち責任根拠の問題なり。

　或は曰く、無権代理人が代理権無くして契約を為すは故意とあらずとするも少くもその過失なり、過失なるが故に不法行為上の損害賠償の責に任ずべし、しかして損害賠償は我民法上金銭賠償に限れるが故に或は有名無実なることなきを保せず、乃ちその損害の原因を除去せんが為に履行または損害賠償の責に任ぜしめたるなりと。これ我民法の解釈として有効なる学者の間に主張せらるる所なり(富井氏、民法原論４５１頁、新版５２９頁、岡松氏、民法理由１１７条)。我が大審院また嘗て判決の理由としてこの説を採れり(明治３５年１月１１日大審院判決)。独逸の学者にして過失説を採りたる者二三ありたることは嘗てこれを述べたり。されどこれ等の学者は皆消極的契約利益即ち本来無効なるべき契約を有効なりと信じたるが為に受けたる損害を以て損害賠償の範囲とするものにして履行そのものを以て損害賠償の範囲となす者なし。仏蘭西の学者は過失説を採る者多数にして(Laurent, Principes de droit civil, �]�]�X�U, no. 45 ; Le Jolis, Dumandat et de la commission, no. 468 ; Guillonard, Traite du mandat, no. 208 etc.)。またその多数は履行に代わるべき利益を以て損害賠償の範囲と為すも一二の反対説無きにあらず(Hupka, Die Haftung des Vertreters ohne Vertretungsmacht, S. 46)。

　或は曰く、代理権無くして契約を為す者はその代理権あることを担保する従たる契約を為しその契約に基きて責任を負担するものなりと(平沼氏、民法総論５７５頁)。独逸普通法時代の学者および英国普通方時代の学者が黙示の担保契約によりて無権代理人の責任を拡張せんと努めたるは既にこれを述べたり。しかしていわゆる黙示担保契約説が便宜に出てたる擬制に過ぎさることは独英二国の学者共にこれを認むる所に属す(Hupka, a.a. O.,S.27 ff. ; Anson, Contract,p. 349)。

　余は上記二説の何れにも反対して民法に規定せる無権代理人の責任は商法６５条に規定せる合名会社の社員なりと信ぜしむべき行為を為したる者の責任とその性質を同じうするものにして代理権ありと主張しまたは代理人なりと信ぜしむべき行為を為したるの事実について法律が特に規定したる特殊の責任(eine gesetzliche Haftungsui generis)なりと解せんと欲す。

　案ずるに債務不履行、不法行為を以て損害賠償の責任となすはもとより我民法普通の原則なり。然れどもこれ即ち原則にして法律は特殊の事項に関し特殊の理由に基き両者２個の何れにも属せざるものを責任の原因と認むることを得るや勿論なり。何等特別の規定無しとせば無権代理人は唯過失に因りて相手方に損害を加えたる場合においてのみ不法行為上の責任を負うべく、また担保契約を締結したる場合においてのみ法律行為上の責任を有すべきこともとより然り。然れども法律は特殊の必要に基きてこの範囲を拡張し得ること言を俟たず。しかして民法が第１１７条に特に無権代理人の責任を規定したるは唯如上当然の法理を注意的に規定したるものにあらずして特に第三者の保護を完全にして代理による取引を安全にし代理制度の信用を深厚にしてその活用を汎博ならしめんが為に無権代理人の責任を重大ならしめ特殊の責任を規定したるものと言わざるべからず。さればこの責任の性質は単に不法行為上の責任と言い契約上の責任と言うを以て尽くさるべきにあらざるなり。この規定が民法の一条となりたる上述の沿革を考うるときはこの解釈の正当なること自ら明なるべし。転じて我民法の条文自体について論ぜんか本条には過失を要件とする旨を示すべき文字を掲げず。主観的の要件として何等規定する所あらざるのみならずもし過失を責任の理由とせば損害賠償の範囲は無効なる契約を有効と信ぜしめたるに因る損害に限らざるべからず、有効なりとして相手方が受くべき利益即ち契約の履行を以て責任の範囲となすは解すべからず、また不法行為上の責任なりとせば第２項において無能力者を除外したる理由を解すべからざるなり(民７１２条、７１３条)。次に担保説については殆ど一言を費やすの要なからん。擬制は法律進歩の一段階なり、然れども法律が既にその事項について特別の規定を設くるに及びては擬制に因りてこれを説明するの迂を要せざるなり。無権代理人は代理権なきことを知らざること多数なるべし、相手方はこれを知らざることを要す、何ぞ常に代理権なき場合を予想して担保契約を為すの意思を有しこれを表示したるものと解すべけんや。

　無権代理人の責任は特殊の法律上の責任なり。しかしてその責任を附著せしめたる事実如何。余はこれを代理権ありと主張する行為、換言すれば代理権ありと信ぜられるべき代理人の行為なりと言わんと欲す。蓋し相手方が代理権ありと信ずるに非ずんば相手を保護するの理由無く、代理人の行為に因りて代理権ありと信ずるにあらずんば代理人をして責任を負担せしむべき理由あらざればなり。この如く、或る事実を主張し、或る事実を真実なりと信ぜしむる行為を為したる者をしてその事実の真実ならざることについて責任を負担せしむという観念は(Liability of responsibility by“holding out,“Behauptung als Rechtsgrund)未だ不法行為、債務不履行の如く一般的観念として法律に認めるるものにあらずといえども決して不合理の観念にあらず、もし法律が一般的責任の原因として規定すればこれを不法行為、債務不履行と相並立せしむるを得べく、特殊の関係の下に特にその事実の信用を厚くせんとする需要の為にこれを規定すれば、その特殊の責任について特殊の原因たるを得べきなり。即ち代理制度といい、合名会社といい、同一の事情の下に同一の理由の下に類似の責任を認められたるものなり。独逸民法の解釈としてこの観念を採用する二三の有力なる学者あり(Hupka, a.a.O.,S.91 ff. ; Oertmann, Komm. zu §179 BGB)。

第２項　責任の要件

　無権代理人の責任を成立せしむべき要件如何。一言以てこれを覆えば無間代理行為について本人に対して直接の法律関係を成立せしめ得ざりしこと是なり。今これを分説すれば次の如し。

１　代理人として契約を為せることを要す。「他人の代理人として」というは９９条に「他人の為にすることを示して」というと同意義なり。従って代理人自己の名において法律行為を為したる場合を包含せざるは勿論、他人の使者として他人の意思を伝達したる者がその権限を有せざりし場合の如き、その他自ら他人なりと偽称したる場合の如きまたこれを包含すべからず。

　代理人として契約を為すというの意義は以上に尽くるや否や。余は無権代理人の責任を認めたる理由により次の結論を為さんと欲す。即ち代理人なりと主張する事実、換言すれば他人を代理する権限あることを信ぜしむるに足るべき行為、更に語を換えれば代理権あるものの如く装う行為(英法に所謂“holding out”)の存在することを要するものとなすこと是なり。これ責任の根拠を上述の如く解する当然の結果にしてこの事実なくば未だ他人の代理人として契約を為すというべからざるものとす。しかして普通の場合において他人の名において契約を為す者は当然また代理権あることを信ぜしむるに足るべき行為を為すものなりといえども特に代理人が代理権の成立に疑点ある旨を告げたる場合、例えば遺言執行者に指定せられたる人が遺言書を相手方に呈示して遺言の効力に疑問ある旨を告げたる場合、電報に因りて代理を委任せられたる者が電報を呈示して電文に疑問ある旨を告げたる場合、または委任状を呈示して偽造変造のある旨を告げたる場合の如きにおいてはたとえ相手方において代理権ありと信ずるにつき本条第２項にいう所の過失なしとするも、代理人において代理権ありと信ぜしむべき行為を為したるにあらざれば責任を負担すべきにあらざるなり(仏民１９９７条参照 Hupka, a.a.O.S.178 ff.)。けだし以上の場合において代理権ありとの新任は代理人の行為に基けるにあらず相手方は代理人の行為に因りて損害を受けたるにあらずして代理権成立の事実について相手方自ら判断を下しその判断に誤られて損害を受けたるに過ぎざればなり。

　ここに代理権ありと信ぜしむべき行為を要すというと代理人に過失あることを要すということを混同すべからず。前者は要件なりといえども後者は要件にあらず。以上例示の場合の如き代理人において代理権ありと信じかつこれを信じるについて過失なしとするももし相手方に対しては単に代理人なりと信ずる旨を告げ、その疑問の存する事実を開示せざるときは相手方は代理人の行為に因りて代理権ありと信じたるものにして代理人はこれが責に任ぜざるを得ず。故に代理人が代理権ありと信ぜられるべき行為を為したりや否やを以て標準とせざるべからず。

２　第二に代理人の為したる契約は代理権欠缼の理由に因りて無効なることを要す。

（１）　代理権なしといえども所謂表見代理の場合に属するに因り本人がその行為について責に任ずべきときにおいて無権代理人は尚本条に規定する責任を有するや否や。余は表見代理の場合を本条の適用より除外せんと欲す。けだし本条は専ら相手方の利益を保護すべき規定なるにより契約が代理権ありたると同一の効果を生ずるや否やは偏に相手方の方面よりこれを観察するを要す。相手方の方面より観察して本人が有権代理と同一の約束を受くるにおいては本条を適用して相手方を保護すべき理由絶えて無し。しかして民法１０９条、１１０条、第１１２条のいわゆる表見代理の場合はこれを相手方の側面より見れば有権代理とその効果を均しくするが故に本条の適用についてはこれを有権代理と同一に取扱うことを要するなり(同説 Hupka, a.a.O.,S.145, Anm. 1)。又或る種類の代理人と称したる者が他の種類の代理人なりし場合例えば法定代理人なりと称して契約を無したる者が委任代理人なりし場合、取締役と称したる人が支配人なりし場合の如きは又同一の理由に因りて本条の要件を備えざるものと謂わざるべからず。

（２）　代理権の欠缼せることを要すというは行為当時代理権無くかつ爾後本人の追認を得ざることをいう。法文に「代理権を証明すること能はず」と規定したるは代理権の存否に関する学証の責任の代理人に存することを規定せんとする趣旨にして実体上においては代理権の不存在が責任発生の要件なりと言わざるべからず(Hupka, a. a. O.S. 139 ; Oertmann, a. a. O.)。

　行為当時に代理権存在せざるも爾後追認ありたるときはもとより又無権代理人の責任を生ずるの理なし。その追認を得ざりしときと謂うは追認の拒絶ありたる場合及び追認の拒絶と見做すべき場合是なり(民１１４条)。追認を得ざりしことを要するの点より見るも追認無くして本人に対し契約の履行を請求すべきことを得べきいわゆる表見代理の場合には本条の適用無きこと明なるべし。

（３） 代理権の欠缼と契約の無効との間に因果の連絡の存することを要す。たとえ契約無効なりとするももし他の原因に因りて無効なるときは本条の要件を備うるものにあらず。故に例えば相手方が本人の追認を待たずして自らその意思表示を取消たる場合(民１１５条)本人の権利能力の欠缼、代理人の意思無能力、要素の錯誤、契約の内容の不適法等により契約そのものの無効なる場合においては当該の契約の本人を拘束する効力を有せざるは代理権の欠缼以外の理由に基くものなれば本条の要件を備えざるものと言わざるべからず。この関係においてやや問題となるべきは無権代理人が本来代理を許さざる行為について代理権無くして代理行為を為したる場合、例えば他人の代理人として婚姻、養子縁組等を為したる場合、又は存在せざる人、存在せざる会社について代理行為を為したる場合是なり。多少議論ありといえどもその代理行為の本人を拘束せざるは又代理権の欠缼に因るにあらざるものと解するを正当なりと信ず(反対 Hupka,a.a.O.,S.173)。

３　無権代理人の相手方は代理権の存在について善良かつ無過失ならざるべからず。

相手方の悪意なるとき即ち代理権なきことを知れるときは相手方は無権代理に伴うべき損害を賭して契約を為したるものなれば敢てこれを保護するの要なし。しかしてその善意なりや否やは契約当時についてこれを決すべきこと勿論なり。爾後代理権の欠缼をも聞知するももとより善意というを妨げず、又行為当時に代理権無しと考えたるときはたとえ爾後代理人の言語その他の理由によりて代理ありと信じたりとするも尚悪意と言わざるべからず。

相手方に過失ありというは善良なる管理者の注意を用いれば代理権の不存在を知るべかりしことを謂う。民法は重過失の場合には特にこれを明言するが故に本条の如く単に過失というはこれを軽過失の意義に解せざるべからず。即ち善良なる管理者の注意を以て標準となすものなり。例えば本人または代理人が代理権なき旨を注意する書面を送りたるに相手方のこれを披見せざりし場合の如きは明に相手方に過失ありと言わざるべからず。然れども相手方が自ら過失ある場合に本条の権利を有せずというは敢て相手方に審査の義務ありというにあらず、審査せざるを以て直ちに過失ありとなすは普通の取引において代理権の審査を為すということを前提とするものにして到底是認し難き所に属す。又民法第１１０条に代理権の範囲内なりと信ずべき正当の事由ありというと本条において代理権なきことを知らざるについて過失なしというとは又その意義を同じうせず。前者においては単に相手方に過失なしというに止まらずして更に積極的に権限内なりと信ずるも取引上正当なりと認むるに足るべき事情の存することを要するなり。その軽重の度のやや異なれるを見るべし。

４　無権代理人の無能力者にあらざることを要す。

民法は無能力者保護の為にこの例外を規定せり即ち自己の意思表示に基き法律関係を構成する能力無き者なるが故に無権代理の関係においてもまたこれを保護すべき同一の理由の存するものとなしたるなり。しかして無能力者に関するこの特例たるや敢て無能力者に法律行為を取消して法律行為上の責任を免れしめたるものにあらざるが故に、何等無能力者の取消行為を俟たずして無能力者は本条第一項の責任を有せざるなり。唯特に担保契約を締結したる場合においてはその契約を取消すにあらずんば契約上の義務を免れる能はず、又不法行為を構成する場合においてはこれについて責任を負担せざるを得ず。

無能力者が法定代理人の同意を得て無権代理行為をなしたるときは如何。独逸民法においてはこの場合には無能力者に本条第１項の責任あるものと規定す。我民法には何等の規定なしといえども解釈家の多数はこの場合において無能力者に責任あること言を俟たざる所となす(富井氏、民法言論４５３頁、新版５３３頁、平沼氏、民法総論５７７頁、三潴氏、民法総則提要４４２頁。反対、川名氏、総論２４７頁)。案ずるにもし本条の責任が黙示の担保契約に基づくものにして無権代理人は法律行為上の責任を負うものとせば法定代理人の同意を得て契約を為したる無能力者が責任を有すべきは言を俟たず。然れども本条の責任は法律行為上の責任にあらず換言すれば当事者の意思に基づきて生ずる責任にあらず不法行為上の責任の如く法律の規定に因る責任なり。故に法律行為の規定が当然の適用を有するものと解するを得ず。然れども本条の責任は尚代理権ありと主張する行為に因る責任にしてその代理権ありと信ぜられるべき行為を為すについて法定代理人の同意を得たるときは更に無能力者としてこれを保護するの理由無かるべし。余は唯この理由によりてのみ行為能力の規定の準用を是認せんと欲す。

　責任発生の要件は以上に尽く、この他に無権代理人の悪意又は過失を要せず又もとより担保の意思表示を要せず、無権代理人自身もまた代理権ありと信じかつこれを信じるにつき善良の管理者の注意を用いたりとするも尚本条に従いて責任を負わざるを得ざるなり。

第３項　責任の内容

無権代理人は履行又は損害賠償の責任を有す。しかしてその孰れの給付を為すべきかは相手方の選択によりて決定せらるべきものにして従って如上の要件を備えて具体的に成立したる債務の性質はいわゆる選択債務なりと謂わざるべからず。即ち債権者の選択権を有する選択債務なり。故にその選択権の行使方法、一方給付の履行不能に因る内容の確定等に関しては一に民法４０６条以下の規定に従わざるべからず(Hupka, a. a. O.S.210 ff.)。

１　履行　　履行の責任を有すというは相手方本人間に契約関係成立し代理人においてこれを履行する義務を有すというにあらず、又相手方代理人間に契約上の法律関係成立し、代理人これを履行する債務を有すというにもあらず、唯代理権ありたる場合に本人相手方に成立すべき契約関係と恰も同一の内容を有する法律関係が法律の規定により相手方代理人間に成立するの謂なり。従って本人の為すべき給付と同一の給付を代理人において為すことを要し、相手方の本人に対して為すべき給付と同一の給付を相手方において代理人に対して為すことを要するなり。例えば相手方が或る物品を本人に売りたるときは代理人において代価を支払うことを要するは勿論、相手方においても物品を給付することを要するが如し。しかして両者の為すべき給付は本人の為すべき給付及び本人に対して為すべき給付と恰も同一なれば履行の時期、場所、方法は勿論、債務不履行の場合について損害賠償の予約あるときは予約もまた代理人の履行について効力あるものとする判例また然り(明治３５年１月１１日大審院判決)。然れども代理人において本人の為すべき給付と同一の給付を為し得るは唯当事者たる人の如何を問わざる給付にのみ限る。例えば教授請負等技倆を要するものについては不能なり。その不能なる場合においては選択債務の内容は第４１０条により損害賠償にのみ集中す。又履行と謂うときは債務契約のみに関するものと言わざるべからず、従って物権契約については唯損害賠償のみ適用あるものとす(独逸においては通説なり。反対 Hupka,a.a.O.S.222 ff.)。

２　損害賠償　　損害賠償と謂うは相手方の被りたる損害を賠償するの謂なること勿論なり。然れどもそのいわゆる損害賠償とは何によりて生じたる損害の謂なるか、無権代理行為を有効なりと信じたるによりて受けたる損害のみを謂うか、あるいは又無権代理行為が本人を拘束すること能はざるによりて生じたる損害の全部を包含するか。前者は学者の消極的契約利益(negatives Vertragsinteresse)と称うる所にして本来無効なるべき行為を有効なりと信じたるが為に受けたる損害なり。後者は学者の積極的契約利益(positives Vertragsinteresse)といいあるいは履行利益(Erfullungs interesse)と称うる所にして契約が無効なるによりて受けたる損害及び失いたる利益の全部を包含す。しかして無権代理人の責任がその何れに属すべきかは独逸普通法時代より多く議論の存したる所にして夫の過失説を採れる者は多く消極的利益に限らんとし、反之担保説を採れる者は履行利益を包含するものとなせり。独逸民法は原則として後者を採用し唯代理人自ら代理権無きことを知らざりし場合においては消極的利益に限るものとなせり。これ学者の多く称賛する所なり。翻って我民法を見るに如何。単に損害賠償と謂いその範囲を規定すること無し。これを解する者多くは契約の有効なることより生ずる利益に非ずして唯これを有効なりと信じたることより生ずる損害に止まるものとなす(富井氏、言論４５１頁、岡松氏、理由１１７条)（１）。然れども余はこれに反対して単に本来無効なるべき契約を有効なりと誤信したることによりて生じたる損害のみにあらずして契約が本人を拘束することを得ざるによりて生じたる損害の全部を包含するものと解せんと欲す。この如く解するによりて始めて相手方は代理権欠缼の為に全く損害を被らざることを得べく、又本条が不法行為の損害賠償を以て満足せざるの趣旨及び履行と損害賠償とを同列に置きたる趣旨を解するを得べし。けだし履行の場合には決して原状回復を目的とするにあらずして契約が有効なりし場合と同一の地位に相手方を置かんとするものなること明なるにもし損害賠償を以て現状に復するの範囲に止むるものとせば性質上代理人の履行を許さざる契約については他の場合と著しく異り相手方の保護極めて薄弱とならざるを得ざればなり。元来法律に特別の規定無しとせば損害の範囲を消極的利益に限るべきにあらず契約の本人を拘束せざることこれ即ち代理権の欠缼より生ずる当然の結果なるが故にこの事実と因果の連絡を有する損害を以て賠償すべき損害の範囲となすを自然の解釈となさざるべからず。例えば甲が本人乙の所有価格１００円の物を無権代理人丙により５０円にて買入れ　これを丁に手付１０円を打ちて１２０円にて売却する契約を為したるに先の売買契約が追認を得ざりしときは甲は丙に対し１００円と５０円との差額５０円、手付１０円及び１００円と１２０円との差額合計９０円を請求し得べし。単に手付流によりて喪失すべき金額１０円のみを請求し得るに止まらざるなり。但し独法の如く代理人善意の場合の責任を消極的利益に限るは我民法の如く一般に錯誤者に何等の責任を認めざる法律にありては権衡を得るものと言うべし(民９５条、独民１２２条参照)。

(１) 今日に於ける学説判例は積極的契約利益説に殆んど一致せり、拙著、日本民法総論４７５頁(注一)参照。

　　　　　　　

第４項　学証の責任

　最終に代理権の存否に関する学証の責任に関して一言を加えて筆を擱かんと欲す。抑も一定の請求を為さんと欲する者はその請求の原因たる事実を証明することを要するを以て学証責任の分配に関する原則となす。然れども代理人に対し代理権の欠缼を理由として請求を為すに当り代理人と相手方と何れが学証の責任を有するやについては嘗て独逸の普通法上幾多の論争を見たる所にして独逸民法はこの論争の結果明文を以てこれを決するを適当なりとし、かつ代理人と相手方とを比較すれば通常の場合において代理権の存在を証明し得べき容易の地位にある者は代理人なるを理由として代理人に学証の責任あるものと規定せり。我民法が「代理権を証明すること能はざるとき」と規定せるもまた同一の趣意に基き代理人に学証の責任を負担せしむるの意義を示せるものにして、即ち相手方は敢て自ら代理権の存在せざりしことを証明するを要せず本人が法律行為上の責任を拒みたることを証明して無権代理人に対し請求を為すことを得るなり。これに対して代理人は自ら代理権の存在せることを証明するに非ずんば責任を免るることを得ざるなり。これが故に実際上においてはあるいは代理権存在するもこれを証明し得ざるが為に本条の責任を負担する代理人無きを保せず。

　以上無権代理人の責任を解説したるは専ら無権代理人が契約を為したる場合に限れり。しかして無権代理人の単独行為を為したる場合については民法１１８条により又以上述べたる所を準用すべきものとす。その準用の詳細に至りては今これを述べず。

所有権より生ずる物上請求権

　　１

　所有権より生ずる請求権はその数、その種類少なくない。他人が所有権を侵害したるときは不法行為上の損害賠償請求権を生じ、他人が所有者の財産即ち所有権によって不当利得を為したるときは不当利得返還請求権を生じ、又権限に基かずして占有を為せる者に対しては民法第１０９条の認むる果実返還もしくは償還請求権、第１９１条の認むる損害賠償請求権を生ずるの外、民法以外の権利としては登記名義者に対して登記の変更に協力すべき旨の登記請求権、所有者の権利を争う者に対しては所有権確認の訴を起こすべき私権保護の請求権等を生ずる。しかしながら今「所有権より生ずる物上請求権」と題して論ぜん　　とする所はもとよりこれ等の請求権ではなく、所有権の円満なる状態を害せられたる場合において所有者はその侵害者に対して所有権の円満なる状態を回復せしむる請求権を有するや否や、これありとせばその要件如何、またその請求権の性質、効力如何等の問題である。玆に論ずる所は所有権より生ずる総ての請求権に関するものではない。

　　２

１　所有権者が所有物を奪われその所有物が他人の所持又は占有中に在る場合において羅馬法は所謂 rei vindicatio 即ち所有物返還請求権又は占有返還請求権を認め、又所持の侵奪又は喪失以外の方法によって所有権が侵害せらるる場合においては所謂 actio negatoria 即ち妨害除去の請求権を認めたること学者の普く知る所である（１）。独逸においてはその固有法時代には所有権に基く返還請求権を認めずして Gewere(占有)に基いてこの権利を認めたが、羅馬法継受以後はこの点に関しても羅馬法の原則を承継し所有権に基いて所有物返還請求権並びに妨害除去の請求権を認めたること疑を容れぬ（２）。

２　独逸民法においてはその普通法と同じく所有物返還請求権と妨害排除の請求権とを認め前者はこれを第９８５条以下に、後者はこれを第１００４条に規定している。従ってこれ等の請求権の性質及び要件については解釈上議論あるを免れぬけれども、これ等の請求権の存在そのものについては議論を見ぬ。

　仏蘭西民法においては名文を以てこの問題を決定しては居らぬけれども、所有物返還請求権と妨害排除の請求権と共にこれを認めていることは疑を容れぬ。学者が所有権その他物権の特質として挙げる追及権（droit de suite）は即ち目的物の所在に追従してこれを主張する権利であって、所有権の如く占有を為す権利を包含する物権にあっては取戻の請求権即ち所有物返還請求権（rei vindicatio, action en revendication）を生ずること明である。しかしてこの請求権は動産所有権と不動産所有権との両者に通じて存在するものではあるが、動産については例の即時取得(仏民２２７９条)の規定によって大なる制限を受くる（３）。妨害排除の請求権については妨害者が地役権を主張する場合のみならず、汎く妨害行為のありたる場合にこれを請求し得べく、又不法行為の要件を具備せる場合においては損害賠償をも併せてこれを請求し得ること学説判例の認むる所である（４）。

　スイス民法においてはその第６４０条第２項において所有者が所有物返還請求権及び妨害除去の請求権を有することを明に規定している（５）。

３　我民法は占有の侵奪について占有回収の訴、侵奪以外の方法による占有の侵害について占有保持の訴えを認め、かつ占有妨害のおそれある場合においても占有保全の訴えを認めているが、これ等は何れも占有権の効力であって所有権その他本権に基づくものではない。しかしてこれ以外にも所有権に基く物上請求権を認めたる直接の規定を見ぬけれども、余は多数の学者と同じく我が法典の解釈上この請求権を認むるを正当と信ずる。今その理由を述べよう。

　理由の第一は権利殊に所有権の性質上当然これ等の請求権を認めざるべからずということである。権利は一定の利益を享受し得べき法律上の力であるから、他人の行為によってその利益享受を妨害せらるる事実上の状態の存するときはその妨害を除去しその利益享受を為し得べき状態に復せしむる法律上の力がなくてはならぬ。所有権についてこれを言えば所有権は法令の制限内において物について一般的支配を為し得る権利であるから、他人が物を占有し又は所持することによって利益享受を妨げる場合には物の返還を請求し利益享受を為し得べき状態を回復する権利が存在せざるべからず、又他人が物の占有又は所持を有せざる場合にも何等かの方法によって所有者の利益享受を妨ぐるときはその妨害を除去し利益享受を為し得べき状態を回復する権利が存在せねばならぬ。この事は敢えて所有権その他の物権に限ったことではない。他人が妻を監置して妻が夫と同居したることを妨げたる場合には夫は夫権の侵害として損害賠償の請求権を有するのみならず夫権を行使し得べき円満なる状態を回復する権利を有せざるべからず、又他人が子を監置したる場合においても同様の権利がなくてはならぬ。もしこれ等の請求権を否認するならば、所有権者その他の権利者は過去の侵害に対して損害の賠償を請求するの外将来に対しては妨害状態の継続を廃止せしむることを得ず、拱手して妨害継続し損害の生ずるを待ちしかして後更に損害賠償を請求するの外救済の途なきこととなる。この如くにして果たして法律が各個人に帰属すべき利益の範囲を定め各個人に利益を享受し得べき法律上の力を与えたる目的を達することが出来るであろうか。もし法律が如上の請求権を否認する名文を置いているならば已むを得ぬであろう。何等の反対規定なくばこれ等の請求権を認むることが権利の性質に適するものと言わねばならぬ。

　理由の第二は物上請求権を認むる民法の規定の類推適用である。既に述べたるが如く我が民法は占有の侵害について諸種の占有の訴を認めている。しかして民法はこれ等を占有の訴と言っているが理論上においては占有侵害によって占有権に基く物上請求権の発生を認めたるものと言わねばならぬ。然るに占有権は物の事実的支配に基く一時的の権利なるに反して所有権は物の一般的支配を正当とする本権であるから、その一時的の権利の侵害についてすら占有回収、妨害除去等の請求権を認むるならば物の一般的支配を正当とする本権の侵害については当然同一の保護を認むるものと言わねばならぬ。加之、第２０２条において「占有の訴は本権の訴と互に相妨ぐることなし」と規定しているのは両者が同一の目的を有することあるべきことを前提としたものと解すべきであるから、本権の訴即ち所有権その他本権の侵害に基く物上請求権が占有の侵害に基く請求権と同一の内容を有し得べきものと解するは我が民法の趣旨に適するものと信ずる。

　所有物回復の請求権については更に第１９１条及び第１９６条を間接の根拠とすることが出来る。即ち両条において回復者と謂うは本権に基いて占有を回復する者を謂うのであるから、所有者が占有又は所持を有せざる場合にその占有又は所持を回復する権利を有することを前提としたるものと言わねばならぬ。

４　判例は嘗て所有権侵害による妨害排除の請求権を否認したが(明治３７年１２月１９日大民判、民録１０頁１６４１頁)、大正４年１２月２日の大審院判決がこの請求権を認めたることは余が嘗て紹介したるが如くである(法協３５巻１号１２２頁拙稿判批、民法研究第２巻１８７頁)。又所有物返還請求権については余が嘗て批評を試みた大正５年６月２３日の判決がある(法協３５巻１号１１６頁拙稿判批、民法研究第２巻１８０頁)。従って現今において判決は所有物返還請求権、妨害除去の請求権共にこれを認めていること疑を容れぬ。

　学説においてはこの両請求権共にこれを認むるを多数説と言うことが出来る。川名博士(法協２８巻５号雑録請求権８０４頁、物権法要論６０頁)、中島博士(民法釈義巻之二上２８３頁以下)、松本博士(志林１５巻８号８２頁)及び横田博士(物権法９頁)は明にこれを認めている。余もまた嘗て同趣旨の論を為したことがある(法協２９巻４号時観)。三瀦博士は優先権及び追及権の説明を以ていわゆる物上請求権の説明を包含せしむることを得るものとしこの請求権を独立の権利と見る近時の多数説を非難しているが(物権法提要１４頁以下、全訂同書上同頁以下)、所有権の保護として「所有物の返還を請求し又はその妨害の排除を求むる権」を認めているから吾人と異なる所は唯この請求を為す権利を所有権の作用又は効力と見るかあるいは独立の請求権と見るかの点のみに存するものと解すべきである。

(１) 羅馬法の actio negatoria 又は actio negativa が地役権の存在を否認することのみを目的とする訴権であったか、即ち妨害者が servitutes を有することを主張したる場合のみにおける救済手段であったか、或は汎く所有権の妨害に対する救済手段であったかは羅馬法の解釈上議論の存する所である。actio negatoria と actio confessoria とを対立せしめて居る点からいうならば、actio negatoria を以て地役権否認の訴権としたものと認むべきが如くであるか、羅馬法発達の後に於ては其範囲を拡張し、所有権の総ての妨害に対して救済方法を認めたるものと解するを正当と信ずる。Windscheid-Kipp,Pand.,Bd. I, § 198, Anm.8,S.1011 ; dort weitere Literatur.

(２) 独逸の普通法で所有物返還請求権の外汎く総ての所有権妨害に対して いてnegatorischer Anspruch を認めたることは羅馬法の actio negatoria に付いて狭義に解する学者も争わざる所である。Dernburg,Pand., Bd.I, § 256, S.624.

(３) Zacharia-Crome,Handbuch des franzosischen Civilrechts,Bd. I,§200,S.610; Colin et Capitant, Cours,t.I,p.679,902.

(４) Zacharia-Crome,a.a.O., § 201,S.614 ; Colin et Capitant, Cours, t. �U,p.352 et suiv.

(５) Wieland,Kommentar zum Schw.ZGB.,Art.641,S.11.

　　３

１　所有物返還請求権の主体は所有者である。独逸民法は「所有者は占有者に対して物の引渡を請求することを得」(９８５条) と規定し、かつ「各共有者は全部の物に付て第三者に対し所有権より生ずる請求権を行使することを得、引渡の請求に付ては第４３２条の規定に従う」と規定しているから法典に根拠して単独所有者及び共有者がこの請求権を有することを明にし得るが、我が民法には同様の規定が無いので共有の場合において解釈上疑問を生ずることを免れ難い。

２　共有者は多分数的所有権を有するものであって各共有者の有する権利は所有権に外ならぬものであるから、他人が違法に所有物を占有又は所持するは所有権の侵害であって所有物返還請求権を生ずること疑を容れぬ。しかしながら各共有者は又他の一面においては単独所有権を有するものではなく唯分数的所有権を有するに過ぎぬものであるから全部の物の返還即ち物自体の返還を請求し得るかあるいは物の占有の一部の返還の請求即ち自己を共同占有者の一人と為すべき旨の請求を為し得るに止まるかは攻究を要する問題と言わねばならぬ。

（１） 共有者の一人が自己の持分を越えて共有物を使用し又は占有せる場合においては解釈上多く疑問を生じない。もしこの場合に他の共有者が全部の物の返還を請求しその他自己の持分を越えて返還請求を為し得べきものとすれば却って相手方の権利を侵害する結果となること明であるから、唯自己の持分に応じてのみ使用を為さしめ又は自己を共同占有者たらしむべきことを請求し得るに止まるものと解せねばならぬ(同説、中島氏、民法講義巻之二上４３８頁)。

（２） 共有者の一人が第三者に対して所有物返還請求権を為す場合については実体法上の問題と学証責任の問題と分つて攻究することを要する。実体法上の問題としては各共有者は自己の持分のみに基いて持分の返還を請求し得るのみならず、全共有者の権利に基いて物自体の返還をも請求し得るものと解すべきである。中島博士は全部の返還請求権を認むる理由として「物の返還は不可分の行為なり、持分に応ずる返還、例之２分の１の返還は不能なり、故に全部の返還を請求することを得ざる可らず」と言っているから(同氏前掲)一部の返還請求権を認めぬものと解せざるを得ぬ。その全部返還請求権を認むる理由の前半、即ち物の返還が不可分の行為なりと謂うについては大体において賛成であるが、之を理由として一部の返還を不能なりとするには同意することを得ぬ。物の返還を不可分行為、不可分給付というは一部の返還が絶対に不能なるが故ではない。占有権も可分的権利であり共同占有を許すものであるから、一部の占有の返還即ち物の一部の返還ということも絶対に不能ではない。唯法律が物の給付義務を認むる場合においては権利者をして直接に物に対して支配行為を為し得べき地位を取得せしむることを目的とするものであるから、普通の場合においてはこれを不可分給付と認むることが法律の目的に適するというに止まる。これ余が大体においては「物の返還は不可分行為なり」という点に賛成する理由である。もしこれに反して物の一部の返還を以て絶対に不可分なりとし持分に応ずる返還は不能なりとするならば、共有者の一人が他の共有者に対して返還請求を為す場合においても持分に応ずる返還は不能なりと言わねばならぬ。然るに論者もまた共有者間の関係においては「所有物返還請求権に準じ自己の持分に相応する共同占有者たらしむることを請求するを得べし」と言っているのである。共有者間においては物の一部の返還が可能であって対第三者関係においてその不能なりと言うは解し難き議論である。

上述の如く第三者に対する関係においても物の一部の返還即ちその共有者の持分に応じたる返還も可能であるから、もしその共有者が第三者に対して持分に応じたる使用を為さしむべきこと又は持分に応じて共同占有者たらしむべきことのみを請求したる場合にはその請求を有効なるものと認めねばならぬ。独逸の多数の学者もまた各共有者が自己の持分のみを証明したる場合には持分のみの返還を請求し得るものと解している（１）。

各共有者が単独に物の全部の返還を請求し得るや否やは民法第２５２条及び第４２８条の解釈問題である。第２５２条の解釈問題としては各共有者が総共有者の権利に基いて共有物自体の返還を請求することが第２５２条に謂う所の保存行為に該当するや否やの問題を生ずる。思うに保存行為とは財産の現状を維持する行為を謂うのであって又所有物の返還請求は所有権の円満なる状態を回復することのみを目的とするものであるから、実態法上の問題としては所有物返還請求権の行使が共有物保存行為に属することは多く疑を容れぬ所である。唯給付の訴えによって裁判上所有物返還請求権を行使する場合については民事訴訟法上いわゆる必要的共同訴訟との関係上尚疑問を生ずるの余地がある。民事訴訟法第５０条(新民訴６２条)には総ての共同訴訟人に対し訴訟に係る権利関係が合一にのみ確定すべき訴訟に関する訴訟手続を規定し、しかして共有者が共同原告たる場合は同条にいわゆる共同訴訟即ち学者のいわゆる特別共同訴訟に属する場合たること疑を容れぬ。しかしながら同条に謂う所の共同訴訟が共同訴訟を必要とする訴訟即ち狭義の必要的共同訴訟とその観念を異にすることは訴訟法上疑を容れぬ所であるから、共有者の共同訴訟が各共同訴訟人に対し合一にのみ確定すべきことを理由として共同訴訟を必要とするものと解することを得ぬ。

大審院の判例(大正５年６月１３日、民録２２集１２００頁)は共有物の所有権自体の確認訴訟を提起するには共有者全員においてすることを要し各自単独にこれを為すことを得ざるものとし、又共有者が自己の共有権を主張してその権利の確認を求めかつその者の為したる不法登記の抹消を請求する場合には共有者単独にてその訴を提起することを得べきものとしている(大正８年４月２日、民録２５集６１３頁)。後の判例の正当なるは疑なく又その問題はこの論文と何等の関係を有せざるものであるが前の判決はこの論文と密接なる関係を有し又その当否について攻究を要するものである。

大審院が共有物の所有権確認訴訟を提起するに共有者全員が原告たることを要するものとする理由は所有権そのものの確認訴訟の提起は保存行為にあらずというの点に在る。しかして保存行為にあらずというの理由は時として所有権を否定したる敗訴の判決を受け事実上他の共有者に不利益を及ぼすことあるべしという点に在る。もしこの理由を正当とすれば各共有者が所有物全部の返還請求を為す場合においてももし総共有者の所有権を理由とするならば事実上他の共有者に不利益を及ぼすものとして大審院は原告の請求を棄却するであろうか。これ大審院の判決がこの論文と密接なる関係を有するという所以である。

大審院のこの判決は三潴博士の正当とせらるる所であるが余はその当否について大に疑を抱く者である（２）。判決の既判力又は確定力は訴訟当事者及びその承継人にのみ及ぶべきものであって第三者には及ばざるものであるから、たとえ民事訴訟法第５０条に謂う所の必要的共同訴訟においても訴訟に関与せざる第三者が既判力の拘束を受けざることは明瞭である。故に共有者の一人が上述の確認訴訟において敗訴するも他の共有者が再び確認訴訟を提起するを得ずという結果を生ずることは有り得ざることである。大審院もまたこの如き結果を認むるものではあるまいと考えられる。このことは上記の判決が特に事実上他の共有者に不利益を及ぼすことあるべしということによってこれを推察することが出来る。然らば行為の性質上は保存行為に属するものであってもその事実上の結果が時として他の共有者に不利益を及ぼすべきときはこれを保存行為と称することを得ざるものであろうか。余は保存行為になりや否やは行為の性質によってこれを決定すべきものであって、その事実上の結果が特に他の共有者に不利益を及ぼすことあり得べきことあるもこれが為に保存行為たることを妨げらるるものにあらずと信ずる。保存行為に属すること疑なきものにあってもその事実上の結果は他の共有者に必ずしも利益のみを齎すものということを得ぬ。例えば共有の牛馬に飼料を与えることはもとより保存行為であるが、不相当に高価なる飼料を与えたる場合、過分に多量なる飼料を与えたる場合には事実上においては他の共有者に不利益を及ぼすであろう。又時効中断の為に催告を為すことはこれまた保存行為として殆ど総ての学者の例として示す所であるが、電報を要せざる場合に電報を用い又電文簡単にて足る場合に長文の電報を発し為に不必要なる費用を支出したるときは他の共有者に事実上不利益を及ぼすことあり得べきである。しかしながらこれが為に何人もその時効中断が無効なりという者は無かろうと思う。故に共有権確認訴訟提起の事実上の結果が他の共有者に不利益なることあり得べしということはその行為は保存行為にあらずという理由たることを得ざるものと言わざるを得ぬ。

独逸の学者ヘルヴィッヒは共有者の一人が所有権確認の訴を提起し得ざるものと論じている（３）。その理由は訴訟当事者適格（Sachlegitimation）を欠くという点に在る。この点は専ら民事訴訟法のみに関するものであるから多く論ずることを避けねばならぬが、総共有者の所有権に基いて所有物返還請求を為すについては訴訟法の理論としても同氏もまた共有者の一人が訴訟当事者適格を欠くものと論ずることは無かろうと思う。何となれば確認訴訟における訴訟の内容は総共有者の所有権の確認であるが、所有物返還請求権の訴における訴訟の内容は返還行為そのものであってたとえ総共有者の権利を理由とする場合においても総共有者の権利そのものではないからである。民法第４２８条の解釈問題としても各共有者が総共有者の為に全部の物の返還請求を為し得べきものと解せざるを得ぬ。けだし総ての共有者が共有物の占有者又は所持者に対して共有物の返還請求権を有する関係については第４２８条を類推適用すべく、しかして第４２８条を類推適用すれば上述の結果を生ずること明なるが故である。第４２８条を類推適用すべしというは所有物返還請求権が物上請求権であって債権そのものにあらざるが故である。又第４２８条を類推適用し得る理由は物の返還ということが上述の如く普通の場合においては不可分行為と認むべく分割して給付することによっては請求権の目的を達し得ざることを常とするものと解するからである。

以上を以て各共有者が実体法上持分に応じたる返還請求権を有するか物自体の返還請求権を有するかの問題を明にし得たりと信ずる。更に進んで上に一言したるが如く学証責任の問題を論ずべきであるが、この点は主として民事訴訟法に関することであるから極めて簡単に結果を述ぶるに止めようと思う。共有者の一人が持分に応じたる返還請求を為すに止まる場合においては、その返還請求の基礎たる権利はいわゆる共有権に止まるものであるから原告は自己が共有者の一人たることのみを証明する責任を有し、総共有者の権利を証明する責任を負わざることは明瞭である。これに反して所有物自体の返還請求を為す場合においては、総共有者の為に保存行為を為すものであってその基礎たる権利は完全なる所有権そのものであると言わねばならぬ。故に独逸の多数の学者の認むるが如く原告は所有権そのもの即ち総共有者の権利について学証責任を有するものと解するを正当と信ずる（４）。

（１） Biermann,Komm. Zu § 1011,S.311 ; Planck,Komm.zu §1011,S.346 ; Staudinger-Kober, Komm.zu § 1011,S.523 etc.

（２） 三瀦氏、判批、法協３７巻９３頁以下、同氏、物権法提要１４３頁、全訂同書上１３１頁。

（３） Hellwig, Anspruch und Klagrecht, S. 182.

（４） Biermann,a.a.O.; Kober,a.a.O.

　　４

１　所有物返還請求権は何人に対して成立するものであるか。余は前節において所有物返還請求権の主体を論じたがら、本節においてこの請求権の相手方を研究すればこの請求権においていわゆる原告たる適格（Aktivlegitimation）と被告たる適格（Passivlegitimation）との研究を了るのである。

　所有物返還請求権の相手方として問題と為るべき者は三種ある。占有者、所持者及び占有機関是である。独逸民法は「所有者は占有者に対して物の引渡を請求することを得」（985条）と規定しているから、占有者に対しては直接占有者たると間接占有者たるとを問わず所有物返還請求権あり、これに反して占有機関（Besitzdiener）に対してはこの請求権なしと解するを多数説とする。我が民法についてこの問題を決定するが為には、法典に規定なきが故に所有物返還請求権の性質に発足するの外はない。

２　占有者の中解釈上疑問を生ずるは独逸民法のいわゆる間接所有者、我が民法のいわゆる代理人による占有者である。直接占有者は自己の為にする自己自らの所持によって所有権の円満なる状態を妨害するのみならず、自ら引渡を為すことによってその円満なる状態を回復し得べき者であるから、所有物返還請求権の相手方たるに適する者たること疑を容れぬ。

　間接占有者に対して所有物返還請求権を行使し得べきや否やは独逸民法の解釈上議論の存する所である。消極説の論者中代表者と認むべき者はヴェントであるが、その論拠とする所を見るに次の４点に帰する。第一点は羅馬法においてこの問題が消極に決定せられたということである。第二の点は所有物返還請求権は物の引渡（Herausgabe）を目的とするものであり、しかして間接占有者は自ら物を所持するものにあらざるが故に、物の引渡そのものを為すことは間接占有者には不能なりということである。第三の点は独逸民法立法当時間接占有者に対しての所有物返還請求権を認めんとする提案が否決せられたということである。最後に第四点として彼は消極説の間接の法典上の根拠として独逸民法第９８６条、第９４１条を挙げ、第９９１条、第１００６条が消極説の根拠となり得ざることを論じているが、この点は我が民法の解釈上全く参考とならぬからこれを略する（１）。

独逸民法における現今の通説は間接占有者に対しても所有物返還請求権の成立を認むる。その論拠は大体次の五点に帰する。第一は第９８５条には単に占有者といい何等の区別を認めざるが故に、間接占有者をも包含するものと解するが正当なりということである。第二は間接占有者に対しても所有物返還請求権を認むることがその実際的結果において妥当なりということである。第三は物の引渡ということは必ずしも現実の引渡のみを意味せず間接占有者が直接占有者に対して有する引渡請求権の譲渡を為すこともまた引渡と称すべきものなりということである。第四は消極論者の挙ぐる独逸民法の規定が消極説の間接の根拠たるに足らずということである。第五は独逸民事訴訟法第８８６条が物の所持を為さざる者に対しても物の引渡を為すべき旨の判決を認めているということである（２）。

　我が民法の解釈上中島博士は間接占有者に対しても所有物返還請求権を行使し得べきものとし、かつこの場合には間接占有者が直接占有者に対して有する返還請求権の移転を以て目的と為すべしと述べている(中島氏、民法釈義巻之二上２８８頁)。この見解の理論上又は解釈上の理由について中島博士は説明を加えて居られないが、余は次に述ぶるが如き理由によって大体において同一の見解を採る。

　理由の第一は代理人によって占有を為せる者もまた所有権の円満なる状態を妨害しつつある者なりということである。独逸民法に謂う所の間接占有者は略々我が民法謂う所の代理人による占有者に該当するのであるが、嘗て述べたるが如く我が民法における代理占有又は代理人による占有はいわゆる代理人の所持と本人代理人間における特殊の法律関係とに基くものであるから、本人は自己と特殊の法律関係に在る者の所持によって自ら占有を為すものと言うべく、従って所有者に対する関係においては自己の占有によって所有権の円満なる状態を妨げつつあるものと言わねばならぬ。しかして所有物返還請求権の相手方たる者は所有権の円満なる状態を妨げつつある者であるから、この点より見れば代理人による占有者もまたその相手方たるに適するものと解せねばならぬ。

　理由の第二は代理人による占有者もまた所有権の円満なる状態を回復するに適する者なりということである。この点については２個の場合を区別して攻究するを便とする。その一はこの如き占有者が直ちに物自体を自己に回復することを得べく従って遅滞なくこれを所有者に返還し得べき場合である。例えば代理占有の基礎たる法律関係が寄託なる場合には寄託者は民法第６６２条によって何時にても寄託物の返還を請求し得るものであるから、所有者より所有物返還請求を受けたる場合に遅滞なくその返還を為すことは可能なりと言わねばならぬ。従ってこの場合においては所有者は直接に物の返還を請求することを得るものと解すべきであって、所有者が物の返還請求を為すか或は返還請求権転移の請求を為すかは所有者において自由に決定し得るものと言わねばならぬ。この点において余の見解は中島博士の見解と少しく異なるのである。その二は代理人による占有者が直ちにその物の所持を代理人より回復し得ず従って遅滞なく物自体を所有者に返還することの不能なる場合である。例えば代理占有の基礎たる法律関係が賃貸借、使用貸借、地上権、永小作権、質権等である場合はこれに属する。この場合においては所有者は或は直ちに返還請求権の移転を為すべきことを請求し得べく、或は又代理占有者が物自体を回復したるときにこれを所有者に引渡すべきことを請求し得べきである。以上何れの場合に属するかを問わず代理人による占有者がその代理人に対して有する返還請求権を所有者に移転することは少なくとも常に可能であって、しかもこの請求権の譲渡が我が民法上指図による占有の移転として（184条）占有移転の一に属することは明瞭であるから、これによって所有権はたとえ完全にはその円満なる状態を回復せられずとするもその状態を回復するについて明に一歩を進めたるものと言わざるを得ぬ。しかして代理人による占有者がいやしくも或る範囲において所有権の円満なる状態を回復せしむることの可能なるにおいては不能を理由として所有物返還請求権の相手方たる適格を否認すべきではない。

　上述の点に牽連して攻究することを要するは所有者が直接に占有者の代理人に対して所有物返還請求を為し得るや否やの問題である。所謂代理人が直接占有者たる場合（例、転借人）には上に述べたるが如く返還請求権の相手方たる適格を有することは明瞭であり、又所謂代理人が所有者たるに止まる場合（例、無償受寄者）にも後に述ぶるが如くこれに対して返還請求権を行使し得るものと解すべきである。しかしこれを理由として代理人による占有者本人に対して返還請求権を認むることが何等の実益なきものと論ずるは誤である。その実益の決して尠少にあらざることは次に述べよう。

３　代理人による占有者に対して所有物返還請求権を認むることは実際上の結果において妥当であるか。今この点を少しく考えて見たい。

（１） 代理人の為めに所有権の円満なる状態が害せられている場合に、所有者は代理人による占有者を知るもその所謂代理人の何人なるかを知らざることが少なくない。この如き場合には所謂代理人のみに対する請求権を認むるのでは物上請求権の目的を達することが頗る困難である。例えば代理人による占有者が動産の貸付を業とする者なるが如き場合には、多数の借主の中何れが当該の物について所謂代理人たる地位に在るかを知ることは頗る困難であろう。この如き場合には代理人による占有者たる本人に対して所有物返還請求権を認めその貸付業者をして当該の代理人に対する返還請求権を譲渡せしむるの外、所有物返還請求権の実行を収むることは困難である。

（２） 代理人たる人が明瞭なる場合においても代理人による占有者本人に対して返還請求権を認むることはその実益少なくない。例えば代理人が倉庫業者であるとかその他物の保管を為すに適当なる者なるときは所有者は依然その代理人をして保管せしむることに実益を有することが少なくない。この如き場合に代理人たる者をして所有者に物を返還せしむるの外所有物返還請求権を行使するの方法なしとするは不便である。

代理人たる人が明瞭であり所有者がその代理人自身に対して所有物返還請求を為すことが法律上可能なる場合においても、代理人は自己に占有又は所持を為さしめたる者に非ざる者に物を引渡すことが本人に対する義務違反となることをおそるるが為に目的物の引渡を拒絶すること事実上においては寧ろ少なくあるまい。しかしてこの如き事実上の障害を除去する最も確実なる方法は、その代理人の本人即ち代理人による占有者に対して所有物返還請求権を行使し、本人が代理人に対して有する返還請求権の移転を受くることである。

（３） 代理人による占有なりや占有機関による占有なりやを区別することは往々にして困難なるが故に、もし代理人による占有の場合において所謂代理人に対する請求権のみを認むるときは請求賢者に頗る不利益なる結果を及ぼすのおそれがある。詳しく言うならば、後に述ぶるが如く占有機関による占有の場合においては占有機関その人に対しては所有物返還請求権なく唯その機関による占有者本人に対してのみ請求権あるものであるから、所有者が直接に物を所持している者に対して訴を提起するときは、その者が独立の所持者に非ずして占有機関に過ぎざることを理由として敗訴するのおそれがある。然るにもしこの場合においてその機関による占有者本人に対して訴を提起するもその直接占有者にあらずして代理人による占有者に過ぎざることを理由として敗訴するのおそれありとするならば、所有者は終に何人に対しても安んじて所有物返還の訴を提起し得ざる結果となるであろう。

４　代理人による占有者に対して所有物返還請求権を認むるに就き最後に疑問と為るは、所有者の所有権を有することが証明せられたるときは被告は所有権を有せざることに確定すべく、然らば被告の代理占有もまた当然消滅するに非ずやという点である。この問題は所有物返還請求権の問題と言わんよりは寧ろ代理占有の問題であるから今は詳説を避けるが、余は原告の所有権の確定せらるることは必ずしも被告の代理占有を消滅せしむるものにあらず、従ってこの点もまた代理人による占有者に対して所有物返還請求権を認むるの妨とならざるものと解する。原告の所有権が被告の代理占有を消滅せしむることなきやということについて問題を生ずるのは、代理占有の基礎としては本人代理人簡に物の所持を為さしむべき法律関係の存することを要し、しかしてこの法律関係は本人の占有を為すべき権利に基くことを要するのであるが、原告が所有権を有するという事実は被告についてこの占有を為すべき権利を消滅せしめ、従って当然代理占有を消滅せしむるのではないかという疑問があるからである。しかしながらたとえ原告に所有権ありという事実が確定しても、尚被告は地上権者とし、永小作権者とし、質権者とし、或は賃借人として占有を為すべき権利を有することがあるから、この如き場合にはその賃借人等とこれ等の者の所謂代理人との間に代理占有の存在し得ることは明である。唯所有者と被告との間の賃貸借契約等が取消され遡及的に賃借権が消滅したるが如き場合にその賃借人は尚転借人によりて代理占有を為せるものと認め得るや否やの点については頗る疑問と言わざるを得ぬが、余はこの場合においてもその賃借人たりし者は所有物返還請求権の相手方たる適格を失わざるものと解する。けだし代理人による占有は占有と同じく一の事実的関係であるから、たとえ所有者賃貸人間における賃貸借契約が遡及的に消滅することがあっても、一旦この関係の存在したりし事実に基く代理占有そのものは当然消滅することなきものと解するを正当とするが故である。

５　所持者に対して所有物返還請求権ありや否や。このことは独逸民法の如く占有の為に特に心素を必要とせざる法律の下にあっては問題とならぬが、我が民法においては占有成立の為に体素の外心素として自己の為にする意思を要するから、無償受寄者の如く他人のみの利益の為に所持を為す者に対しても所有物返還請求権が成立するや否やの問題を生ずるのである。この点に関して中島博士は特に説明を加えざるも占有者を以てこの請求権の相手方と為すのみならず、占有者に対してこの請求権を行使する場合の学証責任について、「其立証の方法は単に被告が物の所持を有するの事実を立証すれば可なり、占有の他の要素たる自己の為にする意思は之により推定するを得可し、何となれば物の所持を有する者は自己の為にする意思を有するを常とすればなり、もしも被告は単に占有の機関にして占有者に非ざることを主張せんと欲せば其立証責任は被告に在り」と説くを以て(釈義巻之二上２８６頁)、所有物返還請求権の相手方は占有者たることを要し唯その学証責任については原告において心素の立証を要せざるものとせられるのである。余はこれに反し所持者に対しても所有物返還請求権の成立するものと解し、たとえ被告において自己の為にする意思を有せざることを立証するも返還義務を免るる能はざるものと信ずる。

所持者は自己の為にする意思を有せずというの点において占有者と異なっている。しかしながらこの事実は所有物返還請求権の相手方たる適格を有するや否やの問題については関係なき事項である。何となれば占有者に対して所有物返還請求権を認むる理由は意思の点に存するのではなくして、所有権の円満なる状態を妨害する者でありかつ目的物を返還して所有権の円満なる状態を回復し得べき地位に在る者なるの点に存するのであり、しかしてこの理由は所持者についても存在するが故である。中島博士は自己の為にする意思を有せざる所持者は常に必ず占有機関なるが如く説明するも(中島氏、前掲及び２０９頁)、占有の体素を自ら具備する所持者と体素についても他人の事実的支配を仲介するに過ぎざる占有機関とは明にこれを区別せねばならぬ。後者については余も所有物返還請求権の相手方たる資格を有せざるものと解するが、前者については上述の理由によって占有者と同じくこの資格を具備するものと解する。

所持者が所有物返還請求権の相手方たる地位を有するものと解するは我が民法第１９７条が占有訴権の主体として「他人の為に占有を為す者」を加えていることと権衡を保つものと考える。第１９７条の「他人の為に占有を為す者」ということの意義については解釈上多少争があるが、占有機関を謂うのでは無くして他人のみの利益の為に代理占有を為す者、即ち自己の所持によって他人の為に占有を為さしむる者を謂うものと解するが正当である。しかしてこの如き所持者が占有について原告たる適格(Aktivlegitimation)を有するものとしたる我が民法の解釈としては占有又は所持の返還の被告たる適格(Passivlegitimation)についても同様に解することを妥当と信ずる。

６　占有機関(Besitzdiener)が被告たる適格を有せざるものと解すべきは上に一言したる所である。この点について独逸民法の解釈上多少議論があるが、消極説を以て通説とする。積極説の代表者たるイザイはその理由として羅馬法が単純なる所持と占有とを常に区別せるに拘わらず所有物返還請求権については所持者に対してもこれを認めたること、実際上の結果において優れること、及び他人の為に占有機関たることは自らその物の上に支配を為すことを妨げざることを挙げているが（３）、多く学者の注意を惹いて居らぬ。思うに上に述べたる所持者と区別して占有機関の意義を定むるならば、体素についても独立にこれを具備せる者ではなくしてその僕婢の如く主人の体素を成立せしむるに助力するに過ぎぬ者であるから、これ等の者が所有権の円満なる状態を妨害しつつありと解するは事実に反すべく、この点において既に所有物返還請求権の相手方たる資格を欠如しているものと言わねばならぬ。加之イザイの述べる実際的理由は間接占有者に対して所有物返還請求を為し得ずということを前提とするものであるから、吾人の如く代理人による占有者について被告たる適格を認むる見解にとっては多く顧慮するの要なきものである（４）。

占有機関たることの学証責任については独逸民法の解釈上多少問題となっているが、その多数説の認むるが如く、原告において被告が物を握持せることを証明したる場合に占有機関に過ぎざることを理由として請求を拒絶せんとするならば、被告においてその事実の立証を為すべきものと解するを正当とする。蓋し被告が物を握持するに拘わらずその所持者たらざるは被告と本人との間に存する特別の関係に因るものであるから、この如き特別関係の存することに因って一般の場合に存すべき所持の存在を否認する者はその特別の事実について学証責任を負うものと解すべきが故である。

７　所有物変換請求権の相手方たる適格を有する者は上に述べたるが如く物の占有者及び所持者である。しかしてこれ等の者が被告たる適格を有する理由は自己の占有又は所持に因って他人の所有権の円満なる状態を害するという事実に存するのであるから、その善意、悪意、過失の有無、占有又は所持を取得したる原因の如何、単独占有者なりや共同占有者なりやは全くこれを問わないのであるが、所有権の円満なる状態を妨害するという事実は存在せねばならぬのであるから、現在の占有者又は所持者でなければならぬ。この点について次の諸点を研究せねばならぬ。

(1) 嘗て占有者たり所持者たりし者が請求当時既に占有又は所持を有せざるときは被告たるの適格を有せざる者である。この点に関して大正９年７月１５日の大審院第２民事部の判決(大正９年(オ)第１２２号、民録２６集１４巻７９３頁)が「物権的請求権は物権が侵害せられたる為め其内容に適合せざる状態を生じたる場合に於て其状態の回復を請求する権利なるを以て其請求を受くべき相手方は物権を侵害する者ならざるべからず、しかして嘗て物権を侵害したるも現にこれを侵害せざる者に対しては回復の請求を為すに由なきものとす」と判事しているのは誠に正当である。

(2) 所有物変換請求の当時被告が物の占有者又は所持者として被告たるべき適格を有したるに爾後口頭弁論終結以前に被告がその目的物を第三者に引渡したるときは如何なる結果を生ずべきか。思うに判決は判決当時における法律関係を基礎とすべきものであるから、権利拘束の後被告が占有又は所持を失いたる場合においては被告は被告たるべき適格を失いたるものと言わねばならぬ。しかしながら原告が訴提起の当時における被告の占有又は所持を証明したる場合においては爾後の占有又は所持の喪失については被告その学証責任を負うものと言うべく、又原告は訴の原因の変更となることなくして所有物返還請求を損害賠償の請求に変更し得るものと解せねばならぬ（５）。

(3) 占有者又は所持者がその占有又は所持を移転したる場合においては、所有者は現在の占有者又は所持者に対して所有物返還請求を為すか又は原占有者又は所持者に対して損害賠償請求を為すことを得る。現在の占有者又は所持者は上に述べたるが如く所有権の円満なる状態を妨げつつある者として被告たる適格を有するのであって、この如き特定承継人の善意なると悪意なるとを問わず所有物返還請求権を行使し得ることは占有回収の訴と大に異る所である（６）。又現占有者又は所有者の物上請求権に対して債務に準ずべき義務を負担するものであるから、その目的物を他人に移転したる場合においては債務不履行という理由に因って損害賠償義務を負担すべきである。又この場合に不法行為上の損害賠償請求権も競合し得ることは勿論である。尚この返還義務の履行不能についても上述の大審院判決は参照の価値あるものである。

(4) 占有者又は所持者に対する所有物返還の訴が確定したる後被告がその目的物を第三者に移転したる場合には、判決の効力はその第三者に及ばざること勿論である。この不利益を避けんとするならば原告は仮処分の方法によるの外はない。

８　これを要するに、所有物返還請求権の相手方たる適格を有する者は現在の占有者又は所持者であって、この外にはその適格を有する者は無い。独逸普通法においてはこの外いわゆる擬制的占有者(ficti Possesores)に対しても所有物返還請求権を認めた。その一はいわゆる qui liti se obtulit であって、即ち真正の占有者に対する訴訟を妨げんが為に虚偽に自己を占有者なりと主張したる者であり、その二はいわゆる qui dolo desiit possidere であって、即ち訴の提起以前に悪意を以て占有を失いたる者である。独逸民法第９８５条の解釈としてはこれ等の二者は所有物返還請求の被告たる地位を有せざるものと解せられているが、我が民法についても同様に解すべきである。もしこれ等の者に被告たるべき適格を認めんとするならば特別の立法を必要とするのであって、特別の法規なくば唯損害賠償請求権損否の問題を生ずるに止まる。

　（１） Wendt, Der mittelbare Besitz des burgerlichen Gesetzbuches,Arch. Ziv.Prax.87,S.68 ff.; Gutachten zum 24.Juristentag,1898,3,S.3　ff.; Gareis,Einfuhrung,S.237.

　（２）　　Biermann, Sachenrecht, S. 269,Komm. Zu § 985 ; Wolff, Sachenrecht, § 84, S. 265 ; Gierke, Die Bedeutung des Fahrnisbesitzes,1897,S.52 ff.; Windscheid-Kipp, Pand. I,S. 1003 fg., strohal, Der Sachbesitz nach dem BGB. In Jherings J.38,S.44 ff. usw.

　（３）　　Isay, Geschaftsfuhrung, 1900, S.296 fg. ; Endemann, § 90 Ziff. 2 a,S.584 fg.

（４）　Gierke, a.a.O.,S.52 ; Biermann, zu § 985,S.269; Kretzschmar,Bem. 2 c, S.264; Staudinger-kober,Bem. �Z zu §　855 S. 29, �U２ b zu § 985,S. 470; Wolff, a.a.O.

（５）　 参照、中島氏、釈義巻之二上２８８頁、２３８頁以下、Biermann,a.a.O.,S.269.

（６）　 同説、中島氏、前掲。

（７） Biermann, a.a.O.,zu § 985,S. 270; Wolff,a.a.O.,S.265; Siber, Passivlegitimation bei der rei vindicatio,S.11.

　(前記)　物上請求権については其性質、其時効等尚論ずべきこと多々あるが、既に他の機会に於て述べたことがあるから今は之を以て擱筆する。

代理占有

　　　　　　　　

　　１

我民法は占有の取得及び継続について代理を認む (１８１条２０４条)。然れども固有の意義における代理即ち民法総則に謂う所の代理は意思表示のみに関し、しかして占有の取得、占有の継続共に意思表示にあらざるが故に固有の意義における代理が占有について成立することを得ざるは明なり。占有の取得は我が民法上自己の為にする意思と物の所持とによりて成立するが故に、単純なる事件にはあらずして一定の意思を要素とする法律要件なり。然れどもこの意思は所持の事実上の利益を自己に帰せしめんとする意思にして法律効果の発生を内容とするものにあらざれば効果意思にはあらず。又この意思は所持と相並んで占有取得の要素を為すものにして、所持によりてこの意思の表示せらるることを要するものにあらず、又所持以外の方法によりてこの意思の表示せらるることも法律の要求する所にあらず。故に占有取得は何れの点より見るも意思表示にはあらず。占有の継続また然り。占有継続の為に常に自己の為にする意思の存在することを要するや、或は単に占有意思を放棄せざることのみを必要とするに止まるやはやや疑問にして、余は後の見解を正当とする者なりといえども、その問題の何れに決せらるるやを問わず占有継続の為に占有取得より更に厳格なる要件を必要とするの理なく、その意思が効果意思にあらず、その所持が表示行為にあらざるは彼とこれと異なることなし。

或は曰く、権利の取得について代理を許すは法律の原則なり、しかして占有権もまた一種の物権なる以上は代理人によりてこれを取得するを得るや勿論なりと(民法理由４８頁)。この論者は又占有継続は権利の行使なるが故に当然代理を許すものなりと論ずべし。然れども共に誤れり。権利の取得は総て皆当然の代理を許すものにあらずして、意思表示による権利取得のみ代理を許すものなり。権利の行使また皆総て当然代理を有するものにあらず、権利の行使が意思表示なる場合においてのみ代理を許す。けだし代理によりて本人について法律効果を生ずるは代理人これを欲するの意思を表示するが為なり。故に行為者の効果意思を基本として法律効果を生ずる法律要件、即ち法律行為にあらざれば代理を認むべきの理なし。

代理占有におけるいわゆる代理は固有の意義における代理にあらずとせば代理占有は如何なる法律上の性質を有するものなるか。代理占有は如何なる法律事実を以てその成立要件とするか。代理占有は如何なる法律効果を生ずるか。民法は「占有は代理人によりてこれを取得することを得」と規定し、かつ代理占有における占有権消滅の原因についてのみ比較的詳細なる規定を設けるに止まるが故に、その性質、要件及び効果については占有の性質と民法総則における代理に関する規定の準用とによりてこれを論定せざるべからず。殊に余は代理占有の成立要件に関して従来の学説とやや異なりたる見解を有するが故に、本編においては主としてこの点に関して論述せんとす。

　　２

占有成立の要素として我が民法は心素として自己の為にする意思を必要とし、体素として物の所持を必要とす。代理占有についてもまたこれに該当すべき心素と体素とを必要とするは疑を容れざる所に属す。然れどもそのいわゆる心素は本人と代理人との双方について存することを要するや否や、その体素はいわゆる代理人について存することを要するや否や、多少の疑問無きにあらず。又固有の意義における代理の有効に成立するが為には本人代理人間に一定の法律関係あること即ち代理人が代理権を有することを必要とす。この法律関係は代理占の場合においてもまた存在することを要するや否や。今これ等の点について順次に所見を述べんとす。

１　代理占有の成立要件としてはまず第一にいわゆる代理人が物を所持することを要す。この点に関しては学説上何等の争なく、占有の本質より論ずるも、民法第２０４条第３号について見るもわずかも疑を容れざる所に属す。

２　代理人が本人の為にする意思を有することを要す。代理占有の成立するが為にいわゆる代理人が本人の為にする意思を有することを要するは第２０４条第２号について見るも、固有の意義における代理とこれを比照するも、将た又占有の性質についてこれを見るも疑を容れざる所にして、学説上もまた議論の存せざる所に属す。然れどもここに本人の為にする意思と謂うは固有の意義における代理の場合と異なり、所持の法律効果を本人に帰属せしめんとする意思を謂うにあらずして、唯本人の利益の為に物を所持する意思を謂うなり。或はこれに反して代理人が本人の為に占有権を取得する意思を有することを要するものとする学説あり(富井氏原論６７２頁)。然れども占有の心素たる自己の為にする意思は事実上自己の利益の為に物を所持する意思にして、物の所持の法律効果を自己について発生せしめんとする意思にあらざること明なるが故に、代理占有における本人の為にする意思もまた事実上本人の利益の為にするの意思なりと解せざるべからざるなり。

或は曰く、本人の為と云うは本人にその目的物を返還すべき点においてこれを云うものなりと(川名氏物権法要論２８頁)。語簡にしてなお明ならずともいえども、返還すべき法律上の義務ありと認むることを要すというにあらずして事実上本人に引渡すべきことを認むることをいうものとせば、大体において正当なり。然れども返還すべきことを認むという字句は妥当を欠く。もし返還すということを厳格に解し本人より受領したる物を再び本人に引渡すことを謂うものとせばいわゆる代理人がその物の所持を本人より伝来的に取得せる場合においてのみ代理占有を認むることとなり、例えば物品の購入を委任せられたる者が本人の為にすることを示してその物の所有権を取得しかつ本人の為にその物の所持を取得するも、その所持は本人よりこれを伝来したるものにあらざるが故に本人は代理占有を取得せざることとなるべし。然れども民法１８１条がこの場合を包含するものなることは疑を容れざるべし。又もし「返還すべきことを認む」というを解して単に物の引渡すべきものなることを認むというの義なりとせば、これ又明に代理占有を認むること広きに失す。物の引渡を目的とする債権を有する者は皆債務者によりて代理占有を為すものとなるべし。故にこの見解もまた正確なりということを得ず。これが故に余は所持の事実上の利益を本人に帰属せしめんとする意思を要するものなりと云うを以て理論上正確なりとするなり。

本人の為にせんとする意思は自己の為にせんとする意思と相妨ぐることなし。固有の意義における代理においては本人の為にせんとする意思と自己の為にせんとする意思とは相並立することを得ず。これ固有の意義における代理において本人の為にすることを示すというは本人について法律効果を生じめんとする意思を表示することを謂いしかして法律効果は同時に自己と他人と双方について生じ得ざるを以て原則とすればなり(第三者の為めにする契約はその例外を為す)。然るに一定の行為又は一定の事実関係より生ずる事実上の利益は本人と行為者との双方について発生することを得るを以て、事務管理において管理者が自己の為にする意思を有することは同時に又本人の為にする意思を有することと相妨げざるが如く占有において本人の為にする意思と自己の為にする意思とは相妨ぐることなきなり。唯所持者が自己のみの為にする意思を有する場合には代理占有の成立することを得ざるに止まる。例えば盗者は自己のみの為に物を所持する意思を有するものなるが故にもとより本人は盗者によりて代理占有を為すものにあらざるも賃借人、地上権者、小作人、質権者の如きは自己の為にすると同時に所有者又は質権設定者の為にする意思を有する者なるが故に賃借人等が占有を有するのみならず所有者等もまた占有を有するなり。

本人の為にする意思はこれを表示することを要するや否や。固有の意義における代理にありては本人の為にする意思は表示せらるることを要す。けだし固有の意義における代理においていわゆる代理意思の表示を要するは、代理せらるべきものが意思表示にして即ち表示行為なるが為なり。然るに代理占有にありては代理せらるべきものは占有にして表示行為にはあらず、故にいわゆる代理意思もまたこれを表示することを要せざるものと解せざるべからず。加之、もし代理意思の表示を必要とするものとせば、いわゆる代理人が原始的に所持を取得する場合においては代理占有を認むることを得ず、又占有の継続については殆ど全く代理を認むることを得ざるに至らん。けだしいわゆる代理人が本人の為にする意思を表示したること、即ち外部より所持者にこの如き意思ありと推断し認定するに足るべき身体の挙動ありたることを要するものとせば、これ等の場合に代理占有を認むることを得るは事実上殆ど絶無なるべければなり。富井博士の民法言論(６７２頁)に説明せらるる所はこれに反して表示を必要とするものの如し。

３　代理人が本人の為に物を所持すべき法律関係あることを要す。固有の意義における代理の場合においても本人代理人間に一定の法律関係あることを要す。代理権又はこれと同一の法律効果を生ずる追認是なり。代理占有は固有の意義における代理にはあらずといえども、本人が他人の所持によりて占有を有するが為にはその本人と他人との間に一定の法律関係なかるべからざること理論上寧ろ当然にして、又民法が代理という字句を使用せるによりても少なくとも代理権類似の関係が本人代理人間に存することを要する趣旨を知り得べし。一派の学者は代理占有成立の要件として明にこの要件を挙げずといえども、その代理権消滅原因を説くに当り代理占有は理論上代理関係の消滅によりて消滅すべく民法第２０４条第２項はこれに対してとく特則を設くるものと説明するを見れば、尚代理占有の成立要件として代理関係の存在することを必要とする趣旨に外ならざるものと解すべきなり(三瀦氏全訂物権法抵要２７５頁、同３２８頁、尚川名氏物権法要論２８頁参照)。

然れども代理占有の場合において本人代理人間に存在することを必要とする法律関係は固有の意義における代理権と全然同一の法律関係なることを得ず。彼にありては意思表示により本人のみに法律効果を帰属せしむるに適当なる法律関係を要し、ここにありては所持によりて本人のみに或は本人にも占有を取得せしむるに適当なる法律関係あるを以て足る。しかしてこの後の法律関係は固有の意義における代理権と相伴いてのみ存在し得るものと解すべき何等の理由なきを以て、代理占有の成立に必要なる法律関係は固有の意義における代理関係なることを要せざるものと言わざるべからず。今試にこの法律関係を一派の学者に従いて広義の代理関係と言わんとす。

代理占有の成立に必要なる広義の代理関係は如何なる場合において存するか。我民法の解釈上疑問に属すといえども、余は次の場合においてこの関係を認むるを正当なりと信ず。

（１） 固有の意義における代理権あり、この代理権に基きて物の所持を為せる場合。

本人が法律関係について代理権を授与し代理人がこの代理権の範囲内において法律行為を為すにつき他人より物の所持を取得したる場合には、本人をして代理占有を取得せしむるに適する法律関係あるものと解すべきこと疑を容れず。この点については疑問を容るべき余地なし。従って又代理人がその権限の範囲を越えて法律行為を為すに当り物の所持を取得したる場合、又は法律行為に関係なく物の所持を取得したる場合においては、代理占有を成立せしむることを得ざるものと解せざるべからず。この後の場合において生ずる問題は即ち夫の追認の問題なり。意思表示の代理については権限超過の場合たると全然無権限の場合たるとを問わず追認によりて始より代理権ありたると同一の法律効果を生ずるものなるが故に、代理占有の場合においても追認は遡及効を生じ、始より代理占有の存在したると同一の法律効果を生ずるや否やの問題を生ずるなり。この点に関し従来の通説は代理占有についてもまた追認に遡及効を認むるものの如し(富井氏原論６７３頁、横田氏物権法１５４頁)。然れども代理占有と固有の意義における代理とはその法律上の性質を異にしその法律効果を生ずる理由を異にするが故に、追認に関する第１０６条の規定を当然代理占有に適用するはもとより正当なりと言うことを得ず。又これを準用するものと解するについては準用の根拠たる同一の法律的理由ありや否やを審査するを要す。意思表示の代理について追認の遡及効を認むるは始より法律行為の効力を発生せしむることが当事者全部の意思に適するが為なり。従って玆にいう遡及効は法律効果が行為者の効果意思を基礎とする場合においてのみこれを認むべきものなり。然るに代理占有において本人が占有を取得するは行為者の効果意思に基くにはあらずして本人と物との間に占有保護を与うるに足るべき事実上の関係あるが為にして、この事実上の関係は追認といえる本人の意思表示によりて遡及的にこれを成立せしむることを得ざるが故に、代理占有の追認について常に遡及効を認むるは法律上の理由を欠くものと言わざるを得ず。故に余はいわゆる代理人が法律行為を為すに当りその一部として占有権を承継したる場合と然らざる場合とを区別し、前の場合には追認の遡及効を認め、後の場合にはこれを認めざるを以て正当なりと信ず。例えば無権代理人が本人の名において物品を買入れ本人の為に目的物の占有を取得したる場合において、本人がその行為を追認したるときはその売買は始より代理権ありてこれを為したると同一の効果を生ずるが故に、目的物の引渡を受くるについてもまた代理人は始より代理権を有したるものと解するを正当とすべし。これに反して無権代理人が本人の為にする意思を以て無主物の先占を為すが如き場合においては、たとえ本人が爾後追認を為すも始より所有権を取得したるものと為すことを得ず、唯その追認を為したる時より占有を取得したるものと解せざるべからず(Vgl. Wolff, Sachenrecht, § 13,S.35)。

法定代理人が本人の為にする意思を以て物を所持する場合においては本人は代理占有を取得するものと解するを通説とす(富井氏原論６７３頁、横田氏物権法１５０頁、三瀦氏全訂提要２７７頁、梅氏要義１８１頁)。これに反して未成年者又は禁治産者が法定代理人によりて占有を為し法人が理事によりて占有を為すは代理占有にはあらずして直接占有たり、法定代理人は占有機関にして占有代理人にはあらずと解する一派の学者あり(川名氏要論２９頁)。又中島氏は法定代理人は法人無能力者又は不在者の利益を計る為に設けられたる機関に外ならざるが故に占有機関と見るを可とすとなすも、これ等の者が第三者より金銭その他の物の引渡しを受けたるときは本人は直接占有者となるもこれは彼らが占有機関なるが故に非ずしてその代理権の作用によるものなりとす(中島氏釈義１３６頁、１３７頁)。余は大体において通説に従うも法人の理事については理事を以て法人の機関となし法人以外に在りて法人を代表ずるものと解せざるを正当と信ずるが故に、法人は直接占有を有するものと解せんとす。未成年者、禁治産者の法定代理人、不在者の財産管理人については法律はこれ等の者の行為を以て本人の行為なりとするにあらず本人以外にありて本人を代理する行為なりとなすものなるが故に、これ等の者による占有は他人の所持による占有にして本人自己の所持による占有にはあらず、従って占有機関による占有にはあらずして代理占有なりと解するを正当とす。これに反し理事は法人の組織分子たる性質を有するものにして理事の行為は、即ち法人の行為なりと解するを正当と信ずるが故に、理事による占有は法人自身の所持による占有にして従って代理占有にはあらざるものと解するなり。

（２） 地上権者、永小作人、質権者、借主等の如く他主占有を為す者は、土地所有者、質権設定者、貸主等の為に占有を為すものにして、本人は即ちこれ等の者によりて代理占有を有するものなり。受寄者の如く本人のみの為に物を所持する者についてまた然り。これ等の場合において所持者と本人との間には狭義における代理関係存するにあらず。これ等の者は本人について法律効果を生ずべき意思表示を為すことを得る法律上の地位に在るものにあらざるが故に、民法総則に謂う所の代理権を有するものと解するは不当なり。然らばこれ等の場合においていわゆる本人代理任間には如何なる法律関係の存するものなるか、

如何なる法律関係の存するときはこれを以て代理占有を成立せしむるに適当なるものと解すべきか、これ解釈上に疑問の存する所なり。或は本人が物の返還を目的とする債権的請求権を有し代理人が返還の義務に服従して物の所持を為すときは、本人は代理人に対しその請求権を行使することによりて代理人の手に存する物を処置することを得べく代理人は本人の許諾なくしてその物を処分するのおそれなきを以てその物は結局本人の実力範囲内に在ると僅かも異る所なきを以て、代理占有の成立に必要なる法律関係は即ち物の返還を目的とする債権的法律関係に外ならざるものとす(横田氏１５０頁、１５１頁)。中島博士が間接代理成立の要件として述ぶる所もまたその趣旨にして同じ。唯同氏は明に返還請求権が債権的たると物権的たるとを問わざるものとし、かつ直接占有者の有する物を占有すべき権利又は義務は間接占有者より伝来したるものなることを要するものとす(中島氏釈義１１２頁)。

　広義の代理関係は物の所持の利益を本人に帰属せしむるに適する法律関係」なることを要す。故にこの関係を以て物を返還すべき一切の法律関係なりとなすは一見真に正当なるが如し。けだしいわゆる物を返還すべき債権的法律関係の存在する場合において所持するときは本人は畢竟物の所持を取得するに至るべく、従っていわゆる代理人が現在において物を所持することは畢竟本人の利益となるものなればなり。然れども余はこの如き法律関係の存在する一切の場合について代理占有の成立に必要なる広義の代理関係あるものと解するは債権の性質に反し、又占有保護を認むる趣旨に適せざるものと信ず。けだし債権関係は厳格に人と人との法律関係にして人と物との間に何等の関係をも成立せしむるものにあらざるが故に、債権関係の存否によりて本人が占有権と言える物権を有するや否や、占有権の基礎たる人と物との間の事実的支配関係の存するや否やを決定するは債権の性質に反するものなればなり。売買の場合において買主が財産権移転の債権を有し、即ち所有権を移転せしめ物の引渡を為さしむべき債権を有する場合において、売主が買主の為にその物を保管するも買主が当然代理占有を取得するものにあらざるはこれが為なり。

　本人がいわゆる代理人に対して返還請求権を有する場合について２個の場合を区別しいわゆる代理人が本人より占有を為すべき権利又は義務を伝来したる場合においてのみ代理占有の成立を認めんとする説(上掲中島氏の諸説)は、返還請求権の存在する一切の場合については代理占有の成立を認めざるものにして、この点において正当なり。然れども占有を為すべき権利又は義務を伝来すというはその意義明瞭なりと言うことを得ず。占有を為すべき権利を伝来すというは単に本人が占有を為すべき権利を有すということのみに止まらざるは文字上明瞭なるのみならず、論者の挙ぐる例について見るもいわゆる代理人が遺失物を拾得せる場合において本人の為に代理占有を認めざるによりて明なり。然れども占有を為すべき権利を伝来すというを解して占有を為すべき権利を本人より承継的に取得するものとなすときは、代理占有を認むること明に狭きに失するものと信ず。例えば売買において売主が爾後買主の為にその物を保管し又は爾後借主として物を占有すべき旨の契約を為したるときは、いわゆる占有の改定を生じ買主が代理占有を取得すること明なりといえども、売主の占有を為すべき権利は買主よりこれを承継的に取得したるものと言うことを得ざるべし。故に余は論者の説にはその趣旨において賛成することを躊躇せさるもその字句はやや不正確なりと信ず。

　余はいわゆる広義の代理関係の成立するが為には本人が占有を為すべき権利（jus possidendi）を有し、所有者がこの権利に基きて物を所持するが為に所持者が本人に対して物の返還義務を負うことを必要とするものと解せんとす。けだし広義の代理権は畢竟物の返還請求権に帰すること上に述べたる論者の謂う所の如しといえども、代理占有の成立するに適当なるが為にはいわゆる代理人の所持が畢竟又は結局本人の利益に帰すということのみならず現在においてもまた占有保護に値する事実関係を成立せしむることを必要とするものに言うべく、しかしてこれが為にはいわゆる代理人の所持が現在において本人の占有を為す権利の実現なることを要するものと言わざるべからず。故に例えば特定物の売買において売主が買主と同時に所有権を譲渡し爾後買主の為に物を保管すべき契約を為したるときは、その売主の占有は買主の占有を為すべき権利に基くものというべきが故に、買主は爾後代理占有を有するものと解し、これに反して売買と同時に所有権を移転せず単に売主が売買契約に因りて物の引渡を為すべき債務を負担するに止まる場合には、上に述べたるが如く買主は未だ占有を取得せざるものと解するなり。

　以上三個の法律事実を以て余は代理占有を成立するが為に必要なる法律要件なりと解す。これに対する反対の見解及び代理占有に関する他の諸問題については次章においてこれを論ぜんとす。

　　３

　代理占有成立の要件として学者は本人が代理人をして占有を為さしむる意思を有することを要するものとし、唯無能力者が法定代理人によりて占有権を取得し又は法人が理事によりて占有権を取得する場合には例外としてこれを要せざるものとす（富井氏原論３６７頁、三瀦氏全訂物権法提要上２７７頁、川名氏物権法要論２８頁、松岡氏民法論物権上２３６頁、岡松氏民法理由１８１条５０頁、Windscheid-Kipp,I,§ 155,S.771 ff. ; Wolff, Sachenrecht, § 13,S.35; Planiol, no.229）。これに反し少数の学者はこの意思を以て代理占有成立の要件と認めず。余は少数説に左袒し代理占有については本人に心素を必要とせざるものとす。

　固有の意義における代理についていわゆる代理人行為説を唯一の正当なる見解とすること近時学者の殆ど疑わざる所なり。即ち代理における意思表示の成立要素たる意思は代理人その人の意思にして本人の意思にあらず。本人の意思は代理権成立の為にこれを必要とすることありといえども、いやしくも代理権あらば本人の意思なしといえども代理は有効に成立することを得るが故に、本人の意思は代理成立の要件には非ずして時に代理の効力発生要件を為すに過ぎざるものとす。もしこの理を以て代理占有を解するときは、代理占有の成立するが為に必要なる心素及び体素は代理人についてこれを必要とするに止まり、唯本人代理人間に代理権に相当するいわゆる広義の代理権を成立せしむるが為に時に本人の意思を必要とすることあるものと解すべきこと言を俟たざるが如し。然るに多数の学者がこの見解を採らずして本人において代理人をして占有を為さしむる意思を有することを要するものと論ずるは如何なる理由に基くものなるか。

　「所持は他人をして代理せしむることを得るも、占有の意思は他人をしてこれを代理せしむることを得ず」と言える原則は嘗て学者の主張したる所なり。然れどもこれ恰も固有の意義における代理において代理人の意思表示は事実上本人の意思表示なりとし、或は法律上本人の意思表示と擬制せらるるものなりということを理由として代理人の意思表示が本人について直接に法律効果を生ずるの理を説明したる旧時の学説と相比照すべきものにして、代理なる法律観念の発達せざりし時代の遺物に過ぎず。代理なる観念の発達したる現時の法制の下においては意思の代理を認めざるの理なく、占有における心素についてもまた代理を認めて不可なるを見ず。反対論者は曰く、占有権は占有の事実を基礎とするものにして占有の事実は自己の為にする意思を以てその要素とするが故に、代理占有においても本人が自己の為にする意思を有することを要すと。然れどもこれ自己の為にする意思なる字句に拘泥せる解釈なり。自己の為にする意思を解して占有者の利益の為にする意思となすときは、代理占有の場合においてはいわゆる代理人が本人の為にする意思を有するときは、占有者の利益の為にする意思ありと解することを得べきなり。按ずるに法律行為にありて権利を取得する場合においても自己の為に権利を取得する意思を表示することを要するは言を俟たざる所に属す。しかして代理人によりて権利を取得する場合においては、本人は自ら意思を有すること又は自ら意思を表示することを要せず代理人が本人の為に権利を取得せんとする意思を表示することによりて本人は権利を取得するものなり。彼とこれとを比照すれば占有における自己の為にする意思もまた代理人によりて代理せられ、代理人が本人の為にする意思を有するときはこてによりて占有の心素を具備するものと解して理論上支障あるを見ざるなり。殊に論者も認むるが如く無能力者の為に法定代理人が占有を為す場合においては本人の意思を必要とせざるものと解せざるを得ず。論者はこれを以て例外なりと解すといえども、もし本人については心素を要すといえる原則を採らばこの場合に限り本人について心素を必要とせずと解すべき何等の理由なきにあらずや。事実上本人が心素を具備せずといえる事実は法律上心素を必要とせずというの理由となることなし。余の見る所を以てすれば代理占有の成立するが為には代理人が心素及び体素を備うるの外代理人がいわゆる広義の代理権を具備することを要す。しかしていわゆる法定代理の場合には本人の意思を要せずして代理権成立するが故に、本人の意思は代理占有の成立に何等の関係なく、これに反して法定代理以外の場合においては本人の意思は代理権成立の要件を為すが故に、代理占有の成立に関係を有するなり。然れども固有の意義における代理について本人の意思を以てその成立要件と為さざると均しく、代理占有についても本人の意思は唯代理権成立の要件たることあるに止まり、代理占有そのものの成立要件にあらざるものと解するを正当とす。

　代理占有の成立に本人の意思を要素とする論者は民法第２０４条第１号を以てその論拠の一とす。代理占有の場合において占有者が代理人をして占有を為さしむる意思を放棄したるときは占有権はこれに因りて消滅するは同条の規定する所にして、論者はこれを解して本人の心素が代理占有の成立要件なるが故にその意思の放棄は占有権消滅の原因なりとす。然れども積極的に占有意思を放棄したる者をして占有を有せしめざるが為に占有意思の存在が占有成立の要件を為すものと解することを得ず。たとえ代理占有の成立するが為には本人の意思を要せずとするも、自ら占有を放棄する意思を表示したる者をして占有を有せしむるの理なきが故に、この如き者をして占有権を喪失せしむるはもとより正当なり。代理人によりて所有権を取得するが為には本人の意思を要せざるも、本人が所有権放棄の意思を表示したるときは所有権を喪失せしむるに何等の支障なかるべし。是に由りて見れば第２０４条第１号は反対説の論拠とするに足らざるなり。

　代理占有の成立するが為に本人について心素の存することを必要とする学者は、この意思は如何なる程度において確定せることを要するかを論ずるを常とす。羅馬法の法源には「占有は知らずとも尚代理人によりて取得せらる（perprocuratorem etiam ignoranti adquiritur possessio, § 5,I.2,9,I.49, § 2,D. 41, 2 etc.）といえる原則あり。この原則の意義について独逸の普通法学者は論争を為せり。即ちサヴィニー等の解釈によれば、この法源の意義は特定物の占有取得について委任を為したる者はこの委任が執行せられたることを了知せざるも尚占有を取得すというの意味に過ぎざるものとし、プフタ等の見解によれば、委任者が占有を取得せられたる物につき認識を有せざる場合例えば代理人に種々の物の間に選択権を与えたるが如き場合にも尚代理人によりて占有を取得するの意義なりとし、これに反しヴィンドシャイド等の見解によれば、委任者がその全財産の管理権を与えたる場合の如く個々の物について占有を取得せらるべきことを知らざるも尚代理人により占有を取得することを得るの意義なりとす。しかして普通法の後期においてはこの最後の説を以て多数説としたるものの如し（Windscheid, a.a.O.,S.780,Anm.9）。思うに実際上の必要は学者をして本人の意思をこの如く広義に解せしめたるものにして、もし本人の心素を必要とせば余は三説の中寧ろ第三説に左袒するものなりといえども、ここの至らば寧ろ本人については心素を必要とせず占有成立の要素たる心素は唯代理人について存するを以て足り本人代理人間にはいわゆる広義の代理権の存在することのみを要するものと解すること遥かに事実に当れるにあらずや。

　もし代理占有の成立するが為にに本人について心素を要するものとせば、代理占有を取得するが為には本人が意思能力を要するものと言わざるべからず。故に既に故梅博士の述べられたるが如く代理権授与の当時には本人は意思能力を備うるも代理人が占有を取得する当時には意思能力を喪いしときは代理占有の成立を認むることを得ざるべし。その結果において不当なる多く言わずして明ならん。

釣銭に就て

近時釣銭のことが度々新聞紙上に現れるので学生及び其他の人から釣銭問題の民法上の解釈を求められたことが数次に及んだ、次に掲げるものは其問答の大要に少しく釣銭に関する一般的説明を加えたものである。

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問　　数十銭の支払に５円の兌換券を以てしたときに、債権者が１５銭の両替料を差引いて残金を返還したということであるもとより不当であると思うがその法律上の根拠は何れにあるか。

答　　法律上においても勿論不当である。５円の兌換券を受領した者は不当利得の理由でその１５銭を返還することを要する。元来兌換券は明治１７年５月太政官布告第１８号の兌換銀行券条例で何時にても所持者の希望によってこれを本位貨幣と兌換し得るものであるから、本位貨幣と同一の強制通用力を有するものと言わねばならぬ。しかして金銭債務の弁済に際して貨幣は総てその名価即ち額面価格によってその貨幣の価格を算定すべきこと、強制通用力の原則上疑を容れざる所であるから、兌換券についてもまたその価格は額面価格でこれを定めねばならぬ。尤も当事者がその他の価格算定の標準を採るべきことを特約した場合にはその特約の効力を認むべきであるが、然らざる場合にはたとえ市場価格が額面価格以下であっても債権者は額面価格に従ってその金銭の価格を定むることを要する。

　故にこの場合において債権者が何等の特約を為さずして５円の兌換券を受領したときは、債権者は５円の金銭について所有権を取得したのである。然るに債権者は数１０銭（仮に４０銭とす）だけの債権を有したるに止まるものであるからその４０銭を超過する部分は総て法律上の原因を欠く利得であって不当利得返還に関する民法７０３条の規定によって返還すべきものである。しかして債権者はその返還すべき金額のうち１５銭をまだ返還せぬのであるから、債権者は尚その１５銭について不当利得に因る返還債務を負担するものと言わねばならぬ。

　尚注意を要するのは、ここに債権者が釣銭を出す義務を負うというのは債権者が何等の特約を為さずして５円の兌換券を受領し、金銭の所有権を取得したという事実があって後のことを謂うのである、債務者が５円の兌換券を以て弁済の提供を為したに止まる場合にこの義務ありと謂うのではない。

問　　或る酒店で５円の兌換券を以て数十銭の金銭債務を弁済せんとする者があった場合に、酒店の主人はこれを拒絶した、そこで債務者は１５銭の両替料を出してこれを両替しその債務を弁済した後、警官に訴えた所が、警官は酒店の主損が何等の掲示もしなかったということを不当として両替量に該当すべき１５銭を返却せしめたということである。これに対しては世評賛否相反しているようだが法律上は如何に考うべきであるか。

答　　民法上債権者たる酒店の主人は自己の債権の弁済を受けたるに止まるのであるから、もとより不当利得をしては居らぬ。又債務者の為した両替は弁済の準備の為になしたものでこれに要したる費用はいわゆる弁済費用の一部であるから別段の意思表示なくば債務者がこれを負担するのである（４８５条）。この場合において弁済費用の負担者について特約なきは勿論であるから両替料１５銭は債務者の負担すべきものと言わねばならぬ。

問　　しかし債務者は既に５円の兌換券を以て弁済せんとする意思を表示して居り、もし債権者が直ちにこれを受領すれば両替料を支出するに及ばなかったのであるから、この両替料は債権者をして負担せしむるのが正当ではなかろうか。

答　　法律問題としては問者の述ぶるが如く論ずることを得ぬ。民法第４８５条には「但債権者ガ住所ノ移転其他ノ行為ニ因リテ弁済ノ費用ヲ増加シタルトキハ其増加額ハ債権者之ヲ負担ス」と規定しているから、一見この場合はいっわゆる債権者の行為に因って弁済費用を増加せしめたる場合なるが如く考えらるるが、第４８５条但書をこの如き場合に適用するのは誤である、この但書が債権者の「住所ノ移転其他ノ行為」と言っているによって見ても、またこの例外を設けたる立法の趣旨から言っても債権者の所為に因って普通の弁済以上に弁済費が増加したる場合でなければ、この但書は適用すべきでは無い。民法は普通の弁済費用は債務者をしてこれを負担せしめ債権者の方面に存ずる原因によって特に増加したる弁済費用のみは債権者をしてこれを負担せしむるの趣旨である。

　然らばこの場合には普通の弁済費以上に債務者は弁済費用を支出するに至ったか又これを支出するに至った原因は債権者の行為に存するか。普通の弁済費というのは債務者が債務の本旨に従いたる弁済の提供を為し、債権者がこれを受領するについて必要なる費用である。従って問題はこの場合における「債務ノ本旨ニ従ヒタル弁済ノ提供」とは何を言うかということに帰する。４０銭の金銭債務を負担する債務者が債務の本旨に従いたる弁済の提供を為すが為には４０銭を提供することを要するか、或は５円札を提供するも尚これを以て債務の本旨に従いたる弁済の提供を為したるものと解すべきか。もし５円札を提供したる場合にも債務者が債務の本旨に従いたる履行の提供を為したるものとすれば債務者が弁済の為に要する普通の費用の中には、両替料は包含せられぬこととなるのみならず、債権者がその受領を拒絶するときは第４１３条によって債権者遅滞とならねばならぬ。従って余が嘗て論じたるが如く、債権者はいわゆる増加費用（Mehraufwendungen）を負担する結果となろう（拙稿「債権者の遅滞」本書１８６頁以下）。これに反して債務者が債務の本旨に従いたる弁済の提供を為すが為には恰もその債務額だけを提供することを要するものとすれば、その債務額だけを提供するが為に必要なる費用は、債務の本旨に従いたる弁済を為すが為に普通に必要なる費用と言わねばならぬ、又５円札を以てする４０銭の債務の弁済提供は債務の本旨に従いたる弁済の提供とならぬが故に、これを拒絶するも、債権者は遅滞に陥ることなく、従って増加費用負担の問題を生ぜぬのである。しかして余の解する所によれば少なくとも原則としては債務者が恰もその負担せる債務額だけを提供し債権者は単にこれを受領するだけで、債権の満足を得る場合に、始めて債務者は債務の本旨に従いたる履行の提供を為したるものと解すべきものと信ずるからこの場合に債務者が５円札を以て弁済すべき旨の意思を表示するも未だ債務の本旨に従いたる弁済の提供を為したるものと言うことを得ぬのである。

問　　しかしながら５円の兌換券が強制通用力を有するものとするならば、債権者は５円としてこれを受領することを要するのではないか。

答　　民法第４０２条に「債権ノ目的物ガ金銭ナルトキハ債務者ハ其選択ニ従ヒ各種ノ通貨ヲ以テ弁済ヲ為スコトヲ得」と規定しているがそれは金銭が強制通用力を有すというに止まるのであって、即ち金銭がその金額に相当する金額債務を弁済する場合のみについて言うのである。一銭の支払いに１００円札を以てすることを得るというのではない。唯債権者が各種の金銭の中で選り好みをすることを得ぬというに止まるのであって債権額に超過したる価格を有する金銭でもこれを受領せねば債権者遅滞なるというのではない。

　債権者の性質及び債権者遅滞の性質を考えて見ればこの理は明である。債務者は債務の弁済を為すについて、債権者の協力を要求すべき権利を有せざることは債権債務の性質上明であるから、債務の性質上その弁済を為すが為に債権者の行為を必要とするか、或は債権者が特に協力を為すべき特約を為した場合で無ければ、債務者は自ら為し得べき総ての履行準備を為して履行を受くべき旨を債権者に通知したる場合において始めて債務の本旨に従いたる履行の提供を為したこととなるのである。これは第４９３条について見るも明瞭である。即ち同条によれば履行の提供は現実にこれを為すことを要し、唯例外として債権者が受領を拒絶したる場合及び債務の履行につき債権者の行為を要するときに限り言語上の提供を以て足るのであるから、普通の場合即ち現実提供を要する場合には、単純なる受領以外の債権者の行為を要する程度において履行準備

を為したのでは未だ履行提供とならざること明である。債権者遅滞の性質から論じても同一の結論に達することは多く説明を要せずして明であろう。

　本件についてこれを見るに５円札を以て４０銭の債務を弁済すべき意思を通知したのであるから、履行提供の要件たる弁済を受領すべき旨の意思の通知は備わっているが、その基本的要素たる履行準備の事実的成立という要素は備わって居らぬ。即ち余が嘗て述べたるが如く履行準備の成立したることを事実上呈示するという要件は備わって居らぬ（拙稿、前掲本書１５３頁）。故に債務者は未だ債務の本旨に従った履行の提供を為したるものと云うことを得ぬのである。

　　３

１　伯林においても嘗て釣銭事件が問題となったことがある。それは Droschkenkutscher（辻侍馬車の馭者）が急ぎの旅客に対して釣銭を出すことを拒絶した事件であった。その事件は裁判所の問題とならずして解決したが、それを機会として Greifswald の大学教授 Paul Kruckmann が「馭者は両替をする義務を有するか」という短編論文を公にしている（Recht,1901,S.85 ff.）。クリュックマンは余の上に述べたと同じく債務者は恰もその負担する債務額を以て弁済の提供を為すことを要すということを一般の原則としては認むるのであるが、この正当なることの疑なき民法上の原則も実際には往々極めて不都合なる結果を生ずることがあるから Treu und Glauben（信義）によってこれを調節することを要するものとし、しかして信義によって調節するについては辻侍馬車の馭者の如く急を要する行為について金銭債権者たる者と市中の普通の商人等が金銭債権者たる場合とによりて大に差異あり、前者は乗客が急を要するということを知るべきであるから、債務弁済行為の如きも迅速にこれを完了せしむることを要し、従って釣銭を出し得るに拘わらずこれを出すことを肯んぜざるときは当然馭者に過失あり、又少額の釣銭はこれを用意することを要するものと論じ、これに反して市中の小商人の如きはこの如き義務を負わざるものと論じている。

　余はクリュックマンの議論を以て少しく極端に失しているものと思う。第一に債権者の釣銭を出す義務即ち両替を為す義務は法律上これを認むべき何等の根拠をも発見することを得ぬ。問題は唯債権者遅滞となるか否かに止まるべきである。第二に債権者が義務を負わざる当然の結果として釣銭を出し得ざる場合は勿論、これを出し得るに拘わらず出さざる場合にも、これが為に債務者に生じたる損害を賠償する義務を負わざるものと言わねばならぬ。不法行為とも債務不履行とも言うことを得ぬ。第三に辻侍馬車の馭者と普通の商人とについて非常なる差異を認むる論旨には賛成することを得ぬ。

２　債務者が恰もその負担せる債務額を以て弁済の提供を為すべしという原則に対し「取引上ノ慣習」（Verkehrssitte）ということで制限を試みんとする学者がある。Oertmann（Recht der Schuldverhaltnisse,zu § 293 B.G.,S.142）の如きその一人である。取引上の慣習上（独民２４２条参照）債務者において債権者が釣銭を出すことを期待し得べき場合、例えば比較的大なる商人に対して弁済を為す場合に、その期待がその事情の下において普通の程度を超えざるときは、債権者の不受領は債権者遅滞となるものである。しかしこの場合にも債権者は実際釣銭を出すことの不能なりしことを立証してその責任を免れ得る。何となれば取引の慣習は、常に釣銭を準備して置くことを要求せぬからである。又馭者その他商人については直近の単位まで（１マルク５０の払に２マルクまで）しか、両替を期待し得ざるものと論じている。Staudinger＝Kuhlenbeckの注釈書でKuhlenbeckの論じている所も略同様であって、Muller und Meikei（I.S.229）が債権者は常に釣銭を出す義務を負わずと言っているのを非難し、上記クリュックマンの所説を引用して Treu und Glauben mit Rucksicht auf die Verkehrssitteで問題を決定すべしと論じている（Staudinger-Kuhlenbeck,S.34; S.208）。

３　余もまた嘗て釣銭を出すことの容易なるこれを拒絶するときは債権者遅滞を生ずるものと論じたことがある（拙稿、債権者遅滞、本書１４８頁（註１））。しかして我民法の解釈上このごとき制限を設け得べき根拠は、債権関係においては債権者債務者共に信義の原則に従ってその権利を行使し、その義務を履行すべしという不文の原則を認めざるべからざるものと信ずるからである。換言すれば、債権者が釣銭を出し得る場合に又その釣銭を出すが為に特に損害を被らざる場合（従って釣銭の額は小額なる場合）に債権者が釣銭を出すことを拒絶するは、自己の債権の目的を達する為に相当なる限度を超えてその債権を行使し徒らに債務者を苦しむるものであるから、債権者がこの如き場合に釣銭を出すことを拒絶するは濫用となるのである。これを債務者の方面より論ずれば債務の履行として提供したるものの額が債務額より少しく超過し、かつ債権者がその超過額を控除して容易に債務額のみを受領し得べき場合には、その履行の提供は尚債務の本旨に従いたる履行の提供、即ち債権の目的を達するに適する履行の提供たるもので、従ってこれを拒絶する債権者の行為は債権者遅滞となるのである。思うに法律解釈の要諦はこの如く一般的原則を他の原則で適当に調節し、実際上妥当なる結果を発見するに在るのではあるまいか。

現実売買と担保責任

１　現実売買（Realkauf,Handkauf,Naturalkauf）とは一定の財産権と金銭の所有権とを即時に交換する有償契約を謂ふ。その法律上の性質については独逸の普通法以来議論の存する所にして，債権契約説と非債権契約説と殆んど互角の勢を有せりといえども独逸民法及び我民法の解釈としては債権契約説寧ろ多数なるがごとく（１），英法学者はこれに反して多く非債権契約説を採るがごとし（２）。余は後説に従い，現実売買は債権契約にあらず，従って売買は常に必らずしも債権契約にあらざるものと解せんとす。その理由を述ぶることは本論の目的の一なり。

２　売買の効果たる担保責任の法律的根拠については，或はこれを売主の債務に求むるものあり，或は債務不履行以外にその根拠を求むるものあり。もし担保責任は債務不履行の効果に外ならずとせば，債務なくしてこの責任あるの理なく従って現実売買について債権契約説を採らざるときは，この責任を認むることを得ざるの結果となるべし。余は担保責任の根拠を以て債務に存せざるものと解せんとす。これ現実売買に関係ある範囲内において担保責任の根拠を論ぜんとする所以なり。

（１）　債権契約説，横田氏各論２６３頁以下，梅氏要義５５５条４７４頁，村上氏各論３５８頁，末弘氏各論３４９頁。Enneccerus,Lehrb.§324�T,S.302;Oertmann,Vorbem.zu§433,S.370fg.;Cosack,§130�Z;Goldmann-Lilienthal,S.469;Stauding-Kober,zu§433,S.563;Crome,§211,Anm.12,Staub,Exkurs vor§373 HGB,Anm.27;Eckstein,Das Schenkungsversprechen usw. in ArchZivPrax.,107,384 ff.;Neumond,Der Automat in ArchZivPrax.89,166 ff.;vgl.auch Ring,Der Entwurf eines bürgerlichen Gesetzbuches usw.in ArchBürgR.1,203.非債権契約説，富井氏，法協２４巻１号１３頁以下，牧野英一氏，法志１６巻５号８１頁，伴氏，内外論叢５巻１号６９頁以下。Dernburg,Pand.§94,Bürg.R.,�U,§167;Matthiass,§110,S.286;Endemann,Bd.I,§163,2;Willutzky,Doppelseitige Realverträge als Massengeschäfte in ArchBürgR.,27,100 ff.;vgl.auch Bähr, KritVSchr.,30,386 ff.;Windscheid-Kipp,Bd.�U,§389,A.�U.;Bechmann,Kauf,Bd.�U,§127,S.82 ff.

（２）　Pollock,Contract,p.164;Anson,Contract,p.344.

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１　売買は，沿革上交換より生じたるものにして，現実売買を以てその当初の形式とす。初期における売買は直接に財貨と貨幣とを交換する行為にして，債権債務を生ずる契約にあらず。

　売買が，何時の頃より交換より分離し，独立なる法律制度として存在したりしかは，売買と交換の関係に関するその「サビニアン」学派と「プロクリアン」学派との論争に牽連して羅馬法史上議論の存する所なりといえども（１）まず交換によりて需要供給相通ずるの途開かれ，後貨幣の使用せらるるに及び交換と相並びこれより転化して売買を生じたること，史家の多く疑はざる所に属す。経済学者が実物経済（Naturalwirtschaft）と貨幣経済（Geldwirtschaft）との関係を説くもまたこの意に外ならず。

　交換は，我民法上売買と同じく債権編に規定せらるる契約の一なり。しかれども，古代法において交換とは債権契約たる交換を謂ふにあらずして物物相交換する行為を謂ふなり。債権を以て法律上の権利とし経済上の財貨と認むるは人類発達の初期にこれを見ることを得ず。人類が将来を慮るの念を有しかつ人類互に相信用し得べき社会的秩序成るに及びて初めて将来の給付に対する権利を認め，この権利を以て現実なる物の給付に代ふるに至りしこと，史上疑なき事実にして，また真に睹易きの理なり。

　古代における交換は物物相互に交付する行為にして債権債務を生ずる債権契約にはあらず。しかして貨幣はこの交換を便利ならしめんが為めに生じたる用具なり。即時に交換の用に供すべき財物無きに当り，一定の価格を有する貨幣と財物とを交換するは，交換の利用せらるべき範囲を拡張せしめ，その運用を容易ならしめたること，けだし少からざるべし。このごとくして貨幣を以て交換の具と為すこと漸く行はるるに及び，一方の給付が常に貨幣の給付たる交換は，法律上また特種の交換たることを認められ，ここに売買なる特殊の法律行為を生ずるに至れり。故に，初期における売買は当時における交換と同じく直接に物と貨幣とを相互に交付する行為にして，即ち現実売買たりしものと謂わざるべからず（２）。

　現実売買が売買の原始的形式にして当時の現実売買は債権契約にあらざりしこと以上述ぶるがごとし。故に売買を以て常に債権契約なりと解する学説は，古代法の売買につきてこれを採るべからざること明なり。

２　現実売買より債権契約たる売買を生じたる発達の径路については研究すべき問題なきにあらずといえども，今はこれを論ずるの要を見ず。しかして債権契約たる売買を生じたる後においても，当初においてはこの種の売買と現実売買と相並びて行われたりしこと疑を容れざる所に属す。けだし売主まず財貨を給付して金銭の給付については単にこれを給付したるがごとき形式的行為を為し（３），現実の給付については単に債権を取得するに止むるは，財産状態と人格とを了知せる当事者の間においてのみ行わるるを得べき所なるが故に，当事者たる人に依頼することを得ざる場合には，直接に物と金銭と相互に交換するの方法に依らざるを得ざればなり。債権契約たる売買は売買の最も進歩したる形式なりといえども，これのみを以て売買に関する社会の需要を充たし得るものと解すべからず。債権契約たる売買が法律上の存在を認めらるるのに至り，債権契約たらざる現実売買が直にその影を潜めたるものと解するはもとより大なる速断なり。

　近世の社会において債権契約たる売買は極めて重要なる地位を有し，近世の私法において債権契約たる売買が最も重要なる債権契約に属することはもとより吾人の叙説を竣たず。しかれども売買に関する近世の社会の需要は債権契約たる売買のみにより遺憾なくこれを充たすことを得べきか。もし現実売買を認むる社会の需要あり実際上また現実売買を為すこと少からざるに拘わらず，法律学上単に債権契約たる売買のみを認むるに止まるものとせば，吾人はこのごとき法律学に左袒することを得ず。債権を成立せしむる意思表示を為さずして直に物と金銭とを交換する行為を以て法律上無効なりと解するがごときは，その不当なること言わずして明なり。もしこれに反して債権を成立せしむる意思表示なきに拘わらずなおその意思表示ありと擬制して債権契約たる売買の成立を認めんか，その結果においては著しく不当なることなかるべしといえども，法律観念を殊更に狭く限定し，擬制を用いて実際上の不便を救わんとするは，法律解釈の方法として吾人の採らざる所なり。

　現実売買を認むる社会の需要は近世に至りて却ってまた漸く増加せんとするの傾向を見る。多数の商品を一定の価格にとりて殆んど機械的に多数人に販売せんとする設備の漸く増加するは近世の社会について吾人の目撃する所なり。学者或はこれを名づけて多数的営業行為（Massengeschäfte）と言う（４）。個々の行為につきその当事者の財産的信用等を商量して対価の多寡を決定することなく，一定の標準に従い同種の商品を多数人に販売することを目的とする営業行為これなり。「デパートメントストア」または公開市場における或る種の営業行為はこれに属すべく，その最も極端なるものは自動販売機による売買なり。自動販売機の利用は我国においてはなお極めて微々たりといえども，欧州諸国においてはその利用せらるる範囲我国に比して遥かに広く，品質一定せる低廉なる財貨の販売については労力と時間とを節約する点において極めて便利なる方法を以て，我国においても適当なる取締法規の備わるあらば将来その利用せらるべき範囲の漸次拡張すべきことこれを想像するに難からず。

　多数的営業行為においては，即時に財貨と貨幣とを交換し，将来に債権関係を存続せしめざるものその数において寧ろ多し（５）。当事者たる人の何人たるかを知らず一定の標準によりて即時に財貨と貨幣とを交換する点において，これ等の売買行為は上に述べたるがごとき古代の現実売買と同一の経済上の目的を有し，同一の当事者の意思に基く。債権契約たる売買のみによりて遺憾なく現代社会の需要を充たし得るものと解するは吾人の首肯する能わざる所なり。

（１）　「ザビニアン」学派と「プロクリアン」学派との論争については「ガイウス」これを伝ふ。§2�T.de emt.(3,23),L.I§ID.de contremt.(18,I) ;L.I pr.D.de rer.perm.(19.4),L.5§I D.de praescr.verb.(19,5),§I de loc(3,24).vgl.auch Bechmann,Kauf,Bd.I,§2 S.540 fg. ;Huschke,Nexum,S.6 fg.S.13 ;Danz,Rechtsgeschichte Bd.�US.9 ;Mommsen,Geschichte des römischen Münzwesens,S.174 fg.;Leist,Mancipation und Eigentumstradition,S. 43, S. 47 fg.usw.

（２）　羅馬法のmancipatioに関しては議論多し。前注に掲ぐる諸書を見よ。

（３）　羅馬法のmancipatioの方式におけるper aes et libram gestumのごときこれなり。なお移転せらるべき財産についても，債権関係を成立せしむる売買が更に遥かに後れてその法律上の効力を認められたることは疑なき所なり。

（４）　Willutzky,a.a.O.

（５）　この種の行為が裁判上の問題となること寧ろ稀なるはその行為の内容が軽微なるとその法律関係が頗る簡単なるとによるものにしてこれが為めに実際上その行わるること稀なるものと速断すべからず。

　　２

１　現実売買を以て債権契約なりと解する学者は，この売買によりて債権関係を生ずると同時にその債務は直ちに履行せらるるものなりとす。しかれどもこの見解は次の二個の理由によりてこれを採るべからず。

　（一）　債務の成立を認むるは当事者の意思に反す。現実売買において当事者は，まず財産権移転の債務を負担し，更にこれを履行するの意思を有するものにあらず。しかるに，売買より生ずる財産権移転の債務は，売買の法律行為的効果（当事者の意思に基きて法律の認めたる法律効果）たること明なるが故に，当事者の意思に基かずしてこれを認むることを得ず。反対論者は，現実売買を為す当事者の意思と債権契約たる売買を為す当事者の意思とは実質上少しも異なる所なしとす。リングの論のごときこれに属す。曰く，「葡萄酒２本を与へよ」と言いつつその代金を提供したる者が直ちにこれを改めて「其葡萄酒２本を家に届けよ」と言いその代金を再び「ポケット」に収めたるときは，当初の契約と別種の契約締結せらるるものならんやと（１）。しかれども，これ現金売買（Baarkauf）と現実売買とを混同する者なり。現金売買は代金が直ちに支払わるる売買なり。故に直ちに支払わるることを要する売買と，直ちに支払わるるに止まりこれを支払うことを要せざるものとの二者を包含す。しかるに，現実売買は当事者が財貨と交換的に代金の支払わるることを要するものと定めたる場合においてのみ存在す。両者の間に差異あるは明なり。論者が設例において二種の売買の間に差異なしと解するは，第一の契約を以て直ちに代金を支払うことを要件とせざるものとなすが為めなり。もし第一の契約を以て現実売買と解すべき場合においては，買主の意思のみによりてこれを変じて信用売買となすことを得ざるは勿論，もし売主これに承諾を与えたるときは，現実売買とは異りたる契約を為したるものと解せざるべからず。

　（２）　債務がその成立と同時に履行せらるるものと解するは債務の性質に反す。成立すると同時に消滅する権利義務なるものは理論上これを認むることを得ず。

　反対論者は債務的行為と履行行為とが同時に実行せらるることは観念上少しも矛盾にあらざるものとす（２）。もとより債務的行為と履行行為とが相接着して為さるることは理論上妨なし。存続期間の長短が債務関係の成立に影響なしと論ずるはもとより正当なり（３）。しかれども，現実売買において当事者は接着せる二個の行為を為すものにあらずして，単に一個の行為を為すものなり。しかして一個の行為によりて債権を成立せしめ同時にこれを消滅せしめ得るものと解するときは，その債権には全然存続期間無きこととならざるを得ず。存続期間の長短はもとより債権の成立に影響なしといえども全然存続期間を欠く債権の存在は理論上これを否定せざるを得ず。

　債権の性質よりこれを論ぜんか。債権は一定の行為を要求することを内容とする権利なるが故に，その内容たる一定の行為は債権成立後に為さるるものなることを要す。また債権は債権者をして一定の利益を享受せしむることを目的とする手段なるを以て，目的を達する行為を為すと同時に手段を発生せしむるものと解するは債権の性質に反す。何れの点より考察するも債務的行為とその履行行為とが同一の行為によりて為さるるものと解するは理論上不当なり。

　反対論者或は曰く，現実贈与，現実売買によりて債務関係を生ずるというは個々の請求権を生ずというの謂にあらず。債務関係とこれより生ずる個々の請求権とは同一物にあらず。前者は後者を生ずる前提たる法律関係なり。しかして現実贈与と現実売買との間に多少の差異ありといえども，共に権利または物の瑕疵の存する場合において受贈者または買主は相手方に対し契約上権利を取得するが故に，何れの場合においても当事者間に債務関係を生ずるものと解せざるべからずと（４）。しかれども，この説は給付請求権を以て債権関係の本質と為さざるものにして，この点において債権の本質に関する通説に反す（５）。加之，担保責任は契約の付随的効果にして，かるその非法律行為的効果なること明なり。当事者が担保責任の根拠たる法律関係を発生せしむるの意思を以て現実贈与または現実売買を為すものと解するは，事実に反して擬制を用ふるものと言わざるべからず。故に，たとえ債務関係の意義を論者のごとく広く解すべしとするも，現実売買，現実贈与を以てこの法律関係を発生せしむることを目的とする契約なりとするは不当なり。

２　売買を以て常に債権契約なりと解する論者は，民法第５５５条に「約シ」と規定せることを以て論拠とす。即ち，旧民法財産取得編第２４条には「移転シ又ハ移転スル義務ヲ負担シ」と規定せるに反し，現行法は「約シ」と規定するが故に，現行法における売買は常に債権契約なりとす（６）。しかれどもこれ文字に拘泥するものにして多く論ずるに足らず。加之，単に字義解釈としても「約シ」と規定するが故に，債務を負担する場合のみを謂うものと解すべき必要を見ず。けだし，民法は「約シ」と規定するものにして「移転スル義務ヲ負担シ」と規定せるにあらず。しかして契約なる語は債権契約なる語より広義なること学者の疑わざる所にして（７）また「約シ」と謂うは「契約」締結の意思表示を為すの意義に外ならざるを以て，「約ス」と謂うもまた「債務ヲ負担スル意思ヲ表示ス」と謂うよりは広義なるものと解するを正当とすればなり（８）。もし「約シ」と謂うを狭義に解するものとせば，実際上頗る不当なる結果を生ぜん。けだし「約シ」と謂うを厳格に解するときは「債務ヲ負担スヘキ意思ヲ表示シ」と解するの外なく，しかして，現実売買において当事者は事実上債務負担の意思を表示するものにあらざるを以て，もし「約シ」と謂うを厳格に解するときは，現実売買は我民法上売買にあらずという結論を生ぜざるを得ざればなり。反対論者が「約シ」という字句を以て売買を常に債権契約なりと解する論拠となし，かつ現実売買を以て売買なりと解するは，事実に反して擬制を用ふるにあらざればこれを解することを得ず。

（１） Ring, Der Entwurf eines bürgerlichen Gesetzbuches usw. in ArchBürgR., 1 203.

（２）　末弘氏，各論３４９頁以下，Oertmann,a.a.O.

（３）　Ring,a.a.O.

（４） Jung, Die Bereicherungsansprüche und der Mangel des rechtlichen Grundes, S.125 ff.,S.130 ff. ; Brütt,Die abstrakte Forderung,S.19 etc.

（５） 債務関係を広義に解する説はStammler, Recht der Schuldverhältnisse,S.8等もまたこれを唱ふ。石坂氏，法律行為の原因と不当利得に於ける法律上の原因，民法研究１巻３４１頁は本文と同説なり。

（６）　横田氏，各論前掲等。

（７）　富井氏，原論１巻３２２頁，拙著，日本債権法各論５頁。

（８）　同説，富井氏，法協２４巻１号１８頁以下。

　　３

１　現実売買を以て債権契約なりと解する学者はこれを双務契約となすにあらざれば不当なる結果を生ずるものとす（１）。しかれども危険負担，同時履行及び債務不履行による契約解除の問題は，現実売買についてはこれを生ずるの余地なきが故に，問題を生ずるはただ担保責任の点のみなり。学者が不当なる結果を生ずる例として挙ぐる所を見るに，また多く担保責任の外に出でず。しかるに担保責任は法律の規定による義務にして，かつ法典がこれを認めたるは売買が双務契約たるに基けるものにはあらずして有償契約たるによれるものと解するを正当とするが故に，縦令現実売買を以て双務契約とならざるも，なおこれを認むることを得べく，非債権契約説を採るも不都合なる結果を生ずるのおそれなし。ここにおいて非債権契約説の実際上の当否を明にするが為めに担保責任の法律的根拠を論ずるを要す。

２　民法が売主の担保責任を認むる法律的根拠については学説上議論岐る。

　（一）　或はこれを黙示の担保契約に求むる学者ありといえども，売買の当事者は必ずしも常に権利または目的物に瑕疵ある場合を予想して意思表示を為すものにあらず，また法律はこのごとき意思表示あることを前提して担保責任を規定するものにあらざるが故に，この説は近時学者の採らざる所なり（２）。

　（二）　担保責任の根拠を財産権移転の債務または権利の供与義務（Verschaffungspflicht）に求むる学説は多数説と認むることを得べし（３）。しかして，この説によるときは，担保責任は債務不履行の効果に外ならざるを以て，財産権移転の債務なきときはこの責任なきものと解せざるを得ず。しかれども余は次の２個の理由によりてこの説に反対せんとす。

　（イ）担保責任発生の要件として法典の規定する所を見るに，債務不履行の効果を規定したるものと解するを得ず。けだし特定物の売買において数量に不足ありたる場合（５６５条）物の一部が契約の当時既に滅失したる場合（同条）売買の目的たる権利が契約締結当時より他の権利によりて制限せられたる場合（５６６条）及び売買の目的物に隠れたる瑕疵ありたる場合（５７０条）には，給付の目的物は契約成立当時より不完全なる状態において存在するものなるが故に，原始的一部不能の存在するものにして後発的不能にあらず。しかして原始的不能の給付については，債務は成立することを得ざるが故に，この場合における売主の責任は債務不履行に対する責任にはあらずして，原始的一部不能に対する責任に外ならざればなり。このごとく法典が担保責任発生の要件として規定する事実は債務不履行の要件たる事実と異なること明なるが故に，債務不履行を以て担保責任の法律的根拠なりと解するは正当にあらず。

　（ロ）もし財産権移転の債務を以て担保責任の原因となさば，無償行為に基く財産移転の債務についてもまた担保責任を認むべきの理なり。けだし債権の効力のみについてはその有償契約によりて生じたると無償契約によりて生じたるとによりて差異あるべからざればなり。しかるに民法は贈与については原則として担保責任を認めずして売買その他の有償契約についてこれを認め，無償契約にはその有償契約に類似する場合においてのみ有償契約に準じてこれを認むるに止む。担保責任を以て債務不履行の効果となすはこの点より見るも非なり。

　（三）　余は，売買について法典が売主の担保責任を規定するは，売買が双務契約たるが故にあらずして，その有償契約たるによるものなりとす。けだし，法典は上に述べたるがごとく原始的一部不能の場合に関する責任をもなお担保責任として規定したるが故に，債務不履行の効果を規定したるものと解することを得ざるのみならず，担保責任に関する規定は民法第５５９条によりて売買以外の有償契約に準用あり，実質上よりこれを論ずるも有償契約についてはこのごとき担保責任を認むべき合理的理由存すればなり。

　有償契約は互に対価たる給付を交換するを以てその特色とす。一方の給付は，無償契約におけるがごとく贈与原因に基くにあらずすて，他方の給付の原因たり他方の給付の対価たるものなり。故に，一方の給付について何等かの欠点あり相手方に所期の利益を享受せしむること不能なる場合には，その不能が契約締結当時より存在し当事者これを知らざりし場合においても，なお反対給付に影響を生ずるものとなすこと，有償契約の性質に適するものと言わざるべからず。これを当事者の方面より観察するも，売買における買主は，贈与における受贈者と異り，自ら対価を供して財産権を取得せんと欲する者なるが故に，その所謂動的安全は特に法律上の保護に値するものと言わざるべからず。一般取引の安全よりこれを論ずれば，売買その他の有償契約について買主を特に保護し契約の目的物または権利に関する欠点の為めに買主をして損害を蒙ることなからしむるは取引の安全を図るが為めに必要なるものと言うことを得べし。このごとく，有償契約については担保責任を認むべき実質上の理由あり，しかして民法は有償契約の典型として売買を規定するに当りこの責任を認めたるものなるが故に，担保責任は売買が有償契約たることを理由として法典のこれを認めたるものと解するを正当なりとす（４）。

３　現実売買を以て債権的契約にあらざるものと解する学者は，現実売買と債権契約たる売買との関係について往々次のごとき説明を試む。その説に従うもまた現実売買について担保責任を認むることを得べしといえども，もとより吾人の採る所にあらず。

　（一）　現実売買においてまず給付を為したる当事者はこれを変じて信用売買と為すことを得べきものと解する学者あり。即ち現実売買において給付を受けたる者は，自らまた直ちに給付を為すの意思を表示したるものなるが故に，これより僅なる後に給付を為すの意思は当然これを有すべきものとし，従ってまず給付を為したる者は信用売買を以ても満足すという意思を表示することによりて現実売買を変じて信用売買と為し得べきものと解するなり（５）。しかれども，満足の意思表示によりて既に成立したる契約の内容を変更し得るものと解するは成法上の根拠を欠くのみならず，現実売買における給付の受者が当然信用売買を為さんとする意思を有すべしということを根拠となすは，表示せられざる意思の効力を認むるものと言わざるべからず。

　（二）　一派の学者は法律行為における効果意思を以て経験的効果に対する意思なりとし，従って売買においてもその効果意思は債権の成立または物権の移転そのものに対するにはあらざるものとし，法典はこの経験的効果意思の表示に基き，その事情に応じて或は債権の成立を認め，或は債権の成立を認むることなく直ちに物権の移転のみを認むるものとす。しかして，このごとく，売買の意思表示は或は債権的行為たり或は物権的行為たる二個の方面を有することを得るものなるが故に，現実売買として単純なる物権的行為たることを得ざる場合には，債権的行為たる売買となるものとす（６）。この説は効果意思の本質に触るることなくしてこれを批評し難きが故にこれを詳論することを避くべしといえども，縦令効果意思について経験的或は社会的効果説を採るも，現実売買を為す意思と信用売買を為す意思との間には内容上の差異を認めざるを得ず。当事者は債権または物権なる法律上の概念について認識を有せずとするも，直ちに物または金銭を取得せんとする意思と将来これを取得せんとする意思との間に差異なきことを得ず。単にこの点のみより見るもこの説はこれを採り難きものと信ず。

（１）　末弘氏前掲，Oertmann,a.a.O.etc.

（２）　権利の瑕疵に対する担保責任を黙示の担保引受に基くものとする学説については Planck, Komm. zu§440,Motive,S.212を見よ。

（３）　Enneccerus,§325,S.314;Oertmann, zu§440,S.389 etc.

（４）　担保責任は無過失責任の一に属す。同説，岡松氏，無過失損害賠償責任論〔学術選書１２２頁，５８５頁〕。例えば，瑕疵担保（５７０条）については売買の目的物に初より隠れたる瑕疵ありたることを売主が知らずまたこれを知らざるにつき過失なきもなおこの責任を生ずるなり。しかして無過失責任は法典の特に認むる責任なるにより，担保責任もまた法典の特に認むる責任にして，不法行為，債務不履行のごとき一般原則の適用にあらざるものと言わざるべからず。またこの場合に無過失責任を認むる特別の理由は，本文述ぶるがごとく売買は有償契約たるの点に在るものと解せざるべからず。

（５）　Brinz,Pand.11,S.653; dagegen, Bechmann,Kauf 11, S.87.伴氏内外論叢５巻１号８４頁。

（６） Bechmann,Kauf 11,S.6 ff.,S.87 ff.伴氏前掲。

　　４

現実売買と担保責任との関係については上来述べたる所を以てその要旨を尽せり。余は現実売買もまた売買の一種とし担保責任を認むるを以て，債権契約説とこの点においては結果について差異なく，ただ担保責任を認むる法律上の理由に差異あるに止まる。しかれども債権契約説と非債権契約説とは担保責任以外の点につき結果においてもまた差異を生ぜざるにあらず。今簡単にこれを述べんとす。

１　現実売買を債権契約にあらずと解する実際上の効果は挙証責任の点について最も顕著なり。売主が売買契約を理由として代金の支払を請求し買主がこれに対して現実売買を締結したることを主張したる場合に，非債権契約説を採るときは，原告は債権契約を締結したることを証明するを要すべく，これに反して債権契約説を採るときは，代金請求権の否認とならざるが故に，買主は代金債務の弁済を証明する責任を負うべし（１）。しかして実際上の結果において余は非債権契約説を以て遥かに優れるものと信ず。けだし通常現実売買の方法によりて締結せらるる売買，例えば切符，郵便切手等の売買にありては，受取証書を交付せざることを常とするが故に，もし買主に弁済の挙証責任ありと解するときは，著しく不当なる結果を生ずべければなり（２）。

２　現実売買によりて担保責任を生ずることあるべきは既に述べたるがごとし。しかれども担保責任を生ずるが為めには現実売買が成立せることを要す。売買契約不成立なるに拘わらず付随の義務のみを生ずべき理なければなり。しかるに，現実売買にありて当事者は即時に給付の交換せらるることを以て契約の成立要件となすことあり。このごとき場合に一方の当事者が何等の給付をも為さざるときは契約は成立要件を欠くものとして不成立に了らざるを得ず。従ってこのごとき場合には担保責任を生ずるにはあらずして既に給付を為したる者はその給付の返還請求権を有するものとす。例えば煙草の自動販売機において変質したる煙草の出で来りたるときは瑕疵担保の責任を生ずべしといえども，売切または機械破損の為め全然煙草の出で来らざる場合には，買主は即時に煙草の給付を受くることを以て契約の成立要件と為せるものと認むべく，従ってその給付を受けざる場合には売買契約は成立せざるものなるが故に，買主は所有権に基きてその投入したる金銭の返還請求権を有するものと解せざるべからず（３）。もし現実売買を以て債権契約となさば，煙草の給付請求権を認むる結果となるべし。

（１）　Dernburg, Pand.�U,§94,No.3,Bürg.R.,§167�U, Matthiass,S.287; Willutzky,ArchBürgR.,27,107 fg.

（２）　反対論者もその学説より生ずべき論理上の結果の不当なることを知るが故に，通常現実売買として為さるる行為については，裁判官は一般の実験法則に基き反証の挙げらるるまで代金弁済の証明ありたるものと認むべきものとす。即ち Theorie によらずして裁判官の Praktischer Takt または ein allgemeiner Erfahrungssatz によらんとするものなり。Franz Leonhard,Beweislast,S.102,103;Oertmann,Vorbem. zu§433,S.371;Kisch, Grünhuts Z. 29,321; Enneccerus,§324,S.302 etc.孰れの説が理論上正当なるかは多く言わずして明ならん。加之，反対説によれば，原告が現実売買に基きて代金払の請求を為し被告が欠席裁判を受くべき場合において不当なる結果を生ずべし。

（３）　伴氏，前掲７２頁参照。

（法学志林２０巻（大正７年）９号（民法研究第３巻所載））

工業会社の営業行為に基く損害賠償請求権と不作為の請求権

　　序

　浅野セメント会社に対する深川区民の移転請求問題は政治家，社会学者，法学者いやしくも多少知識ある階級の頭脳を悩ますべき近時の社会問題に属す。或はこれを個人徳義の問題として論ずるを得べく，また或はこれを社会政策の問題として論ずるを得べし。今ここに論ぜんとするはもとよりこれ等の見地よりするにあらず。唯問題を純粋なる法律問題の範域に限り，しかしてその所謂純粋なる法律問題の中についても行政法上の問題には全く触るることなく単に私法問題として問題となり得べき諸点を明にせんと欲するに止まる。当面の事件に対して解決を与ふるがごときはもとよりこの一編の趣旨にあらず。

　　１

降灰問題のごとき被害事件を私法問題として観察するに当り，まず何人の脳中にも浮現すべきものは不法行為による損害賠償問題なり。されば問題の位置を明にするのみを目的とせる本編においてはこの点について多く論ずるを須いざるがごとしといえども，既に疑問とせられまた疑問と為り得べき二三点の存するが故に今少しくこれを論ぜんと欲す。

１　或は曰く，明治１６年浅野氏が工部省より現今のセメント会社の払下を受けたる当時にありては会社周囲の土地は一面の沼地にして人煙極めて稀なりしが故に今回のごとき降灰被害問題を惹起すに余地なかりしなり，爾後四囲の土地漸く繁栄に赴き遂に被害を惹起すに至りしといえども製造行為は先にして降灰被害は後なり，所謂被害者は寧ろ担灰を予期してその地に居住せるものなるが故に不法行為を構成すべからずと。しかれども加害者が従来当該行為を無害に継続し来りたる点と被害者を予期したる点とは共に不法行為の成立そのものに影響を及ぼすべきものにあらず。けだし加害者が無害にその行為を継続し来りたるはただこれによりて他人の権利を侵害する機会無かりしというに止まれり，従来その機会存せざりしといえどももとよりその行為を為すについて四隣の土地の上に権利を取得したるものにあらずまたもとより将来損害を加え得べき権利を取得したるものにあらざるを以て，もし不法行為成立の機会に遭遇すれば不法行為者としてその責に任ぜざるべからざるなり。このごときは日常頻繁に生ずる所にして敢て怪しむに足らず。例えば従来隣地の空地なりしが為めに自己の土地において射的を行うも何等不法行為の問題を生ぜざりしとするも，もしその隣地に居住者を生じたる場合には従来の関係を理由として責任を免るる能わざるがごとし。

　損害の予期については殆んど一言を費すの要無かるべし。被害者の承諾は或る場合において違法性を阻却することありといえども，損害の予期は損害事実に対する認識に過ぎずして加害者に対する一種の意思の表示たる承諾とは大にその性質を異にするが故に，前者のみを以てしては未だ違法性阻却の問題を生ずるに足らざるなり。以上のごとく従来製造行為を継続し来りたる事実はそれ自身において違法性を阻却する効果を有せずといえども，後に論ずるがごとく権利の行使が不法行為を構成するが為めには善良の風俗に反することを要し，しかしてその果して善良の風俗に反するや否やは国民一般観念を以て定むるものなるが故に，従来故障無く当該行為を継続し来りたるの事実は或はこの点において不法行為の成立に影響あることあるべし。

２　或は曰わん，セメント製造は法律において認許せられたる営業行為なり，換言すれば権利の実行なり，縦令他人に損害を加ふることありといえども権利の実行なるが故に不法行為を構成することあるべからずと。権利の実行が常に必ず適法行為にして必ず常に不法性を阻却すべき事実なりや否やは我民法の解釈上争の存する所にして，この点が実に今回のごとき事件について不法行為の成立するや否やを決定すべき分岐点に属す。今この点について我民法の解釈論を為すに先だち少しく欧州諸国における立法学説の趨勢を瞥見せんと欲す。

　英法には「他人を害せざる如く汝の権利を行使せよ」（Sic utere tuo ut alienum non laedas）と謂える格言あり，これを法律上例外なく適用するものに非ずといえども，その英法に特有なるニューイザンス（nuisance）は所有権その他の権利の濫用の為めに公衆もしくは個人に危険を惹起す行為と看るを得べきもの少からざるがごとし（Underhill’s Law of Torts, 6 ed. Art 73; Terry, Lectures of Torts, P.347;Pollock, Law of Torts, 8 ed. P.401 etc.）。独逸民法は明にその２２６条において「権利ノ実行ハ単ニ他人ニ損害ヲ加フル目的ニ出ヅルトキハ之ヲ許サズ」と規定し，またその第８２６条において「善良ナル風俗ニ反スル方法ヲ以テ故意ニ他人ニ損害ヲ加ヘタルトキハ其他人ニ対シテ損害ヲ賠償スベキ義務ヲ負フ」と規定し故意を以て要件と為すといえども，明に権利の濫用によりて不法行為の成立することを認めたり。

　しかれどもこの点において最も参照に値するは仏蘭西における学説及び判例ならずんばあらず。仏蘭西においては独逸のごとく明文の規定あるなく英吉利のごとく古来の慣習法存するにあらざるも，裁判所は実際の必要に促されて諸種の製造業，同盟罷工，雇用契約その他諸種の事件について権利の濫用の不法行為となることを判決し，学者は各その理由を異にすといえども結果において判例の趨勢を称賛し，遂に今日に至りては仏国民法学者をして「判例及び学説の現在の状態においては這箇の制限（権利の行使は適当の範囲を超えて其濫用となるべからざること）は既に其正当なることの理由を述ぶるを要せざるに至れり」と論ぜしむるの勢となれり（M. Albert Wahl, A propos, de la grève des électriciens, Revue trimestrielle,1908,p.631.）。今その無数の判例について一斑をも伝ふるの暇を有せずといえども，試に最近４５年における仏国の判決録または民法雑誌を繙けば権利濫用に関する判決の頻々たること寧ろ喫驚に値するものあり。その重要なるものを分類すれば，（１）まず相隣地間の所有権行使に関する各種の制限なり（M.G.Appert, Des droits du propriétaire vis-à-vis de ses voisins, Revue trim.1906,p.71.右抄訳，渡部氏法協２５巻１１６２頁以下）。例えば音楽教習所の隣家に与えたる喧騒に対する損害賠償（Seine,18.juin 1908），小学校生徒の階段を昇降することによる喧騒に対する損害賠償（Paris,9.déc.1904），村落にある住家の門前に従来設置することを許されたる肥料溜が異常なる臭気を放ちたる場合における損害賠償（Nancy,13.mars 1909）を認めたるがごときはやや注目するに足るべく，殊に工業会社が相隣者に加えたる損害についても１８４４年以来（Cass., 27.nov.1844 ; Amiens,18.juill.1845）幾多の判例を以て損害賠償請求権を被害者に与えたるは頗る注目するに足るものなしとせず（Aix, 8. déc. 1907; 18. févr. 1907.この判決につきM.René Demogue, Revue trim, 1907,p.598及び同雑誌同号４２８頁に掲げたるEm.Lévyの論文）。その他なお土地の賃借人が火災のおそれある建物を築造したる場合における損害賠償責任（Seine, 20.mars 1907）を認めたる等種々の判決あれど今は略に従わんと欲す。（２）雇用関係を突然に終了せしめたるときは縦令これを終了せしめ得る権利に基くもなお権利の濫用として損害賠償の責任を認めたる判例あり。また（３）同盟罷工権の制限について幾多の判例あり。最後に必要なくして訴を提起したる場合において縦令実体上適法なるもなお損害賠償の責任ありと判決したる多数の判例あるも，これ等は何れも直接の必要無ければ総て皆ここに略す。

　権利の濫用に関する仏法の学説は数言を以て尽し難しといえども試にその梗概を述ぶれば，まず権利濫用の観念そのものについて濫用と謂うに至れば既に権利存せざるものにして濫用と謂う観念は誤なり須らく権利の欠缺と謂うべしとの説あり（Planiol, Traité élem. ,t.�U,n.870 et suiv.），また権利の欠缺にはあらずして権利の衝突（Conflit de droits）なりとの説あり（M.M.Desserteaux,Abus de droit ou conflit de droit,Revue trim.,1906, P.119 et suiv.），されど通説はなお権利の行使の一種と認むるもののごとし。次にその権利濫用の要件換言すれば権利行使の適当なる範囲については或は主観説を採り他人を害する意思（intention de nuire）あるときには権利の濫用となると論ずる者あり，或は客観説を採り権利の経済的または社会的目的を超えたる場合には濫用となると謂う者あり。また権利の衝突説を採る者は両者の利益を比較して軽微なる利益を有するものは重大なる利益を有するものに屈服せざる可からずとなす（M.Desserteaux前掲論文参照）。判例は多く当該の行為が被害者において忍容すべきものと一般に認むる程度を越えたるときは即ち転じて不法行為となると謂うを常とす。要之権利濫用なる観念の意義及び要件については未だ学説の動揺を免れずといえどもこの観念そのものの存在については仏国の学説判例上また疑を容れざるに似たり。

　翻って我民法を見る，すなわち如何。直接の明文なきは勿論間接の条文のこれを推論すべきものまたあることなし。しかして我大審院は未だ権利の濫用を不法行為として認めたること無く（補注）却って権利の行使は不法行為となることなしと判決したることあり（明治３５年５月１６日大判）といえども，判決に上りたる場合は敢て権利行使の適当の範囲を越えたるにあらざればこれを以て権利濫用に関する判決と為すに足らず。しかして学説上未だ詳細に論ぜられたることこれ無きが故に頗る通説の存する所を知るに苦しむといえども，普通には権利行為と不法行為とは相矛盾するものなるが故に権利行為は全く不法行為となることなしと説明せらるるがごとし。しかれども余輩はこの説に反し権利の行使もただ適当の範囲内においてのみ権利の行使となるものにして，その適当の範囲を越ゆる場合換言すれば善良の風俗に反するものと認むべき場合には既に権利の行使に非ずして転じて不法行為となるものと主張せんと欲す。按ずるに第１８世紀の後半より第１９世紀の前半に亘りて法律界を風靡したる思想は自由と謂える思想なり，その契約自由を以て私法の動かすべからざる大原則となせること天賦人権の思想を以て所有権を説明せることのごときはこの思想の反映と見るを得べし。しかるに団体の観念漸く発達し個人自由の思想の漸く衰ふるに及び団体の維持発達，取引の安全，善良の風俗等所謂ソリダリティまたは団体を中心とせる観念は漸く先の自由の観念に代りて私法の系統を貫流するに至れり。この時に及びてすなわち独逸民法あり。人或は謂う，仏蘭西民法は契約自由を以て基礎とし独逸民法は正義の観念に根拠すと。余はすなわち謂わんと欲す，仏蘭西民法は個人本位にして独逸民法は団体本位なりと。団体の利益即ち団体自身の維持発達の要件に背馳せざる範囲内においてのみ個人の自由，個人の権利を認むることこれ進歩したる２０世紀の法律観念にして，上記仏国の判例学説はまた実にこの法律観念を採用せるものならずんばあらず。我民法は権利の濫用について規定を置かず〔現行民法１条３項参照〕，すなわちその規定を置かずといえどもまた権利の行使は絶対に不法行為となることなしと規定するものにあらず。ここにおいてか法を解釈し適用するもの社会の需要に応じ国民の一般観念に応じ進歩したる理論を参酌して適当なる解釈を下すべき自由と責任とを有せざるべからず。故に曰く，我民法においても個人の権利を以て絶対と為すべきにあらず，社会団体の維持と発達とを害せざる範囲において即ち善良の風俗に反せざる範囲においてのみ権利の存在ありその適法なる行使ありと。

　更に他の方面より観察すれば国家は私法関係即ち個人相互の関係を規律するに当りては公平なる利益の分配を以てその重要なる標準となす，個人天賦の自由を認知するに非ずして社会を構成する個人をして各その処を得て個人の発展，社会の発達を遂げしめんが為めに保護の公平を期するものなり。故にこの関係において或は権利を与え義務を負担せしむと謂うも著しくこの公平の原則に反すべからず。もし法律に明文あらばすなわち止む。その明文の規定多少公平を欠くことあるも法律の確定と謂う更に大なる利益を眼中に置かば敢て法文の紛更を許さざる可し。しかれどもその明文なきに当りてはこの原則を参照して解決を下さざるべからず。故に曰く，私法の根本たる原則より論ずるもまた権利に適当の制限を加ふるを以て正当と謂わざるべからずと。しかしてその公平を失するや否やまた善良の風俗に反するや否やを以て標準と為すべきなり。

　試に一二の例を挙げんか。隣地を通行する地役権を有する者がその通行の度数，時期，場所について制限を規定せざる時は皮相の見を以てすれば終日隣地を往復するもその通路を離れて庭園を通行するもまた権利の行使と謂わざるべからざるがごとし。しかれどもその通行の方法，度数等において適当なる範囲を超脱するにおいては換言すればその通行が善良の風俗に反すと認むべきにおいては権利の濫用と謂い不法行為と謂うを以て正当なりと為さざるべからず。また或は隣地の墻壁に極めて近接したる自己の土地を掘下げたるが為めにその墻壁を転覆せしめたるときは縦令自己の土地を掘るは所有権の行使なりといえども，何等正当の必要も無くしてこれを為したるがごとき場合には明に善良の風俗に反するものにして不法行為と謂わざるべからず。

　如上の理由を以て余はそれ自身適法なる行為もその適当なる範囲を越え善良なる風俗に反するものと認むべきときは既に適法なる行為と謂うべからず，他に不法行為成立の要件を具ふる場合には転じて不法行為となるものと信ず。因に謂う，菱谷氏は公の秩序なる観念を以て権利行為の制限となせり（菱谷精吾氏不法行為論２版２４８頁以下）。類似したる説明なるも公の秩序と謂うは善良の風俗と謂うに比して更に漠然たるが故に余は善良の風俗なる観念を用いんと欲す。今回の被害問題についてはセメント製造営業の行為はそれ自身において適法なる行為なれば通常の場合においては不法行為とならず，ただその製造の方法等において適法行為の適当なる範囲を越ゆる場合においてのみ換言すれば四囲の住民に与ふる損害が善良の風俗に反すと認むべき程度に達したる場合においてのみ不法行為となり損害賠償の責任を生ずるものと信ず。しかしてその果して良俗に反するや否やはこれ国民一般の観念を以て決すべき所にして暫く疑問としてここにこれを論ぜず。

　（補注）　現今においては権利濫用を不法行為と認む。

　　２

　不法行為に対する救済は損害賠償に尽くるや否やこれを降灰事件について論ずれば縦令過去に対する関係において損害賠償権成立すとするも将来に対してはただ拱手して不法行為の成立を傍観しその成立するを待ちて始めて再び損害賠償を請求するを得るに止まるや否や。民法は不法行為の効果としてただ損害賠償のみを認め，しかして損害賠償の方法は原状回復にあらずして金銭賠償に止まるを以て（民法７２２条４１７条）金銭的賠償を求むるの外他にその途無きがごとし。浅野セメント会社対深川区民の問題について二三子の説を聞くに私法問題としては損害賠償問題のみに帰するがごとく答ふるもの多し。しかれども余はこれについて異説を有す。もし将来に対してなお損害の継続するおそれあるにおいては将来に対して適当の処分を為すことを裁判所に請求することを得るものと信ず。今その理由を述ぶるに先だち少しく独逸民法の規定，その判例及び学説を研究せんと欲す。

１　独逸民法には絶対権の侵害について侵害を除去する外将来に対し反覆のおそれあるべき場合には不作為の訴（Unterlassungsklage）を提起し得べきことを規定せる場合少からず。物権については殆んど例外なくこれを規定し（所有権１００４条，地上権１０１７条，地役権１０２７条，用益権１０６５条，有限人的役権１０９０条，質権１２２７条，抵当権及び土地債務１１３４条１１９２条，定期土地債務１１０７条），占有及び準占有についてもまたもとよりその規定あり（８６２条，１０２９条，１０９０条）。その他氏名権（１２条），商号権（独商３７条）及び営業権（１９０９年の不正競業法１条）についてもまた明にこれを規定せり。なお無体財産権または智能権については特別の明文無きも同じく不作為の訴権を認むべきことについて学説判例上多く争なし。

２　独逸民法の明文上不作為の訴権を認められたるものは以上述べたるがごとく絶対権の一部に限れり。しかしてその不作為の訴権を認められたるものは絶対権中重要のものに属するは勿論なりといえども総ての絶対権について明文あるにあらず，また絶対権全部に通ずべき通則あるにあらず。しかれども独逸の学者及び裁判所は絶対権の性質上その侵害の場合に不作為の訴権を認むべきことについて殆んど疑を抱かざるもののごとし（Enneccerus,Lehrb. des BGB.,B.�U,Teil �U,S. 632;Lehmann,Unterlassungspflicht,S.107 ff.; Eltzbacher,Unterlassungsklage,S.90 ff. ; Oertmann in der D.J.Z.,Bd. 9,S.616 ff. etc.）。

　しかれども独逸民法における不法行為は権利侵害の場合に限ることなし。その第８２３条第２項に所謂他人の保護を目的とする法律に違反して他人に損害を加えたる場合及び第８２６条に所謂善良の風俗の反する方法により故意に他人に損害を加えたる場合はこれを以て権利侵害による不法行為となすこと能わずと謂うを通説とす。ここにおいてかこの二個の場合においてもなお不法行為による損害賠償請求権の外に将来に対して不法行為を反覆するおそれある場合にはこれを為さざることを請求する請求権を認むべきや否やの問題を生ぜり。しかして近年における独逸裁判所の判例は権利侵害にあらざる不法行為についても将来に対して不作為の請求権を認むることに一致せり（RGE.Bd.48 S.118,Bd. 60 S.7,Bd.61,S.369 ; RG.Jur.W.,1903 S.11,1907 S.505 その他 Eltzbacher, a.a.O.S.79; Enneccerus, a.a.O.,S.631に引用せられたる多数の判例），今その理由とする所を聞くに或は権利あり義務ある場合には請求権を訴によりて行使することを得ざるべからずと謂い（１９０１年４月１１日上記第一の判決等），或はまた明文に規定せられたる絶対権侵害についての規定はこれを他の不法行為の場合にも準用することを要すと謂えり（１９０５年１月２５日上記第二の判決）。各地の控訴院は多くこれに倣えり。因に謂う，１９０１年の上記の判例は多く独逸学者の批評に上りたるものにして或は全般に亘りてこれを非難するものありたりといえども（Law in Gruchots Beitr.,Bd.47,S.497），一般にはその大体の結果を是認しただその不作為の訴権を認むる要件についてその範囲についてまたはその理由について異説あるに過ぎざりき（Oertmann in D.J.Z., a.a.O. ; Mannhardt, daselbst.1903; Fuld in Gruchots Beitr.,Bd.47; Lehmann,a.a.O.etc.）。

３　一般に不作為の訴権を認むべきや否やに関する独逸学説の状況は今これを詳説するに暇あらず，ただその極めて梗概を述ぶるに止めんとす。

（イ）　不作為の義務を侵害すべきおそれある場合には一般に不作為の訴権ありと謂うはヘルヴィッヒ氏の称ふる所にして（Hellwig,Anspruch und Klagrecht,S.388-398），独逸民事訴訟法第２５９条に将来の給付を目的として給付の訴を提起することを許したるを根拠とし不作為もまた一の給付なるが故に一般に不作為の義務について侵害のおそれある場合には給付の訴を起し得べきことを論ずるものなり。この説には二三の帰依者あれど（Wendt,Arch.f.d.civ.Praz.,Bd.92,S.85; Allfeld,Litt. Urh. Ges.,S.217; Seuffert,Z. P. O. zu§259;Mannhardt, D. J. Z.,Bd. 8,S. 416）一般には承認せられざる所に属す（Hölder, Buschs Z. f. Ziv. Proz., Bd. 29,S. 64 ; Stein, Vorauss. Des Rs. Schutzanspr., S.119 ; Eltzbacher, a.a.O.,S. 85 ff.なお川名博士「不作為の債権」法協２６巻８３１頁参照）。

（ロ）　絶対権の侵害に関する民法の条文を準用すべしとする説あり（RGE., Bd. 60, a.a.O.; Enneccerus, a.a.O.; Eltzbacher, a.a.O.）。しかして更にこれを詳論すればその第８２３条２項及び第８２６条の不法行為の場合には権利の侵害あるにあらずといえどもなお権利侵害の場合の規定の準用を為すべしと論ずるものと（エンネクツェルス），反之不作為の訴権の成立には私権の侵害あることを必要とするもその私権と謂うを極めて広義に解し或人の保護の為めに法律が他人に行為を禁止したる場合にはその禁止に反せざる義務を生ずるの外その反面において常に不作為を要求する権利を成立せしむるものと論ずる者あり。エルツバヘルはトーン，ビヤリングの流を汲みて後説を採り，先に掲げたる二種の不法行為の場合にもなお権利の侵害を惹起するものと做す。しかれども法律の禁止または保護が当然権利を生ずと謂うは一般に承認せらるべき理論にあらずまた独逸民法の明文に反すること少からず。

（ハ）　更に他の一派の学者は絶対権の侵害を以て不作為の訴権発生の要件となしかつ法律の禁止は必ずしもその反面において権利を成立せしむるものにあらずと論ずるも，人格権なる観念を極めて広義に解するによりて実際の需要に応ぜんとし即ち不法行為の多数の場合には特に規定せられたる絶対権かまたは人格権の侵害ありとしその理由によりて不作為の訴権の成立を認め，この観念によりて説明し難き場合には不法行為あるも不作為の訴権は成立せざるものとなす（Lehmann, Unterlassungspflicht, S. 119; Oertmann in D. J. Z., 1904, a.a.O.）。

　如上論述したるがごとく不作為の訴権を認むるについての成法上の理由については学者間の所説一定せずといえども，必らずしも絶対権の侵害と認む可らざる場合についてなお不作為の訴権を認めんとするは独逸における学説の趨向なりと謂うを得べし。

　　３

　我民法の解釈上不作為の訴権を認むるを得るや否や，これ余が本編において主として論ぜんと欲する所なり。

或は民法第１９８条及び第１９９条に規定せる占有保護及び保全の訴により妨害の停止または妨害の予防を請求し得べしと論ずる者あり。しかれども身体生命の侵害は勿論所有権の侵害といえども常に必らず占有の妨害を伴うものにあらず，またもとより占有妨害に尽くるものにあらず（独民１００４条参照），その占有の妨害たる場合においてはもとより占有の訴によりて将来に対する予防または損害賠償の担保等を請求し得べしといえどもこのごときはただ問題の極めて一小部分を解決するに止まれり。

余は絶対権の本質と占有訴権に関する規定の準用とによりて不作為の訴権の成立を主張せんと欲す。

１　絶対権の性質上所謂妨害禁止性を包含することはもとより疑を容れざる所に属す。或は絶対権はこれを侵害せざる不作為の義務を第三者に負わしむるものなりと説明し或は絶対権は第三者に対抗し得べきものなりと説明するもまた同一の観念に属す。問題はただこの不作為の義務に対する絶対権者の権利は如何なる性質を有するや，単に第三者がこれを侵害したる場合において不法行為上の損害賠償請求権を成立せしむるに止まるか或は一歩を進めて一定の要件の下にこの不作為そのものを要求する権利を有するや否やの点に存す。

　一派の学者は絶対権を以てその本来の状態において即ちその侵害以前において既に各人に対する無数の不作為の請求権を包蔵するものと説明す。これ寧ろ独逸においては少数説なり（川名博士「請求権」明治４３年法協２８巻８０１頁及びその処に引用せられたる Windscheid, Hellwig, Langheinecken その他 Lehmann, Unterlassungspflicht, S.108. 中島博士「請求権の競合」京法４巻３５０頁）。この説に従わば侵害行為ありたる場合は将来に対して不作為を要求する訴を提起し得べきは殆んど謂うを俟たざるべし。しかれども余は独逸多数説の学者と共に絶対権より生ずる請求権は絶対権の侵害行為ありて始めて生ずるものと解せんと欲す（川名博士「氏名論」明治４２年法政大学創立３０年記念論文集３９７頁以下及びその処に引用せられたる数多の学者）。今この問題について深く論ずることを得ずといえどもその要旨を一言すれば概ね次のごとし。請求権なる観念について明文上何等の規定を下さざる我民法の解釈としては学者各その性質を自由に前提するを得べしといえども余はただその必要ある場合においてのみこの観念を認めんと欲す。しかして絶対権について物上請求権なる観念を認むる必要はこの請求権が絶対権そのものの中に包蔵せられざる独立の請求権なるによるものと謂わざるべからず。その侵害行為以前においては絶対権の中に包蔵せらると称せらるる無数の請求権なるものは縦令これを請求権なる観念と一致し得るものとするもこれ即ち絶対権の効力にして特にこれを請求権なりとして観念するの必要を見ず，侵害行為あるに至りて始めてここに絶対権より流出するも絶対権そのものにはあらざる不作為の請求権を生ずるものにしてこの不作為の請求権に基きて不作為の訴権を生ずるものと信ずるなり。今所有権についてこれを論ずれば所有権はrei vindicatio の基礎たる所有物返還の請求権及びactio negatoria の基礎たる不作為の請求権の流出すべき基本権なりこれを生み出すべき母なり，即ち基本権なり母なりといえども未だ請求権そのものの存在せるにあらず，不作為の請求権のごとき或は既にこれを懐胎せるものと謂うを得べきも侵害行為以前には未だ分娩なく従って独立の権利として認むべき価値無きものと謂わざるべからず。

　以上何れの説を採るとするも絶対権の侵害行為例えば不法行為ありたる場合において（侵害行為が必らず不法行為成立の主観的及び客観的要件を備えざるべからざるかは後に論ぜんとす）将来に対してその不作為を為さざることを請求する請求権の存するは学者の何人も疑わざる所にして，我国においても絶対権の本質上また正にしからざるべからざる所に属す。それしかりしかして我民法上特定人に対する独立の請求権はこれを債権と同一なりと謂わざるべからず（川名氏前掲論文松本博士民法全書１巻６９頁）。不作為の債権は民法第４１４条第３項により強制執行を為すことを得ざるべからず。故に曰く，絶対権侵害によりて不法行為上の損害賠償請求権を生ずると共に不作為の請求権を生じこの請求権たる我民法上不作為の債権と同一なるが故に，民法第４１４条第３項によりて強制執行を為すことを得ざるべからずと（同説川名博士「氏名論」前掲論文集３９６頁）。因に謂う，請求権と債権と同一なりや否やは争あれど少くとも強制執行の点について債権の規定に従うべきは疑を容れざるが故にここには結論のみを示すに止めたり（補注）。

２　或は疑を抱く者あらん，もし総ての絶対権について不作為の訴を許すものとせば民法は何が故に占有についてのみこの種の訴えを起し得べきことを規定したるかと。答えて曰く，民法が占有の訴なるものを規定したる理由を一考すれば疑問自ら氷釈すべし，けだし我民法は占有を以て物権の一に数えたりといえどもなお極めて薄弱なる権利なることを免るる能わず，法律がこれについて占有の訴を規定するはやがて占有権の効力を認むる所以にして不作為の訴権を規定せざるべからざるはやがてまた占有権が占有なる事実と離るべからざる薄弱なる権利なるが故なりと。更に一歩を進めて論ぜんか，占有なる事実と離るべからざる極めて薄弱なる占有権についてこの種の訴権を認めたるものなることけだし謂うを俟たざる所に属するなり。

３　試に地役権と債権とを比較して更に前段の所論を確かめんか。隣地に家屋を建築せしめざる権利は単に隣地の現在の所有者または占有者との間における債権関係としてこれを成立せしむるを得べく，また或は隣地の随時の所有者，占有者に対抗し得べき物権即ち地役権としてこれを成立せしむるを得べし。その前者なる場合において不作為の債権の成立するは論なく侵害行為あらば民法第４１４条３項により将来に対して適当の処分を為すことを請求し得べきことまた錙銖の疑うべきなし。しからばすなわち後者の場合においては如何。物権の侵害にありてはただ損害賠償請求権のみ成立するものとせば地役権者は将来に対して適当の処分を為すことを得ざるに至るべし，これ豈に当事者の意思に合しまた法理の許す所と謂うべけんや。（不作為の地役権の内容については絶対権に包蔵せらると称せらるる無数の請求権との関係上議論あれど本論に直接の関係無ければこれを略す）

（補注）　後この説を改め物上請求権を以て債権に準ずべき特殊の請求権とす，拙著増訂改版日本債権法総論１２頁，民法研究２巻１８１頁。

　　４

　数項を重ねて絶対権の侵害はただに賠償請求権を成立せしむるに止まらずして不作為の請求権を成立せしむべきことを論証せり。更にその請求権そのものの成立要件と強制執行方法とについて一言を加えざるべからず。

１　不法行為の成立する場合に不作為の請求権の成立するは我民法の解釈上争うべからず，けだし我民法上不法行為は常に絶対権の侵害行為なればなり（補注）。ただ問題は不作為の請求権の成立にもまた故意過失を要件とするや否やの点にあり。所有権より生ずる所有物返還の請求権はもとより侵奪者の故意過失を以て要件とせず，不作為の請求権またこの点において所有物返還請求権と異なる所なしと信ず。けだし不作為の請求権の成立に侵害行為の存在を必要とするは特定の第三者が所有権の正常なる状態を妨害し所有者をして特にこの第三者に対してその正常なる状態を回復する請求権を取得せしめんが為めなり，従ってその侵害行為は客観的に所有権の正常なる状態を撹乱するを以て足れりとし敢て主観的要件を必要とすることなし（Enneccerus,Lehrb.des BGB.,S.633）。しかれども客観的に不法なることを要するはまた論なし，即ちそれ自身適法なる行為の場合には善良の風俗に反することを要するなり。

２　最後に強制執行の方法について一言注意することを要するは民法第４１４条第３項に所謂適当なる処分の意義これなり。余は民法が適当の処分なる文字を用いたるは国民の一般観念と社会の需要とに調和せしめんが為めに特に伸縮自由なる文字を使用したるものにして，即ち将来に対して如何なる方法を採るべきかは所謂国民一般の観念を以てこれを決定するの趣旨に外ならずと信ず。詳言すれば侵害行為を絶対に消滅せしめんが為めに必要欠くべからざる方法なりとするももしその方法たるや国民一般の観念に反し善良の風俗に反すと認むべきときはこのごとき方法を採択するを許すべきにあらず。例えば工業会社の社会にもたらすべき利益頗る大にして隣地所有者に被るべき損害些小なる場合においてその工業を廃止せしむるがごときは勿論適当の処分と謂うべからず，また縦令損害莫大なりとするもその損害を防止するに足るべき設備を為し得るに拘らず強いてこれを廃止せしむるがごときまたもとより適当の方法にあらず，要は侵害行為の性質と侵害せらるる権利の性質とを比較して合理的判断を下すべきのみ。

　（補注）　債権の侵害もまた不法行為となる。しかれども本稿を草せる当時余は債権の侵害は不法行為とならざるものと解したりき（民法全書２巻５１５頁），後改説せるも（増訂改版日本債権法総論５頁以下）債権の侵害よりは不作為の請求権は生ぜざるものと解す。

（法学協会雑誌２９巻（明治４４年）４号（民法研究第４巻所載））